語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】アマゾンの書評の問題点(椎名誠の「本の雑誌」における批判)

2010年02月28日 | 批評・思想
 「本の雑誌」2010年3月号の特集は書評で、冒頭に絲山秋子および豊崎由美による対談が載っている。題して、「書評採点ページを作ってくれぃ!」。
 二人が槍玉にあげているのは、ネット書評ではアマゾンのレビューである。

 レビューの書き手の問題点をあれこれ指摘するのは、豊崎だ。
 自分の好き嫌いを作家に押しつける書き方をする人がいるし、読めている人のあらすじと、読めていない人のあらすじとは全然ちがう。平気で間違いを書くとか間違った解釈のまま誹謗するとかして、しゃらっとしている。書いたものを不特定多数に読まれる怖さを一般の人はもっと知るべきだ、と叱咤する。

 アマゾンのレビューに係るシステム的問題を具体的に指摘するのは、絲山だ。
 たとえば、レビューに対するコメント14人中「参考になる」が4人、「参考にならない」が10人いる場合、アマゾンは「参考になる」の4人のみを加算する。しかし、本来ならば「参考にならない」の10人の数を引かないとそのレビューに対する正確な評価がでてこない、と疑問を呈する。また、アマゾンができてから星五つという基準ができたが、星の基準が書き手それぞれによってバラバラである。だから、出てきた星の数を合計して平均値をだしても無意味である、と指摘をする。

 レビューに対して作家の側が星をつけてはどうか、と絲山は提案する。
 たとえば、「けなしているけれども星五つだ」「ほめてはいるけれども星二つしかやれない」などと評価するのだ。

   *

 絲山および豊崎の作品に目をとおしたことはない。また、アマゾンで発注したことはほとんどないし、アマゾンのレビューを参考にしたこともない。
 したがって、アマゾンのレビューに対する二人の評価については判断を保留するしかない。ただし、アマゾンのシステムについては、二人の指摘するようなものであるならば、ダレル・ハフ『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス、1979)の日本におけるよき見本となるだろう。
 なお、レビューに対する作者からの星付けは大人げないという気がするが、作家の側からかかる反撃があれば、作品を論じるより自分の感情的反応を縷々とつづるのに忙しい変なレビューは駆逐されるかもしれない。

【参考】「本の雑誌」2010年3月号(本の雑誌社)
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【映画談義】『パリ空港の人々』

2010年02月27日 | □映画
 「異常な状況における正常な反応は、異常な行動をとることである」と、精神科医ヴィクトル・フランクルは喝破した。フランクルのいわゆる異常な状況は、アウシュビッツ収容所であった。
 この映画の主要登場人物がおかれている異常な状況は、入国も(フランス以外の国に)出国することもできないまま滞在を余儀なくされているパリ空港である。

 カナダとフランスの二重国籍を持つ図像学者(ジャン・ロシュフォール)は、いまのところローマに居をかまえている。なかなかの国際人だが、細君(マリサ・パレデス)はスペイン人と、ますます国際的だ。
 くだんの先生、カナダはモントリオールの空港で寝こんでいるうちに、パスポートに財布、靴まで盗まれてしまった。
 細君が待ちうけるシャッル・ド・ゴール空港まで、なんとか辿りついたのはよいが、入国管理局の担当官から待ったをかけられた。二重国籍をなまじ持つから怪しまれるし、時期がわるかった。12月30日の日曜日、しかも深夜である。行政機関は休みだから、顔写真で確認することができない。すったもんだの挙げ句、空港内のトランジット・ゾーンに眠るはめに陥った。
 さて、学者先生、このゾーンで思いもよらぬ人々と出会って度肝をぬかれる。入国も出国もできない人々が、とある部屋で日常生活を送っていたのだ。迎えにくるはずの父親をひたすら待ちうける少年、ギニア出身。国籍を剥奪されたグラマー・ガール。どこへ行っても入国を拒否される元軍人。・・・・といった人々がひっそりと、一日や二日ではなく一年、二年と暮らしていた。

 じつに悲劇的な状況なのだが、観客の目には喜劇と映る。その理由のひとつは、ロシュフォールのとぼけた山羊づらだ。黙って眺めているだけでおかしくなるし、その飄々たる演技がこれに輪をかける。
 彼をとりまく人々のキャラクターもいい。それぞれがたくましく、しかも相互に繊細な気くばりをみせる。ちゃんと食べ物を、ワインも、シャワーさえ確保している。一同、滑走路に棲息するウサギを捕えて食糧にしたりもする。空港の台所をちゃっかり使わせてもらっているのだ。
 かの学者先生、最初は唖然とするが、すんなりと彼らの暮らしに適応する。おかげで、一文なしでも食うに困らない。3日間も空港内で寝起きする。
 皆とともに、警備の隙をついて空港を抜け出し、夜空の下のパリを散策しさえもする。長期間パリ空港で暮らしながらまだパリの街なみをみたことのない少年のために。
 まるで髪結いの亭主的な立場だが、じじつロシュフォールは『髪結いの亭主』(仏、1990年)の主人公を演じているが、おかしいのは、困った状況の中で余裕しゃくしゃくの旦那とは逆に、自由な状況の中にある細君がおお騒ぎすることだ。入国管理局から旦那との接触を断固拒否されては怒りくるい、安ホテルに泊まる仕儀になって、いっそうエキサイトする。ラテン系の血ははげしい。

