(1)『野火』の最初の構想
昭和21年。『野火』の原型は『狂人日記』という題名を与えられていた。大岡昇平は、「疎開日記」と題して発表した当時の日記に、昭和21年6月27日付けで<『狂人日記』を書いている>と。構想が練られていただけでなく、それに平行して一応は執筆していた。
『野火』の単行本は昭和27年2月に刊行された。その1年半余後の昭和28年10月に自作自解のエッセイ「『野火』の意図」を発表した。最初の構想では、『狂人日記』は三章で構成される小説となるはずだった。そして第1章の冒頭には、米兵の靴を磨く少年が登場することになっていたらしい。
(2)進まぬ構想
構想はなかなか固まらなかったし、したがって執筆も進まなかったようだ。昭和21~22年頃、大岡はフィリピンで死と隣りあわせになった敗兵としての経験、それにつづく俘虜収容所での生活の経験の記録を書くかたわら、中原中也、富永太郎に関する評伝的エッセイに手を着けていた。スタンダール論、スタンダール翻訳の仕事もあった。作家活動がそんなふうに活発にはじめられたなかで、『狂人日記』にふりあてられる時間が少なかったということも多少はあるかもしれないが、それはむろん二の次の理由にすぎない。最初のプランが崩れ、手はじめに書いた草稿が破棄される結果になったのは、かならずしもそういう外的な制約のためではなく、作者の筆を阻むものはむしろ内側にひそんでいた。
(3)主題をどんなふうに展開するか
主題がはっきりしているからといって、それを繰りひろげてゆく筋道がただちに見つけだせるものではないし、重大な扱いにくいものであればあるほど、その度合は当然高くなるはずだ。『狂人日記』の場合はまさにそれに相当する。
『野火』を書こうと思いたったきっかけとして、大岡は、俘虜収容所で聞いた、レイテ島の戦闘の話に動かされたことを何度か挙げている。ミンドロ島で俘虜となったあとレイテ島の収容所に送られた大岡は、そこで人肉食(カニバリズム)まで含めて数々の凄惨な敗戦の実相を知って、<その悲惨さに強い印象を受けた>【『レイテ戦記』あとがき】。せっかちな小説家ならばそこになにがしかの粉飾を加えて、悲惨な戦闘をただ悲惨なまま拡大したような小説を、たちどころに仕立ててみせるところかもしれない。
だが、『狂人日記』はその種の即席の産物として構想されたのではなかった。悲惨の極限をつたえる情報によって、奇蹟的に生き残った敗兵である作者のなかに生まれた激しい情動というモチーフは、そこからある明瞭な主題がひきだされる。実現しなかった最初のプランの概略だけからも、主題のありかはほぼ推察がつけられるはずだ。
『野火』の主題について、大岡はたとえば<敗兵に現れる思考、感情の混乱>【「『野火』の意図」】というふうに説明する。『狂人日記』の段階から、すでにこの主題が明確に把握されていたのは間違いないが、この言葉に圧縮されているように、戦争が過酷な状況に追いこまれたとき人間はどこまで歪められるか、どこまで錯乱するか、大岡はそれを極限まで見極めようとしたのだ。ただ小説家的な関心というだけでなく、同じ戦場の敗兵のなかで生き残った者の責任の意識が、そこに働いていたことを忘れてはならない。そして人間は人間らしさをどこまで失うか、どこまで堕ちていくものであるか、またどれだけその転落に抵抗することがでえきるかというこの主題には、戦争と深く結びつきながら、戦争を超える契機がおのずから秘められているのではないか。それもまた、とくに『野火』の現在の読者としては、考えるに値する問題だろう。
T・S・エリオットの用語をすこし拡張解釈して使うなら、『狂人日記』が突きあたったのは主題にふさわしい虚構の「客観的相関物」を創りだす難しさだ。深くひろい射程を秘めたこの主題をすっかり溶けこませながら、しかもダイナミックにはじまるプランが捨てられたのは、いいかえればその苦心がまだ実るに至らなかったということだろう。それが結実するまでには、最初の構想のあと、まだかなりの時間が必要だった。
(4)『野火』誕生に至る前史の第二段階
(a)主題
