語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【加賀乙彦】ある死刑囚との対話

2016年07月31日 | ●加賀乙彦
 p.14
 <なぜに、この世のやみは濃いのでしょうか。神がないから、神が死んだからというニイチェの叫びは、深いニヒリズムを私たちに残しましたが、このニイチェのニヒリズムを克服する手だてを、私たちはまだもっていないのです。おそらく、世界中の哲学者の誰もが、まだこの手だてを、人々の解放されていく方角を示せないでいます(少なくとも私の知る限りではそうです)。早い話が、19世紀のヒューマニズムや科学精神は沢山の植民地戦争や不幸をつくりだしただけだったし、マルキシズムも本当に幸福な国をつくりはしませんでした。さて宗教はどうか。これについてはどうか。これについては私には語る資格はありませんから沈黙いたします。むしろいろいろとお教えください。
 いずれにしろ、人々のおちこんでいるにせの光の世界、心ある人々の濃い闇の世界、この二つの世界の人々が相互に無関係に生きている、これが現代の世界でしょう。お互いに相手を知らず異端者あつかいするのです。
 ではどうしたらよいか。その一つの道が、表現の世界でしょう。闇の中から光の方に手をさしのべるのです。私の文学への執心はここから来ます。そのためには、評論よりも詩や小説のほうが表現できる。なぜといって、闇の世界の自覚は決して抽象的な思惟ではないのですから、それは議論では到底表現できないことなのですから、なによりもそれを表す言葉がないのですから、私の尊敬する思想家森有正の用語をかりれば、それは「経験」であって「体験」ではないのですから>

□加賀乙彦『ある死刑囚との対話』(弘文堂、1990)
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【加賀乙彦】フランスの妄想研究

2016年07月31日 | ●加賀乙彦
 加賀乙彦の本名の小木貞孝名義の論文集。3編の論文で構成される。
 (a)「フランスの妄想研究」・・・・妄想の症候論の歴史的考察、妄想の病因論、2~3の現象学的考察及び当時における全体的展望が記される。加賀/小木のフランス留学時における読書覚書がもとになっている。
 (b)「ミンコフスキーの妄想論とその周辺」・・・・フランスの現象学受容の下地にベルグソンの存在があった、と哲学者木田元は言うが、こうした流れは精神医学でも同じで、ミンコフスキーがその傍証となる。
 (c)主としてガストン・バシュラールをめぐる物質的想像力論、心象夢論。ドロマール「妄想の拡散と放射」も紹介されている。『フランドルの冬』の博識にして奇癖をもつJ・V・ドロマール医長のモデルか。

□小木貞孝(加賀乙彦)『フランスの妄想研究』(金剛出版、1985)
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【本】死の教育、生き残びた者へのケア、阪神大震災 ~『夕映えの人』~

2016年01月08日 | ●加賀乙彦
 (1)よわい50といえば知命。天命をわきまえる年齢である。
 本書の冒頭、知命の主人公は、天寿をまっとうした父親、つまりその死に直面する。主人公には要領をえない、ただし事務能力にたけた長弟がしきる葬儀があり、3人の弟たちとの遺産協議がある。そして、一人暮らしになった母親の心身症をめぐって、兄弟のあいだに波紋が広がっていく。

 (2)この発端は象徴的だ。本書には、さまざまな「死」が登場するからだ。
 まず、母親の発病があり、その脳死をめぐる兄弟間の激論がある。脳死に関する議論、感情論の要点がここに圧縮される。
 ついで、火災にあたり逃げ遅れた入院患者の死がある。主人公がいやいや院長職を引き受けることになった私立精神病院が放火されたのだ。精神病院の閉鎖病棟に係る災害時対応という、著者が再三小説でふれてきた問題がここでもとりあげられる。
 そして、病院の規模縮小の責任をとって主人公は64歳で隠退し、信州にあるらしい「高原村」に山荘を建てて夫婦だけで暮らすのだが、その土地をあっせんした画家夫婦の細君が亡くなる。ガンが発見されたときには、すでに治療不能なのであった。そして、彼女は抗ガン剤を拒否した。尊厳死の問題がここに集約される。
 以上、要するに、著者がそれまでにも発言してきた脳死、閉鎖病棟、尊厳死といったテーマが集中的にとりあげられている。

 (3)本書が書き始められた当初、著者自身の念頭に多分なかったのは、天災における死だ。
 初出は、出版社のPR誌(「本の窓」1994年3・4月合併号~1997年8月号)だが、連載中の1995年1月17日に阪神淡路大震災が発生した。本書の終わりの1割強は、神戸を舞台とする。
 現実の動きと同時平行的に書かれたから、体験から創作までの間隔が非常に短い。この点、戦中の幼年学校体験を終戦後20有余年をへてようやく発表した『帰らざる夏』と好一対である。

