語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【加藤周一】不確かな事実をもとに正しく判断する法 ~新井白石の実証的方法~

2016年01月03日 | ●加藤周一
 (1)加藤周一は、「新井白石の世界」において、白石の学問の「一種の実証的方法」を指摘する。
 事実への限りない接近に努めて、なお事実確認に限界がある場合(資料不足などのため)、白石は独特の議論を展開した。
 つまり、事実判断とは独立に、相手の議論の構造を問題とし、それを批判の根拠としたのである。言い換えると、
  (a)相手の命題の事実との関係ではなく、
  (b)相手の命題相互の関係を検討することに、
白石自身の議論を限定した。
 こうした議論は、歴史に関しては脱神秘化となる。

 (2)加藤周一は、議論の例を3つあげるが、ここでは第一の例を引く。
 源義家が武衡・家衡を征伐しようとして朝廷に「官符」を申請したが、朝廷は「義家の戦さは私闘である」(命題甲)と見て許可しなかった。
  『読史余論』で白石は次のように批判する。
   ①命題甲ならば、朝廷は「義家を罰する」(命題乙)のでなければならない。
   ②逆に、朝敵征伐ならば功を賞しなければならない。
   ③しかるに、政府のとった処置は刑罰も功賞もを与えなかった(甲及び非乙)。
   ④したがって、私闘であるか否かの事実判断とは別に、政府の処置は誤りである。

 (3)白石は、事実追求を徹底し、さればかえって事実を知ることの困難を鋭く意識し、事実把握が困難な場合、議論から事実判断を除外する必要を強く意識した。朱子学で養われた抽象的な概念の秩序に対する感受性が、白石を「命題論理学的な議論」へ向かわせた。
 ・・・・このように加藤周一は評するのだが、23年間の出仕、ことに幕府の行政官として将軍の政策決定に関与した7年間は、「命題論理学的な議論」の必要性と有効性を白石に自覚させたのだろう、と思う。

 (4)事は江戸時代の政治家や行政の実務家にかぎらない。
 今日でも、事実を徹底しては把握できないにもかかわらず、社会的地位からして何らかの決定が求められることがある。いや、社会的地位のいかんにかかわらず、人はこうした立場にたつことがある。
 こうしたとき、新井白石の「一種の実証的方法」は意志決定の一助となるだろう、と思う。

□加藤周一『新井白石の世界』(『加藤周一著作集第3巻 日本文学史の定点』、平凡社、1978)
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書評:『言葉と人間』

2013年06月05日 | ●加藤周一
 東西の本をかわるがわる約80編とりあげ、その思想をもって(コラム発表当時の)今日的問題の要点を明らかにする。

 その特徴の第一は、自在な文体である。ときには文体模写をもって、その文体の持ち主の思想を加藤が(したがって私たちが)直面する現実へ適用してみせる。
 たとえば、『三酔人経綸問答』をとりあげ、鼎談する各人の論法を換骨奪胎して、原水爆反対運動の分裂を批評する。
 すなわち、「いかなる国の核実験にも反対する」悲願君、「核実験も状況次第で一律には扱えない」とする政策君、その両者に部分的には理解を寄せつつもいずれにも与しない南海先生、という三者三様の思想または態度の構図である。
 あるいは、『論理哲学論考』の特異な文体を借りて、『仮名手本忠臣蔵』の小社会学を論じる。

 特徴の第二は、とりあげる話題の幅の広さである。芸術は美術から能まで、文学は古今東西いたらざるはなく、かたや哲学、かたや政治に及ぶ。
 たとえば、「世論操作あるいは『乃木希典日記』の事」。
 戦さの時代には戦さに明け暮れた武士も、戦さのない時代には別の生き方をした。徳川時代の武士は、支配層として行政に従事した。武士道は行政マンの心構えであり、儀礼と精神主義がその内容である。乃木将軍は武士道の権化であった。それにも拘わらず、ではなくて、それゆえに戦場の指揮官としては常に失敗せざるをえなかった。
 旅順は、乃木将軍が指揮する間はいつまでたっても落ちなかった。犠牲があまりに大きかったから、乃木は更迭されて児玉源太郎が代わった。要塞が落ちたのはそれからだ。陸軍はしかし、その事実を隠して乃木を表にたてて開城の儀式を行い、御用歌人佐々木信綱をして「水師営の会見」の唱歌をつくらせ、国定教科書に載せる、と操作を行った。
 乃木夫妻が殉死したとき、現場には10か条からなる遺書があり、その中には伯爵乃木家の廃絶と邸宅の東京市への寄付の2項目も記されていた。政府は、この2項目を削って公表した。遺書の内容を知った新聞は事実を発表したが、政府は責任をとるどころか、3年後に乃木の旧藩主の弟を据えて伯爵家を再興した。「権力による世論操作のこれほど見事な例は少ない」
 軍人として無能だった「乃木を、権力はその中心から遠ざけると同時に、陸軍の象徴としてカミにすることに成功した(軍神乃木)。カミの個人としての意思は無視される。たとえ生涯に一度、遺書に述べた意思でさえも。なぜならば、フォイエルバッハもいったように、カミが人を作ったのではなく、人がカミを--いや、もっと正確にいえば、日本帝国の権力機構がカミを作ったのだ」
 権力による世論操作の薄汚さを簡潔に整理して、痛烈きわまりない。

 特徴の第三は、人生の多様な楽しみ方である。「二流詩人または『南海詩集』の事」は、タイトルだけで推察がつきそうだが、ここでは「その日暮しまたは『ある日の言葉』の事」を挙げる。
 加藤一流のやや諧謔に満ちた紹介によれば、ポール・レオトーは出版社に勤めて生計をたて、雑誌に好きな文章を書き、売れない本を出版して世間の注目を集めることがなかった。評価されるようになってから、彼の警句を集めた本が出版された。すなわち『ある日の言葉』("Propos d'un jours")である。
 「私は来るべきもの、または可能性をあてにしたことがない。常に現在の、実際の、確かなものだけを信用した」
 「作家としての私は想出を書くことが多かったが、過去に係ること私よりも少ない男はないだろう。後をふり返らず、前を見つめず、私はいつもその日暮しをつづけてきたし、今なおつづけている。その日暮し、とさえいえるかもしれない。この時間を愉しもう・・・・」
 現在至上主義は、古来、日本の土着的世界観の根元にあった、と加藤はいう。ただし、レオトーのように自覚的に「その日暮し」に徹底し、生活を愉しむことを生活の原理にした者はきわめて稀れであると。
 この原理を実践すれば、名声、金、権力など他の多くを犠牲にしなくてはならない。
 「私はあまりにも静かさを愛する」
 「私はあまりにも余暇を愛する」
 現在の愉しみ方は人によって異なる。レオトーにとっては愛すること(少数の女友だち)と、書くこと(または読むこと)であった。「私の書いたものが愛を傷つけたことも少なくなかった・・・・しかし何よりも書くこと。私はそのためには世界をも犠牲にするだろう」
 こう引用しつつ、平安仏とロマネスク彫刻を愉しむ友人の例を引いて加藤はいう。
 「私自身は、私の友人のようにも、またレオトーのようにも、それを徹底したことがない」

