川内村の魅力は、豊かな自然だけではない。面白い人たちが住んでいるのも、魅力の一つだ、と著者はいう。
例えば、貘原人村のマサイ・ボケ夫妻。
貘原人村は、国道399号から荒れ果てた狭い林道を4kmほど入ったところにある。電気は、いまでも来ていない。1970年代、ヒッピームーブメント全盛期に、あるヒッピー集団がこの地に住みついた。あまり辺鄙な土地だったので、地主も長らく気づかなかった。いろいろあって、当時の村長的存在、マサイさんが土地を買い取ることになった。マサイさんたちは本気で「原人」生活を目指していたらしいが、だんだん服を着たり、車も必要最小限なら使ってよいことになったり、小学校が廃校になると聞きつけると廃材をもらってきて自分たちの家の資材にする融通性を発揮して、<そんな風にゆる~い「原人生活」を営々と続けてきた。>
原人村には電気も電話もない。水道もない。トイレもない。ケータイは圏外。風呂もないから、冬季以外は、川で水浴びする。
原人村の村民は一人抜け二人抜けしてマサイ夫婦だけになったが、2000年、若い女性、愛ちゃんがやってきて住みついた。
愛ちゃんにはいろいろな伝説があって、著者の筆はノリにノルのだが、割愛。とにかく、修行して一人前の大工になり、一級建築士と結婚し、姓は大塚になり、たちまち一子をもうけ、二人目もでき、しかも旦那を説得して原人村で暮らし続けた。だんだん知名度があがり、郵便物は「福島県川内村大工の愛ちゃん」で届くほどになった。
原発事故後、愛ちゃんの実家、岡山に避難している。放射線量の問題だけではなく、学校や保育所が再開されないままでは、子どものいる家庭は川内村で生活できない。
ほかにも、川内村には面白い人がたくさん住んでいる。
まもるさんは、静岡の商家の子息。親は、末は代議士という期待をこめて単純な「守」という名をつけたが、本人は親の期待をあっさりと裏切り、早稲田大学在学中にインドを放浪し、ヒッピー化して原人村で暮らすようになった。その後、いったん原人村を出て木工の技術を身につけ、川内村に戻って木工家具作家の道を歩んだ。
小塚さんは、「独立行政法人都市再生機構(UR、旧・住宅・都市整備公団)」を早期退職し、川内村に骨太な木造家屋を建てて自然農を始めた。
そのままURにいれば金銭的には何不自由ない将来が約束されていたが、それを全部捨てて川内村に移住したのだ。同僚たちからは、「あいつはついに気が触れた」と宣告されたらしい。
ニシマキさんは、日本で唯一のトライアルバイク専門誌「自然山通信」の社長兼編集長で、数年前から川内村に住みついている。
<何にでも興味を持ちどこにでも出かけていく人で、今回の原発震災後も、「こんな経験は滅多にできるものではない」と、どこか嬉嬉として動き回っている。>
川内村ではないが、隣の田村市(旧・滝根町)の山麓には、日本で最初の宇宙飛行士、秋山豊寛さんが住んでいた。著者宅から車で15分だ。
彼は、TBSの退職金を全部注ぎこみ、立派な家を建てた。シイタケ栽培で年間100万円ほど売上げがあった。滝根は比較的線量が低いが、キノコは放射性物質を蓄積しやすいものの代表格だから、もはや今までどおりの生活はできない。本人も諦めているらしい。今は、群馬県鬼石町で、知人に借りた6アールの田圃で農業を続けている。
<こういった人たちと、普段はゆる~くつき合いながらのんびり暮らしていたが、村に残った人たちとは原発震災以降はおのずと連絡も密になり、いままでより直接会って情報交換することが多くなった。/しかし、村をいい方向に持って行くにはなにせ人材が足りない。>
□たくき よしみつ(鐸木能光)『裸のフクシマ ~原発30km圏内で暮らす~』(講談社、2011)
*
優れた報道を顕彰し、支援する市民団体「メディア・アンビシャス」(代表世話人=山口二郎・北大教授)は、メディア賞に朝日新聞で連載中の「プロメテウスの罠」を選んだ【注】。
その「プロメテウスの罠」に、風見正博(61)という人物が登場する。
風見は、東京都東村山市で生まれ育った。幼いころ、いじめに遭った。
科学少年だった。科学技術に夢を抱き、猛烈に勉強した。東大を受けようとしたが、大学紛争で入学試験はない。翌年再チャレンジしようとしたものの断念。 浪人生なので絶対に受かるところにしたい、下宿の窓から田んぼが見えるようなところがいい・・・・。熾烈な戦いから逃れ、癒やしを求めた。島根大物理学科を選んだ。夢は膨らんだが、挫折。しっかり勉強して科学技術やるつもりだったが、周りはのんびりしていて自分と合わない。1年で退学した。