 (4)主人公は、被災地におけるボランティアを申し出るが、「厚生省」も「厚生省現地対策本部」も「母校の医大」も、官僚的な、慇懃無礼といってよい応対ぶりなのだ。
 しかし、現地の「中央町の大学医学部教授」Nは歓迎してくれた。

 (5)ちなみに、このN教授、中井久夫らしい。中井久夫『1995年1月・神戸 -「阪神大震災」下の精神科医たち-』(みすず書房、1995)のあとがきに、「加賀乙彦先生は私たちができなかった校長先生の面接を遂行して下さった」「福井の一精神科医から加賀乙彦氏を経て皇后陛下までが花を持って神戸にこられたが、暖房の手段を断たれた冬の被災地に物資の次に花のもたらしたものは予想以上の暖かみであり力であった」うんぬん。
 本書にも、N教授は「ギリシャ語やフランス語にも堪能で、詩集の優れた翻訳も出している、つまり文学にも造詣のある人だ」と、中井久夫をしのばせる記述がある。

 (6)さて、ボランティアとして神戸に赴いた主人公は、そこで罹災者の精神的ケアに従事する。
 本書にはくりかえし「死」が変奏されるが、著者の視線は、病者や死者と等しく、場合によってはそれ以上に、病者の家族や死者の遺族にそそがれる。「高原村」の画家夫婦にしても、遺された夫の絶望からくる緩慢な自死、それは主人公によって阻止されるのだが、「死にいたる病」にかかった彼に対するケアに紙数が割かれる。

 (7)被災地で民間有志の救助隊、フランス人の医療チームに出会った主人公は、行動をともにする。そして、亡父の庶子、つまり妹と再会する。彼女は離婚直後に震災で親族を喪い、自殺まで考えていた。しかし、主人公が紹介したフランス人医療チームとともに活動するうちに、新たな生きがいを見いだした。
 ケアする側に立つことで、ケアする者自身が癒されたのである。

 (8)著者には、その青春を戯画化した『頭医者』がある。本書は、中年から初老にいたる著者を戯画化した気配がないでもないが、そして諧謔的な文面をあちらこちらで見かけるのだが、物語の進行につれて著者の素顔が表にでてくる。当初はやる気のなさそうな平の勤務医が、俄然活発に、やり手となって、フランスに留学した過去まで浮上するのだ。震災ボランティアの活動たるや、『雲の都 第一部/広場』で詳細に描かれているセツルメント活動の、時をへだてた展開として読むことさえできる。
 本書には、一方に死の教育ないし生き残った者へのケアというテーマがあり、他方に大部な自伝的小説群『永遠の都』および『雲の都』の番外編という性格がある。

□加賀乙彦『夕映えの人』(小学館、2002)
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【加賀乙彦】書誌

