語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】桑原武夫『アラン訪問記』、久野収/鶴見俊輔『思想の折り返し点で』

2010年06月30日 | 批評・思想
 桑原武夫は、舌鋒鋭利にして諧謔を忘れず、知識該博にして性寛容、稀代の知識人でありながら俗情を知悉し、論旨は健康的で実際的、要するに爽快な知性で読む人に活力を与える。
 たとえば、「エクリヴァン」は、文士、もの書き、文筆家、作家と訳されるが、いずれも自分の気持ちにそぐわない、と桑原武夫はいう。文章を書くことに対する「かなりの楽しさとささやかな誇り」からして、日本語では「文章を書く人」としたい、云々。
 その文章を1930年から1980年まで執筆年代順に集約したのが『桑原武夫集』全10巻である。

 第1巻は、もっとも初期の1930年から1945年までを収録する。
 桑原武夫は、アランを2冊を翻訳しているが、エッセイ『アラン訪問記』は1937年の出会いを語る。
 渡仏当時、発表されたアランの一文に総罷業反対が記されていた。リヨンの小学教員組合が不参加を表明し、その他のサンジカにもこれにならうものが少なくなかった。アランは下級教育者に依然として影響力をもつらしい、といった推測から始まる。
 晩年のアランは、全身にわたるリューマチを患っていた。加減のよいつかのまに面会できた。全体としてずんぐりとした大男で、自分の仕事に自信をもつ美しい顔、と印象を記す。話題はもっぱら芸術で、東洋絵画にも言及される。「あまりたくさんは見てないが・・・・東洋絵画は広大な視界を求める。西洋のものにはそれがない。東洋の絵の中ではtoujurs, on s'en va, oui, toujurs!(いつも遠くへ立ち去ろうとするところがある)」
 帰国してから送った『鉄齋遺墨集』をアランはおおいに喜んだらしい。
 ドストエフスキーは好きで相当読んでいる、といった談話もあるが、アランの胸像をつくった高田博厚へのアランの献辞がいい。古人のいわゆる剛毅木訥である。「彫刻家高田に。現にここでわれわれがポーズしたその幾時かの記念に。彼の胸像は究極において似たところを示している--大へんrusticなところを。私はそこに自分を再び見出して愉快です」
 rustic(ひなびた、百姓ふうな)というのはアランがそう自認しているので、ここではすぐれた賛辞だ、と桑原武夫は注釈している。

 ところで、久野収/鶴見俊輔の対話篇『思想の折り返し点で』が2010年4月に岩波現代文庫に収録された。
 久野は、フランス「人民戦線」(ラッサンブルマン・ポピュレール=市民大集結)の組織と運動の呼びかけ人の第一となったのがアランだった、と述懐する。議長は、トロカデロ博物館の館長ポール・リベー。市民運動が地域、職域、街頭で大きな集会とデモを何回となく組織し、多数の予備役軍人共和派まで参加する各種の市民運動組織が運動し、40時間労働、最低賃金制、組合公認、団体交渉権、経営共同参加権、有給長期レジャー公認などを戦後の日本人にもプレゼントしてくれた・・・・。
 アランの政治参加は、フランス革命のジャコバンの伝統を継いでいて、高校時代の弟子のサルトルやシモーヌ・ヴェイユが政治に積極的に参加する(アンガージュ)のは当たり前だ、うんぬん。

【参考】桑原武夫『桑原武夫集』第1巻((岩波書店、1980)
    久野収/鶴見俊輔『思想の折り返し点で』(朝日新聞社、1990。後に岩波現代文庫、2010)
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【読書余滴】「標準家庭」の幻想

2010年06月29日 | □スウェーデン
 子ども手当や消費税率のアップ、エコポイントや電気料金値上げなどの経済的影響の解説にあたって、しばしば「標準家庭」がマスコミに登場する。しかし、「標準家庭」という仮想家族は、幻想にすぎない。
 21世紀の日本には、「サザエさん一家」のごとき大家族は、もうほとんどないのは周知のことだが、「核家族」さえ過去のものなのだ。
 そう指摘するのは、『生殖医療と家族のかたち』。

 いわく、実態として、もはや日本における「核家族」の比率は減少の一途をたどる一方だ。現代日本のもっとも標準的な家庭は、独りで暮らす「単身家庭」である。この状況は、あまり知られていない。片親と子どもからなる「単親家庭」も増加している。
 日本では、戦前の1920年ごろからもっとも多い家族形態は「核家族」だった。
 これから家庭を持とうとし、子どもを育てようとする世代(20代後半から30代)の多くは、1970年ころから1980年代初頭に生まれた。この時代の子どもたちの目に映った家族は、父母がいて、子どものいる家族だった。
 ところが、1980年代に入ってから離婚率が上昇する。この傾向は、欧米に遅れること20年だ。また、第二次ベビーブームと呼ばれる1970年前後生まれの女性世代の未婚率は、1980年代後半から1990年代にかけて急上昇している。そして、1985年から1990年にかけて、女性の平均出産年齢も上昇した。この結果、1973年生まれの人は209万人いる一方、1985年生まれは151万人、1990年生まれは122万人しかいない。

 要するに、世代人口の減少と出生率の低下という2要因が、相乗的に最近のいちじるしい出生数の減少をもたらした。
 かくて、いまの日本では、両親と子どものいる世帯は4分の1にすぎない(老人のみ世帯の増加もこの傾向に拍車をかけている)。

【参考】石原理『生殖医療と家族のかたち -先進国スウェーデンの実践-』(平凡社新書、2010)
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【読書余滴】世間は狭い、の心理学 ~ミルグラムの「スモールワールド法」~

2010年06月28日 | 心理
 世間は狭い・・・・そう感じる人は、古今東西、至るところにいる。
 だが、この「スモールワールド現象」を実証的に調べたのは、スタンレー・ミルグラムをもって嚆矢とする。
 実験「スモールワールド法」は、つぎのようなものであった。

 実験者は、被験者である発信者(一群の男女)に、目標人物(遠くに住んでいる人)の名前を与える。
 発信者は、ある書類フォルダーを、自分よりいくらかでも目標人物(ターゲット)を知っている可能性がある別の被験者(受け手)に送る。受け手は、発信者とファーストネームで呼びあう友だちや知人とする。
 そのフォルダーがどこまで行ったかを追跡するため、そのフォルダーには名前のリストがあり、被験者はそこに自分の名前を書きこむとともに、ミルグラムに宛てて葉書(フォルダーに入っている)を送り、進行状況を報告する。