科学技術が生きる実感を奪っているのではないか・・・・。
生の実感を求め、1970年代の半ばに福島県川内村へたどり着く。山に囲まれた4ヘクタール。先に入ったグループが出た後だった。
当時は川沿いを1時間歩かないと行けなかった。人間嫌いではなかったが、それがよかった。
お金も少しは要るから、鶏を飼った。自給自足しながら妻と一緒に子ども3人を育てた。充実感があった。自分で引いた水道の蛇口から水が出る、それだけでうれしかった。昨年の3月11日まで、そんな生活が続いていた。
自給自足は誰にも支配されないことだ、と信じていたが、放射能だけはどうにもならなかった。福島第一原発から25キロ。放射線値はそう高くはないものの、一帯が汚染された。自給自足が根源から覆されました。ある意味、生きるすべをすべて失った。
昨年11月、風見は福島県川内村の村議選に立候補した。自分が当選するというよりも、既成のことに我慢できない人が投票する場所がほしいと思って。もちろん反原発を主張して。次点、57票だった。
やっぱり議員やんなくてよかった。人を攻撃とかしたくないし。こういう暮らししてるのは、そういうことが嫌だからやってるんだし・・・・。
薪ストーブの上に餅を乗せ、焼けたらしょうゆにつけて食べる。
残るのが正しいのか、逃げるのが正しいのか。どこに逃げるのが正しいのか。食べ物はどうか。食べるのがいいか、食べないのがいいか。
獏原人村のほかの住民は避難し、風見は残った。風見は、マサイと呼ばれる。
【注】「朝日新聞「プロメテウスの罠」がメディア賞受賞」
以上、「原始村に住む:13 ~プロメテウスの罠~」(2011年2月20日付け朝日新聞)および「原始村に住む:15 ~プロメテウスの罠~」(2011年2月22日付け朝日新聞)に拠る。
【参考】「【震災】原発>『裸のフクシマ ~原発30km圏内で暮らす~』」
「【震災】原発>30km圏内で暮らす人々の覚悟 ~裸のフクシマ・その2~」
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例えば、貘原人村のマサイ・ボケ夫妻。
貘原人村は、国道399号から荒れ果てた狭い林道を4kmほど入ったところにある。電気は、いまでも来ていない。1970年代、ヒッピームーブメント全盛期に、あるヒッピー集団がこの地に住みついた。あまり辺鄙な土地だったので、地主も長らく気づかなかった。いろいろあって、当時の村長的存在、マサイさんが土地を買い取ることになった。マサイさんたちは本気で「原人」生活を目指していたらしいが、だんだん服を着たり、車も必要最小限なら使ってよいことになったり、小学校が廃校になると聞きつけると廃材をもらってきて自分たちの家の資材にする融通性を発揮して、<そんな風にゆる~い「原人生活」を営々と続けてきた。>
原人村には電気も電話もない。水道もない。トイレもない。ケータイは圏外。風呂もないから、冬季以外は、川で水浴びする。
原人村の村民は一人抜け二人抜けしてマサイ夫婦だけになったが、2000年、若い女性、愛ちゃんがやってきて住みついた。
愛ちゃんにはいろいろな伝説があって、著者の筆はノリにノルのだが、割愛。とにかく、修行して一人前の大工になり、一級建築士と結婚し、姓は大塚になり、たちまち一子をもうけ、二人目もでき、しかも旦那を説得して原人村で暮らし続けた。だんだん知名度があがり、郵便物は「福島県川内村大工の愛ちゃん」で届くほどになった。
原発事故後、愛ちゃんの実家、岡山に避難している。放射線量の問題だけではなく、学校や保育所が再開されないままでは、子どものいる家庭は川内村で生活できない。
ほかにも、川内村には面白い人がたくさん住んでいる。
まもるさんは、静岡の商家の子息。親は、末は代議士という期待をこめて単純な「守」という名をつけたが、本人は親の期待をあっさりと裏切り、早稲田大学在学中にインドを放浪し、ヒッピー化して原人村で暮らすようになった。その後、いったん原人村を出て木工の技術を身につけ、川内村に戻って木工家具作家の道を歩んだ。
小塚さんは、「独立行政法人都市再生機構(UR、旧・住宅・都市整備公団)」を早期退職し、川内村に骨太な木造家屋を建てて自然農を始めた。