2015年01月28日 | ●加賀乙彦
(1)小説・エッセイ・評論等
●『フランドルの冬』(筑摩書房、1967。後に新潮文庫、1981)
  ※芸術選奨文部大臣新人賞。
●『風と死者』(筑摩書房、1969。後に角川文庫、1975)
  ※くさびら譚、車の精、ゼロ番区の囚人、風と死者
●『荒地を旅する者たち』(新潮社、1971)
●『文学と狂気』(筑摩書房、1971)
○『夢見草』(筑摩書房、1972(後に角川文庫、1976)
  ※制服、遭難、傾いた街、春の町にて、最後の旅、雨の庭、蠅、夢見草
●『帰らざる夏』(講談社、1973。(後に講談社学芸文庫、1993)
  ※第9回谷崎潤一郎賞。
○『異郷』(集英社、1974。後に集英社文庫、1977)
  ※異郷、雪の宿、砂上、見知らぬ街、残花
●『現代若者気質』(講談社新書、1974)
●『ドストエフスキイ』 、中公新書、1973)
●『虚妄としての戦後』(筑摩書房、1974)
●『あの笑いこけた日々』(角川書店、1975)
●『春夏二題』(沖積舎、1975)
●『頭医者事始』(毎日新聞社刊、1976(後に講談社文庫、1978。後に三部作が一冊に:合本『頭医者』(中公文庫、1993))
○『日本の長篇小説』(筑摩書房、1976)
●『黄色い毛糸玉』(角川書店、1976)
●『鴎外と茂吉』(潮出版社、1977)
●『仮構としての現代』(講談社、1978)
●『私の宝箱』(集英社、1979)
●『錨のない船 上』 、講談社、1979。後に講談社文芸文庫、1988)
●『錨のない船 下』 、講談社、1979。後に講談社文芸文庫、1988)
  ※外交官来栖三郎とその家族の伝記的小説。文庫入りにあたり、登場人物名を変更(来島平三郎→来栖三郎、来島健→来栖良)。
●『イリエの園にて』(集英社、1980)
●『生きるための幸福論』(講談社現代新書、1980)
●『死刑囚の記録』(中公新書、1980)
●『犯罪』(河出書房新社、1980)
●『頭医者青春記』(毎日新聞社、1980。後に講談社文庫、1978。後に三部作が一冊に:合本『頭医者』(中公文庫、1993))
○『犯罪ノート 加賀乙彦エッセイ集』(潮出版社、1981)
○『戦争ノート 加賀乙彦エッセイ集』(潮出版社、1982)
●『作家の生活』(潮出版社、1982)
●『宣告 上』(新潮社、1982)
●『宣告 下』(新潮社、1982)
  ※第11回日本文学大賞。
●『頭医者留学記』(毎日新聞社、1983(後に講談社文庫、1978。後に三部作が一冊に:合本『頭医者』(中公文庫、1993))
○『読書ノート』(潮出版社、1984)
○『くさびら譚』(成瀬書房、1984)
●『加賀乙彦短編小説全集1 くさびら譚』(潮出版社、1984)
●『加賀乙彦短編小説全集2 最後の旅』(潮出版社、1984)
●『加賀乙彦短編小説全集3 雨の庭』(潮出版社、1984)
●『加賀乙彦短編小説全集4 残花』(潮出版社、1984)
●『見れば見るほど』(中公文庫、1984)
●『残花』( 潮出版社、1984【未所持】
●『加賀乙彦短編小説全集5 新富嶽百景』(潮出版社、1985)
●『湿原 上』(朝日新聞社、1985。後に岩波現代文庫、2010)
●『湿原 下』(朝日新聞社、1985。後に岩波現代文庫、2010)
  ※第13回大佛次郎賞。
●『スケーターワルツ』(筑摩書房、1987)
●『キリスト教への道』(みくに書房、1988)
●『岐路 上』(新潮社、1988)
●『岐路 下』(新潮社、1988)
●『ゼロ番区の囚人』(ちくま文庫、1989)
●『ヴィーナスのえくぼ』(中央公論社、1989)
●『母なる大地』(潮出版社、1989)
●『海霧』 、潮出版社、1990)
●『現代文学の方法 -評論集上巻-』(阿部出版、1990)
●『ある死刑囚との対話』(弘文堂、1990
●『小暗い森 上』(新潮社、1991)
●『小暗い森 下』(新潮社、1991)
●『脳死・尊厳死・人権』 (潮出版社、1991)
●『悠久の大河 中国紀行』(潮出版社、1991)
●『頭医者』(中公文庫、1993)
●『私の好きな長編小説』(新潮選書、1993)
●『生きている心臓 上』(講談社、1994)
●『生きている心臓 下』(講談社、1994)
●『炎都 上』(新潮社、1996)
●『炎都 下』(新潮社、1996)
●『生と死と文学と』(潮出版社、1996)
●『日本人と宗教 加賀乙彦対談集』(潮出版社、1996)
●『日本の十大小説』(ちくま学芸文庫、1996)
 ※『日本の長篇小説』(筑摩書房、1976)の増訂版
●『鴎外と茂吉』(潮出版社、1997)
●『永遠の都 1』(新潮文庫、1997)
●『永遠の都 2』(新潮文庫、1997)
●『永遠の都 3』(新潮文庫、1997)
●『永遠の都 4』(新潮文庫、1997)
●『永遠の都 5』(新潮文庫、1997)
●『永遠の都 6』(新潮文庫、1997)
●『永遠の都 7』(新潮文庫、1997)
  ※1998年第48回芸術選奨文部大臣賞受賞。
●『高山右近』(講談社、1999。後に講談社文庫、2003)
●『死刑囚の記録』(中公新書、1999)
●『聖書の大地』(日本放送協会、1999)
●『夕映えの人』(小学館、2002)
●『雲の都 第1部 ~広場~』(新潮社、2002)
●『ザビエルとその弟子』(講談社、2004。後に講談社文庫、2008)
●『雲の都 第2部 ~時計台~』(新潮社、2005)
●『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書、2006)
●『悪魔のささやき』(集英社新書、2006)
●『雲の都 第3部 ~城砦~』(新潮社、2008)
●『不幸な国の幸福論』(集英社新書、2009)
●『科学と宗教と死』(集英社新書、2012)
●『雲の都 第4部 ~幸福の森~』(新潮社、2012)
●『雲の都 第5部 ~鎮魂の海~』(新潮社、2012)
  ※第66回毎日出版文化賞企画特別賞。
○『加賀乙彦 自伝』(集英社、2013年)
●『ああ父よ ああ母よ』(講談社、2013年)