 ターゲットに達したつながり(リンク)は、26%にすぎなかった。
 しかし、うまくいったリンクから判明したことは、世間は狭いという考えを支持するものだった。発信者からターゲットまでの仲介者(間に挟めばよい人)の数は、平均すると約6人だった。いわゆる「六次の隔たり」(Six Degrees of Separations)である。
 
 訳者あとがきによれば、1992年に三隅譲二・木下富雄が追試をおこなった。発信者は福岡に住む人、ターゲットは発信者の知らない大阪の人で、仲介者は平均して6.2人という結果だった。
 同じく訳者あとがきによれば、毎日放送「ともだち--宗谷岬発武庫川行」という番組(1988年放映)では、稚内の海岸に住まう89歳の女性から出発して、ターゲットとして選ばれた武庫川在住の14歳の女子中学生につながるまで、仲介者は13人だった。ちなみに、この番組は1988年の芸術祭賞放送作品賞を受賞した。

 スタンレー・ミルグラム(山形浩生訳)『服従の心理』(河出書房新社、2008)の訳者あとがきによれば、「スモールワールド法」はここ十年ほどで異様な発達をみせたソーシャルネットワーク理論の先駆だ。6人という「この意外な少なさは、孤立と疎外に悩む現代世界の多くの人々に希望を与えた。世界の人々は、思ったほどバラバラじゃなくて、意外に密接にからみあっているんだ、と」。かくて、「六次の隔たり」という表現は通俗文化でもおおいに広まることになるのだが、その後神経細胞やインターネットなど各種ネットワークに関する数学的な解析が進むにつれ、「スモールワールド法」が再評価されるに至る。意外なほど少数の仲介者でターゲットに到達するのは、こうしたネットワークにはやたらに「顔の広い」ハブ、つまり多くの人や点とリンクする存在があるからだ、云々。

【参考】トーマス・ブラス(野島久雄/藍澤美紀訳)『服従実験とは何だったのか -スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産-』(誠信書房、2008)
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【読書余滴】ミルグラムの単純かつ独創的な実験~都市心理学~

2010年06月27日 | 心理
 『服従実験とは何だったのか』第9章は、ミルグラムが手がけた仕事のひとつ、都市心理学をあつかう。
 ミルグラムの研究全体をつらぬく考えのひとつは、「一見、目にみえない社会的なルールや規範が、私たちの日常的な行動に驚くほどの影響を及ぼしているということである。これらのルールは、非常に強力ではあるが、とらえがたいもので、一般的には気づかれにくい。ただし、このルールに反したときは別である。たとえば、エレベーターに乗ったときに隣にいる人と目線を合わせつづけたことがあるだろうか」

 地下鉄で、座っている乗客にちかづき、席を譲ってくれるよう頼んだら、どんなことが起きるだろうか。
 1971年、ミルグラムがはじめてこの課題をクラスに提案したとき、学生からは神経質な笑い声がかえってきただけだった。ニューヨークの人たちは、知らない人が頼んだからといって、自分の席を譲るはずはない・・・・。
 しかし、学生の一人が実験者となり、見知らぬ乗客を被験者として施行したところ、席を譲ってくれたのである。この後、クラス全員が実験者となった。

 1972年、4つの条件を設定し、もういちど実験した。(1)正当化なし条件(お願いする理由をいわない)。(2)些細な正当化条件(お願いする理由を示す)。(3)立ち聞き条件(被験者に考える時間を与える)。(4)アイコンタクト最小限条件(口頭ではなく書面でお願いする)。
 かんたんに結論をいえば、(1)は68.3%が座れた。(2)は41.9%((1)との有意差あり)、(3)36.6%((1)との有意差あり)、(4)は50%。

 この実験で興味深いのは、実験者の反応である。
 どの実験者も「非常に強く、またどう考えても大きすぎると思えるくらいの緊張を感じて」いた。「一見緩やかに見える規範を破っただけで、かなりの緊張が引き起こされてしまうのは不思議なことである。まるで道徳の問題が関わっているかのようだ。席を譲ってとお願いするのが『普通ではない』という意味で『規範でない』(un-norm-al)のではなく、道徳的観点からいって『規範の外部にいる』(ab-norm-al)であるかのようなのだ」(Takooshian,H(1972)を孫引き)。

 ミルグラムとともにクラスを教えていたアーウィン・カッツも実験者となった。その報告はじつに生々しい。
 彼はたいしたことではないと思っていたのだが、「席に着いている乗客に近づいて、あの魔法の言葉を口に出そうとしたときのことだ。その言葉は喉につかえてしまって、とにかく口から出ない。私は固まってしまって、そこに立ちつくし、すごすごと引き下がった。任務失敗である」。観察役の学生に促されて再挑戦するのだが、「私は麻痺したように体が動かない感じに押しつぶされそうになっていた」。自らをはげまし、ついに言葉を口に出すと、「その次の一瞬、凍り付くようなわけのわからないパニックに襲われた」。幸い席を譲ってくれたのだが、「その人の席に座った後、私は席を求めたということを正当化するような振りをしなければいけないんだという気持ちで一杯になった。頭を膝の間まで沈み込ませ、顔は青ざめていた。演技をしていたのではない。本当に死んでしまいそうな気分だったのだ・・・・」(Tavris,C(1974a)を孫引き)。

 これは、米国の大都市、ニューヨークの特徴だろうか。
 いや、日本でも事情は同じだと思う。そして、人と違ったふるまいをするとき受けるストレスは、米国の比ではないような気がする。
 心臓に疾患がある人は、見かけはふつうの人と変わりがない。しかし、長らく立ち続けているのは苦しい。そんな場合に電車やバスで「席を譲ってくださいませんか」と依頼するのは、きわめて理にかなったことなのだが、カッツが受けたと同じストレスを覚えるはずである。事は心臓の患者にかぎらない。高齢者や乳児を抱きかかえる母親については、社会的認知を受けていると思うのだが、そんな状態で電車やバスに乗るな、と突きはなす人が依然として存在するかもしれない。運悪くそういう人に頼んだ場合、ストレスは倍増するだろう。