 この映画は、深刻に考えれば難民問題に関わり、感覚的にとらえればカフカ的状況に関わるが、「パリ空港の人々」はあくまであっけからんとして明るい。日はまた昇るのである。
 ストーリーは奇想天外。人情を繊細かつ自然体でみせつつ、観客の微笑をひきだす演出は絶妙だ。
 そして、この映画、悲劇と喜劇とはヤヌスの両面であり背中あわせの関係にあることを、つくづくと感じさせる。

 余談ながら、この映画の発想の元、イラン人難民マーハン・カリミ・ナセリに対して、スピルバーグ監督映画『ターミナル』(米、2004)の関係企業からも映画化権の支払いがあったらしい。

□『パリ空港の人々』(仏、1993年)
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【読書余滴】読書人はなぜ歴史を好むか

2010年02月26日 | ミステリー・SF
 「なにが書いてあるの?」
 「14世紀のことだ」
 彼は黙っていた。薪の端から樹液が流れ出て下の熱い灰の中に落ちた。
 「なんで1400年代のことを書いた本を読むの?」
 「1300年代。20世紀が1900年代であるのと同じだ」
 ポールが肩をすぼめた。「だから、なぜそんなことについて読むの?」
 私は本をおいた。「当時の人々の生活がどんなものだったか、知りたいのだ。読むことによって、600年の隔たりをこえた継続感を得られるのが好きなのだ」

  *

 『初秋』に出てくる会話である。スペンサーは、両親から放任されている子どもを預かり、二人して自然の中で暮らす。シンプルな生活の一夜、少年が尋ね、スペンサーが答える場面である。
 継続感とは、14世紀のどこかの社会にスペンサーもまた属している、という感覚だろう。
 試みに、わが国の、たとえば田中優子『江戸の想像力』をひもといてみるとよい。継続感が感じられるならば、あなたは江戸の住民の資格をもつ。
 スペンサーは、「自立というのは自己に頼ることであって、頼る相手を両親からおれに替えることではないんだ」などと子どもに教えさとす独立自尊の男だが、ある共同体への(その共同体が過去のものであっても)帰属感とすこしも矛盾しない。むしろ、目前にはない共同体への帰属感をもつことで、独立の意識はより堅固になるのかもしれない。

 ロバート・ブラウン・パーカーは、米国マサチューセッツ州出身の作家。1973年、『ゴッドウルフの行方』でデビューし、スペンサー・シリーズ第4作『約束の地』でMWA賞最優秀長編賞を受賞した。2010年1月18日没。

【参考】ロバート・B・パーカー(菊池光訳)『初秋』(早川書房、1982。後にハヤカワ・ミステリ文庫、1988)
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書評:『消えたイワシからの暗号』

2010年02月26日 | ノンフィクション
 イワシは、安くてうまい。養殖のハマチやウナギの飼料にもなる。
 そのイワシが獲れなくなった。日本のマイワシの年間漁獲量は、448.8万トン獲れた1988年を境に年々減少して、1997年にはわずか28.4万トンに落ちこんだ。
 だが、2020年代にはふたたびイワシは豊漁となる、と著者は予測する。ただし、これは日本海側の話で、太平洋側は少し先にずれる。

 こう予測する根拠は何か。
 太平洋側ではマイワシ・サンマ・マサバ、日本海側ではマイワシ・マアジ・マサバが大衆魚の代表である。これらは、同時には繁栄しない。いずれかの種が他をおさえて君臨する。君臨する種は、入れ替わる。ごっそりと。この現象が魚種交替である。
 魚種交替は、次のようにして起きる。ある年に魚食性プランクトンが大量に発生すると、この時に主役の種の仔魚が大量に食われる。そこへ次に主役となる種が入りこむ。
 寿命6年の魚の場合、仔魚は生後2-3か月のうちにほとんどがプランクトンに食われる。成魚まで生き残るのは、1万尾のうち1尾しかいない。そのプランクトンを成魚が食べる。魚とプランクトンは、共生関係にある。
 ある種が異常繁殖することで、魚類全体が安定的に繁栄する。つまり、Aという魚種がダメならBがある、という多角経営によって全体のリスクを小さくする合理的な戦略が自然界にはある。著者は、本書を書く過程でこの見方に到達した、という。そして、これは単なる戦略の解明ではなくて、漁獲量予測の重要なヒントになっている。
 7人の研究者によるブレインストーミング、そこから生まれた複数の魚種交替予測モデル、調査、統計を駆使した予測・・・・の詳細は、本書にあたっていただくしかない。

 漢字を少なめにおさえた文体、豊富な雑学、読みやすい語り口。全編、軽いユーモアがほのかに漂う。たとえば、魚類分類にふれていう。「グループとしてもっとも大きいのはスズキ目であろう。魚の世界でもスズキさんが多い」
 新しい水産学の知見をわかりやすく伝える上質の科学啓蒙書である。少年少女から市井の読書人まで、安心しておススメできる。単なる食いしんぼも含めて。
 ちなみに、著者は科学サイエンティスト(魚類生態学)。元水産庁の職員で、東北区水産研究所資源管理部長を最後に定年退官した。

□河井智康『消えたイワシからの暗号』(三五館、1999)
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【映画談義】『es(エス)』