(2)共著書
●『芸術と狂気』(造形社、1971)/共編著:徳田良仁
●『異常心理』(至文堂<「現代のエスプリ」>、1968)>/編著
●『作家の病跡』(至文堂<「現代のエスプリ」>、1971)/編著
○『私のモーツァルト』(共同通信出版、1989)/共著:
●『脳死と臓器移植を考える』(岩波書店、1990)/編
○『野田弘志の文筐 』(東邦アート、1991)/共編:米倉守
●『群像日本の作家1 夏目漱石』(小学館、1991)/共著:
●『愛されるより愛することを アッシジの聖フランシスコ』(学習研究社、1992)/共編著:池利文・撮影、遠藤周作、加賀乙彦・文、門脇佳吉
●『死の淵の愛と光 - -』(弘文堂、1992)/共編著:遠山慶子
○『光と風のなかで 愛と音楽の軌跡』(弥生書房、1993)/共著:遠山慶子
○『日本の名随筆 別巻69 秘密』 (作品社、1996)/編
○『素晴らしい死を迎えるために 死のブックガイド』(太田出版、1997)/共編著:柳田邦男、アルフォンス・デーケン
●『宗教を知る 人間を知る』(講談社、2002)/共著:河合隼雄・山折哲雄・合庭惇
○『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』(集英社、2013)/共著:津村節子)

(3)対談
●『嫌われるのが怖い 精神医学講義』(朝日出版社(Lecture books)、1981)/共著者:笠原嘉

(4)学術書(小木貞孝名義)
●『拘禁状況の精神病理』(井村恒郎ほか・編『異常心理学講座5』(みすず書房、1965)所収)
●『死刑囚と無期囚の心理』 (金剛出版、1974、新装版、2008)
●『フランスの妄想研究』(金剛出版、1985)

(5)翻訳(小木貞孝名義)
●モーリス・メルロー=ポンティ(竹内芳郎と共訳)『知覚の現象学 1』(みすず書房、1967
●モーリス・メルロー=ポンティ(竹内芳郎、木田元、宮本忠雄と共訳)『知覚の現象学 2』(みすず書房、1974

(6)その他
○『錨のない船』(英訳)Riding the east wind  (リービ英雄訳 講談社インターナショナル 1999年) ISBN 4770028563
○『高山右近』(独訳) Kreuz und Schwert: Roman uber die Christenverfolgung in Japan (ラルフ・デーゲン訳 Berlin : Be.bra Verlag, c2006)

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【本】『幸福の森』『鎮魂の海』 ~25年をかけて長編を完結した加賀乙彦~

2012年08月25日 | ●加賀乙彦



(1)『永遠の都』執筆開始から25年。書き継いできた渾身の自伝的大河小説が、第4部『幸福の森』、第5部『鎮魂の海』でついに完結。激動の昭和から世紀末を舞台に、人間と家族のあり方を描く。

 1985年から書き始め、執筆を終えたのが昨秋。およそ25年。自分でもこんなに長くなると思わなかった。
 ただ、自分の生きた時代を若い人たちにも分かるように伝えたい。特に戦争中のことはきちんと書いておかなければ、という一種の義務感のようなものはあった。

(2)『永遠の都』では、東京で外科病院を開業した時田利平・元海軍軍医を中心に、昭和初期から敗戦直後までの一族の歴史が描かれる。『雲の都』では、戦後の東京を舞台に、悠太・利平の孫を中心に物語が展開し、第4部、第5部で一族の複雑な人間関係に、さまざまな形で決着がつけられていく。

 ほかの小説を書きながらも、最終的にはこれを書いて人生を終えようと思っていた。だから、そういう意味で登場人物の関係などは前々から考えていた。
 ただ、当初書こうと思っていたのは、戦争中のことだけ。『永遠の都』で完結したつもりだった。
 ところが、当時「新潮」の編集長が軽井沢の別荘に来て、続編を書いてくれ、と言う。これから始まる最後の時代を、家族の生活と絡めて書くべきだ、と。
 最初、断った。でも、戦後に起きた事件や犯罪について資料をかなり集めていたし、日記も書いていたから、これを使わずに死ぬのが惜しくなって、半年後には「書く」と返事をした。

(3)物語は三人称で語られているかと思えば、一人称になったり、一つの出来事についても語り手が次々に変わっていく。対話形式、日記、書簡なども挿入され、多彩な話法で展開する。