【参考】トーマス・ブラス(野島久雄/藍澤美紀訳)『服従実験とは何だったのか -スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産-』(誠信書房、2008)
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書評:『灰色の月』 ~都市心理学~

2010年06月26日 | 小説・戯曲
 昭和20年10月16日、山手線で、餓死寸前の少年に会った、という話である。
 志賀直哉の散文全般について言えることだが、じつに明快な文章で、場面がすっきりと頭にはいる。

 「その子供の顔は入って来た時、一寸見たが、眼をつぶり、口はだらしなく開けたまま、上体を前後に大きく揺すっていた。それは揺すっているのではなく、身体が前に倒れる、それを起こす、又倒れる、それを繰り返しているのだ」

 餓えた少年の脱力感と、かろうじて残っている生への意志、意志というより反射的な行動がまざまざと目に浮かぶ。
 ところで、昭和34年撮影の志賀直哉像を見ると、謹厳な教育者みたいな風貌だが、彼ほど教育者から遠い人はいない、と思う。強烈な自我、と志賀を評する者は評するのだが、他者との間に距離をおく、その置き方がハッキリしすぎるのである。『灰色の月』でも、少年に気がかりな目をむけながら、突きはなしている。志賀は、先の引用に続いて、次のように書く。

 「居睡にしては連続的なのが不気味に感じられた。私は不自然でない程度に子供との間を空けて腰かけていた」

 本能的な用心深さである。自分に直接的な接触が生じないよう、ただちに反応する。
 それでいて、「不自然でない程度に」という配慮をみせる。しかし、誰にたいする配慮であろうか。少年に? 他の乗客に?

 「少年工は身体を起こし、窓外(そと)を見ようとした時、重心を失い、私に倚りかかって来た。それは不意だったが、後でどうしてそんな事をしたか、不思議に思うのだが、其時は殆ど反射的に倚りかかって来た少年工の身体を肩で突返した」

 反省はするのである。
 「これは私の気持を全く裏切った動作」であると。
 少年の身体の抵抗が余りに少なかったことで「気の毒な想い」すら覚える。
 「弁当でも持っていれば自身の気休(きやすめ)にやる事もできる」とも記す。事実、そう感じ、そう考えたのだろう。こうした善意が志賀直哉にはある。
 しかし、これもまた本能的な善意で、そこから先には進まない。あくまで、ほとんど生得的な感性にしたがって動くのである。だから、少年に対して自分がなし得ることは何もないと感じ、かといって目を閉ざして見ないふりをするほど非情ではないから、「暗澹たる気持のまま渋谷駅を降りた」のである。

 この短編小説(むしろ随筆だと思うのだが)、敗戦直後の「一ト頃とは人の気持が大分変わって来た」時期に書かれた。さすがに、体験をただちに発表するわけにはいかなかったらしい。一定の時間が必要だった。
 『灰色の月』は、極限状況におかれた者にじかに接する羽目におちいった者の当惑と反応、その心理と行動を見事に剔抉している。
 志賀直哉は、徹頭徹尾、単なる目撃者以上の立場には立たなかった。
 21世紀の日本の都市の住民も、同様の立場に立った場合・・・・近隣で起きた子どもの虐待など、こうした機会がけっこうありそうな気がするのだが、その心理、その行動は志賀直哉をモデルとしそうな気がする。

□志賀直哉『灰色の月』(『日本文学全集18 志賀直哉集』、新潮社、1959、所収)
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【読書余滴】権威に盲従しない者 ~「アイヒマン実験」から~

2010年06月25日 | ノンフィクション
 ブラスによるミルグラムの評伝は、じつに面白い。邦訳で5,200円+税という高めの価格なのだが、一読する価値があると思う。
 第5、第6章に「アイヒマン実験」のようすが記されているが、そのうちに実験に「ノー」と対処した者の分析がある。
 ブラスが伝えるところの、被験者(X)が権威者の手中に陥らないために役立つ要因は二つ。

 第一に、電気ショックを与える相手(学習役となった別の被験者=Y)に共感する能力である。XはYの立場に立って苦痛を感じたのだ。
 第二に、Xが発した疑問や反対に対して実験者が答えなかった、という点だ(とブラスはいうが、より正確には、この点をXが問題視したということだ)。実験者は、被験者Xの質問を無視し、ぶっきらぼうに実験を続けろ、というだけで、Xを安心させることも自分を正当化することもしなかった。その結果、Xは実験者に見切りをつけたのである。 

 これを言い換えれば、仕事の対象者への共感、指示事項に承伏できない場合には従わないこと、ということになる。
 後者は、デカルトの「判断をさし控える」方法に通じるように思われる。

【参考】トーマス・ブラス(野島久雄/藍澤美紀訳)『服従実験とは何だったのか -スタンレー・ミルグラムの生涯と遺産-』(誠信書房、2008)
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【読書余滴】組織人はどこまで人道を踏み外すか ~「アイヒマン実験」~

2010年06月24日 | 心理
 「書評:『心理学で何がわかるか』」で引いた集団圧力の実験でアッシュの助手をつとめていたのがスタンレー・ミルグラム。 
 1961年、ミルグラムは、学習に対する罰の効果を調べる、という目的で次のような実験をおこなった。

 被験者は、新聞広告によって募集した。郵便局員、高校教師、セールスマン、エンジニア、肉体労働者などふつうの住民296名の応募があり、このなかから被験者が選ばれた。
 教師役となった被験者(X)は、学習役となった別の被験者(Y)に単語の対を読みあげて学習させる。次に、Xは最初の単語を4つの単語と並べて読みあげ、Yに正解を言わせる。Yが間違えると、ただちに電気ショックで罰を与える。Yが確実に電気ショックを受けるよう、両腕はイスに固定され、拘束されていた。
 電気ショック送電器には、30個のレバースイッチが付いていて、左から右に15ボルトから450ボルトまで送電できる。「かすかなショック」「「中程度のショック」「強いショック」「非常に強いショック」「危険-すごいショック」などと表示されていた。 Xは、次のように指示された。Yが間違えるたびに電気ショックを与える。間違えるたびに電気ショックの水準を一つあげる。ショックを与える前にレバースイッチの表記を読みあげる。30番目の450ボルトの水準に達っしたら、この水準で実験を続ける。
 Xが最高の450ボルトで2回続けると実験は停止された。
 なお、Xは実験開始前に45ボルトのサンプル・ショックを受けるので、XはYの痛みを実感できる。
 実験者は、Xが実験の続行を嫌がっても、Xが従うまで(1)「お続けください」、(2)「実験のために、あなたが続けることが必要です」、(3)「あなたが続けることが絶対に必要です」、(4)「迷うことはありません。続けるべきです」・・・・という順で勧告し続ける。Xがどうしても実験者に従わない場合は実験が中止される。