2010年02月25日 | □映画
 2月26日の『心理学で何がわかるか』で集団の圧力に係る実験にふれたが、集団内の役割、社会的地位が人間の行動におよぼす影響を調べたのが1971年のスタンフォード大学の実験だ。
 『es(エス)』の原題は『実験(DAS EXPERIMENT)』」で、このスタンフォード監獄実験に着想を得ている。

 実験では、大学内に模擬刑務所を仮設し、公募した被験者20名を無作為に2つのグループ及び看守と囚人に分け、ロール・プレイを行わせた。
 当初2週間の予定だったが、立案者にとっても意外な、あまりにも非人間的な行動が生じて、6日間で中止になった。以後、こうした実験は禁止されている。

 映画は、実際の実験にほぼ忠実にはじまる。
 短時日のうちに囚人役の被験者たちは受動的傾向、卑屈なまでも服従的傾向を露わに示すようになった。情緒不安定、鬱状態を示す被験者も生じた。
 他方、看守役の被験者は次第に支配的傾向、攻撃的傾向の度を増し、実験者が課した規則を踏みにじって人権侵害、身体的暴力から殺人まで犯すに至るのである。
 たとえば、囚人番号77を割り当てられた主人公タレク(モーリッツ・ブライプトロイ)が、実験だから、と思って遠慮なく看守の体臭を「臭い」と嘲ると、看守役の被験者は実験者の眼のとどかない場面を作りだして、タレクをバリカンで丸坊主にし、さらに彼が着用する服で便器の大便を拭わせ、「おまえは臭い」と嘲笑するのであった。
 かくて、暴動が起こり、最終的には2名の死者をふくむ多数の死傷者が発生する。

 映画『es』には、スタンフォード監獄実験にはなかった虚構がある。たとえば殺人、あるいはレイプ。
 ドイツ人の徹底癖のあらわれだろうか。
 監督はオリヴァー・ヒルシュビーゲル、主演はモーリッツ・ブライブトロイ。
 2001年モントリオール国際映画祭最優秀監督賞、2001年ババリアン映画賞最優秀監督賞・最優秀撮影賞・最優秀脚本賞、2001年ドイツ映画賞最優秀観客賞・最優秀金賞、2001年ベルゲン映画祭最優秀観客賞を受賞したほか、各賞にノミネートされた怪作である。

□『es(エス)』(独、2001)
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書評:『阿房列車』

2010年02月24日 | エッセイ
 阿房宮は、秦の始皇帝が渭水の南に築いた宮殿である。それが、宮の一字がとれたとたんに阿呆になる。
 阿房列車は、すなわち阿呆列車である。
 なんの用事もないのに、汽笛一声、揺られ揺られて列島のあちこちへ出かけ、車中でも宿でもしたたか飲んで、飲みつぶれて、名所見物もしないで帰ってくる。本書は、そんな話ばかり延々と書きつらねている。
 要するに、本書には見事になかみがない。徹頭徹尾、内容のない話を独特の語り口で読ませるのだ。

 偏屈を故意に前面に押しだして笑いをさそう点で、『阿房列車』は内田百の師、夏目漱石の『吾輩は猫である』の末裔である。
 もっとも、『猫』は、奇矯な高等遊民たち複数が屁のような気炎をあげ、無用の知識を際限なく放電するが、かたや『阿房』は、畸人は独り百先生のみ、教養はチラとかいま見せるていどだ。そのつつましさは俳諧的であり・・・・じじつ、百鬼園内田栄造は俳人でもあった。百は、郷里岡山県の百間川にちなむ俳号である。

 それにしても、著者の偏屈は筋金いりだ。
 偏屈の人は、理屈の人である。
 「これから途中泊まりを重ねて鹿児島まで行き、八日か九日しなければ東京へ帰つて来ない。この景色とも一寸お別れだと考へて見ようとしたが、すぐに、さう云ふ感慨は成立しない事に気がついた。なぜと云ふに私は滅多にこんな所へ出て来た事がない。銀座のネオンサインを見るのは、一年に一二度あるかないかと云ふ始末である。暫しの別れも何もあつたものではないだらう」
 理屈の人は、一献、たちまち酔狂に至る。

  「そら、こんこん云つてゐる」
   酔つた機みで口から出まかせを云つたら、途端にどこかで、こんこんと云つた。
  「おや、何の音だらう」
  「音ぢやありませんよ。狐が鳴いたのです」
   山系が意地の悪い、狐の様な顔をした。

 ヒマラヤ山系こと平山三郎は、当時国鉄本社職員で、百先生の気まぐれに毎回辛抱強くつきあった有徳の士。寡黙で動かざること山のごとく、「山系は行きたいのか、いやなのか、例に依つてその意向はわからない」茫洋たる人物だ。だが、どうしてどうして、平山三郎の回想録『実歴録阿房列車先生』ほかは、山系君と呼ばれる有能なサンチョ・パンサが付き添ってこそ『阿房列車』が無事に発着したことを示している。

□内田百『阿房列車』(旺文社文庫、1979、重版1984。『内田百集成1』、ちくま文庫、2002。『第一阿房列車』、新潮文庫、2003)
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書評:『ソロモンの指環 -動物行動学入門-』 

