前田憲司氏からお借りした資料より
小島剛夕氏は、昭和3年11月3日(手塚治虫氏と同年月日)、三重県四日市市に生まれる。昭和25年、上京、加太こうじ永松達夫氏らの指導によって、紙芝居画家となる。漫画家としては、昭和32年「隠密黒妖伝」(ひばり書房)にてデビュー。次々と時代劇・忍者ものを発表し、白土三平と人気を二分していた。昭和42年「週刊漫画アクション」創刊号より「おぼろ十忍法」を連載開始、筆を使った、力感、躍動感のあるタッチ、さらに巧みな構成力には定評があり、小島ブームを作った。昭和45年「子連れ狼」(小池一夫原作)スタート、爆発的なヒットとなる。
諏訪 栄のこと 小島剛夕
わが誇り高き故郷、三重県・四日市市。西に広大な丘陵地帯を山とし、東は水のきれいな伊勢湾に抱かれた、人情豊かな街である。
諺に謂く“近江商人・伊勢乞食”・・・これはお隣りの近江の方で気遣ってくれ、伊勢乞食うぃ“伊勢子正直”と呼び直してくれたりもしたが・・・しかし、伊勢乞食でいい。なぜなら、昔から伊勢の国は乞食が居着く・・・この国の人心がいかに面倒見がよく世話好きであるかを、伺わせるからである。
その四日市には、大昔から県社・諏訪神社があった。・・・近江に知られた大社で、毎年、正月、市の祭礼ともなると、町中ばかりか近郷、近在から、ここに集まる習慣があり、親戚・知人など、半年以上の無沙汰はなかったところであった。
私を慈しんでくれた街をあとにし、上京。昭和25年の事である。紙芝居画家、そして貸本用単行本で純愛ロマン、時代劇のロマンを描きまくって東京を過した。
伝通院前のひばり書房で、専属としてやっている頃、ついにコミック誌からの誘いがあり、張り切って描いたのが「片目柳生」である。が、悲しきかな専属の身・・・。画風を私の弟子に似せ、ペンネームでの発表ということになる。出版社サイドよりいくつかのペンネーム案が届けられたが、忘れ難き、わが故郷にちなんで これからもずっと、諏訪の街が栄えてくれるようにと祈って、自分でこの名を付けた。もうかれこれ三十年近く昔の話である。(1995年4月10日)
前田憲司様、貴重な資料を拝見いたしました。ありがとうございました。
ありがとうございます。🙇🙇🙇
私からのお願い、ずっと憶えていてくださったのですね。
剛夕さんは上京前は映画館の看板描きをやっておられたとどこかで読んだ記憶が、、、、、。
続きを楽しみにしています。🤗🤗🤗
郷土史家 の前田さんに資料をいただけました
さて、昭和25年まで四日市にみえた小島剛夕(本名)さん、戦後一瞬の間、看板描きをされてたんですねえ。
今回のお題ですか?金砂神社と、二つ宿題です。ほかにありましたっけ?
郷土史家 の前田さんに資料をいただけました
さて、昭和25年まで四日市にみえた小島剛夕(本名)さん、戦後一瞬の間、看板描きをされてたんですねえ。
今回のお題ですか?金砂神社と、二つ宿題です。ほかにありましたっけ?
二重(ふたえ)に御礼申し上げます。🙇🙇🙇
最後の一つのお願いは、グラビア誌“三重県の昭和史”に載った昭和11年大博覧会の俯瞰写真。
手前に会場ゲイト(千歳橋付近か)、遠方に大会場(戦後市役所西に移転後の公会堂)が写ったパノラマ写真で〜す。🤗🤗🤗
家族会議の結果、あえて 消さないことに決定いたしました。
家族会議の結果、あえて 消さないことに決定いたしました。
ところで、、、、、
家族会議のこと、奥さまに訊いちゃおうかな、、、、本当ですか〜〜?😅😅😅