昭和22年12月に現れる。まず昭和22年12月3日付け「疎開日記」に<『野火』に一転換>とあり、それまでに題名が決まっていたことが分かる。また、「『野火』の意図」によると、<部隊を追われた兵士が野火を見るところから始まって、健忘中の野火の映像を恢復することに終わる現存の構想を得たのは」、昭和22年末だったと記されていて、主題を展開すべき虚構の物語の筋道が、すくなくとも大枠としてはほぼ固まった時期を示してくれる。「一転換」と「疎開日記」に書いてあるのは、そのことを指していたのかもしれない。といっても、「現存の構想」はそのとき隅々まで確定したのではなく、「神」はそこにまだ姿を見せていなかったらしい。12月3日付けで<すぐ書き始めること>と記したすぐあと、つづいて同6日付けで<『野火』はやっぱり駄目だった>と記述しているが、結実の時期がここでまた先送りにされるのは、<主人公の性格がきまらなければならぬ>【「疎開日記」】ということも含めて、敗兵の彷徨する筋道が細部まで見通されていなかったからだ。「神」の未登場もむろんそれに関連する。
(b)文体
主題とそれを容れる虚構の物語との釣り合いのほかに、もうひとつ、文体の問題が大岡を待ちかまえていた。昭和21年4月29日付け「疎開日記」に<文体--模範とすべき文体がないので、翻訳体をとるのは、辛いことである>。これは『狂人日記』を直接に念頭に置いたものではなく、作家活動に乗りだしたまず最初に解決すべき問題として、固有の文体を創りださねばならない、という心覚えを記したということだろう。どちらかといえば、これはのちに『俘虜記』にまとめられる作品に向けられていたのかもしれないが、いずれにせよ、この記述から『狂人日記』=『野火』の文体を大岡が手さぐりしていた様子は推察できるし、その手さぐりが解決の糸口をつかむまでに、これまたかなり時間を必要としたのは言うまでもない。
『野火』の文体は、それまで日本の小説の知らなかった新しい質の散文を基礎にしている。『野火』が出現した直後から、明晰さ、正確さを刻みこんだ文体の新しさが多くの評家に喧伝されたのは繰り返すまでもないが、その定評のわりに、この文体がここに語られていく事柄と隙間なく溶けあっていることについては、これまであまり強調されていなかった。
装飾的要素の過剰を抑えて、必要なことだけ的確に言いきる短いセンテンスをつづけていく文体には、フィリピンの自然のなかを独りで歩きまわる敗兵の動きを現前させる力が、たえず張りつめている。危険とともに移動しているその一挙一動が、見誤りようなくそこに提示されている。行動的な文体であることはだれにでも見てとれるが、それと並んで、というかそれと絡まりあう特質として、敗兵の眼の捉えた自然や地形を、その捉えた瞬間の様相において表出しようとする視覚性も挙げておかねばなるまい。それはつまり、敗兵にとって、見ることは行動の一形式にもなっているところが出てきた特質だ。
視覚性といっても、この敗兵の眼は、細かな対象の細かな局所に粘着するのではない。そうではなく、たとえば夕焼の空の下にそびえる群峰と地上の草原の景観、あるいは崖の底から湧く水が谷間に開いていく水路の形状など、視野にひろがる対象をいわばゲシュタルト的に把握するのだ。その視像を言語表現に変換した文体は、したがって細密な写生画のような性質を帯びるのではなく、ここでは、自然にせよ地形にせよ、対象は視線をひきつけた要素をとくに際立たせた構成的な画面のように提示される。読者の想像力は、こまごまと煩わしい具象的なイメージに制約されることがないから、この簡明な構図から、熱帯の明るい自然の感覚や、丘と川と野原のかたちづくる原初的な地形のすがたを、かえって強烈に喚起することができるにちがいない。この視覚性は読者を縛るのではなく、解放するのだ。
『野火』の、というより大岡の文体の論理的な性質、合理的な分析を重んじる性質についても多くのことが言われてきた。『野火』に限っていえば、敗兵が何をどう考えたり感じたりしているのか、思考と感情が混乱していれば混乱しているなりに、敗兵の心のなかで刻々と明滅するものをできるだけ正確に論理化し、できるだけ明晰に分析しようとする動きが、この文体を特徴づける瞬間は何度も認められる。定評はたしかに誤っていないとすれば、問題はそれでは論理性と分析性がどこから出てくるか、ということだ。