□加藤周一『言葉と人間』(朝日新聞社、1977、後に朝日選書、1980)
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【加藤周一】障害受容、あるいは人間の自由と尊厳 ~福永武彦の『百花譜』~

2013年01月17日 | ●加藤周一
 加藤周一「福永武彦の『百花譜』」は、朝日新聞1981年9月に掲載され、後に『山中人話』に収められた。書評であると同時に、友人の追悼文でもある。書評として一級、病弱な友人に対する深い理解を表して美しいこと、比類がない。
 しかも、この短い文章は、福永武彦と同様な立場にある病者や障害者を鼓舞する。病気や障害の受容、そこから立ち直る自律的な営みの一つのモデルを力強く描き出している。<環境を変えることはできないが、環境の意味を変えることはできる>のだ【補注】。

----------------(引用開始)----------------
 詩人福永武彦【注1】が逝って二年。その晩年の野草の写生図を集めて『百花譜』三巻(中央公論社、1981)【注2】が出た。晩年の福永は、しばしば初夏から秋にかけて、信州の追分村に病を養っていたので、『百花譜』の多くは、その村の小径に咲いた花を写す。私は今同じ村に夏を過ごして『百花譜』を見ている。
----------------(引用終了)----------------

 【注1】福永武彦は、1918年生、1979年没。詩人、作家、翻訳家。
 【注2】『玩草亭百花譜』全3巻は画文集。1981年、中央公論社刊(後に中公文庫、1983)。

----------------(引用開始)----------------
 『百花譜』の花には個性があり、その折ふしの表情もある。勢いよく咲いているのや、少し凋(シボ)みかけているのがある。茎が強く伸び、葉が張っているのも、茎がうなだれて、小さく申しわけのようについているのもある。その辺のところが巧みに写されていて、そこに一種の詩情--蕪村の俳画に近い何かが漂っているものさえある。写生図には、必ず野草の和名が書きこんであって、日本語の物の名の、あるいは王朝の和歌と結びついた、あるいは土地の人々の生活に融けこんで鄙(ヒナ)びた味が、淡彩の写生図の詩情を強めている。そこに詩人福永の心があらわれているともいえるだろう。または逆に、福永の描いた野草に野草の心があらわれている、ともいえるかもしれない。敏感で聡明な、もう一人の詩人、池澤夏樹氏【注3】が、『百花譜』の背後に「アニミズム」の世界を指摘したのは、おそらくその意味で正しいだろう。
----------------(引用終了)----------------

 【注3】池澤夏樹は、1945年生。詩人、作家、翻訳家。福永武彦の子。

----------------(引用開始)----------------
 しかしそれだけではない。『百花譜』は、それぞれの野草の形態学的特徴を写して、正確を期する。花は単に美しいばかりでなく、花弁の数においても、形状色彩においても、正確でなければならない。ここでの写生は、単にその場の観察にもとづくのではなく、組織的な観察にもとづく。したがって和名に加え、またラテン語の学名を記す。その状あたかも木下杢太郎【注4】の野草の図譜【注5】に似ている。木下杢太郎の写生が、遠くさかのぼって本草学にまでつながることは、いうまでもないだろう。『百花譜』は、詩人の心の表現であるばかりでなく、また同時に、野草の形態学的分類への、広げていえば、自然に内在する秩序一般への、組織的な接近の表現でもある。
----------------(引用終了)----------------

 【注4】木下杢太郎は、本名は太田正雄。医師、詩人、劇作家、画家。1885年生、1945年没。加藤周一は「方法の問題または『皮膚科学講義』の事」(『言葉と人間』所収)で木下杢太郎の業績にふれる。
 【注5】杢太郎の野草の図譜は、『新編百花譜百選』(岩波文庫、2007)に見ることができる。

----------------(引用開始)----------------
 かくして『百花譜』とは、対立する二面の微妙な出会いの場所である。言語学的には、日本語とラテン語、または和名の地方性と学名の普遍性。認識論的には、詩的感受性と分析的接近法、絵画的表現と形態学的記録、すなわち内在的なものの外在化と外在的なものの内在化。存在論的には、対象の個別性、その非還元性と一回性に対する、自然の秩序の超越性と普遍性であろう。
 福永は一日一草を写した。それは感受性の問題ではなく、いわんや道楽や文人趣味の問題ではなくて、意志の問題である。『百花譜』は、感興の赴くままに成ったのではなく、強固な意志によって支えられた体系的事業の成果として成った。そういう強い意志は、何故どこから出てきたのだろうか、と私は考える。
 福永にあたえられた条件は、決してよくなかった。長い間経済的にもめぐまれず、家族関係は複雑で、しばしば苛酷でさえあった。殊に身体的には、病弱で、入院を繰り返し何度も死線を彷(サマヨ) い、いちばん調子のよい時でも長い旅行はできなかった。彼が主として追分村と東京の自宅との何れかで晩年を過ごしたのも、行動の範囲をそれ以上に拡大することが、物理的に不可能だったからである。
 人は誰でもいくつかのあたえられた条件を変えることができない。たとえば偶然にあたえられたその出生の時と場所であり、したがって時代と地域的な文化に係わるすべての制約である。私は私の母国語を択ぶことができない。また身体的制約もある。私は私の身長をみずから決めることができない。福永のおかれていた状況は、その意味では独特ではなかった。しかし行動の肉体的な制限【注6】という点で、極端なものであった。多くの時期に、彼は彼が愛したモーツァルトを劇場で聞くこともできず、ゴーギャンを展覧会場へ行って見ることさえできなかった。要するに多くの目標達成は、彼にとって不可能であった。もしその健康さえ許したら、晩年の福永は、ザルツブルグかタヒティへ、どこかボードゥレールのうたった「彼方」【注7】へ、飛び去っていたかもしれない。晩年の白鳥は、「日本脱出」の空想小説を書いた。福永はそれを書かなかったが、「旅への誘い」の声を聞かなかったのではないだろう。しかし身体的条件が、その目標の実現を許さなかった。
----------------(引用終了)----------------

