増田武夫氏は、昭和三年昭和天皇御大典当時の店の並びを、一軒ずつ聞き取り調査をされ、東海街道と浜往還の冊子を作られました。以前、店へもみえて親父と話していたのを覚えています。下の図は北町の店の並びで、四日市宿の賑わいが偲ばれます。札の辻近くに御菓子司の信濃屋さんが店を構えています。「問」の写真は、この位置から右(北側)方向に撮影されたものでした。
四日市市北町。北町は現在でも地名が残っています。三滝川を超えた東海道の四日市宿の玄関口であり、多くの商店が軒を連ね、活気がありました。また、南町、高砂町と並び花町としても知られていました。札の辻の北町側北西角が第一本陣跡でした。(四日市今昔写真帳 より)
諏訪新道から西方向 遠くに諏訪神社が見える
記録から「学生頒布50年記念県市連合文化展覧会」が諏訪公園で開催されたとあります。この事業を祝って札ノ辻を中心とした東海道と浜往還、そして明治43年からの四大事業で完成した諏訪新道に国旗と紅白の布で巻いたポールが立てられました。
大正期 神社本殿裏の池 右に旧図書館が見える 水谷宜夫氏所有
大正5年には諏訪神社裏の庭園であった“保光園”が“諏訪公園”に改称されて市民に開放されています。ここに木造の図書館が建てられたのは大正5年6月の事、おそらく、完成したばかりの図書館を中心に記念事業が展開されたと想像できます。学制発足について少し調べてみます。
ながもちの笹井屋さんはもう少し堤防寄りなのでしょうね。