そのままURにいれば金銭的には何不自由ない将来が約束されていたが、それを全部捨てて川内村に移住したのだ。同僚たちからは、「あいつはついに気が触れた」と宣告されたらしい。
ニシマキさんは、日本で唯一のトライアルバイク専門誌「自然山通信」の社長兼編集長で、数年前から川内村に住みついている。
<何にでも興味を持ちどこにでも出かけていく人で、今回の原発震災後も、「こんな経験は滅多にできるものではない」と、どこか嬉嬉として動き回っている。>
川内村ではないが、隣の田村市(旧・滝根町)の山麓には、日本で最初の宇宙飛行士、秋山豊寛さんが住んでいた。著者宅から車で15分だ。
彼は、TBSの退職金を全部注ぎこみ、立派な家を建てた。シイタケ栽培で年間100万円ほど売上げがあった。滝根は比較的線量が低いが、キノコは放射性物質を蓄積しやすいものの代表格だから、もはや今までどおりの生活はできない。本人も諦めているらしい。今は、群馬県鬼石町で、知人に借りた6アールの田圃で農業を続けている。
<こういった人たちと、普段はゆる~くつき合いながらのんびり暮らしていたが、村に残った人たちとは原発震災以降はおのずと連絡も密になり、いままでより直接会って情報交換することが多くなった。/しかし、村をいい方向に持って行くにはなにせ人材が足りない。>
□たくき よしみつ(鐸木能光)『裸のフクシマ ~原発30km圏内で暮らす~』(講談社、2011)
*
優れた報道を顕彰し、支援する市民団体「メディア・アンビシャス」(代表世話人=山口二郎・北大教授)は、メディア賞に朝日新聞で連載中の「プロメテウスの罠」を選んだ【注】。
その「プロメテウスの罠」に、風見正博(61)という人物が登場する。
風見は、東京都東村山市で生まれ育った。幼いころ、いじめに遭った。
科学少年だった。科学技術に夢を抱き、猛烈に勉強した。東大を受けようとしたが、大学紛争で入学試験はない。翌年再チャレンジしようとしたものの断念。 浪人生なので絶対に受かるところにしたい、下宿の窓から田んぼが見えるようなところがいい・・・・。熾烈な戦いから逃れ、癒やしを求めた。島根大物理学科を選んだ。夢は膨らんだが、挫折。しっかり勉強して科学技術やるつもりだったが、周りはのんびりしていて自分と合わない。1年で退学した。
科学技術が生きる実感を奪っているのではないか・・・・。
生の実感を求め、1970年代の半ばに福島県川内村へたどり着く。山に囲まれた4ヘクタール。先に入ったグループが出た後だった。
当時は川沿いを1時間歩かないと行けなかった。人間嫌いではなかったが、それがよかった。
お金も少しは要るから、鶏を飼った。自給自足しながら妻と一緒に子ども3人を育てた。充実感があった。自分で引いた水道の蛇口から水が出る、それだけでうれしかった。昨年の3月11日まで、そんな生活が続いていた。
自給自足は誰にも支配されないことだ、と信じていたが、放射能だけはどうにもならなかった。福島第一原発から25キロ。放射線値はそう高くはないものの、一帯が汚染された。自給自足が根源から覆されました。ある意味、生きるすべをすべて失った。
昨年11月、風見は福島県川内村の村議選に立候補した。自分が当選するというよりも、既成のことに我慢できない人が投票する場所がほしいと思って。もちろん反原発を主張して。次点、57票だった。
やっぱり議員やんなくてよかった。人を攻撃とかしたくないし。こういう暮らししてるのは、そういうことが嫌だからやってるんだし・・・・。
薪ストーブの上に餅を乗せ、焼けたらしょうゆにつけて食べる。
残るのが正しいのか、逃げるのが正しいのか。どこに逃げるのが正しいのか。食べ物はどうか。食べるのがいいか、食べないのがいいか。
獏原人村のほかの住民は避難し、風見は残った。風見は、マサイと呼ばれる。
【注】「朝日新聞「プロメテウスの罠」がメディア賞受賞」
以上、「原始村に住む:13 ~プロメテウスの罠~」(2011年2月20日付け朝日新聞)および「原始村に住む:15 ~プロメテウスの罠~」(2011年2月22日付け朝日新聞)に拠る。
【参考】「【震災】原発>『裸のフクシマ ~原発30km圏内で暮らす~』」
「【震災】原発>30km圏内で暮らす人々の覚悟 ~裸のフクシマ・その2~」
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