●山口二郎
最近「政治学はすごく堕落したな」と思うのは、政治学者が候補者やマニフェストをまるで商品を見るようにして位置づけていることです。カタログを見て「民主党の商品と自民党の商品とどっちがいいのか」というくだらない選択をあたかも民主主義だというふうに錯覚させて回っている。メディアがその錯覚を振りまいて、その流れで民主党の政権交代が起こったけれど、そういう不毛な議論はもう打破しないといけない。いま目の前に起こった新しいことがらについて、私たちがどんどん意見をいっていかないと、政治家の押さえは効かないと思います。
●柄谷行人
今回の原発のことでもそうですけど、原発反対というと、何か積極的な代案を出せといわれます。自然エネルギーを実際にどうやるんだとか、そういう社会設計に関する「アーキテクト」としての役割を求められるわけです。しかし、私はそんなことをいう必要はないと思います。たんにやめればいい。やめることで、はじめて考えることがはじまるのであって、その逆ではない。代案を出すという思考が、すでに原発と同じものなのだと思います。そんなことをやっていたら、絶対に原発をつくった資本=国家を脱構築することはできないのです。
●大澤真幸
私は人間の想像力の最大の源泉は事実が何であるかを直視すること、見極めることにあると思います。一般に私たちは想像力というと、存在しないもの、知覚できないことについてあれこれと考えることだと思っていますが、大事なことは事実性に関する想像力なのです。例えば、原発事故が起こる前からそれが起こりうるということをみんな知っていました。しかし、それは大きな力にならなかった。ところが、現に原発事故が起こると、みんな原発について本当に考えるようになるし、行動をするようになる。原発が事故を起こしたという事実が、人の想像力と行動を圧倒的に触発している。同じように、原発を止めた後にどういう代替エネルギーがあるかなどと、いまあれこれ考えていても限界がある。まず原発を100パーセントの意味で断念する、というところからはじめないとならない。原発は不可能だということを事実として見極めることからはじめるべきです。そのときに、はじめて人間のイマジネーションとクリエイティビティが本当に発揮されるということです。原発という選択肢が事実として消えたときに、はじめて代替的なものへの想像力も本当に活動する。想像力を先に働かせてから原発を断念するのではありません。逆に、断念が想像力を触発するのです。
●岡崎乾二郎
放射線というのは、極めて不均質ですね。平均値をとってもわからないということです。確率的被害といわれる低線量被曝、内部被曝にこの問題は典型的にあらわれる。絶対的な安全はありえず、一方その危険性も確定的にいうことができない。放射性物質がもたらすリスク=究極的には正視の違いをもたらすリスクは確率的なものだというしかない。実際にいまわれわれが直面している問題は、個々の身体ごとに確率が異なる問題です。さらに事故から時間を経て、空気を通した自然拡散の段階を超えると物流による拡散が起こりますから、関西のほうが福島に近い関東よりも危険でないとはかぎらないということも起こる。もっと局所的には、この椅子は隣の椅子よりも線量が高いとかいうこともある。これは個々の人間の身体でも同様です。つまり、それぞれの人間がかかえる生死のリスク、危険性の確率が違う。一般化できない。自分は危なく、隣の人は安全かもしれない。ゆえに、そのリスクへの不安を他人に語りにくく、それぞれが個々の判断で、いわば投機的に行動するしかない場面も多くなる。共同体的な原理での連帯は困難になる。共同体的な原理はむしろこうした行動を抑圧することにもなるでしょう。これが、いまわれわれが置かれている状況だと思います。つまり、われわれは選ぶ側(ソフィー)にいるわけではなく、それぞれが選ばれる側の子どもの立場にいるということですね。一般解は存在しないという状況。確率的というのは自分自身のなかに例えば40パーセント確実な死と60パーセント確実な生が同時にあるという状況でしょう。この確率の分布の差、そしてそれが一般化して測定することができない、ということが現在における危険性=究極的には「生か死か」の一般化された判断、共有されうる決定に抵抗している。