 僕の小説について、ポスト・モダンを信奉する若い批評家から「19世紀的リアリズム小説」と言われることがある(自分ではそうは思わない)。19世紀の小説家(ドストエフスキーやトルストイ)は、最後まで一貫して同じ人称で語られる。
 精神科医として東京拘置所に勤めていたとき、ある死刑囚と親しくなった。彼は、僕に冷静な思索者としての顔を見せる一方、文通相手の女性には手紙を通してやんちゃな子どものような顔を見せていた。そして、死後に残された獄中日記から読み取れたのは、絶望のどん底で苦悩する顔。
 同じ人間が、相手や状況によって、まるで違って見える。そのことに衝撃を受け、人間の多面性や人間同士の複雑な絡みは、一つの人称での一面的な視点では描ききれない、と感じるようになった。そこから、必要に応じていろんな視点から書いていくという、小説についての僕なりの方法論を考えた。
 いわば、いろんな織り方を絡めて複雑な模様を織り出したタピストリーのような小説だ。
 だからといって、19世紀的リアリズムを否定するわけではない。ドストエフスキーやトルストイも大好きで、いつか『戦争と平和』のような小説を書きたい、と思っていたから。

(4)第4部『幸福の森』、第5部『鎮魂の海』では、幸福な場面から物語りが始まる。悠太は昨夏としてのデビューを果たし、幼いころから憧れていた千束と結婚するのだ。他方、周囲の人たちが少しずつ亡くなっていき、全編に憂愁の匂いも漂い始める。

 2008年、僕が79歳のとき、妻が70歳で急逝した。自分自身の妻の死にも向き合わざるを得ない、と思い、千束が亡くなる場面は僕の体験に重ねて描いた。
 そして、妻の死を書く以上、僕の分身とも言える悠太の死も想定し、物語の最後を締めくくった。決して明るい小説ではないかもしれないが、人間の一生を僕なりの手法で描けた、と思う。

(5)『雲の都』5部作では、戦後の激しく変わっていく東京の街、全共闘運動、あさま山荘事件、阪神大震災、地下鉄サリン事件といった出来事が、登場人物の人生に絡めて克明に描かれる。

 この小説を通して、僕は東京という「故郷」を描いたつもりだ。僕の生家は、いまの新宿区歌舞伎町2丁目あたりにあった。空襲では焼け残ったが、すでに取り壊され、かつての面影は何もない。あまりにも変わりすぎたため、東京を舞台にした小説は書けないだろう、と思っていた。しかし、よく考えれば、永遠なんてあり得ないからこそ、逆説的な意味で東京は「永遠の故郷」なのだ。
 そして、東京の街が時代とともに変わっていく過程で、世の中はさまざまな事件が起きる。そういう現実と結びついた上で、小説のなかの人物たちが自在に動いていくわけだ。

(6)悠太は非常に理性的な一方、自分には祖父譲りの姦淫の血が流れている、と葛藤する。そういう人間の「業」を描くことも意識していたのか。

 僕はキリスト教徒だから、人間の罪についてずっと考えてきた。
 悠太は、妻が不倫相手の子を身ごもったのではないか、と恐れ、「堕ろしたい」と言ったとき、賛成する。
 しかし、妻の死後、それが自分の意識のなかに罪として芽生えてきて、苦しむ。宗教は、登場人物にいろんな形で影響を与えている。

(7)100年近くにわたる「家族」の物語を書いてきたわけだが、日本の家族像や日本人は、その間に変わったのか。

 日本人はそう簡単に変わることができない、と思う。明治から昭和を経て、世界を相手に戦うような戦争を経験しても、そしてそれから60年以上が過ぎても、本質は何も変わっていない、と僕は感じている。そういう意味で、この作品で描いた日本人やその家族像あh、普遍的なものだ、と言える。

 以上、伊藤淳子・構成「インタビュー 書いたのは私です 加賀乙彦」(「週刊現代」2012年9月1日号)に拠る。
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書評:『海霧』 ~女の再生~

2010年06月22日 | ●加賀乙彦
 ヒロインは、心理療法士である。
 幼くて母を喪い、高校2年生のとき開業医だった父を亡くし、遺産とアルバイトで東京の私立大学を卒業した。精神病院に勤務すること2年間。妻子ある看護士との恋に破れて死を決意したとき、北海道にある精神病院長から誘われて赴任することとした。これが発端である。

 道東のさいはての駅からさらに10キロ離れたところに堂福病院はあった。迎えを寄こす、という院長の申し出を断って歩きはじめたのだが、雪道の溝に落ちて足を痛めた。通りかかった男が救いの声をかけた。最初は警戒するが、善良さを認めて車で送ってもらう。男は広浜海青と名のった。入院中の親父を見舞う途中であった。
 翌日、日曜日、広浜海青とその兄妹、洋々および波子と知りあい、近在を車で案内してもらった。一家との付き合いが深まるにつれ、画家にして読書家の漁師、洋々に惹かれていく。
 ある情念はより強い別の情念によって乗り越えられる、とスピノザは言った。失恋の痛手は新たな恋によって癒される。