2010年02月23日 | 心理
 『彼、けものと鳥ども、魚と語りき』(本書の原題)は、全12章にわたって、ズキンオマキザルからクジャクまで、各種の動物の行動を、ほのかなユーモアをもって語る。
 名高い「刷り込み」、ローレンツが発見した動物の初期学習に一章があてられている。
 「刷り込み」とは、生まれたばかりで目にしたものを実の親と思いこむ行動のことである。本書の場合、ハイイロガンの子マルティナの「刷り込み」がローレンツに対して生じた。
 マルティナのローレンツへの、人なつっこいとしかいいようのないローレンツへの愛着ぶりは、ローレンツ自ら言うように、感動的である。そして、ローレンツも、「親」の任務をはたすべく涙ぐましい努力を重ねるのだ。マルティナとちがって飛べはしないのに。

 動物の行動の解釈において、擬人化は避けなければならない。いかに、人間の行動によく似ていようとも。むしろ、人間の行動には動物的なものが残っているのである。「いわゆるあまりに人間的なものは、ほとんどつねに、前人間的なものであり、したがってわれわれにも高等動物にも共通に存在するものだ」
 たとえば、コクマルガラスはメンバーの間で社会的順位がひとたび確立すると、「おそろしく保守的に維持されていく」。
 例外は婚約(通常1年間は続く)、婚姻(出産は2年目)によるもので、順位の低いメスが高位のオスと婚約/婚姻するとオスと同じ順位に昇進する。
 通常、高位のコクマルガラスは自分に接近した順位(ことに次順位)の同胞に厳しく、順位がぐんと低位の同胞にはきわめて「高貴」ないし「無神経」な寛容を示す。
 いや、むしろ保護的に接する。しかるに、婚約者/妻は、こうした寛容を欠き、以前の上位者に対して威圧的に、さらには荒っぽく行動するのである。
 人間にもこうした俗物的行動が見られる。人間に残る動物的側面である。

 動物の飼育を志す人のために、アクアリウムの育て方やペットの選び方にも紙数が割かれていて実用的だが、本書のねらいは、動物をあるがままに、その目をみはるばかりの行動の科学的観察へいざなう点にある。

 ローレンツは、本書のまえがきで数多くの動物文学に対して怒りをぶつけている。悪質な虚偽、「動物のことを語ると称しながら動物のことをなにひとつ知らぬ著者たち」に。アーネスト・シートンも槍玉にあがっている。
 ローレンツによれば、フィクションの様式化は実際に動物を知っている人だけに許されるのだ。「彼が正確に書くことができないので、それをごまかす手段として様式化を使うなら、彼に三度の禍あれといいたい」

 贅言ながら、オーストリアはウィーン生まれのローレンツは、マックス・プランク研究所のアルテンベルク行動研究所長を長らくつとめた。1973年度ノーベル医学・生理学賞を、同じ動物行動学者のカール・フォン・フリッシュ、ニコラス・ティンバーゲンとともに受賞している。
 訳者の日高敏隆は、日本動物行動学会を設立した碩学である。2009年11月14日没。享年79。

□コンラート・ローレンツ(日高敏隆訳)『ソロモンの指環 動物行動学入門』(早川書房、1973/後にハヤカワ文庫、1998)

 
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書評:『心理学で何がわかるか』

2010年02月22日 | 心理
 心理学で何がわかるか。
 たとえば、集団の圧力に屈すると、行動にどのような歪みが生じるかがわかる。
 1951年、米国のアッシュは、集団における同調性の実験をおこなった(本書pp.211-213)。

 7~9人の被験者グループに、2枚のカードを示す。カードAには一本の線が描かれ、カードBには長さの異なる3本の線1、2、3が描かれている。そして、被験者にBの3本のうち、Aと同じ長さの線は1から3のうちどれですか、といった質問をする。
 あるグループにおいて、1回目の試行では全員が同じ回答だった。2回目も全員同じ回答だった。3回目、波乱がおきた。6人の回答に、一人が異議をとなえたのである。彼は不信感に満ち、驚愕していた。続く試行も3回目と同じく一人を除いて7人が全員同じ回答をしたが、その一人はだんだん狼狽え、あまり異議をとなえなくなり、最後には当惑の笑みを浮かべて他の者と同じ回答をおこなった。
 他のグループにおいても、同様な結果がみられた。
 じつは、当惑した人だけが本当の被験者で、他の者はサクラ(実験協力者)なのであった。
 要するに、被験者は、サクラの集団的圧力に屈し、同調してしまったのである。

 グループの中にサクラがいないとき、誤答は1%未満だが、サクラが7名いると、誤答は36.8%にのぼった。
 ちなみに、サクラが1名だと同調性はおこならないが、サクラが2名だと誤答は13.6%、サクラが3名だと31.8%にものぼった。
 ただし、サクラが4名以上になっても誤答は増加しなかった。つまり、集団の圧力がもっとも高まるには、サクラが3名いれば十分なのである。

 パートナーの影響はどうか。
 サクラをパートナーに、そのパートナーは第6回目の試行までは正しい回答を行うようにしたところ、被験者は、多数のサクラが誤答した場合にも、27人中18人の被験者は、多数に抗して、パートナーとともに正しく回答した。しかし、7回目以降、サクラのパートナーが裏切って、他のサクラと同じく誤答をすると、被験者の誤答も急速に増えた。

 ・・・・冒頭の設問、心理学で何がわかるか、にたち戻ると、アッシュの実験からは、大衆心理の基礎構造がわかる。
 ここから、誤った意見をもつ多数の中で、正しい少数意見を貫くのがいかに難しいか、ということもわかる。
 わかったことから、何か事をおこなうにはまず一人の同志を見つけるにしくはない、といった議論を展開することができる。
 なお、集団の圧力は、ふつうの人をして、個人ではおこなわないような非人間的行動に駆りたてることもある。それを検証したのが、いわゆるアイヒマン実験である。この実験のさわりは、本書をご覧いただきたい。詳しくは、本書のあげる参考文献を参照していただきたい。

