マルティン・ハイデガーは、人間を「死へ向かう存在」だと定義した。
庶民の立場から人間を定義するならば、「生涯に一度は葬式をしてもらう存在」となろう。
葬式は生きている者が行う。よって、ビジネスの対象になる。
葬儀専門の司会者というものがある。あまり聞かない職種だが、少なくとも関西には何人かいるそうだ。著者もそうだった。
もとは結婚式の司会者だった。結婚式の司会がやれるなら、葬式の司会だってやれるだろう、と声がかかり、両方兼任するようになった。
しかし、「花嫁はすべて才媛、花婿はすべて秀才」といった美辞麗句を白々しく口にするのにだんだんと耐えがたくなって、結婚式のほうは廃業してしまった。
爾来、葬式ひと筋に20年間。計4千件、年平均200件の司会をつとめた、という。
これだけ数をこなすと、逸話にこと欠かない。
たとえば、一家の大黒柱、働き盛りの40年輩の男の葬儀。
「出棺のときに流してほしい」と、遺族から故人愛聴のテープをあずかった。
一同涙にくれる中、近親者の手により棺が玄関から出てきた。
この時とばかり、著者はデッキのプレイ・ボタンを押した。
すると、「各馬、ゲートインから一斉にスタート・・・・本命穴馬かきわけて・・・・」
ん?
最初けげんな顔で聞いていた親族、参列者の間にしのび笑いが広がり、やがて爆笑の渦となった。
当時はやりの歌「走れコータロー」である。故人は競馬ファンなのであった。
厳粛であるべき葬儀から涙は一掃されたが、怒っている人は誰もいなかった。
あるいは、また、さる村一番の長老、享年98歳の葬儀。
カラオケ好きな故人の遺志をくみ、読経の時間を短縮してもらって、賞品付きのカラオケ大会となった。
「読経を短くしてくれ」と頼まれて承知する僧侶も僧侶だが、葬式とはかくあるべきものだ、と著者はいう。
なんとなれば、葬儀は生き残った者が故人に対する思いを尽くす場だからだ。主役は遺族であり、余人は脇役である。僧侶といえども同断。
「だから、私は故人の思いに対して、臨機応変に対応するように心がけている」と著者。
臨機応変は、次のような機会にも発揮される。
夫を亡くした30代なかばの奥さん、火葬場で釜(火葬炉)の中にはいりこみ、出てこない。
「途中で、お父ちゃんが生き返ったら、熱いのにかわいそう。私も一緒に焼いて」と泣き崩れたまま、どうしても説得に応じない。
必死になった著者は奥の手を使った。
「ご主人は3日間ドライアイスに包まれています。ドライアイスは炭酸ガスの固まりです。元気な我々でも10分とたたないうちに窒息します。病気で弱っていたご主人がどうして生き返りますか」
未亡人さん、これでコロリと納得。
「相手が異常な時には正常な理論は通じない。異常な相手を納得させるには異常な理屈を当てはめるしかない」と著者は総括する。
「異常な状況に対する正常な反応は、異常な行動をとることである」と、精神科医ヴィクトル・フランクルは、アウシュヴィッツ収容所の体験からこう述べた(『夜と霧』)。深刻さの度合いはちがうが、帰するところは同じ哲学である。
葬儀は、死者よりも生者のためにある儀式だ。本書を読むと、あらためてそう感じる。
職業柄、聞いてわかりやすい、柔らかな語り口。それでいて、芯のとおった職業意識で貫ぬかれている。葬儀でわきまえておくべき常識も自然に頭にはいるから、一読しておくと、いざという時にあわてないですむ。
□小杉哲兵『お葬式 ハプニング編』(朝日文庫、1994)
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庶民の立場から人間を定義するならば、「生涯に一度は葬式をしてもらう存在」となろう。
葬式は生きている者が行う。よって、ビジネスの対象になる。
葬儀専門の司会者というものがある。あまり聞かない職種だが、少なくとも関西には何人かいるそうだ。著者もそうだった。
もとは結婚式の司会者だった。結婚式の司会がやれるなら、葬式の司会だってやれるだろう、と声がかかり、両方兼任するようになった。
しかし、「花嫁はすべて才媛、花婿はすべて秀才」といった美辞麗句を白々しく口にするのにだんだんと耐えがたくなって、結婚式のほうは廃業してしまった。
爾来、葬式ひと筋に20年間。計4千件、年平均200件の司会をつとめた、という。
これだけ数をこなすと、逸話にこと欠かない。
たとえば、一家の大黒柱、働き盛りの40年輩の男の葬儀。
「出棺のときに流してほしい」と、遺族から故人愛聴のテープをあずかった。
一同涙にくれる中、近親者の手により棺が玄関から出てきた。
この時とばかり、著者はデッキのプレイ・ボタンを押した。
すると、「各馬、ゲートインから一斉にスタート・・・・本命穴馬かきわけて・・・・」
ん?
最初けげんな顔で聞いていた親族、参列者の間にしのび笑いが広がり、やがて爆笑の渦となった。
当時はやりの歌「走れコータロー」である。故人は競馬ファンなのであった。
厳粛であるべき葬儀から涙は一掃されたが、怒っている人は誰もいなかった。
あるいは、また、さる村一番の長老、享年98歳の葬儀。
カラオケ好きな故人の遺志をくみ、読経の時間を短縮してもらって、賞品付きのカラオケ大会となった。
「読経を短くしてくれ」と頼まれて承知する僧侶も僧侶だが、葬式とはかくあるべきものだ、と著者はいう。
なんとなれば、葬儀は生き残った者が故人に対する思いを尽くす場だからだ。主役は遺族であり、余人は脇役である。僧侶といえども同断。
「だから、私は故人の思いに対して、臨機応変に対応するように心がけている」と著者。
臨機応変は、次のような機会にも発揮される。
夫を亡くした30代なかばの奥さん、火葬場で釜(火葬炉)の中にはいりこみ、出てこない。
「途中で、お父ちゃんが生き返ったら、熱いのにかわいそう。私も一緒に焼いて」と泣き崩れたまま、どうしても説得に応じない。
必死になった著者は奥の手を使った。
「ご主人は3日間ドライアイスに包まれています。ドライアイスは炭酸ガスの固まりです。元気な我々でも10分とたたないうちに窒息します。病気で弱っていたご主人がどうして生き返りますか」
未亡人さん、これでコロリと納得。
「相手が異常な時には正常な理論は通じない。異常な相手を納得させるには異常な理屈を当てはめるしかない」と著者は総括する。
「異常な状況に対する正常な反応は、異常な行動をとることである」と、精神科医ヴィクトル・フランクルは、アウシュヴィッツ収容所の体験からこう述べた(『夜と霧』)。深刻さの度合いはちがうが、帰するところは同じ哲学である。
葬儀は、死者よりも生者のためにある儀式だ。本書を読むと、あらためてそう感じる。
職業柄、聞いてわかりやすい、柔らかな語り口。それでいて、芯のとおった職業意識で貫ぬかれている。葬儀でわきまえておくべき常識も自然に頭にはいるから、一読しておくと、いざという時にあわてないですむ。
□小杉哲兵『お葬式 ハプニング編』(朝日文庫、1994)
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