 【注6】「肉体的な制限」は、今日では環境との関係においてとらえられる。国際保健機構(WHO)2001年版ICF(生活機能・障害・健康国際分類)を参照。
 【注7】「彼方」については、ボードレール(福永武彦訳)『パリの憂愁』(岩波文庫、2008改版)を参照。

----------------(引用開始)----------------
 苛酷な条件のもとで、最後に残るのは、デカルトの「自由」【注8】である。なぜなら目標の実現は自由でなくても、目標の形成は自由であり得るからだ。人は世界をその目標との関連において意味づける。したがって目標の形成において自由だということは、世界の意味づけにおいて自由だということであろう。環境を変えることはできないが、環境の意味を変えることはできる。世界を変えるよりも、自分自身を変えよ。しかし自分自身を変えるのは、当人の意志の問題である。
----------------(引用終了)----------------

 【注8】ジャン=ポール・サルトル(野田又夫訳)「デカルトの自由」は『シチュアシオンⅠ』(人文書院、1965)所収。ちなみに、占領下では一切が独軍によって規制されているがゆえに、自発的な行為の一つ一つが自由の証となった、とサルトルはいう((白井健三郎訳)「沈黙の共和国」、『シチュアシオンⅢ』、人文書院、1964、所収)。サルトル一流の逆説。

----------------(引用開始)----------------
 福永には目標と意志があった。あるいは実現し得ない目標があったから、抜き難い意志があったというべきだろう。追分村から出ることのできなかった彼は、その環境の意味を変えた。福永はおそらく、落葉松の小径の郭公(カッコウ)に、バロックの町の弦の音を聞き、風にゆれる野草に南太平洋の島の女たちを見ることができた。代用品か? 私はそうは思わない。モーツァルトが郭公の声の、ゴーギャンが野草の色の、<<彼にとっての>>【注9】意味を発見させたのである。それはデカルトの定義した自由以外の何ものでもない。もしそうでなければ、あの持続的な意志、一日一草の体系を支えたあの強い意志は、あり得なかったろう。外部から強制された--政府や、社会的圧力や、広告や、家族から強制された強い意志というものはない。
----------------(引用終了)----------------

 【注9】<< >>内のフレーズは、原文では傍点で表記されている。

----------------(引用開始)----------------
 病床の福永の文章は力強く、どこにも嘆き節を含まず、文章としてほとんど爽快であった。病床の彼の表情は、私の知るかぎり常に、明るかった。それは訪ねてきた友人に対する強がりでも、努めて粧った表情でもなかった、と思う。そうではなくて、彼のなかに真の明るさがあり、その明るさは、あらゆる外部から、あらゆる自然的社会的環境から、全く独立した彼の精神のある部分より、直接湧きだしてきたものであったにちがいない。意志が明るさをつくったのではない。『百花譜』の世界を築きあげた意志と、極度に孤独で極度に人に対して温かいあの一種の明るさとは、同じ根源から発していたのである。
 『百花譜』は、福永武彦の世界に対する基本的な態度、その人間の自由と尊厳の、揺るがし難い証拠である、--少なくとも私にはそう見える。
----------------(引用終了)----------------

 【補注】環境は「運動」が変えることができる、という議論はここでは措く。

□加藤周一「福永武彦の『百花譜』」(『山中人話』、福武書店、1983、所収)

 【参考】
【読書余滴】加藤周一の、大きさの話または『野生の思考』の事 ~絵画・写真と構造~
【読書余滴】社会学者としての加藤周一の特徴+余命を楽しむ子規と兆民
【読書余滴】佐藤優の国家論、加藤周一の内村鑑三論
【読書余滴】加藤周一自選集全10巻完結
書評:『日本文学史序説』~加藤周一の犀利にして痛烈な批評~
【読書余滴】読書道楽の7つの要件 ~加藤周一自選集9~
書評:『加藤周一自選集8 1987-1993』
【読書余滴】竜安寺の石庭
【大岡昇平ノート】加藤周一の大岡昇平論
【読書余滴】加藤周一の『今昔物語』論
【読書余滴】事実把握が不確かなとき是非をどう判断するか ~新井白石の実証的方法~ 
書評:『言葉と人間』
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【読書余滴】加藤周一の、大きさの話または『野生の思考』の事 ~絵画・写真と構造~

2011年01月14日 | ●加藤周一
 「料理の四面体」のアイデアは、クロード・レヴィ=ストロースの“料理の三角形”から得ている。
 玉村豊男は、クロード・レヴィ=ストロースを学生のときに何冊か読んだ。難しい内容なのでよくわからなかったが、「“料理の三角形”というのは、たしか、ナマのもの、火にかけたもの(直火で焼いたもの/容器に入れて煮たもの)、腐ったもの、というように料理の形態を対比させ、それをもとにしてさまざまの議論を展開していくものだったような気がする。どうもその本体のほうははっきり記憶にないが、“料理の三角形”という言葉が印象深く感じられたのと、そのときに、もっと実用的な料理法の分類のしかたがあるんじゃないか、と思ったことをよく覚えているのである。これが“料理の四面体”などということを考えることになた直接の契機といえばいえないこともない」。

 玉村は、レヴィ=ストロースにヒントを得て、料理法の実用的な分類を構想した。
 加藤周一は、レヴィ=ストロースから、大きさの心理的効果の、比較文化論的および歴史発展的叙述を考えた。

 ある日、加藤は、ニューヨークの画家リラン(Lilan)と肖像写真の展覧会を見た。画家リランは、当時、大きな画面に罫の入った帳面を油で描いていた。写真家(Avedon)は、近作の肖像写真を実物大またはそれ以上に引き伸ばして展示していた。
 巨大な帳面を描いた画面の効果は、あきらかに対象の拡大と関係している。
 大きく引き伸ばした肖像写真は、普通の写真と全く異なる印象をあたえる。これも、大きさと関係しているにちがいない。
 15世紀から19世紀かけての西洋の写実的な肖像画(油彩)には、悲しみ、よろこびが出ている。行動してきた人間の、そのすべての歴史を要約するようなある瞬間の表情が。またその表情を通しての人間の存在感が。
 写真でも引き伸ばして大きくしさえすれば、強くそういうものが出てくる。