 本書全体の特徴を整理して、しめくくろう。
 第一、全体として辛口の語りぶりで、新書だからといって気がぬけない。もっとも、どのページにも軽いユーモアが感じられるから、読みやすい。
 第二、タイトルは入門書だが、事例が豊富であり、参考文献は最新の文献をふくめて紹介しているから、初級者のみならず中級者も読むに値する。
 第三、事例は検証可能な実験が中心であり、かつ、検証可能な実験に即して議論をすすめている(こうした議論を教育や臨床の現場でどう活かすかは別の議論になる)。
 第四、実験の推計学的厳密さを重視し、推計学的厳密さに耐えない実験についてはその結論の受け入れを保留している。

□村上宣寛『心理学で何がわかるか』(ちくま新書、2009)
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書評:『あの原子炉を叩け!』

2010年02月21日 | ノンフィクション
 1981年6月7日、イスラエル空軍はバグダッド近郊に建設中のオシラック原子炉を空爆し、完璧に破壊した。イラクの原爆生産を阻むためである。表だった外交的努力、裏面の謀略活動を重ねたあげくの、最後の手段であった。
 イラクと交戦状態が続いていた。サダム・フセインの目的はイスラエルの破滅そのものにはなくて、イスラエルの破滅を手段としてアラブ世界の盟主となる点にあった。イ・イ戦争やクウェート侵入も、こうした目的から出てきた戦略の一つである。
 フセインの野望からすると単なる一手段にすぎなくとも、当のイスラエルにとっては、死活の問題であった。この小国は、原爆一発で滅び去る。フセインの冷酷さは、つとに周知の事実で、国内の最高権力者にのしあがるまで粛正につぐ粛正をおこなった。抵抗するクルド族には、生物兵器すら使用している。
 かくて、原子炉破壊ということになったのだが、兵の派遣は論外であった。空爆しかない。しかし、イスラエルとイラクの間にはシリア、ヨルダン、サウジアラビアがたちふさがる。航続距離が長すぎる。折りあしくイランの空爆が失敗し、対空兵器が強化された。ただでさえ、イラクは中東最大規模の戦闘機を保有しているのだ。
 最終的には、機外に油槽を増設したF-16が8機(爆撃)、F-15が6機(護衛)の構成で作戦が実施された。損失はゼロであった。
 クラウゼヴィッツが指摘するように、戦争は政治の延長である。この作戦はごく限定された局地戦であるがゆえに、かえってこの真理が明確に浮き上がる。
 本書は、一見エンターテインメントふうな訳題であるが、軍事的、技術的な解説も怠りないれっきとしたルポタージュである。事の性質上、イスラエル側に立って記述されているが、史料的価値は十分にある、と思う。

 ちなみに、A・J・クィネル『スナップ・ショット』の背景となっているのは、この作戦である。

□ダン・マッキンノン(平賀秀明訳)『あの原子炉を叩け!』(新潮文庫、1983)
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書評:『スナップ・ショット』

2010年02月21日 | ミステリー・SF
 1981年6月7日、バグダッド南西に位置するクワイタをイスラエル空軍の14機が急襲した。フランスの援助を受けて建設されたイラクの原子炉は、完璧に破壊された。
 たちまち、各国から非難の嵐がごうごうと沸きあがった。
 しかし、米国はほどなく矛をおさめる。サダム・フセインの野望、原爆製造の証左をイスラエルから突きつけられたからである。

 この歴史的事実の隙間に、A・J・クィネルは想像力を注入する。
 モサド機関員の活動である。ただの機関員ではない。表の世界でも著名な人物、むしろ本来は戦場カメラマンの第一人者であった。
 彼、デイヴィッド・マンガーは、ベトナムで遭遇した事件により心に傷をおい、カメラを捨てる。9年間の隠棲生活の後、おさない頃自分を捨てたと信じていた母の行動の意味を知り、ユダヤ人の血に目覚め、ユダヤ国家の危機回避のために挺身するべく決意する。
 これは、スパイ・マスターたるウォールター・ブラムじきじきのはたらきかけによるものであった。
 マンガーは、ウォールターを通じて出会ったルースのおかげで、ベトナムで受けた心的外傷(トラウマ)を克服する。二人は将来を約束する。
 かれは、カメラマンという公の顔を利用してイラクへ入国した。モサドが求める情報を首尾よく手に入れるが、秘密警察ムクハバラートは有能であった。拷問のはては、死しか残されていない。
 イスラエル国防軍は、原子炉爆撃を決定した。
 同時に、もう一件、世間には知られていない作戦を決行する。マンガー救出作戦である。

 A・J・クィネルは、フィクションに事実をたくみに取り入れる点で定評がある。
 本書も例外ではない。ベトナム戦争、中東紛争、スパイ組織が活写され、しかも単なる素材にとどまっていない。筋の展開上必要十分なだけ取りこまれている。
 ただし、事実を基盤としていても、本書はあくまでフィクションである。
 たとえば、本書ではモサド長官が原子炉爆撃の音頭をとっている。歴史的事実は逆で、イツアーク・ホフティ(イツハク・ホフィ)は原子炉爆撃反対派の急先鋒であり、爆撃推進派の副長官ナホム・アドモニと鋭く対立した。作戦が成功した結果、長官の座はアドモニに移った。
 著者がこうした事実を知らなかったはずはない。ただでさえ複雑なストーリーを錯綜させないために、あえて虚構をえらんだのだろう。

