花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

赤猫異聞

2012年09月17日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
浅田次郎著“赤猫異聞”新潮社

時代は明治元年。師走に起きた江戸の火事(赤猫)で、伝馬町牢屋敷の囚人たちは「解き放ち」となる。約束の日時までに戻れば罪一等を減じ、一人でも戻らないと全員死罪の約束で三人の罪人 信州無宿繫松、岩瀬七之丞、白魚のお仙は意趣返し(復讐)の為に闇を走る。
浅田節絶好調!人の語り口を通して江戸大火の日がよみがえる。そして最後は泣かせる。
しかし、殺さなければ許せないほどの悪人っているのだろうか?
この話のテーマのひとつは、神仏のあり方だと思う。○○は吐露する
 私も遅ればせながら人の親になりやした。
新学制のおかげで小学校に通っている倅と、その下に娘が二人ござんす。
血の通ったおとっつぁさんになって初めてわかったんですが、
親は子供に何かしてくれなんて、思やしません。
何をしてやれるんだろうかって、そればっかり考えます。
神さん仏さんの本音も、同じでござんしょう。
できることなら何でもしてやりてえんだが、苦労させなきゃなりやせん。
手取り足とり育てて、ぼんくらにしちまったんじゃぁかわいそうだ。
 だから、泣かれても知らん顔をしたり、ときには怒鳴りつけたり、尻を叩(はた)いたりもいたしやす。
そうして、まっつぐに、真正直に育って、どうにもこうにもならなくなったときには、手を貸しやす。
 神さん仏さんは、そうして下すった。だから私も、子供らはそう育てます。

そして最後の語り部、曹洞宗のとある僧は・・・
 艱難(かんなん)に際して神仏を恃(たの)むは、けだし人情であります。
そして人はあらたか、神も仏もないものだと嘆きまする。
 しかるに、神仏はなまじの艱難に御手を差し延ぶるほど甘くはありませぬ。
なぜなら、艱難こそが人を強くするのだと、神仏はご存じだからであります。
なまじの艱難ではのうて、まこと如何ともし難き艱難、しかも人の力をふりしぼったのちでなければ、神仏の顕現はありませぬ。

人情を絡めながら、神仏のありようを、まことにうまく書いております。
このことを話した友人から「浅田次郎の“天切り松 闇がたり”シリーズ読んだ?」との返事がありました。
コメント
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