 ここからレヴィ=ストロースに話が飛ぶのだが、この飛躍は興味深い。連想というものの不思議さをかいま見せる。
 加藤は、先の展覧会の印象を話しながらマディスン街を歩いていたのだが、そのとき、かつて並木が黄葉したサンジェルマンの通りを歩きながら『野生の思考』や構造主義について友人と話し合っていたことを思い出したのだ。

 構造は、大きさによって変わらない。地球儀の構造は、地球のそれに同じだ。大きくは、(1970年代の)米・中・ソの大国間に、小さくは『大経師昔暦』のおさん・茂兵衛・以春の間にも、三角関係がある。同じ構造は、碁石を三つ並べてもできるだろう。すなわち構造は、大きさによらず、またその要素の質によらない。後者の性質はレヴィ=ストロースの体系の要点の一つだが、前者は『野生の思考』の画論にも見られる。
 構造を変えないで、現実の大きな対象を小さく描く。絵画の基本的な役割の一つは、かくして現実の全体の理解(認識)を可能にすることだ。・・・・とレヴィ=ストロースはいうのである。
 「樹をみて、森をみない人は、絵画によって森をみる。すなわち絵画地球儀説である」

 しかし、リランの場合は逆だ。リランは、逆立ちしたレヴィ=ストロースである。いや、彼女に限らない。また現代の芸術家にさえも限らない。肖像彫刻に記念碑的効果をあたえるためには、途方もない大きさが必要であった。エジプトの「王家の谷」から奈良の大仏殿まで。また、スウィフトは小説の中で、フェリーニは映画のなかで、人体を拡大したことがある・・・・。
 「画面のあたえる効果に大きさのもつ意味は、むろん、見る人の生理解剖学的条件と、その条件に密接な日常生活上の慣習と、深く関係しているだろう。しかし、日常生活上の慣習は、また文化に係わり、文化は、--少なくともわれわれの社会では、歴史的である。大きさの心理的効果の、比較文化論的および歴史発展的な叙述が、成りたつのではなかろうか、--と私は考え始めている」

    *

 余談ながら、北朝鮮は金日成の巨大な銅像を幾つも制作している。その技術を活かして、アフリカ諸国で大型の彫刻をあいついで制作し、2000年以降に推定1億6千万ドル(約131億円)以上を稼いだ。2010年3月には、ジンバブエの英雄ジョシュア・エンコモをかたどった「自由の闘士像」を。同年4月には、セネガル独立50周年を記念する「アフリカ・ルネサンスの像」を。そして、チャドでも。

【参考】加藤周一「大きさの話または『野生の思考』の事」(『言葉と人間』、朝日新聞社、1977)
    2010年10月12日付け!Korea & YONHAP NEWS
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【読書余滴】社会学者としての加藤周一の特徴+余命を楽しむ子規と兆民

2011年01月07日 | ●加藤周一
 筑摩書房の「ちくま」にせよ、岩波書店の「図書」にせよ、本屋の店頭でタダで入手できる。だから気軽に読み捨てられる・・・・かというと、そうでもない。再読したい記事があるからだ。PDFファイルに変換して保存する手間をかけるほどでもないが、しばらくは残しておきたい。その「しばらく」が1年になると、さすがに処分せざるをえない。
 Dr. Etesan E. Nishibori すなわち西堀栄三郎のように、必要なページをベリッと破りさるもの一手だが、それはそれで後の検索が面倒だ。さわりだけ記録しておこう。
 ということで、昨日および一昨日、「ちくま」の一部をとりあげた。
 今日は、「図書」から2件引く。

   *

 経済学者のロナルド・ドーアは、社会科学者の自分が加藤周一と話が合うのは、彼が優れた社会科学者のセンスをもっていたからだ、と回想する。

----------------(引用開始)----------------
 経済学の分野で、唯一の善は効率で、効率達成の方法として競争しかないという世の新古典派経済学者の価値体系には、加藤さんは常に反対してきたが、経済のからくりの技術的分野には、さほど興味がなかった。しかし社会学者としての加藤さんは、多くの職業的な社会学者に欠けている特長を持っていた。「差別」とか、「いじめ」とか、「晩婚化」とか、他人の行動を説明するのに、その他人の主観的動機を推定する手がかりとして、自分自身の過去の主観的経験のさめた客観的分析を利用してあたるという接近方法がその特徴だった。そして、「似たような心理」という概念を利用して、たとえば、いじめられた子が、クラスで一番強い子供と友達になろうとするのと、日本の対米外交との類似性を指摘したりする。ヴェーバーやデュルケムやフーコーの理論との整合性には、後で気がついてコメントするかもしれないが、しかし多くの職業的社会学者のように抽象論を出発点としなかった。
 「似たような心理」「似たようなメカニズム」「似たような形容」を認識することは、結局「比喩」を駆使する文学的能力につながる。加藤さんは、社会学者であり、同時に文学者でもあった。美術評論家、小説家、劇作家でもあった。加藤さんの『日本文学史序説』は大変な力作で、社会科学者が楽しく読める文学史だ。
----------------(引用終了)----------------
 そして、加藤は「何ごとにおいても、ことの真髄まで討究する精神において、プラトンの優れた子孫だった」と、ドーアは結論する。

   *

 話は変わるが、復本一郎によれば、正岡子規は病牀にあって激しく中江兆民に反発した。
 病気の境涯に処するに、病気を楽しまねば生きていて何の面白みもない。旦夕にせまった有限の時間に向かい合うとき、「あきらめ」は「理」によるが、楽しみは「美」を解することによってのみ手中に収め得る、云々。

 しかし、兆民も病気を楽しまなかったわけではない。余命1年半、善く養生して2年、と宣告された兆民は、その感慨を次のように記す。
 「一年半、諸君は短捉{短期間}なりと曰はん、余は極て悠久なりと曰ふ。若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。夫れ生時限り有りて死後限り無し。限り有るを以て限り無きに比す、短には非ざる也。始より無き也。若し為す有りて且つ楽むに於ては、一年半是れ優に利用するに足らずや」
 兆民の楽しみは、シンプルだ。
 「余の目下の楽みは、新聞を読む事と、一年有半を記する事と、喫食する事との三なり」

 病牀の子規もまた、「美」のみならず、喫食も楽しみとした。彼の旺盛な食欲は、晩年の手記にも明らかである。
 兆民は、子規がいうほど彼に遠い存在ではなかった。
 そしてこの二人の明治人は、迫りくる死に対して実に剛毅である点でも共通する。

【参考】ロナルド・ドーア「プラトンの優れた子孫 加藤周一」(「図書」2010年1月号、岩波書店、所収)
    復本一郎「『一年有半』  -私註『病牀六尺』(一)-」(「図書」2010年8月号、岩波書店、所収)
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【読書余滴】佐藤優の国家論、加藤周一の内村鑑三論