●柄谷行人(その2)
「不在の他者」の話で、一つ言い残したことがあります。ある意味で「不在の他者」をもっとも考えざるをえないのは、ナショナリストなんですよ。「ネーション」というのは「民族」と訳すとまずい場合があります。ネーションは多民族でも成り立つものだからです。しかし、「国民」と訳してもまずい場合がある。というのは、国民というと、いまいる国民だけになってしまうからです。ネーションには民族と同様に、死者や子孫もすべて含まれます。つまり、「不在の他者」が含まれるのです。そのようなネーションが国家と異なるのは当然です。それらは通常、相補的ですが、ネーションが国家に対立する場合があります。例えば、今回の原発問題ではどうか。原発は資本=国家による短期的な利益のために推進されましたが、その結果、美しい日本の国土が汚染され、また放射能によってわが子孫たちが長く苦しむことになる、ナショナリストなら、そのことに対して憤激を覚えずにはいないだろう、と私は思いました。しかし、そのようなナショナリストはほとんどいなかった。要するに、彼らはナショナリストではなく、国家主義者なのです。あるいは、資本=国家主義者である。/ただ、丸川さんの話を聞いて持ったのですが、原発事故の後、国家主義とは異なる「ナショナリズム」が出てきた面もあると思います。その意味で、ネーションと国家のあいだに亀裂が出てきているともいえます。私がなぜ資本=ネーション=国家というかといいますと、この三つの構成要素がそれぞれ異質だからです。資本、ネーション、国家はそれぞれ、単独で存在するのではなく、必ず結合した形であらわれる。それらは相補的です。しかし、同時に、それらのあいだに亀裂がある。対立的契機があるのです。そのことをいっておきたいと思います。
以上、シンポジウム「震災・原発と新たな社会運動」の第2部ディスカッション(「atプラス」、2011年9月号)から一部引用した。
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最近「政治学はすごく堕落したな」と思うのは、政治学者が候補者やマニフェストをまるで商品を見るようにして位置づけていることです。カタログを見て「民主党の商品と自民党の商品とどっちがいいのか」というくだらない選択をあたかも民主主義だというふうに錯覚させて回っている。メディアがその錯覚を振りまいて、その流れで民主党の政権交代が起こったけれど、そういう不毛な議論はもう打破しないといけない。いま目の前に起こった新しいことがらについて、私たちがどんどん意見をいっていかないと、政治家の押さえは効かないと思います。
●柄谷行人
今回の原発のことでもそうですけど、原発反対というと、何か積極的な代案を出せといわれます。自然エネルギーを実際にどうやるんだとか、そういう社会設計に関する「アーキテクト」としての役割を求められるわけです。しかし、私はそんなことをいう必要はないと思います。たんにやめればいい。やめることで、はじめて考えることがはじまるのであって、その逆ではない。代案を出すという思考が、すでに原発と同じものなのだと思います。そんなことをやっていたら、絶対に原発をつくった資本=国家を脱構築することはできないのです。
●大澤真幸
私は人間の想像力の最大の源泉は事実が何であるかを直視すること、見極めることにあると思います。一般に私たちは想像力というと、存在しないもの、知覚できないことについてあれこれと考えることだと思っていますが、大事なことは事実性に関する想像力なのです。例えば、原発事故が起こる前からそれが起こりうるということをみんな知っていました。しかし、それは大きな力にならなかった。ところが、現に原発事故が起こると、みんな原発について本当に考えるようになるし、行動をするようになる。原発が事故を起こしたという事実が、人の想像力と行動を圧倒的に触発している。同じように、原発を止めた後にどういう代替エネルギーがあるかなどと、いまあれこれ考えていても限界がある。まず原発を100パーセントの意味で断念する、というところからはじめないとならない。原発は不可能だということを事実として見極めることからはじめるべきです。そのときに、はじめて人間のイマジネーションとクリエイティビティが本当に発揮されるということです。原発という選択肢が事実として消えたときに、はじめて代替的なものへの想像力も本当に活動する。想像力を先に働かせてから原発を断念するのではありません。逆に、断念が想像力を触発するのです。