 Yは、じつはサクラであった。事前に入念な演技指導がおこなわれた。
 Yは、75ボルトのショックを受けるまでは不快感を示さず、ちょっとだけ不平をもらす。電圧が上がると不平が増える。120ボルトになると大声で苦痛を訴える。135ボルトでは苦しいうめき声となる。150ボルトでは「もう嫌だ!」と絶叫する。180ボルトでは「痛くてたまらない」と叫ぶ。270ボルトでは金切り声になる。300ボルトでは絶望的な声になる(実験ではこのあたりでXは実験者の指示をもとめたが、無答は誤答であるので、ショックを与えるように指示された)。315ボルトではすさまじい悲鳴をあげる。330ボルトでは無言になる。

 精神科医、大学院生、教員など100名にXの行動を予測させた。Xの大部分は、150ボルトの水準にいくまでに実験を止めるだろうし、最高のショック水準にいくのはせいぜい千人に一人くらいだ、という予想だった。
 ところが、40名のXのうち26名は、単に実験者が命令しただけで450ボルトの致死水準のショックをYに与えつづけた(Xはいらだち、ためらってはいた)。

 ミルグラムは、XとYとの距離の要因をいれた実験など延べ11の実験をおこなった。
 追試は45年間おこなわれなかった。
 2006年、バーガが第5実験(学習者が心臓の懸念を表明する音声フィードバック条件)の追試をおこなった。40名の教師役被験者(X)のうち、150ボルト以上の電気ショックを与えたのは、28名であった。ミルグラムの第5実験では40名中33名であり、わずかに少ないだけであった。
 「ミルグラムの服従実験は、社会システムに組み込まれた一塊の人間を、あまりにも生々しく浮き彫りにした」

【参考】村上宣寛『心理学で何がわかるか』(ちくま新書、2009)
    「【読書余滴】組織の中で人はどう変わるか ~集団の心理学~
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【読書余滴】時代劇のズサンな時代考証

2010年06月24日 | 批評・思想
●『大岡越前』
<ドラマ>
 あこぎな借金とりたてに、泣く泣く長屋を出て行く親子。彼らがひく荷車に積まれたふとんに、ふとんカバーがついていた。ふとんの下には取っ手のついたタンスが。
 打ち上げで、大岡越前や岡っ引きたちが町の飲み屋のテーブルを囲んで、椅子に腰かけている。
<考証>
 ふとんカバーが一般家庭に普及したのは戦後である。
 ふとん本体も、江戸時代の長屋にはまだ少なかった。あっても木綿の縞模様のせんべいぶとん。ほとんどの長屋の貧乏人は、昼間の着物をかぶるか、ムシロ、または紙でつくったふとんで寝ていた。
 また、当時の長屋にはタンスはなかった。あるものは、せいぜい行季くらいだった。
 ついでにいえば、長屋には押し入れもなく、畳のない板の間がふつうだった。
 なお、当時の飲み屋では縁台に腰かけたり、縁台にあがったりして、杯やどんぶりを手にもって飲み食いしていた。テーブルなんか、なかったのだ。

●『遠山の金さん』
<ドラマ>
 飲み屋のおかみさんが、毎日ブラブラしている金さんを心配して、求人広告らしい紙を手に読みあげた。
 年収300石の旗本の屋敷で金さんにやっつけられた侍が十数人いた。
<考証>
 天保期、雇用の周旋屋はあったが、店の前にびらを貼るくらいで、求人瓦版はなかった。当時は、身分=職業で、無職は完全なドロップアウト人間だけだった。
 年収300石の旗本が雇用できる侍は数人程度であった。

●『桃太郎侍』
<ドラマ>
 町火消しと定火消し(幕府の火消し)との火事場での争いからはじまる。
<考証>
 吉宗将軍の時代に「いろは」の組制度がととのった。各組には非情に厳密な管轄区域が線引きされていたから、それを越えてしゃりしゃり出る町火消しはなかったはずだ。トラブルが生じるのは、火が境界線にせまってきたときの組と組、また幕府関係の施設にある区域の町火消しと定火消しぐらい。それも小競り合いていど。
 江戸の町火消しの組名は、「いろは」47文字あったが、語呂のわるい「へ組」「ら組」「ひ組」だけは「百組」「千組」「万組」に置き換えられていた。
 ひとつの組が平均30-40の町を管轄していた。半鐘が鳴り始めてから一団が現場に到着するまで30分は要した。着いたころには、安普請の長屋なぞとっくに燃えつきていた。
 当時の消火活動の本務は、火元周辺の長屋や商家、必要があれば武家屋敷も壊しまくり、燃えるものをなくすることだった。町民も火事慣れして、焼死する人なぞめったにいなかった。

●『暴れん坊将軍Ⅱ』
<ドラマ>
 将軍がおしのびであっても単身遊郭へ出かけていき、「この泥沼から抜け出して、幸せになろうという気持ちはないのか!」と説教する。
 (ちなみに、このドラマ、最後のタイトルバックで、将軍が元気に諸肌ぬいで弓をひく。その背後には姫路城がそびえていた。)
<考証>
 将軍がひとり吉原へ、というハチャメチャな設定はさておき、そもそも吉原は、官許の、いわば幕府の委託事業であり、幕府の財源なのであった。

●『新・大江戸捜査網』
<ドラマ>
 夜ふけの河岸で18歳のシロウト娘が大工に声をかけ、「あの、小判をあげますから、私を抱いてください」
<考証>
 夜中の河岸をシロウト娘がほっつき歩くなんて、当時の江戸の町の構造からして不可能だった。江戸の標準的な町は、道路をはさんで両側にびっしりと家が建ち並んでいた。奥行き60間(約108メートル)、幅20間(約36メートル)が1ブロックになっていて、いちばん表に面した家には大家さんが住んでいた。大家さんが店子の出入りをチェックしていたし、町の出入り口には保安管理上、大きな格子の木戸があって、昼間は開放してあるものの、午後8~10時頃になると閉め切って、町の番人が見張っていた。原則として、火事でもないかぎり木戸は開けなかった。
 当時は、午後9時をすぎたら家の中にいるのが当然で、町の外にでられなくても、さほど不自由しなかった。