2010年12月01日 | ●加藤周一
 佐藤優『国家論 -日本社会をどう強化するか-』(NHKブックス、2007)を読むと、内村鑑三を振り返らざるをえない。それは、本書第4章「国家と神 -『聖書』で読み解く「国家との付き合い方」-」が、カール・バルト『ローマ書講解』を一つの軸にすえているから、というだけではない。いかにも、『羅馬書の研究』は内村の最良の散文であり、日本文学史上最良の散文だった。しかし、それはさしあたり重要ではない。重要なのは、同じプロテスタントでありながら、国家に対する態度において、内村と佐藤とは根本的なところで相違があるように思われる点だ。その相違は、内村と佐藤が生きた(生きている)時代の相違を反映しているだろう。では、内村が生きた時代は、どんなものだったのか。

 米国伝来のプロテスタンティズムを受け入れたのは、主として、武士の子弟であり、殊に幕臣または佐幕各藩の藩士の子弟であり、薩長権力に対抗した武士層の者が多かった。したがって、彼らがプロテスタンティズム(長老派、オランダ改革教会派など)を受け入れた理由は、権力批判の立場と無関係ではなかった。しかし、それだけではなく、キリスト教が「西洋への窓口」として見えた、ということもあった。それは単に知識や技術への窓口であったばかりではなく、しばしば徳川封建制への価値観を打破する有効な価値体系への窓口でもあった(加藤周一『日本文学史序説』(以下『序説』と略す)下巻p.341)。
 そして、『序説』下巻pp.343-348は、概要次のように述べる。

(1)第一高等中学校不敬事件
 内村は、札幌農学校で受洗。卒業後3年間余米国で聖書と神学を学び、帰国後に第一高等中学校の講師となった。
 1981年、いわゆる「第一高等中学校不敬事件」が起きた。校長は「敬礼」は「礼拝」にあらずと説き、内村はそれを前提として「敬礼」に同意したが、彼自身および同僚の一人は失職した。
 「この事件が日本近代思想史の上で重要なのは、敬礼をためらった内村の良心において、天皇神格化の否定が明瞭にあらわれていたからである。内村の唯一神の信仰は、国家とその象徴としての天皇に、絶対的に超越する。内村は、烈しい愛国者であり、日本の国家に超越したその信仰が、日本以外の地上のあらゆる国家にも超越したことはいうまでもない。(中略)またその関心が自己の内部ではなく、キリストに向かっていたこともあきらかである。(中略)共同体への帰属と共同体の外にいかなる絶対者もみとめない価値観を中心として築き上げられた日本的世界観の伝統のなかで、こうのような内村の信仰が、例外的であり、かつ画期的であったことは、当然である」

(2)非戦論
 その後の内村は、愛国的立場から日清戦争を支持したが、最後次第に絶対的な平和主義に近づいていく。
 足尾鉱毒事件(1900年)が起きると「万朝報」によって政府を批判し、日露戦争の危機が迫ると開戦に反対し、「万朝報」が開戦支持に踏み切ったとき、幸徳秋水や堺利彦とともに退社した。

 「内村の非戦論の根拠は、二つあった。その一つは、『新約聖書』の争闘を嫌う精神、殊にその無抵抗主義(「羅馬書」12章)である。『聖書』の無抵抗主義の背景には、人は人を罰せず、劫罰は神の仕事である、という考え方があり、その考え方は、晩年の内村においては、キリスト再臨信仰によって強められたにちがいない。他方、人の激しい攻撃に遭ったとき、無抵抗主義をとることで、みずから心の平和を得たという個人的な体験も、その考え方を強めたらしい(「余が非戦論者になりし由来」、『聖書之研究』、1904年4月)。いずれにしても内村は個人間の聖書的な無抵抗主義を国家間のそれへ拡大した。彼の平和主義のもう一つの根拠は現実の歴史の観察である。日清・日露の戦争をみて、彼は戦争が戦争を生むこと、平和のための戦争などというものはなく、戦争が終る毎に軍備はますます拡張されるということを見破っていた」
 なぜ見破ったのか。現実に超越する正義の立場に立ちながら、しかもその立場と現実の条件との緊張関係を彼がみずから生きていたからだ。

(3)キリスト教
 『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』は、単に自己について語るばかりではなく、キリスト教と日本との関係についても語り、またキリスト教国としての米国が彼の目にどう見えたか、ということについても語る。「このときすでに内村は、単に自己の内心を見つめる男ではなく、彼の外の世界を理解し、その意味を発見しようとする人間として、あらわれていた」

 「第一次世界大戦後、内村の後半生は、聖書の研究とキリスト再臨問題に集中される。(中略)殊に優れているのは『羅馬書の研究』である。当時集め得る文献を広く集め、原文に拠って訳語を検討し、一行毎に詳細な註釈を加えながらその意味を説く。そのことはまた同時に、内村自身の信仰の内容を、そのあらゆる面にわたって、提示するものでもある。文章は、内村の他の多くの文章にみられる誇張と華麗な装飾を絶って、簡素で明快、まことに緊密で、筆者の全人格をそこにかけた迫力にみちる。これが内村の著作の中心であるばかりでなく、明治以後の文学的散文の傑作の一つであることに、疑の余地はないだろう」

(3)社会正義
 内村は、鉱毒事件に関わり、平和主義の立場をとって日露戦争以後帝国主義的膨張を志向していた日本の社会に激しい批判を加えたが、みずから社会主義運動に参加はしなかった。キリスト教は天国への教え、社会主義は此世を改良するための主義としたが、キリスト教が此世の秩序に無関心なわけではない。たしかに内村が指摘したように、特定の社会改革を提供はしなかったが、キリスト教は社会正義の観念を明治の日本にもたらした。
 はたして、日本で最初の社会主義政党、社会民主党がつくられたとき(1901年)、創立者6人のうち幸徳秋水を除く5人はキリスト教徒であった。その一人は内村の弟子で、もう一人は札幌農学校の出である。合法的な議会主義の立場をとった社会民主党を、創立の2日後、政府は禁止した。

(4)その他
 1830年の世代は、すぐれて政治的な世代だった(吉田松蔭、成島柳北、中江兆民)。彼らの文学も政治化した。
 内村鑑三は、彼らに続く世代の一人である。明治維新をみずから経験しなかった世代である。そして、西洋の技術と政治思想ばかりでなく、その近代文学の影響を受けた日本人の最初の世代である。明治以後日本文学を作ったのは、1860年の世代の「エリート」であった((『序説』下巻p.159)。

