維新の三傑 木戸孝允旧宅
木戸孝允は天保4年(1833)6月26日、萩藩医和田昌景(石高20石)の長男として、ここに生まれました。8歳で石高160石の桂家(末期養子のため石高90石)の養子となりましたが、養母死亡のため実家で成長し、江戸に出るまでの約20年間をこの家で過ごしました。
幼名は桂小五郎、33歳の時藩命により木戸貫治、翌年木戸純一郎と改めました。実名は孝允です。
17歳の時には藩校明倫館で、吉田松陰に学びました。30歳の頃から藩の要職に就く一方、京都に赴いて国事に奔走しました。慶応2年(1866)には、坂本龍馬の仲介によって薩摩の西郷隆盛らと倒幕の一大勢力となる薩長同盟を結びました。
明治政府では特に五箇条の御誓文の草案作成に参画し、版籍奉還や廃藩置県の実現に力を尽くしました。これらの功績により、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれました。明治10年(1877)5月26日、西南戦争のなか、45歳で京都で病死しました。