田中義一の生誕地
田中義一は幼名乙熊と言い、文久3年(1863)藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として生まれました。
乙熊は3歳の時平安古に移り、成長して義一と名を改めました。13歳の時新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加しましたが、のち陸大に進学しました。
大正7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となりました。大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣も兼任しました。
田中義一の生誕地
田中義一は幼名乙熊と言い、文久3年(1863)藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として生まれました。
乙熊は3歳の時平安古に移り、成長して義一と名を改めました。13歳の時新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加しましたが、のち陸大に進学しました。
大正7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となりました。大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり、外務大臣、拓務大臣も兼任しました。
雪の残る西山山頂
山と渓谷社の新分県ガイドの「福岡県の山」を登っています。今年から本格的に福岡県へ出向き、少しずつ山頂を踏んできました。今回は古賀市と宮若市の境界にそびえる西山です。昨日来の雪の残る登山道はスリップの連続で、豪快に3回も転倒しました。
おかげで、雪の残る山頂へ到着し、美しい銀世界を眺めることができました。山頂は防衛省の管理地になっており、舗装された道が山頂まで続いているようです。私より前に、自転車で登ってきている人がいたようです。完登までの残りの山は、3山になりました。
福岡藩犬鳴御別館跡
福岡藩中老職・加藤司書の忠魂碑
西山登山道入口
鉄塔
尾根の分岐
こもの峠
山頂手前は舗装されていました
眼下には市街地が広がっていました
詳細な登山記はHP法師崎のやまある記でお楽しみ下さい