 明治の官僚国家は産業資本主義を積極的に推進した。日清戦争の賠償金を除けば外部からの大きな資本の導入なしに、しかも急激に進められた。高い小作料と低い労働賃金は、大衆の構造的な貧困を、しばしば極端に悲惨な貧困を生みだした。
 内村鑑三、田中正造や木下尚江が鋭く反応したのは、そういう事態に対してである。要するに、政治的な知識人の世代の次に、社会的関心の世代が続いた(『序説』下巻p.283)。

 西洋から輸入された「イデオロギー」の体系のなかで、19世紀後半の知識人にいちばん大きな影響をあたえたのは、あきらかにキリスト教、殊にプロテスタンティズム、殊に北米系のそれである。日本側にはすぐれたキリスト教の指導者がいた。新島襄、植村正久の後に内村鑑三が続く。内村の場合に典型的なように、プロテスタンティズムは、明治の天皇制国家に絶対に超越する立場への道をひらいた。したがって、根本的な体制批判の可能性をも準備したのである。
 日露戦争の頃、反戦論者と初期の社会主義者の指導者たちの圧倒的多数が、プロテスタントのなかからあらわれたのは、不思議ではない。キリスト教が社会的関心を作りだしたのではなく、この世代の知識人に共通の社会的関心にキリスト教が反権力の方向をあたえたのである。その反権力の方向が、単一なものでなかったことは、いうまでもない(『序説』下巻pp.291-292)。

【参考】『日本文学史序説(下)』(ちくま文庫、1999)
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【読書余滴】加藤周一自選集全10巻完結

2010年09月29日 | ●加藤周一
 2010年9月、加藤周一自選集全10巻が完結した。第10巻(1999~2008)は、第9巻までと異なり、全巻の収録著作索引、年代順の著作目録、外国語訳著作一覧が巻末につく。
 年代順の著作目録は、117ページにわたる詳しさだ。ちなみに、最初の著作は1936年12月に発表された映画評「ゴルゴダの丘」である。

 目録にしたがい、年代順に著作の表題を追ってみると、著作の大部分は第1期もしくは第2期の著作集(2010年9月完結)、または自選集全10巻に収録されている。
 しかし、たとえばコラム集『言葉と人間』は一部しか著作集に収録されていない。したがって、著作集および自選集を読みつくしても、加藤周一の全貌は明らかにならない。
 
 全貌は明らかにならないとしても、第1期もしくは第2期の著作集、または自選集に目をとおせば、加藤の議論の要点は明らかになる。
 たとえば自選集第10巻に所収の「情報源としてのTV」。
 TVにおける一般的な情報提供の機能を三つあげる。第一、優先順位。第二、中立公正主義。第三、日本語。
 第二点について、「両極端の意見を足して二で割れば公正な意見が得られるとは限らない」。例として、かつてヨーロッパにあったユダヤ人みな殺し説と差別反対論を挙げ、両者の中間、「殺さぬ程度に差別すべしという議論が公正でないのは、あきらかだろう」。新聞・雑誌・ラジオ・TV放送は、中間説のみを報道するのではなく、「多数意見と共に少数意見の両端を併記すべきだろう、と私は考える」。異なる意見の併記だけではなく、「特定の場合には、一方の意見の塁に拠って戦うべき状況もあり得る」。特定の場合とは、言論の自由の危機である・・・・。
 大衆報道機関の「中間説」の欺瞞、欺瞞というのが言い過ぎであるならば考え不足を指摘し、さらに特定の状況においては特定の行動があるとも指摘する。
 加藤に親しんだ人は、「中間説」にしても「特定の状況」にしても、その議論の構造はおなじみだろう。
 初めて加藤に接する人は、ここから公正さとは何か、あるいは一般と特殊について一考する機会となる。

 エリック・ホッファーにとって、知識人は労働に従事しないばかりか、労働する人を言葉によって操作、管理、支配しようとする胡乱な存在にすぎなかった。
 加藤は知識人だが、ホッファーが激しく反発した知識人とは異なる型の知識人だ。
 第一に、加藤は医師として出発した。医師は工場労働者とは異なるが、言葉によって操作、管理、支配しようとする職業ではない。そして加藤は、文筆をもっぱらにするようになってからも、医業に対する関心は薄れなかった。森鴎外、斎藤茂吉、木下杢太郎を終生の課題としたのも、こうした関心の延長上にある。
 第二に、加藤の主な関心は「世界を理解する」ところにあり、「理解」を言葉にあらわした結果ひとを動かすことになっても、それはあくまで結果にすぎなかった。「九条の会」についても、基本的には同じだと思う。平和について、加藤は加藤の理解を語り、しかも精力的に語ったが、ホッファーのいわゆる操作、管理、支配の欲求は悉皆なかった。

 芸術について政治について、加藤周一は語った。
 権力からほど遠いところで思索し、語った。
 一人の人間として、一個の市民として見、聞き、思索し、語った。
 つまるところ、加藤が遺した最大のものは、徒手空拳の個人が、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の頭で考える術だろう、と思う。
 2期にわたる著作集および自選集は、加藤の著作の全編を網羅するものではないが、網羅されていなくても加藤の精神を汲む読者は困らないはずだ。

【参考】鷲巣力編『加藤周一自選集 1999~2008』第10巻、岩波書店、2010
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書評:『日本文学史序説』~加藤周一の犀利にして痛烈な批評~

2010年07月04日 | ●加藤周一
 その特徴の第一。文学の概念は広い。詩歌や小説に限定しない。
 ジャンルは、宗教的または哲学的著作から農民一揆の檄文まで。形式は、漢文から口誦の記録まで。

 第二。時代のなかでの作品と作家を簡にして要を得た紹介をする(共時的な面)ととともに、先行する作品や著者、あるいは逆に遺産を引き継いだ作品や著者との関係(通時的な面)を立体的に位置づける。
 たとえば、第9章(第四の転換期 上)では漢詩人たちをとりあげ、次のように評する。
 18世紀末に起きた漢詩文の「日本化」は、19世紀に引き継がれた。「日本化」の過程におそらく決定的な役割をはたした詩人が菅茶山である。茶山は、題材を本朝の、同時代の、しかも殊にしばしば自分が一生を暮らした農村周辺の光景にとった。故事でも名所でもないものにも詩興を託した茶山の本領は、題材の新しさよりも日常身辺の風物に対する写実的態度にあった。哲学を去り、政治を避け、空想的主題ではなくて日常的事実に即し、修辞を誇張せずに写生に徹底した。
 「かくして詩は、日記や俳文の世界に近づく。というよりも、日本の土着世界観の一つの表現形式として、和文の日記や俳文や『随筆』とならぶのである」