 背景が単純化された分、人間的側面に紙数が割かれ、小説として成功している。
 ストイックなマンガーの謎めいた行動、中盤に一気に明らかにされる凄惨な体験、石と化した9年間の後に訪れた恩寵のごとき回生。聡明さと豊かな情感をもち、ひとたび愛した男のためには生命をうしなう危険すらおかすルース。美食と煙草に目がなく、やたらとシェークスピアを引用したがるスパイ・マスター、ウォルター。そして、人々が織りなす人間模様、交情。
 本書は第一級の冒険小説、スパイ小説である。しかし、それだけではない。激変する歴史のなかを生き抜く個人という点でも、社会的条件に翻弄される恋愛という点でも、正統的な小説である。原著刊行から四半世紀へても、古さを感じさせないゆえんである。

□A・J・クィネル(大熊栄訳)『スナップ・ショット』(新潮文庫、1984)
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書評:『シャンドライの恋』

2010年02月20日 | 小説・戯曲
 祖国を離れて医学を学ぶマリエッタは、地下室に住み、屋敷の掃除、家主キンスキー氏の衣類の洗濯をして家賃の代わりとしていた。
 ある日、独身のピアニスト、家主のキンスキーはマリエッタに愛の告白をする。マリエッタは拒んだ。そして告げる、政治犯として獄中にいる夫を救い出してほしい、と。
 彼女が有夫だと初めて知って、キンスキーは愕然とする。

 やがて、家中から高価な芸術品が次々に消えていった。
 屋敷の内部が丸裸になった頃、マリエッタのもとへ夫から手紙が届いた。釈放されてロンドンへ来る、という。
 マリエッタは朗報をキンスキー氏へ伝えたが、彼はちっとも驚かなかった。
 4年ぶりの再会が近づくにつれ、マリエッタの動揺ははげしくなった。
 夫と再会する日の前夜、マリエッタはキンスキー氏の寝床へ忍びこんだ。
 「夜が明けた直後、二人は玄関の前でキキーッとタクシーがブレーキをかけて止まる音を耳にした。二人がほんのつかの間しっかり抱き合った直後、マリエッタの部屋のベルが鳴った」・・・・

   *

 短編集『シャンドライの恋』の表題作は、概要以上のようなストーリーである。この短編集は、ほかに10編の短編をおさめ、『三夜物語』も佳作だ。青春期のいささか身勝手な恋と、歳月をへてから再会する元恋人たちが、ソフィストケートされた筆遣いで描かれる。

 ところで、表題作の原題は『マリエッタ』である。ベルナルド・ベルトリッチ監督による映画化(1998)では『シャンドライの恋』となっていて、そのタイトルに合わせて邦訳の題名も改変された。
 改変は題名だけではない。小説の舞台はロンドンで、女主人公マリエッタの母国は南米だ。これに対して、映画の舞台はローマであり、女主人公の名はシャンドライであり、その母国はアフリカという設定である。また、映画ではシャンドライ(=マリエッタ)の夫は政治犯だが、小説ではこの点は特に明記されていない。政治に敏感なベルトリッチ監督らしいアクセントのつけ方だ。

 小説があり、これに基づく映画がある場合、ジャンルがちがうので優劣の比較はできない。別個の作品として鑑賞するべきだ。
 そう確認した上で感銘の度合いをみると、映画作品のおおくは原作ほど強い感銘を与えないような気がする(たとえば1956年の合衆国版および1965-67年のソ連版 『戦争と平和』)。
 しかし、『シャンドライの恋』の場合、映画のほうが感銘の度が強いと思う。これは、映像の効果を巧みに引きだしている監督の手柄にちがいない。たとえば、手持ちカメラによる撮影だとぶれが生じるのだが、これが女主人公(タンディ・ニュートン)の動揺や陰影を言葉以上によく表現している。また、しだいに空っぽになっていく屋敷の映像によって、家主(デヴィッド・シューリス)の払った犠牲の大きさが目にみえてわかるし、それだけ彼女に思いを寄せる強さもわかる。
 『シャンドライの恋』は、大作『1900年』のなかの挿話のような小品だが、ベルトリッチ監督は大作につぎこむと同じエネルギーを小品に注いでいる。電圧の高い映画である。

 邦訳の題名を改変したのは、じゅうぶんに理由のあることだった。

□ジェイムズ・ラスダン(岡山徹訳)『シャンドライの恋』(角川文庫、2000)
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書評: 『もっとも危険なゲーム』

2010年02月20日 | ミステリー・SF
 本書は、冒険小説の雄ギャビン・ライアルの代表作とされる。ライアル作品の魅力は、訳者が解説で指摘しているが、完璧な知識と技術をもつ(という設定の)プロフェッショナルが登場することだ。
 だが、解説の焼きなおしでは芸がない。別の魅力をあげよう。すなわち、会話の妙である。気のきいたセリフであり、斜にかまえた観察である。