●『長七郎江戸日記』
<ドラマ>
 佐渡の漁民が勘定奉行に直訴しようとする場面、奉行所には表札が掲げられていた。
<考証>
 各藩の上屋敷、下屋敷に表札はなかったし、奉行所にも同じく。

   *

 以上、ネタ源は、某国立大学助教授(当時)【注】の「時代劇日記」のよし。とりあげられているのはちょっと古いTVドラマだが、いまの時代劇も事情はさして変わるまい。

 【注】2007年4月1日施行の「学校教育法の一部を改正する法律」により「助教授」の職階は廃止、代わりに「准教授」が置かれた。

【参考】週間朝日風俗リサーチ特別曲『デキゴトロジー vol.5 -ホントだからまた読んじゃうの巻-』(新潮社、1986)
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書評:『「在外」日本人』

2010年06月23日 | ノンフィクション
 海外で暮らす日本人の仕事と人生をまとめたインタビュー集。
 著者は、あしかけ4年間をかけて、40か国、60都市を訪れ、208人の日本人に話を聞いた。テープを起こした3万枚を3千枚に圧縮し、本にする過程で追加の資料を集め、確認の電話やインタビューを重ねつつ、さらに原稿を削った。

 108人が自分の過去と現在を淡々と語るだけだが、最初から最後まで飽きさせない。事実の重みゆえに。そして、生きざまが実に多様なるがゆえに。
 6つのテーマにくくられているが、とても一括できるようなものではない。生き残った日英両軍人の「和解」をめざす永年のボランティア活動によって大英帝国勲位4級を受賞した元軍人から、環境問題の先進的取り組みで知られるクリチーバ市(ブラジル)環境衛生局長まで。あるいは、ベレン(ブラジル)で養鶏業を営みつつ自警団を組織しするタフガイから、女房に追い出されて渡印し、カルカッタで壁画を描く画家まで。

 来し日々に迷いを漏らすケースもあるが、概してあっけからんとして、今暮らす土地にどっしりと根をはやしている。ことに南米の住民にその傾向が強い。南米といえば貧困と暴力をイメージしがちだが、現代日本にはない豊かなものがあるらしい。

□柳原和子『「在外」日本人』(晶文社、1994。後に講談社文庫、1998)
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【読書余滴】ルソーの社会契約説と「一般意志」の理論

2010年06月23日 | 批評・思想
 『ルソー研究 第二版』は、京大人文科学研究所の共同研究の一。
 本論考は、第5章に位置づけられる。序説、ルソーの自然法に対する態度、社会契約について、主権の理論、一般意志の理論、結論の6節で構成されている。

 ルソーは市民国家の存在根拠を探った。権力の正当性の問題を最初に意識的に扱った政治思想家である。ルソーは多年にわたり著作活動を行い、しかも文学的表現が多いため、相反するルソー解釈(個人主義者、集団主義的・国家絶対主義的思想家)がある。
 ルソーの社会契約説(統治契約説と区別される)は、ブルジョアジーの要求を政治理論に盛り込んだもので、グロチウス、スピノザ、ホッブス、ロック等の流れを汲む。啓蒙期自然法学派の最後に位置する思想家だが、既成概念を使って独特の理論を形成した。

 以上のように序説で説き、続いてルソーにとっての自然法、独特の社会契約論を検討する。
 このへんははしょって、「四 主権の理論」、「五 一般意志の理論」を要約すると、概要次のようになろう。

 主権を保持するのは主権者であり、主権者を構成するのは個々人である。ルソーにとって、主権とは一般意志の行使にほかならない。一般意志とは共和国(社会契約によって法の世界に創造された政治的社会)の意志である。
 要するに、ルソーにとって一般意志=国家意志=法=主権という関係が成り立つ。
 人民主権に立つ以上、主権の絶対性=法の絶対性は立法権の絶対性を意味する。法は社会契約によって、これのみによって打倒性を獲得する(人権保障の問題が生じるが『コルシカ憲法草案』にはこの規定が盛り込まれている)。ルソーの人民主権理論は、経済的自由主義の欠陥の認識から、社会制度の改革をある程度まで国家権力によって行う必要を考えていたからだろう。
 ちなみにルソーは三権分立を認めていない。執行権は立法権の下位に置かれ、政府は立法者からの「委任」ないし雇傭という関係ににすぎない。

 ルソーは、一般意志を人民の意志、具体的には多数決を前提として形成されるものと考えた(法概念としての一般意志)。
 と同時に、個々の国民を超越するところへ高められた国家意志でもある(法の理念)。後者は「共同の利益」「公共の利益」を正当性の根拠とし、理性とモラルが平等を担保する。

 「六 結論」では、ルソーの功罪を挙げる。
 自然法を排斥し、宗教的形而上学を政治思想から締め出すことで、政治権力の世俗化を徹底した。科学としての政治学はルソーによって確固たるものとなった。ロックの自然権思想は、後に労働者抑圧、工場立法阻止の理論的根拠を与えたが、ルソーは所有権の絶対化を慎重に避けた点で近代的性格をもつ。
 他方、ルソーは、一般意志を多義的に使用したため、誤解を招いた。ルソーにとって一般意志は多数者の意志なのだが、理念としての一般意志と国家としての一般意志を同一視するドイツ・ロマンティークの政治理論はルソーの一面である。「共同の利益」が具体的な個人の幸福と解するならばベンサムの功利主義につながるし、百科全書派の一般的傾向を考えるならばこちらが当然の帰結ではあるけれども。
 最大の欠陥は、直接民主主義に固執したことだ。よって、原理的部分を除いた技術的部分は、現代ではほとんど意味をもたない。間接民主制を否定した結果、政党を認めなかったのも民主主義の政治理論として重大な欠陥である。フランス革命当時、労働者の団結を禁止するシャブリエ法を成立させた思想的根拠は、皮肉にもルソーが提供したのかもしれない。

【参考】恒藤武二『ルソーの社会契約説と「一般意志」の理論』(桑原武夫編『ルソー研究 第二版』、岩波書店、1976、所収)
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書評:『海霧』 ~女の再生~