 ちなみに、茶山の一世代後の梁川星厳たちは、別の「日本化」をすすめ、遊里をうたう詩を流行らせた。
 ついで、漢詩の「日本化」に応じて、古典シナ語の散文の「日本化」が進行した。代表は頼山陽であった。『日本外史』の論旨は支離滅裂なのだが、読者数は多かった。「山陽の歴史は彼の詩に他ならなかったからだ」
 「政治を説明することの無能力は、同時に、人物を躍動させる能力」でもあった。・・・・かかる評価は、ひとり頼山陽のみに与えられているわけではない。日本史上名高い他の人物、たとえば吉田松陰に対する評価にも通底する。

 第10章(第四の転換期 下)において、吉田松陰を次のように評するのだ。
 松陰の思想には独創性がなく、計画には実現性がなかった。しかし、この青年詩人は、体制が割りあてた役割を超えて歴史に直接参加するという感覚を、いわば一身に肉体化していた。その感覚こそ、1860年代に若い下級武士層をして維新の社会的変化に向わしめた動因である。
 松陰よりもはるかに現実的な政治家たちが改革を実行した。
 「詩人は死に、政治家は権力を握ったが、政治家に理想を--もし理想があったとすれば--吹きこんだのは、詩人であって、その逆ではない」

 文学をして単に時代を受動的に反映するだけのものとは目さず、(無論こうした一面があるとしても)より積極的に時代を動かす動因となった力を重視するのである。
 これを加藤「文学史」の特徴の第三としてあげてよいだろう。

 第四は、時空を裁断する犀利な論旨にしばしば随伴する痛烈な諷刺だ。
 たとえば、第6章(第三の転換期)において、狩野探幽を総括していう。
 「探幽は若くして江戸幕府に出仕し(1621)、武家屋敷や寺院の襖絵・屏風の類を多作した。その大画面には金箔を用い、幹の屈曲する松や、怖ろしげな(または、こけおどしの)竜や、力の強そうな(あるいは力みかえった)虎などを濃彩で描く。豪華で、いくらか空虚で、威厳を保とうとする狩野派の、殊に探幽の画面こそは、武士支配層の美的理想を--まさに建築における日光東照宮(17世紀前半)の成金趣味とならんで--、見事に表現していた」

【参考】加藤周一の『今昔物語』論
    加藤周一の大岡昇平論

□加藤周一『日本文学史序説(上下)』(ちくま学芸文庫、1999)
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【読書余滴】読書道楽の7つの要件 ~加藤周一自選集9~

2010年07月02日 | ●加藤周一
 仕事に関わりのない本を読む愉しみ、すなわち読書道楽の成立要件は7つある。

(1)暇
 釣りは山野に、ゴルフはゴルフ場に出むかなければならないが、読書の場所と時間には制限がない。

(2)カネ
 書物の値段は総じて安い。図書館から借りればタダである。

(3)体力
 読むためには強い足腰を必要としない。病人であろうと、老人であろうと、晩年の永井荷風であろうと。

(4)知力
 格別の知力は不要である。知識のない少年であろうと、物忘れの著しい老人であろうと、それぞれ異なる条件に応じて異なる本がある。

(5)相手
 囲碁は二人、麻雀は四人を必要とするが、読書は独りでも道楽できる。

(6)言葉
 理解する言語が多ければ多いほど愉しみの範囲は広くなる。永井荷風の「万巻の書」の大部分は、おそらく日本語・古典中国語・フランス語の3か国語で書かれていた。「河野与一先生はその三倍ほどの言語を読んだので、愉しみの範囲があまりに広く、常に本を読んでいて、本を書く暇を得なかったほどである」

(7)知的好奇心
 レヴィ=ストロースは言った、すべての人間社会の基本欲求は(a)食欲、(b)性欲、(c)環境保全の欲求である、と。「何故」は知的好奇心の現れである。「知的好奇心は個人において稀には失われることがある。また人によっての強弱もある。しかし多かれ少なかれ誰にも備わっているのが普通である。その知的好奇心が強ければ強いほど、読書の愉しみは増すことになるだろう」
 「人生の環境--自然的および文化的な--はきわめて複雑であり、したがって知的好奇心の対象にはかぎりがない」

【参考】加藤周一『読書道楽』(鷲巣力編『加藤周一自選集』第9巻、岩波書店、2010、所収)
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書評:『加藤周一自選集8 1987-1993』

2010年05月11日 | ●加藤周一
 「自選集」全10巻は、主題別の『加藤周一著作集』全24巻(平凡社)と異なり、発表年代順に編集されている。
 時代(の一部)を共有する作家の作品を発表年代順を読む楽しみは、ことに加藤周一のように文学のみならず政治や社会の動きに敏感な作家のそれを読む楽しみは、単に自分が生きた時代を回顧する作業を超えて、自分が生きた時代に加える別の解釈・・・・自分よりも深く、より広い解釈に出会う点にある。それは、自分の過去を再構成する作業に等しい。この楽しみは、自分が出会った芸術作品についてもいえるだろう。
 たとえば、本書の冒頭におかれた「『中村稔詩集』の余白に」。

 これは、1944年から1987年までの詩業をおさめる『中村稔詩集』(私家版、1987)【注】の読後感で、加藤は「一つの魂の戦後史である」と評する。かけ換えのない大切なものだけをうたってきた、と。そして詩の数行を引き、「これは私の同時代の歌である」と共感する。海辺の風景にはじまり、都会のビルの谷間に終わるこの詩集は、うたわれた素材も詩人の思いも、ほとんどを加藤が共有できるものだったらしい。
 本書には「海」と「ビル」が交互にあらわれるが、一方は他方を呑みこまないし、一方は他方に還元されない、と加藤はいう。詩人はビルの谷間で、つまり歴史的時間と社会的空間のなかで生き、かつ詩人は歴史的社会的に条件づけられる。人は「世界」の中の存在であり、「世界」は意識を超越する。・・・・そう断じたうえで、しかし逆に、と加藤はいう。「意識もまた世界に超越する。一個の具体的な生命の、個別性と一回性、『人ひとりの心の奥に 一杯の湧き立つ海』は、いわば世界の時空間に対して垂直な次元に、展開し、決して世界に包みこまれない」