文体が論理的になり分析的になったのは、主人公の敗兵が論理的であり分析的であろうとするからだといえば、ただ同義語反復としか聞こえかねないかもしれないが、そのあたりの微妙な関係はやはり見落としてはならない。<主人公の性格がきまらなければならぬ>【「疎開日記」】という一節にもおそらく関連づけられようが、周囲の状況について、孤独な敗兵としての行動について、自分自身の思考と感情について、さらには他人の思惑についても、田村一等兵はいつも論理的に検証し合理的な分析を向けようとする。「名状しがたいもの」に駆られて、<私自身の孤独と絶望を見極めよう>【「7 砲声」】と決めた人間を追跡する小説にとって、文体の論理性と分析性は欠かすことのできない条件だ。その条件は十分に満たされている。精妙に張りめぐらされた論理の網と、読者が頷くきおとのできる分析力をそなえた文体に支えられて、主題は小説的に肉づけされていくのだ。
もうひとつの特徴として、とくに敗兵の心が幻覚と幻想の領域に接近していくとき、散文的な正確さばかりでなく、この文体が詩的な性質を帯びる場合があることも見ておく必要があろう。たとえば<死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた>【「8 川」】と感じ、<実は私は既に《死んでいる》から>【「9 月」、《》内は原文傍点】と考えるあたりでは、その性質がことさら強く刻みつけられている。生の境界を踏みこえて、幻覚、幻想の氾濫のなかへ進んだ特異な意識の状態と、詩性を帯びた文体はよく溶けあっている。また自然の感覚の蕩揺に心を揺すぶられる部分においても、詩的な高揚の効果が、いちじるしいことを付けくわえておきたい(兵士たちの会話の粗暴な調子も、『野火』の文体の見逃せない要素だ。手記本文の端正な整いとのいちじるしい差異が、対照的な効果をつくりだすのだ)。
(5)『野火』生成の第三幕
明晰に整えられた均質な形態のなかに、さまざまな性質を複合させているこの文体が確立されたのは、昭和23年6月~9月だ。年2回の割合で刊行されていた雑誌「文体」の求めに応じて、決定稿の「7 砲声」までの部分の執筆を進めたこの時期は、『野火』生成の第三幕に相当するが、その段階で、文体の確立が構想の実現に結びついた面も大きかったにちがいない。「神」の観念が構想に入ってきたのも、この時期だという。
この時期にできあがった部分が、「文体」第3号(昭和23年12月刊行)に発表されたあと(このときは現行の「37 狂人日記」に対応する箇所が、序章として冒頭におかれていた)、「19 塩」までの部分が「文体」第4号(昭和24年7月刊行)に掲載された。しかし、「文体」が廃刊になったため、執筆はまたもやいったん中断されることになった。
そのあと『野火』の執筆がひとまず結末まで漕ぎつけたのは、月刊誌「展望」昭和26年1月号~8月号に連載されたときだ。「展望」連載時にも章分けが行われて各章に題名がつけられていたが、連載が終わってからも、章の区分と題名の変更をふくめてさらに訂正が加えられたのち、昭和27年2月に単行本が刊行された(その後も版を改めるときに訂正されている箇所がある)。
はじめて構想が芽ばえたときから数えれば、『野火』は完結まで5年半以上を要した作品ということになる。
(6)生成の過程をふりかえる意味
この長い生成の過程をふりかえってきたのは、ただ完結に至るまでの経緯を跡づけるためばかりでなく、どんな小さい部分もゆるがせにしない堅固な構成にたどりつくには、やはりそれだけの労苦がかけられていた事実をあらためて見直したかったからでもある。実際、この小説では、どの部分にもそれぞれ意味と役割があり、なにげなく書かれているかに見える部分がやがて他の部分と交響しあい、全体が精密に構造化するように方向づけられる。
〈例〉①特殊な関係にある<速成の親子>【「6 夜」】の挿話は、後半の奇怪な結びつきに変質して新しい意味を帯びることになるし、②主人公が殺人の道具となった銃を捨てる場面と、神の怒りの代行者としてもう一度銃を手にとる箇所とは、深く反響しあっている。