 「全然見たことのない男であった。見たことがないという点では天使ガブリエルもそうだが、男は天使というのには少々背が低いようである」

 主人公ビル・ケアリ、飛行士の独白だ。余裕しゃくしゃくな、というより斜にかまえた態度だ。男との出会いが、もっとも危険な「ゲーム」、つまり獲物とされるきっかけとなる。
 男すなわちフレデリック・ホーマーは狩猟家で、フィンランド辺境の森に独りこもって熊を狩るのだ。
 彼を追って山小屋を訪れた妹アリスに主人公はいう。

 「私は立ち上がった。『ちょっと飛行機の手入れをやってきます。じゃ、またあとで。見知らぬ熊などに話しかけないように』」

 だれが野生の熊に話しかけるか。熊を見たら逃げろ、と正面から告げてはおもしろくない。軽くひとひねりして注意したのである。こういうサービス精神は、会話の相手を喜ばせ、読者を喜ばせる。
 物語がはじまる前から主人公が請け負っていた地質調査は、望ましい結果が出ていない。会社に報告しなければならない。

 「電話が通じると会社の重役の一人が出た。彼は自分の名前をいわなかった。カーヤの重役というだけでいいのだ。なにしろ神様の子会社のような権力をもった会社である」

 これまた主人公の独白。権威、権力を揶揄する調子がある。彼は、かって何らかのかたちで権力とすったもんだをおこし、しかもしぶとく生き抜いたのではないかと前歴を想像させる。はたして、物語が進行するにつれて主人公の過去が明らかになっていく。英国情報部の誤った判断の犠牲になって本国を追われ、ヨーロッパの辺境へ流れてきたのだ。
 会話の主導権をとってばかりの主人公だが、権力と対峙するときには楽々とはいかない。
 権力も、気のきいたセリフを吐く。だが、そのユーモアは薄気味悪い。

 「『国の治安と私と、どういう関係があるのだ?』/彼が冷ややかな薄笑いを浮かべた。『そうでないと立証されるまでは、何でも治安上の必要にすることができるのです。そのあとは、たんに、申し訳ないが誤り、ということになる』彼の目がきびしさを加えた。『あなたはおわかりではないだろうが、私はいくつでも誤りを犯す用意がある』」

 アルネ・ニッカネンが主人公をこう脅す。ニッカネンは、単に職務に忠実なだけの、主人公にかくべつ悪意をもっていいるわけではない国家治安警官(と訳されているがよくわからない職名、米国のFBI捜査官に対応するものか)だが、やはり権力の一翼をになっているのである。

□ギャビン・ライアル(菊地光訳)『もっとも危険なゲーム』(ハヤカワ文庫、1976)
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書評:『人びとのかたち』 ~塩野七生の映画談義~

2010年02月19日 | エッセイ
 とりあげられた映画は、『真昼の決闘』から『エーゲ海の天使』まで。作品のストーリーを追うのは、物語作家の読者に対するサービス精神があるからだけではなくて、ストーリーを語ることそれ自体を楽しんでいるからだろう。ストーリーを語ることで、映画に没頭した時間を再び生きるのである。
 当然、話はスターや監督におよぶ。
 スターを語って、気品と野性的なまなざしをもつエヴァ・ガードナー賛歌があり、ありふれた美男から独特の存在感をもつ男へ変貌したゲーリー・クーパー礼賛がある。監督を語って、官能に執着したルキノ・ヴィスコンティ、あるいは想像力の魔術師フェデリコ・フェリーニからイタリア的なものを拾いだす。

 このあたりは、多くの映画好きもやっていることだ。
 しかし、書き手は塩野七生である。当然、話題は映画にとどまらず、人生と歴史のありとあらゆる側面に展開される。ヴィスコンティ『山猫』に見るマフィア跳梁の原因から、教育、戦争まで、日ごろの蘊蓄をかたむける。読者は、映画一編からかくも多様かつ深い読みができることに感嘆し、懸河の弁にひたすら身をゆだねるしかない。
 たとえば、リーダーシップ論(『プラトーン』のバーンズは冷酷すぎて部下がついていかないし、人間的なエリアスは隙があって安心して身を預けられない)。あるいは、古代ローマ人の哲学者論(ストア主義者は共同体や国家に身を捧げる道を選んだ人であり、エピキュロス派は個人生活の充実に重きをおいた人である)。
 ことに興味深いのは、女の人間学だ。『恋人たちの予感』にふれて、一度もベッドをともにしていない男はどこまで無理を言ってよいかわからないから不安な存在だ、と微妙な感覚にふれ、『シラノ・ド・ベルジュラック』を取りあげては、豊かな言葉は頭脳とハートを示すものであり恋の要件だ、と総括する。

 要するに、本書は映画をダシに展開される塩野七生の人間論である。
 暗々裡に自らを語ったと思われるくだりを引いておこう。
 「優れた創作者はけっして、簡単に一刀両断できるような人間を描かない。なぜなら人間は、互いに矛盾する両面を合わせもつのが普通で、そういうアンビバレンスを描ききってはじめて、人間が書けている、ということになるからである」

□塩野七生『人びとのかたち』(新潮文庫、1997)
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書評:『標的は11人 -モサド暗殺チームの記録-』

2010年02月18日 | ノンフィクション
 1972年9月5日、ミュンヘンのオリンピック村をPLO主流派「ファタハ」に属する「黒い九月」が襲った。イスラエルの選手、役員11名が銃または手榴弾によって殺害された。
 ゴルダ・メイア首相はモサドの一員、アフナーに密命をくだす。ミュンヘンの事件に責任のあるテロリスト、11名の抹殺である。