 しかし、人は人を癒すが、一方では傷つけもする。
 院長の堂福次郎は、患者を管理しない病院を理想としていた。外来病棟は十勝地方にあった古い農家を改造したものだし、丘や窪地や海際に散在する十数軒の入院病棟も古い民家を移築したもので、家居の大小に応じて4、5人から20人が寝起きする。患者の出入りは自由で、そもそも入院を同意したものだけが入院するのだ。同意しない患者は往診する。管理に費やす労力が大幅に減るから、減った分の労力を医療に使える、病院側はかえって楽なのだ・・・・これが堂福院長の持論なのであった。
 だが、同学の、しかも院長がかつて属した山岳部の仲間で固めたはずの医師から叛逆ののろしが立ちのぼった。院長の後輩の主導で組合が結成され、団交の結果、労働条件は上がった。ために人件費がかさみ、ただでさえ都会と違って収入の少ない病院の経営を圧迫した。
 就職する前から院長と関わりの深いヒロインは組合から疎外され、団交時には「院長のペット」と罵詈雑言を浴びせられたりもする。
 つまるところ、堂福病院は破産し、恋人の広浜洋々は海に沈んだ。

 ヒロインにとって、まさに「我は我が事どもを無の上に築く」のであるが、小説は暗い絶望感では終わらない。結末はむしろ明るい感じが漂う。真昼の明るさではなくて黎明の明るさである。
 これには仕掛けがある。背景の自然である。古来和歌で歌われた優美な自然ではなく、むしろ荒々しいといってよい北国独特の自然だ(厚岸郡厚岸町がモデルらしい)。凍てつく海、流氷、大湿原。厳しい自然が、かえって生き残ったこと、その命の貴重さを読者に感じさせる。そして、おそらくヒロインにも。
 何もかも失った者には、それ以上失うもののない強さが生まれる。敗戦後まもない頃の作者の体験が、たぶん、ここにも反響している、と思う。

□加賀乙彦『海霧』(潮出版社、1990。後に新潮文庫、1992)
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書評:『スケーターワルツ』

2010年05月08日 | ●加賀乙彦


 主人公町井美也子は京都出身、東京の大学で心理学を学ぶ女学生だ。幼児期からスケートになじみ、大学の部活とPクラブで練習に励む。
 身長158センチ、体重48キロ、ジャンプがいまいちの体を脂肪の塊、豚、鉛、とコーチに罵られ、絶食すること10日、体重を37.5キロに減らした。
 東日本選手権大会で、Pクラブのエース曾根岡チコが試合中に骨折。結果として優勝したため、チコの取り巻きからいじめに合う。ますます痩せ細る。
 アノレキシア・ネルヴォーザ(神経性食思不振症)と診断された。体重が27キロになり、強制的に入院させられた。点滴、鼻腔栄養、体重増加。

 退院してPクラブに戻ると、ロッカーはこじ開けられていて、スケート靴はガタガタに加工され、コスチュームは赤や緑のスプレーで汚されていた。
 美也子はスケート仲間のフランス人少年ジルベールの勧めで、いっしょにOクラブに移った。このクラブの玉木コーチは、Pクラブの板東コーチと正反対に、最小限の助言しか与えない。手取り足取りの過保護な方法は選手の自主性と研究心を奪ってしまう、という方針なのだ。体重についても口だしせず、ジャンプは脚でするものだから脚を鍛えるのが先決だ、と助言する。美也子の体重は37キロで安定した。

 心理学科の先輩、やたらと本を読み、食欲旺盛で太りじしの長坂夏彦から求愛されていたが、退院直後はスケート部の先輩、有田務と同棲する。有田は美也子の手料理を好み、就職して以来、ぶくぶくと太った。
 長いブランクの後、3年生に進学した5月末、大学へ戻って講義を受ける気になった。まず受講したのが精神医学。たまたま神経性食思不振症が講義された。自分の過去を顧み、「それにしても悔やまれるのは、あの口髭医者がただの一度もわたしに神経性食思不振症の診断と症状解説をしてくれなかったことだ」