●岡崎乾二郎
放射線というのは、極めて不均質ですね。平均値をとってもわからないということです。確率的被害といわれる低線量被曝、内部被曝にこの問題は典型的にあらわれる。絶対的な安全はありえず、一方その危険性も確定的にいうことができない。放射性物質がもたらすリスク=究極的には正視の違いをもたらすリスクは確率的なものだというしかない。実際にいまわれわれが直面している問題は、個々の身体ごとに確率が異なる問題です。さらに事故から時間を経て、空気を通した自然拡散の段階を超えると物流による拡散が起こりますから、関西のほうが福島に近い関東よりも危険でないとはかぎらないということも起こる。もっと局所的には、この椅子は隣の椅子よりも線量が高いとかいうこともある。これは個々の人間の身体でも同様です。つまり、それぞれの人間がかかえる生死のリスク、危険性の確率が違う。一般化できない。自分は危なく、隣の人は安全かもしれない。ゆえに、そのリスクへの不安を他人に語りにくく、それぞれが個々の判断で、いわば投機的に行動するしかない場面も多くなる。共同体的な原理での連帯は困難になる。共同体的な原理はむしろこうした行動を抑圧することにもなるでしょう。これが、いまわれわれが置かれている状況だと思います。つまり、われわれは選ぶ側(ソフィー)にいるわけではなく、それぞれが選ばれる側の子どもの立場にいるということですね。一般解は存在しないという状況。確率的というのは自分自身のなかに例えば40パーセント確実な死と60パーセント確実な生が同時にあるという状況でしょう。この確率の分布の差、そしてそれが一般化して測定することができない、ということが現在における危険性=究極的には「生か死か」の一般化された判断、共有されうる決定に抵抗している。
●柄谷行人(その2)
「不在の他者」の話で、一つ言い残したことがあります。ある意味で「不在の他者」をもっとも考えざるをえないのは、ナショナリストなんですよ。「ネーション」というのは「民族」と訳すとまずい場合があります。ネーションは多民族でも成り立つものだからです。しかし、「国民」と訳してもまずい場合がある。というのは、国民というと、いまいる国民だけになってしまうからです。ネーションには民族と同様に、死者や子孫もすべて含まれます。つまり、「不在の他者」が含まれるのです。そのようなネーションが国家と異なるのは当然です。それらは通常、相補的ですが、ネーションが国家に対立する場合があります。例えば、今回の原発問題ではどうか。原発は資本=国家による短期的な利益のために推進されましたが、その結果、美しい日本の国土が汚染され、また放射能によってわが子孫たちが長く苦しむことになる、ナショナリストなら、そのことに対して憤激を覚えずにはいないだろう、と私は思いました。しかし、そのようなナショナリストはほとんどいなかった。要するに、彼らはナショナリストではなく、国家主義者なのです。あるいは、資本=国家主義者である。/ただ、丸川さんの話を聞いて持ったのですが、原発事故の後、国家主義とは異なる「ナショナリズム」が出てきた面もあると思います。その意味で、ネーションと国家のあいだに亀裂が出てきているともいえます。私がなぜ資本=ネーション=国家というかといいますと、この三つの構成要素がそれぞれ異質だからです。資本、ネーション、国家はそれぞれ、単独で存在するのではなく、必ず結合した形であらわれる。それらは相補的です。しかし、同時に、それらのあいだに亀裂がある。対立的契機があるのです。そのことをいっておきたいと思います。
以上、シンポジウム「震災・原発と新たな社会運動」の第2部ディスカッション(「atプラス」、2011年9月号)から一部引用した。
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