 5名の特命チームによるザ・ミッション、すなわち人間狩りが開始された。西ヨーロッパに潜行し、9名を斃した。
 だが、アフナーは任務に幻滅した。3年間に近い心労があった。それだけではない。依然としてテロリズムの嵐は吹き荒れている。自分たちの仕事がいかほどの抑止力となっただろうか、という疑惑が胸裏に湧いた。加えて、自分たちだけがマン・ハントの特命を受けたチームではない、という事実がわかった(リレハンマー事件)。
 チームもその存在が敵方に知られ、仲間が一人一人暗殺されていき、3名を喪った。潮時であった。

 作戦終了の通知を受けて引き上げると、意外なことにアフナーは英雄として迎えいれられた。工作管理官は「次の任務がある」と告げた。アフナーは、もうたくさんであった。ニューヨークで妻子とともに平穏に暮らしたかった。工作管理官は執拗であった。銀行に手をまわして、アフナーが貯金していた3年間の報酬を封鎖し、「命に従えば返す」と脅した。
 拒否し、無一文となったアフナーは、名を変え、妻子とともに合衆国に移住した。

 本書は、アフナーの告白をもとに、ジャーナリストの著者があらわした。告白が事実か否かを調査し、巻末の「取材ノート」で検証している。アメリカ探偵作家クラブ賞(MWA)ノンフィクション部門受賞。スピルバーグ監督映画『ミュンヘン』の原作。
 当時のモサド長官ツビ・ザミルは、「ゲリラ暗殺は報復ではなく、次のテロ発生を防ぐ目的だった」とコメントするが、暗殺工作を否定していない。
 イスラエルの対テロ政策の一端、そして一人のエージェントと彼が率いるチームの活動が主題だが、スパイ組織の人を人として扱わない(骨の髄まで利用しつくす)側面も遠慮なく描いて、読者をして肌寒く感じさせる。

□ジョージ・ジョナス(新庄哲夫訳)『標的は11人 -モサド暗殺チームの記録-』(新潮文庫、1986)
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書評:『どこ吹く風』

2010年02月18日 | 批評・思想
 「現代」1990年1月号から1996年12月号まで連載したコラムの集成。単行本化にあたって新たに書き下ろし原稿が加わっている。随所に挿入される「二伸のやうな文章」がそれにあたるらしい。

 たとえば、『剣豪の盛衰』。
 剣術つかいでは、江戸時代からずっと荒木又衛門が権威だった。又衛門には『伊賀越中双六』があるけれども、武蔵をあつかった歌舞伎なんて聞いたことがない。格がずんと上だったのである。ところが吉川英治が『宮本武蔵』を書いて、この相場を粉砕してしまった。以後、剣豪といえば武蔵ただ一人みたいな体制が続いた。しかるに、最近様子が変わってきた。山田風太郎『柳生十兵衛死す』がベスト・セラーになり、秋山駿は剣の名手は武蔵と十兵衛であると同格にした。又衛門は柳生流だから、又衛門の権威失墜によって衰えた柳生流の復活と見ることもできる。しかし、わたし(丸谷才一)は十兵衛個人の魅力を重視したい。就中、彼が片目であったことを重視したい。わが民間信仰には片目の男を尊敬する風があった(鎌倉権五郎景正、山本勘助、柳田国男『一目小僧』)。片目崇拝の習俗は世界的に存在する(宗教学者エリアーデの小説)。丹下左膳もこの系譜に属する。かく眺望すると、柳生十兵衛の急上昇には、前近代的宗教感情の巻き返しという底流があるような気がする・・・・。
 こう書いて「二伸のやうな文章」にいわく、「ゲゲゲの鬼太郎もこの系譜に属するはず」。
 境港市観光協会が聞けば、喜びそうな話だ。

 このあたりは閑談といってもよいが、本書は話題を文学に限定しない。丸谷才一としては珍しく、文学を離れて世相や政治をじかに批判する。
 著者は文学者だから、言葉あるいは文章から切りこむ。
 たとえば、『漢文の復習』では矛盾の故事を引いて、湾岸戦争を批判する。
 イラクの30センチ砲はイギリス製。毒ガスや生物兵器、科学兵器はドイツが供給したもの。戦闘機はフランス製、ミサイルはソ連及びアメリカ製、強固この上ない地下壕や地下秘密基地はイギリス、ベルギー、ユーゴスラビア、ドイツの国際企業が建設した。「つまり多国籍軍側は、自分たちが熱心に売りつけた矛や盾を使ふイラクと、せっせと闘っているわけである。もちろん自分たちが作った矛や盾を用ゐて」
 このロジックは、イラクやアフガニスタンにも適用されるだろう。

 あるいは、歴史のなかに今の世相を位置づけ、諷する。
 『殴るな』では、教育界やスポーツ界における「愛の鞭」の根を日本軍の体罰に求め、これは西洋の軍隊の真似だ、と指摘する。ことにイギリス海軍の私刑は有名で、バットで尻を打つのだ。
 『日本史再考』では、政治家が公約を踏みにじる風習の根を明治維新に求める。攘夷を迫って幕府を倒した薩長土肥は、政権を奪取すると、掌をかえしたように開国に踏みきったのだ。

 かくのごとく政治や世相の隠れた深層を簡潔にえぐりだして、見かけは穏やかだが、本書の一編一編は強力な破壊力を秘めている。

□丸谷才一『どこ吹く風』(講談社、1997)
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