 美也子は有田務に別れを告げ、常変わらず見守ってくれていた長坂夏彦の胸に飛び込む。「“愛する”とはどういうことか、やっと了解し始めたようだ。そう、“了解”したのだ。了解心理学の用語の了解とは、頭で考えたり、理論をこねまわしたり、知識をひらけかしたりするのと全く逆の作用だ。人は、心の奥底から一気に了解する。暖かい心が、理論という氷を融かし知識を水没させると、了解という風が吹き渡る」
 スケートに専念する美也子は夏彦と滅多に会わなかったが、「自然に任せ」ることを二人は確認しあった。

 借り物と玉木コーチに断じられた「火の鳥」を捨てて自分に合う曲を選びだした美也子は、全日本選手権大会で優勝した。
 しかし、その場で、世界選手権には出ない、と宣言する。自分に何をしてくれたわけでもない日本の代表になるのは嫌だ、と。玉木コーチも母親も嘆くが、「何かが決定的に終わった」
 美也子と夏彦は、心中しよう、と語り合う。この世の名残りにリンクで滑ってダンスをした。
 薬を飲みますか、という夏彦の問いに、「その前にどこかで、何か食べましょう。わたし、猛烈にお腹がすいちゃった」

   *

 三部構成で、第1部及び第3部は三人称だが、焦点は美也子にあてられる。第2部は美也子の一人称で語は進行する。すなわち、第1部及び第3部では美也子にやや距離を置きつつ彼女を取り巻く人々の中の主人公を描き、第2部つまりアノレキシア・ネルヴォーザと診断された時点から、美也子の内面に即して描く。余人には伺えない心理の襞に切りこむと同時に、本人に見えていないものは描かない。
 結末は、、鮮やかだ。美也子と夏彦は、死をひとたび決意しながら、人間の生理、食欲を優先させる。これは、神経性食思不振症が快癒した合図であった。全日本選手権での勝利からくる達成感と、心身ともに相和する恋人の存在が、美也子に精神的安定がもたらされたからだろう。
 食後も二人はやはり死を選ぶ可能性はあるとも読めるが、「浮々と笑」う美也子の口調は、死は不定の未来に伸ばされたのことを暗示している。
 バンクーバー・オリンピックに出場した鈴木明子は摂食障害の病歴で知られるが、刊行年からして、本書のモデルでは、むろん、ない。
 
□加賀乙彦『スケーターワルツ』(筑摩書房、1987)
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書評:加賀乙彦『読書ノート』

2010年04月07日 | ●加賀乙彦
 書評100編をおさめる。とりあげた本のジャンルはさまざまだが、遠藤周作『死海のほとり』『侍』など文学が多く、宮本忠雄『人間的異常の考察』『現代の異常と正常』『言語と妄想』など精神医学がこれにつぐ。ノンフィクションや話題になった本も少々ふくまれる。初出の時期などが付記されていないので、資料的価値に欠けるのは遺憾だ。

 当時話題の本では、たとえばイザヤ・ペンダサン『日本教について』をとりあげる。
 すなわち、『日本人とユダヤ人』は文章に不思議な筆力をそなえ、大衆うけのする平明さと知識人うけのする衒学癖があり、とくに読者の自尊心をくすぐるすべを心得ている。「このさいごの点が曲者で、近年すこしは国力が出て大国意識なんかを持ちはじめた日本人の自尊心をくすぐるのである。しかも日本人が本性として気にする外国人の発言という設定があるから仲間ぼめの味気なさがなくて気持ちがよいときている」
 この特徴は、『日本教について』も同じだ。本全体を構成するに一つの簡単な概念を呈してくるところも同じで、前著では日本人=農耕民、ユダヤ人=遊牧民だったが、本書では実体語と空体語の天秤という比喩を持ちだした。天秤の支点にいる人間が竿を自由に動かし、たとえば戦争末期の軍部のように敗戦があきらかになると神風といった空語をやたらとばらまくのだ、とのこと。「つまり、せっかく鋭く日本人の精神構造を描き出しながら、描くだけで批判しようとしない」「ベンダサンには、あの戦争をおこした天皇制に対する根本的な反省がないので、この反省なしに日本人のすぐれたところをいくら描きだしても、それはけっきょく今日本で進行している破滅的な政治の片棒をかつぐことにしかならない」
 イザヤ・ペンダサン=山本七平の安直な論旨を粉砕して痛烈だ。時代精神に呑みこまれ、あげくは積極的に加担した少年たちを描いた『帰らざる夏』をものした加賀乙彦として、当然の批判だろう。