2010年06月22日 | ●加賀乙彦
 ヒロインは、心理療法士である。
 幼くて母を喪い、高校2年生のとき開業医だった父を亡くし、遺産とアルバイトで東京の私立大学を卒業した。精神病院に勤務すること2年間。妻子ある看護士との恋に破れて死を決意したとき、北海道にある精神病院長から誘われて赴任することとした。これが発端である。

 道東のさいはての駅からさらに10キロ離れたところに堂福病院はあった。迎えを寄こす、という院長の申し出を断って歩きはじめたのだが、雪道の溝に落ちて足を痛めた。通りかかった男が救いの声をかけた。最初は警戒するが、善良さを認めて車で送ってもらう。男は広浜海青と名のった。入院中の親父を見舞う途中であった。
 翌日、日曜日、広浜海青とその兄妹、洋々および波子と知りあい、近在を車で案内してもらった。一家との付き合いが深まるにつれ、画家にして読書家の漁師、洋々に惹かれていく。
 ある情念はより強い別の情念によって乗り越えられる、とスピノザは言った。失恋の痛手は新たな恋によって癒される。

 しかし、人は人を癒すが、一方では傷つけもする。
 院長の堂福次郎は、患者を管理しない病院を理想としていた。外来病棟は十勝地方にあった古い農家を改造したものだし、丘や窪地や海際に散在する十数軒の入院病棟も古い民家を移築したもので、家居の大小に応じて4、5人から20人が寝起きする。患者の出入りは自由で、そもそも入院を同意したものだけが入院するのだ。同意しない患者は往診する。管理に費やす労力が大幅に減るから、減った分の労力を医療に使える、病院側はかえって楽なのだ・・・・これが堂福院長の持論なのであった。
 だが、同学の、しかも院長がかつて属した山岳部の仲間で固めたはずの医師から叛逆ののろしが立ちのぼった。院長の後輩の主導で組合が結成され、団交の結果、労働条件は上がった。ために人件費がかさみ、ただでさえ都会と違って収入の少ない病院の経営を圧迫した。
 就職する前から院長と関わりの深いヒロインは組合から疎外され、団交時には「院長のペット」と罵詈雑言を浴びせられたりもする。
 つまるところ、堂福病院は破産し、恋人の広浜洋々は海に沈んだ。

 ヒロインにとって、まさに「我は我が事どもを無の上に築く」のであるが、小説は暗い絶望感では終わらない。結末はむしろ明るい感じが漂う。真昼の明るさではなくて黎明の明るさである。
 これには仕掛けがある。背景の自然である。古来和歌で歌われた優美な自然ではなく、むしろ荒々しいといってよい北国独特の自然だ(厚岸郡厚岸町がモデルらしい)。凍てつく海、流氷、大湿原。厳しい自然が、かえって生き残ったこと、その命の貴重さを読者に感じさせる。そして、おそらくヒロインにも。
 何もかも失った者には、それ以上失うもののない強さが生まれる。敗戦後まもない頃の作者の体験が、たぶん、ここにも反響している、と思う。

□加賀乙彦『海霧』(潮出版社、1990。後に新潮文庫、1992)
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書評:『イタリア賛歌 -手作り熟年の旅-』

2010年06月21日 | ノンフィクション
 著者、高田信也は、51歳で自治省(現総務省)を退官、58歳で(株)都市総研を興し、還暦を過ぎてから毎年夫婦そろって「手作りの」海外旅行に出かけるようになった。
 本書が刊行された時点で、海外の旅は9回を数える。
 本書のほかに、イギリス、アイルランド、スイス、アメリカ各国の手作り熟年の旅の書がある。

 さて、『イタリア賛歌』は、4度めの旅、イタリア32日間の旅日記である。
 携帯用ワープロを持参し、宿で書いた。最初に到着したミラノからローマまで。その間にヴェローナがあり、ヴェネツィアがあり、フィレンツェfがあった。
 熟年夫婦の旅だから、血沸き肉踊る話はちっとも出てこない。
 しかし、起伏はけっこうあって、夫君、パスポート置き忘れ事件にアタフタしたりもする。

 道中、塩野七生の本を携えるが、歴史家ではなく哲学者でもないふつうの市民だから、大上段にふりかぶった考察はひとカケラも出てこない。
 著者は、どこにでもいるボクやアナタと同じ目で見、温雅な筆致で日記を記す。
 にもかかわらず、ちっとも退屈しない。
 細君が気ままに水彩画を描いている間、旦那はその日の宿を探して駆けずりまわる、といった些事がおおいにおもしろい。男の甲斐性、などと堅苦しい言い方は、ここではよしておく。

 序章で手作りの旅のコツを記す。
 まったくの余談だが、コツを漢字であらわせば「骨」である。動物や人間の骨格が原義。ここから芸道などのかたちの基礎となるものを指すようになり、物事のかんどころ、要領、奥義の意味に転じた。
 で、旅のコツとは、旅先で必要な会話を修得する方法、計画をたてる要点(鉄道の活用と拠点方式)、食事の工夫(一人前を二人で)、旅装の注意点(正装も持参、履きなれた靴で)、といったものである。
 応用は容易で、しかも有益だ。

 手作りの旅は出発までの準備が面白くて楽しい・・・・と、行き先を決めるまであれこれ調べ、考え、準備する過程を紹介している。語学学習はもとより、足腰を鍛え、行く先の地理、歴史や文化を調べておくのだ。
 これは、現地に到着したら、さっそく生きてくるが、旅したいけれども旅にはなかなか出かけられない人にも楽しい作業だ。とにかくイタリアは、歴史も文化も、調べだしたらきりがない。

 ちなみに、1994年当時、旅に要した経費は一人あたり73万円のよし。
 航空運賃などの交通費をふくめて32日間の旅に73万円は、高いか安いか。高いと感じるか安いと感じるかによって、それぞれの海外旅行のスタイルは異なってくるだろう。

□高田信也『イタリア賛歌 手作り熟年の旅』(文春文庫、1999)
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【読書余滴】佐藤優回想録 ~青春、留学、インテリジェンス、ソ連解体、国家の罠~