そんなふうによく考えぬかれたそれぞれの部分の意味と役割を読み解くことが、すなわち『野火』を読むことなのだ。
(7)物語の弁証法的な展開
『野火』に書かれていく個々の細目について、つまり小説の内容に亙る面については混濁したところはなく、読者はほとんどすべて明瞭に読み解けるはずだが、敗兵の彷徨の筋道、いいかえれば物語が展開されていく筋道が、いわば弁証法的に進んでいくことだけ一言しておきたい。
〈例1〉軍隊組織から解放された<無意味な自由>【「8 川」】の気分は、群居本能という社会的感情とぶつかって別の翳りを帯びるし、死に閉ざされていた孤独の意識は、無辜の命を奪ったすぐそのあと、見知らぬ僚友に出会った偶然も働いてふたたび生のほうにむけられようとする。敗兵はあらためて出発し直すが、死の境地をいったん通過するようにして、生へもう一度向かっていくこの転回は、すくなくとも単線的ではない。同じ生の意識といっても、今度は死もいっそう深く包みこみながら、前とは次元の違う段階を彷徨するのだ。
〈例2〉①はじめは慰めのように現れる神が、いくつかの段階を通った末、人間のむごたらしい醜悪さをひたすら憤る存在に変わる変遷にしても、②感覚をこころよく揺すぶっていた自然が、やがて雨季が来て敗走の障害でしかなくなる変化にしても、同じ種類の進行の型を示しているのは疑いをいれない。
(8)『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』
極限の状況のなかで人間がどこまで堕ちていくのか、堕ちていく自分を見つめながら堕ちていく自分に抵抗する意識は、狂気と隣りあわせなければならないのか、という主題がしだいに深められるのは、敗兵の彷徨の物語が、このような進行の型によって刻々と、漸層的に、最悪の場所へ近づいていくからだ。ここには飛躍もなければ曖昧な停滞もない。主題と物語を緊密に溶けあわせて進行していくこの小説の歩みは、こうして一種の論理的な階梯に支配されているかのようだ。悲痛さ、悲惨さの極みに胸を打たれる一方で、読者は一種の明るい整いが隅々まで浸透していることに気づかされるし、その結果、ある明晰さの快感が読後の印象として残ることになる。こうして凄惨さ、残酷さと明晰な秩序の感覚が化合しあって、『野火』の小説世界の、他に類を見ない魅力がかたちづくられるのだ。
<敗兵に現れたる思考、感情の混乱>--生の境界を越えて死にひとしい領域に追いこまれた錯乱は、ここでは戦争が個人に強いる極限の状態として捉えられている。原型『野火』をはじめて構想した敗戦直後の時期、虚構として書くしかないこの状態のなかにできるだけ遠く踏みこむ試みが、戦争についてぜひ果たさなければならない証言になると、大岡が考えたであろうことは想像に難くない。そういう極限の状態をこれほど明瞭に見つめたこの戦争小説が、戦後の日本の小説のなかで傑出した一頁をかたちづくっているのは繰りかえすまでもないし、世界のどんな言語で書かれた文学のなかにも、こういう戦争小説はほとんど見受けられない。
それをまず認めたあと、『俘虜記』と『野火』につづいて、大岡が『レイテ戦記』の著者となったことをもう一度思いだしておきたい。戦争は個人の視野から離れようがないのにくらべて、『レイテ戦記』においては、兵士たちを動かす見えない巨大な歯車としての戦争が追跡される。つまり『俘虜記』、『野火』、『レイテ戦記』は、それぞれが異なる位相から戦争の実態に迫る作業を通して、ひとつの系列につながりあう作品群である。『野火』を読んだ読者は、『俘虜記』と『レイテ戦記』を読むことによって、三つの作品の奥行がいっそうよく見えてくるはずであり、戦争とはどういうものであるか、その実態がそこに露出してくるように感じられるにちがいない。
□菅野昭正「解説」・・・・『野火/ハムレット日記』(岩波文庫、1988)の解説のうち『野火』に関わる部分を抽出、整理
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