 本書には、1件だけ書評とは異なる文章がおさめられている。「中原中也の診断」がそれだ。千葉の中村古峡療養所で発見された中原中也の病床日誌のコピーを読んだ所見を記す。
 全6ページのコピーのうちはじめの3ページは入院時に医師の手になったもの、あとの3ページは経過と処置の記載で、看護人の記入、とまず加賀は推定する。ただし、医師が書いた表紙の病名「精神分裂病」は入院当日の仮の診断だろう、なぜなら病気の経過を見ると、この診断は疑問に思われる、と加賀はいう。
 要するに、病床日記だけでは中原が精神分裂病にかかったという確実な証明はしにくい。他の資料、多くの人々の証言、中也自身の作品や手記を精密に分析する必要がある。「結局、どのような資料が現れたとしても、すでに故人になった人を診断する方法には限界がつきまとう。何しろ40年も昔の出来事なのだから、そこにさまざまな推測が入りこむ暗部が残されることは当然である」
 ちなみに、加賀乙彦が中原中也の病床日記を読むことになったのは、大岡昇平からの働きかけによる。このあたりの事情は、『加賀乙彦短編全集2 最後の旅』月報2の大岡昇平『加賀さんの短編』(大岡昇平全集第21巻、筑摩書房、1996、所収)に記されている。すなわち、中原中也の千葉寺の中村古峡の病院のカルテが出てきて、表紙に精神分裂病の字が書かれていた。写真が読売新聞全国版に載った。で、鑑定を頼んだ・・・・という経緯なのであった。

□加賀乙彦『読書ノート』(潮出版社、1984)
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書評:『高山右近』

2010年02月06日 | ●加賀乙彦
 高山右近は、切支丹大名として知られる。茶人、利休七哲の一人でもあった。
 摂津高山に生まれ、1564年に受洗(洗礼名ジュスト)。1585年、豊臣秀吉の治下に明石7万石を得たが、1587年に秀吉の伴天連追放令に抵触して改易された。加賀の前田利家に1万5千石で召し抱えられ、26年間仕えた。
 徳川家康が発したキリスト教禁令が徹底されるに及んで捕縛され、1614年に国外追放となり、マニラへ到着後わずか40日で帰天した。

 本書は、右近の晩年の1年間を描く歴史小説である。
 囚人の日々に焦点をあてながら、その時々に触発される右近の回想を織りまぜることで、その人となりを浮き上がらせる。
 全17章のうち計5章、宣教師クレメンテによる書簡は、いわばナレーターの役割をはたす。すなわち、右近の動向を同時代人の目で手短に語らせつつ、当時の切支丹をとりまく情勢を伝え、併せて世界史的視野で戦国時代末期から鎖国開始期の日本をスケッチする。

 実在の人物を実名で主人公とする小説は、加賀乙彦には珍しい。すくなくとも長編/中編小説では初めてである。
 加賀は、事実と真実(虚構)の区別に意識的な作家である。

 加賀はいう、「作家は指で書く」と。プロットは前もってこしらえることができるが、ストーリーは書いていくうちに指先から紡ぎだされてくる。想像力はどんどんふくらんで、登場人物の深くて暗いこころの奥の微妙なひだまで分け入り、厚みのある人物像が造形されていく。
 ドストエフスキー的混沌、破綻寸前でとどまる奔放な文体で精神の広大さを描く点が、加賀の魅力である。
 しかるに、本書は、史実に即しているせいか、内面描写は抑制され、文体は端正、乱れがない。動乱の世を背景としていながら、全編、堅固な静謐がただよう。

 だが、と思う。加賀は、異常な状況や(いまから見れば)異常な時代のなかの人間を描きつづけてきた。
 初期の『荒地を旅する者たち』や『フランドルの冬』では状況への医学的知的な対峙、『帰らざる夏』では軍国日本の時代精神に翻弄される少年たちを主人公にすえた思考実験、『錨のない船』では開戦へむかう時代風潮への抵抗、『宣告』では組織からの逸脱、『湿原』では冤罪、そして大作『永遠の都』及びその続編の戦後編『雲の都』では変転する歴史の中をしぶとく生き抜く一族を描いてきた。
 こうした流れのなかで本書をみれば、時代への抵抗をはっきりと打ち出している。科学者としては理想的な姿を描けなかった加賀は、カソリックの立場から、いわば理想型として『高山右近』を書いた。
 政治的思惑から切支丹を禁じる幕府の政策を、主人公は断固として拒否し、信をつらぬく。拒否というより、理不尽な権力に対する不服従である。
 要するに、かつてテーマとした「聖なる狂気」が、信仰に置き換えられたのである。

 加賀乙彦は、精神科医としてパリに留学する前に刑務所の医務官をつとめた。本名の小木貞孝名義の『死刑囚と無期囚の心理』 (金剛出版、1974)がある。
 殉教となるか追放となるか、裁断を待ち受ける囚人の日々が活写されているのも、むべなるかな。

□加賀乙彦『高山右近』(講談社 、1999、後に講談社文庫、2003)
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