2010年06月20日 | ●佐藤優

 『佐藤優回想録』という題名の本はないのだが、これまで公刊された本の幾冊かを順番にならべてみると、全体が一冊の回想録の体をなす。
 文庫化にあたって加筆されているものもある。やたらと本を書いて出す佐藤優を追いかけるのは、ただでさえ大変なのだ。愛読者をして同じ本を2冊買わしめるような創造力は発揮しないでもらいたい(苦情)。

●浦和高校生、同志社大学生、同院生の時代(1975.4.1.~1985.3.30.)
 『私のマルクス』(文藝春秋、2007)  

●外務事務官時代(1) ~入省、留学~(1985.4.1.~1987.8.末)
 『自壊する帝国』(新潮社、2006。後にあとがきを大幅に加筆のうえ、新潮文庫、2008)、第1章

●外務事務官時代(2) ~ソ連大使館赴任、ソ連解体、ロシア大使館離任~(1987.8.末~1995.3.末)
 『外務省ハレンチ物語』(徳間書店、2009)
 『自壊する帝国』(新潮社、2006)、第2章以下
 『国家の崩壊』(にんげん出版、2006)
 『甦る怪物(リヴィアタン) 私のマルクス ロシア篇』(文藝春秋、2009)
 『国家の謀略』(小学館、2007)
 『交渉術』(文藝春秋、2009)

●外務事務官時代(3) ~本省勤務、外交史料館勤務、逮捕・収監、休職~(1995.4.1~2009.6.30.)【注】
 『国家の罠 -外務省のラスプーチンと呼ばれて-』(新潮社、2005。後に増補版、新潮文庫、2007)
 『獄中記』(岩波書店、2006。後に改訂版、岩波現代文庫、2009)

●民間人時代(2009.7.1.~)

 【注】最高裁判所第3小法廷(那須弘平裁判長)は、2009.6.30.、上告を棄却。期限の7月6日までに異議申立てをおこなわなかったため、判決が確定。国家公務員法76条に基づき失職。

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書評:『文学のレッスン』 ~批評家の目が全編をつらぬく「閑談的文学入門」~

2010年06月19日 | ●丸谷才一
 本書は、短編小説、長編小説、伝記・自伝、歴史、批評、エッセイ、戯曲、詩の8章仕立てになっている。伝記・自伝や歴史も文学にふくめている点は、注意してよい。
 著者丸谷才一は、小説家であり、批評家であり、エッセイストでもある。句集『七十句 』(立風書房、1995)も上梓しているから、詩人に数えてもよいかもしれない。したがって、本書には実作者の体験がわんさと盛りこまれていて興味深い。

 小説家としては、長編小説論において、創作の機微を披露する。先行作品の「ハイジャック」は短編小説の手法のひとつだったが、これがやがて長編小説にもとりこまれた、と指摘したうえで、『源氏物語』を「ハイジャック」した自作の『輝く日の宮』に言及する。その0章で女主人公が中学生のときに書いた泉鏡花ばりの「小説」について、『輝く日の宮』では人間と時間が主題なのに、そして著者は徳田秋声に興味があったのに、なぜ鏡花なのかというと、「でも、秋声じゃ人気がないし、なんって思って鏡花にしてしまった。秋声のパスティーシュ、むずかしいしね(笑)」
 読者の関心に対する配慮が文体を決めた、ということだ。そして、鏡花は秋声にくらべると文体模倣しやすい、と。そういえば、いつぞや週刊朝日は、著者も選者のひとりとして鏡花の文体模倣を募ったことがあったはずだ。

 こうした体験談があるものの、全編をつらぬくのは批評家の目である。
 批評家の目は、一見あまり縁がなさそうなもの同士を関係づけるところに発揮される。
 たとえば、短編小説論において、英文学と日本文学を関係づける。英国では短編小説の格は低く、長編小説優位なのだが、英国でショート・ストーリーという言葉が確立する前にスケッチという言葉がわりと使われた(W・アーヴィング『スケッチ・ブック』ほか)。このスケッチという言い方が日本に入ってきて、写生文になった。子規、、虚子たちの写生文である。島崎藤村に『千曲川のスケッチ』がある。そして、その写生の概念とリアリズムの概念が合致して自然主義文学が登場した・・・・。
 あるいは、おなじく短編小説論において、文学をジャーナリズムと関係づける。たとえば、フランスでは、はじめ、長編小説の需要があまりなかった。ブルジョワ階級が、英国よりもそれだけ遅れて成熟したからだ。フランスでブルジョワ階級が興隆するのは19世紀前半からで、この頃ようやくフランスが小説の世紀にはいる。フランスの短編小説の確立は、新聞・雑誌のジャーナリズムのありかたと深く関わっている。フランスの短編小説の型をつくったのは、1980年代のモーパッサンだ。日刊新聞が掲載の舞台だった。サロンの会話が奇譚のようなかたちで定着することもあっただろうが、モーパッサンの読者はあくまで大衆日刊紙を買う層だった・・・・。

 もっとも、これは著者の独創ではなく、先行する学説があるのかもしれない。
 しかし、学問上の業績を自家薬籠中のものとしたうえで一歩先に展開させる作業も批評家の役目にちがいない。
 たとえば、歴史論において、著者は西欧中世の年表を引き合いにだし、脈絡もなければ語り手が不明、という年表の特徴を挙げる。かたや、歴史は物語であり、語り手の「声」がある、と。これは、本書で明示されているようにヘイドン・ホワイトの議論を踏まえている。そのうえで、歴史=物語説に対する反論を検討していくのだ。

 検討の先に、理論化がある。
 長編小説論において、文学賞選考では「漠然たる読後感をいいあって、そのうちなんとなく話が決まる」という感じだと伝えたあと、著者は基準とはいわないまでも手がかりを考えた、という。第一に作中人物、第二に文章、第三に筋(ストーリー)である。いわば文学賞選考に係る丸谷理論だ。
 この点、批評論において詳しく展開される。すなわち、文芸批評も形式別に類別すると全体像がすっきりとつかめる、と整理する。(1)時評的批評、(2)文学史的批評、(3)作品論的批評、(4)作家論的批評、(5)パロディ的批評、(6)詞華集(アンソロジー)的批評、(7)原論的批評、(8)文明論的批評、である。たしかに、こう分類され、逸話やゴシップとともに解説されると、よく飲みこめる。
 批評家の役割には、すくなくともその一つには、読者がばくぜんと感じていることを整理して明瞭にする作業があるのだ。