 つまり、一方に条件づけれらた人間という存在があり(弁護士という中村稔の職業は多々の「条件」を意識せざるを得なかっただろう)、他方に条件の特殊性を超えようとする意思がある(「人ひとりの心の奥に 一杯の湧き立つ海」)。
 この「意思」は、病弱なため旅する余力がなく、追分の村で野草の写生にいそしんだ晩年の福永武彦にも見いだされる。
 「苛酷な条件のもとで、最後に残るのは、デカルトの『自由』である。なぜなら目標の実現は自由でなくても、目標の形成は自由であり得るからだ。人は世界をその目標との関連において意味づける。したがって目標の形成において自由だということは、世界の意味づけにおいて自由だということであろう。環境を変えることはできないが、環境の意味を変えることはできる。世界を変えるよりも、自分自身を変えよ。しかし自分自身を変えるのは、当人の意志の問題である。/福永には目標と意志があった。あるいは実現し得ない目標があったから、抜き難い意志があったというべきだろう。追分村から出ることのできなかった彼は、その環境の意味を変えた」(「福永武彦の『百花譜』」、「自選集」第6巻所収)。

 人間の歴史的社会的条件を説く者は数多くいるが、条件の特殊性を超えようとする意思を説く者はそう多くない。多くない一人が加藤周一である。
 そして、死せる孔明は生ける仲達を走らせ、死せる加藤周一は「苛酷な条件」のもとにある者を鼓舞する。

 【注】私家版は150部刊行され、中村の知友に配布された。後に、『中村稔詩集 1944-1986』(青土社、1988)として広く入手が可能になった。

□『加藤周一自選集8 1987-1993』(岩波書店、2010)
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【読書余滴】竜安寺の石庭

2010年04月28日 | ●加藤周一
 以下、加藤周一『日本の庭』のうち、竜安寺に係る部分の要旨。

 古い庭、日本的な美しさがいかに普遍的な美しさに通じているか、充分に周知されていない。
 修学院離宮には、樹木という素材、借景をなす比叡山という素材そのものの美しさがある。
 しかるに、竜安寺の石庭(以下「石庭」と」略する)の石は、石ではない。石についた苔も苔ではないし、敷きつめた砂も砂ではない。

 加藤周一には、白砂が群青の海にみえ、5つの石の集まりが島にみえる。
 ひとたび立ちあがって、縁の端から端まであるけば、おどろくべし、島は互いに近づいたり離れたりしながら、広大な海の表面にあたかもバレーの踊子の動きのような、ほとんど音楽的な位置の変化を示す。それは、疾走するジープから秋の瀬戸内海を眺めたときの印象と寸分ちがわぬ海である。いや、むしろそれ以上に微妙な変化に富み、それ以上に広大な眺望を支配する。
 その海は、クールベが描いたエトルタの海に似ているし、伊豆や須磨明石その他、かつてみたあらゆる海に似ている。しかし、正確にはそのいずれでもない。そのすべてに通じ、そのいずれにも完全には実現されていないものだ。ある特殊な海ではなく、特殊な海に頒たれている海一般というべきものである。

 平安時代から江戸時代まで、庭はどこかの景勝や名勝を模写し、一部を再現し、要するに特定の自然の再現を目的とした。
 しかし、竜安寺の「海」は、特定の海ではない。すべての海といってよい。そのことは眺望の大いさにもあらわれている。
 修学院離宮の眺望は雄大だが、その何千分の一の面積もない【注】石庭には、さらに広大な自然がいきいきとあらわれている。

 石庭の象徴主義は、特殊な自然を問題とせず、唯一の自然を問題とし、どこかの海を問題とせず、唯一の海を問題とした。
 縮写ではない。縮写は箱庭をつくるだけである。箱庭は模倣する。素材そのものの自然的な性質に頼る。
 石庭は模倣しない。石庭における素材は、精神にとっての素材であって、素材そのものではない。
 石庭をつくった相阿弥真相の精神は、完全に素材を支配している。「彼の手のなかには、砂があり、石があり、石に若干の苔があり、その他何ものもなかったが、あらゆることを表現するために、その他の何ものも必要ではなかった」

 石庭に樹木が使われていないことは偶然ではない。
 わずかな苔で平原や森や灌木の茂みを自在に表現できた相阿弥には、自然を模倣する必要はなかった。自然を表現するためには、精神があれば足りた。
 樹木を用いることもっとも多い修学院離宮の庭が、素材に豊かで表現に貧しいとすれば、樹木をまったく用いない石庭は、素材に貧しく表現に豊かだといえる。
 素材の抵抗が大きければ大きいほど、せまい庭の制限が著しければ著しいほど、また従うべき規則が厳しければ厳しいほど、与えられた条件を克服して自己を実現する精神の自由が、それだけゆるぎなく、それだけ力強い。

 石庭は、手段と目的のみごとな一致である。
 すこしでもその位置をうごかした場合を想像すれば、石の位置がいかにぬきさしならぬものであることがわかる。
 もし、永遠というものがこの世にあるとすれば、永遠に変わらない精神の自由がここにある。

 修学院離宮の庭には境がないが、石庭は額縁のなかにある。
 修学院では、人は自然のなかに入るのであり、庭のなかに入るのではない。
 竜安寺では、人は庭をみるのであって、庭のなかに入るのではない。
 修学院の庭は庭でないし、竜安寺の庭はみられるもの(対象)である。
 竜安寺の、低い白壁によって三方にかこまれた額縁のなかの自然は、近代劇のように第三の壁を観客にむかってひらいている。三方の白壁の外には、額縁のなかの風景とは縁もゆかりもない空間がある。

 修学院の自然が古代的・牧歌的な「即自」の自然であるとすれば、竜安寺の自然は、近代の風景画のように、近代的・客観的な「対自」の自然である。
 一方では、自然的なものと人間的なものとが区別されず、したがって、自然対人間の対立を通じての自然は、おそらく意識されていない。庭は素朴に自然を模倣するが、その本質をとらえない。
 他方では、自然的なものと人間的なものとがあきらかに区別され、自然は常に、人間に対する自然として意識される。庭は自然を模倣せず、自然的な素材の効果を厳しく拒絶しながら、純粋に人間的な精神的な方法によって、つまり象徴主義の方法によって、自然の本質をとらえている。
 石庭は決して宇宙ではない。宇宙は、そのなかに人が身をおくところのものであり、生活の場である。

【参考】加藤周一『日本の庭』(『加藤周一著作集第12巻 藝術の精神史的考察Ⅱ』、平凡社、1978、所収。後に『加藤周一自選集1』、岩波書店、2009、所収)
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