 明瞭にすると、あまり愉快でない評価も明らかにされてしまう。
 つまり、論のない(論)争批判である。斎藤茂吉の罵詈雑言は、「本当に汚い」「僕は嫌いなんだな、茂吉のああいうところ」。与謝野鉄幹なんか人間扱いじゃないところは、「恐ろしいものです。そういう風潮があったから、とにかく論争をしたら勝てばいい、勝つためにはののしることだ、というふうになった。論争のなかの論という部分はなくて、ただ争あるのみになって、それをみんながはやしたてる。そういうことが日本の批評をずいぶん下等にしたし、無内容にしたし、批評家がものを考えなくなる下地をつくったんですね」

 批評家がものを考え、ものを言うとどうなるか。
 日本文学大賞の選考委員会で、司馬遼太郎は山本健吉『詩の自覚の歴史』を推した。ところが、丹羽文雄が反対した。こういうのは批評じゃない、学問だ、批評は小林秀雄が書くようなものだ、うんぬん。司馬、ちっとも騒がず、それは言い過ぎ、そのせいでいい批評家がでなくなった、と弁護。これを受けて著者が続けた。
 「小林秀雄の文章は威勢がよくて歯切れがよくて、気持ちがいいけれど、しかし何をいっているのかがはっきりしない。中村光夫や山本健吉の文章は歯切れのよさという点では小林秀雄に劣るかもしれないが、少なくとも何をいっているのかはよくわかる。そういう意味で、小林秀雄の批評は明治憲法の文体ににている。気持ちのいい文体という人もいるが、私には何のことをいっているのかよくわからない。そこへゆくと中村光夫や山本健吉の文書はそういう爽快さはないけれど、内容を伝達する能力は高い。その意味でこれは現行憲法みたいなものである」
 翌年、パーティで会った著者に司馬が告げた。あの小林秀雄は明治憲法うんぬんを講演のときに使うと非常に受ける、どうもありがとう。

 本書には、こうした逸話やゴシップがふんだんに盛りこまれて読者を飽かさない。
 エッセイ論で、「昔、野坂昭如が、雑文というのは結局、冗談と雑学とゴシップの三つだといったことがあった」という逸話を紹介する。ただし、『枕草子』や『徒然草』の共通点は「ゴシップとか雑学とか、それもあるけれども、いちばん基本にあるのは好きなものを書くということだ」。書き手が好きなものを書けば、作品は自ずから楽しくなる。文学のめでたさと言うか、めでたさの文学というか。桑原武夫『文学入門』のインタレストとどこかで呼応する。
 詩論において、吉田健一と一杯飲んでいるときの思い出を語っている。好きな詩を問われて、英語の詩を数行暗唱したところ、「ああといって、くちゅくちゅと口のなかでくり返す、そしてああきれいだな、とかいって喜ぶ。カラスミとかウニを食べるような感じなんですよ。詩が酒の肴になるのね。僕はなるほど詩というものはこんなふうに楽しむものか、と思いました」
 本書は、かくのごとく、じつにしゃれた終わりかたをするのである。

 ところで、本書は、インタビューによる文学概論・・・・はしがきによれば、閑談的文学入門である。これまで著者=丸谷才一という前提で書いてきたが、よきインタビュアーを得て本書が成立していることを強調しておきたい。
 丸谷才一/山崎正和『半日の客一夜の友』(文春文庫、1998)所収の『対話的人間とは何か』に、こんなくだりがある。

----------------(引用開始)----------------
丸谷 (前略)聞く、聞き終わる、読み終わるという読解力が対談術の基本なんだと思います。

山崎 それには古典的な先例がありましてね。プラトンの『ゴルギアス』という対話編の中に大変な名言がある。プラトンがいくら説得しても、ソクラテスの哲学がわからない人に対してプラトンは、「わたしが答え手になろう、あなたが語りなさい。そうするとあなたは問題を理解するであろう」というんです。つまり、よき聞き手というのは聞くことを通じて相手を開発するんですね。(中略)ギリシア哲学者の田中美知太郎さんによると、「ソクラテスの対話」では、ソクラテスが言い負かされることを通して真実が出てくる、と言うんです。つまり対話の一番理想的な場合には、どこかに神様がいて、二人の対話を通して真実を発見させる。場合によっては、一人の人間の敗北を通して真実が見えてくるというようなものであるはずなんですよ。

丸谷 そう、勝敗じゃなくて、共同作業による真実の探求みたいなものだね。いい聞き手は、相手の言わんとするところを聞くものです。どうでもいいところはあえて聞かない。大局を問題にする。つまらない間違いにこだわって、そこのところをつついていけば、論争には勝てる。でも、それではつまらない対談になっちゃう。(後略)
----------------(引用終了)----------------

 本書は、対話ではないから、「聞くことを通じて相手を開発する」ところまでいってない。
 しかし、インタビュアー湯川豊は、ツボをおさえた質問で丸谷からうまく話を引きだし、話をよく交通整理している。ときには、ほとんど「対話を通して真実を発見させる」に近いやりとりも見られる。たとえば、意味が解体している百鬼園随筆の魅力を語って、古今亭志ん生の落語と対比し、丸谷才一を唸らせている。

□丸谷才一『文学のレッスン』(大進堂、2010)
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【読書余滴】田宮模型の仕事

2010年06月18日 | ノンフィクション
 今や世界にその名をとどろかせている田宮模型株式会社の、創業期から今日にいたるまでが回想される。
 主な製品が紹介されているから、かつて人生の一時期に手にした模型に再会して懐かしく思う人が少なくないだろう。いや、今日の大人にも無縁ではない。たとえばジオラマは、ひとり(元)模型少年/少女のみに独占させておくのはもったいない。
 余談ながら、日本最大のジオラマは、鳥取県立氷ノ山自然ふれあい館響の森にある。面積415平米、容積41.5立方米。

 人々の愛された製品が生みだされたのは、田宮らの寝食を忘れた努力があったからだ。製作における努力に加えて、消費者のニーズを敏感に汲み上げ、新製品へ反映させたからだ。この実例が本書に豊富に紹介されている。

 作るだけでは売れない。売る戦略も必要である。このあたりの事情は、田宮模型の英国総代理店RIKO社の前社長が寄せた思い出、33年間の付き合いの回想で構成される終章に詳しい。

【参考】田宮俊作『田宮模型の仕事』(文春文庫、2000)
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