語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『嗚呼、懐かしの金語樓』

2011年02月28日 | ノンフィクション
 山下敬太郎こと柳家金語樓は、明治34年生、昭和47年没。
 三遊亭金勝の長男として6歳で初高座、28歳にして「金語樓とその一党」を旗揚げした。41歳で旧態依然たる落語界に見切りをつけて俳優に転向し、マルチタレントの走りとなった。
 本書は、この個性的な喜劇人の小伝である。

 「あたしはあたしのものじゃない。大衆のもの、お客さまのものなのだ」と金語樓はいう。
 名人となるよりも人気者になれ、と少年時代に竹本素行(藤田まことの祖母)から教えられている。
 人気は芸に裏打ちされていた。噺家として売りだしてからも、名人の四代目志ん生に就いて基礎から学びなおす謙虚と熱意があった。「わたしは未熟な役者。死ぬまで修行」であった。

 社会奉仕活動にも熱心で、交通少年団の活動では、自分の人形をドライバーに配った。「(ハゲて)毛がない金語樓」を「怪我ない」にかけたのである。違約を嫌い、風邪の熱をおして老人ホームを訪問したこともある。その2か月後に鬼籍に入った。

 今様にいえば気くばりの人で、到着時刻は正確、引き上げるのも速かった。
 日本芸術協会の発足に際しては、人気でまさる自分は副会長となり、年長の六代目春風亭柳橋を会長にたてた。

 時代を動きに敏感で、大正8年、18歳でラジオ初出演し、テレビにも創成期から着目した。昭和28年、52歳の時から、15年間続いた長寿番組「ジェスチャー」(NHK)に出演。最盛期には60%を越す視聴率をあげた「おトラさん」ほかの出演作品がある。

 私生活では、好奇心が強く、多趣味だった。金にはならぬ発明道楽から、一向に勝てぬ野球チームの組織まで。発明についていえば、特許こそとらなかったが、小学生が運動会でかぶる赤白の帽子は金語樓のアイデアだとか。

 金語樓は艶福家だったらしい。著者が金語樓の長男のせいか、色事にはほとんどふれていない。他にも書かれていないことがあるだろう。
 しかし、生前大衆を楽しませた人は、死後刊行される伝記も大衆を楽しませるものであってよい。

 古川ロッパやエンタツたちの小伝に全体の三分の一を割いている。戦前から戦後に至る喜劇人列伝としても読める。
 既成観念にとらわれない著者は、たとえば次のようにいう。「しかし、初めて団体生活を経験した軍隊というところは、金語樓にしてみれば、ちょうど私たちの学校のようなものだったかもしれない」
 これは、竹内好の観察と正確に同じだ。

□山下武『嗚呼、懐かしの金語樓』(小学館、2000)
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書評:『聾の経験 18世紀における手話の「発見」』

2011年02月27日 | 医療・保健・福祉・介護
 『現代思想』1995年3月号(青土社)に掲載された木村晴美・市橋泰弘「ろう文化宣言」は、多大な反響を呼んだ。翌年4月、「宣言」を巻頭論文とする『現代思想』臨時増刊特集号が刊行された。
 「宣言」は言う。日本語が言語であると同様に、手話もそれ固有の音韻構造、独自の文法体系と語彙体系を有する自然言語であると。そして、ろう者とは日本手話を話す言語的少数者である、と定義する。
 「宣言」が批判するのは、第一にろう教育における口話主義である。口話とは、発語と読唇によるコミュニケーションである。口話主義教育はろう児が一度も聞いたことのない音声を発音させ、相手の話を唇の形から読みとらせるという「気の遠くなるような方法」だ、と著者らは難じる。批判の第二は、「シムコム」である。日本語に対応する単語を並べただけの、しかも日本語の文法に即した「シムコム」は、手話をとりいれたろう教育においても、手話サークルにおいても優勢なのだが、ろう者にとって自然な言語である日本手話とは似て非なものである、と弾劾する。
 19世紀後半以降、世界のろう教育は口話主義が主流となり、手話は「排除」された(その代表的な論客は電話の発明者グラハム・ベルで、彼の論考が本書の付録となっている)。ところが、米国では1960年代に手話の言語学的分析への取り組みがはじまった。ろう者の手話が言語として認められていく過程で、ろう者共同体を言語的少数者、文化的集団としてとらえる視点が生まれた。
 こうした今日の風潮に立って、手話の言語的独立性がろう者自身によって主張されていた時代、つまり18世紀のフランスを掘り起こしたのが本書である。すなわち、「ろう者の父」ド・レペ神父をはじめとする当時のろう教育実践記録やろう教育史研究、またろう者の自伝をまとめたアンソロジー集である。「宣言」をきっかけに訳出された。編者のハーラン・レインは言語心理学者で、序論において、ろう者を「病理学的」に見る視点を斥け、今日的な「社会的説明モデル」に立脚して各論文及び自伝を鳥瞰しつつ再評価している。
 巻末に特別寄稿として木村晴美・市橋泰弘「ろう文化宣言以後」をおさめる。「宣言」の後5年間に寄せられた批判に対する回答である。批判に十分答えているかどうか疑問の余地が残る記述だが、ろう者の主体性確立の熱い願いが伝わってくる。

□ハーラン・レイン編(石村多門訳)『聾の経験 18世紀における手話の「発見」』(東京電機大学出版局、2000)
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書評:『シャドー81』

2011年02月26日 | 小説・戯曲
 ハワイへ向かうロス発ボーイング747がハイジャックされた。ハイジャッカーは乗客にまぎれこんだテロリストではない。1機の軍用機だった・・・・。
 第1部は入念な準備、第2部はハイジャック及び身代金奪取の実行、第3部は犯行後の動きと謎の開示、という構成である。
 冒険小説の白眉だ。いやいや、柄が大きくて冒険小説の枠にはおさまらない。限られた滞空時間内に要求が達っせられるかというサスペンスがあるし、当局の裏をかいて着実に大金をせしめるコン・ゲームでもある。全編、悪漢の立場に立つから、ピカレスク・ロマンの要素もある。米国人を徹底的に揶揄しているから、諷刺小説としても読める。

 主人公の性格が、じつに痛快だ。たまたま同乗していた大統領候補がのこのこ調停役をかって出ると、その日ごろの怪しい政治的言動について、歯に衣をきせないでズケズケと指摘する。この大統領候補、威嚇される立場だから、いつものように権力をもって黙らせることはできない。舌先三寸でごまかそうとするのだが、言われっぱなし、青菜に塩となるのであった。
 このやりとりは無線を通じて広くマスコミに流されたから、彼はこの時点で政治的に死んだ。
 対立候補の現大統領がラジオに熱心に耳をかたむけ、ほくそ笑むのは当然だ。

 かくも魅力ある悪漢は、犯行において血を流さないという点で、遠くアルセーヌ・ルパンの系譜をひく。
 切れ味がよく、具象的でイメージを結びやすい語り口。脇役もていねいに描きこまれている。
 市民が週末の夜を楽しくすごすことができるなら、本一冊に大枚をはらう価値は十分にある。いや、本書の場合、大枚を用意する必要はない。文庫だから、小枚くらいか。
 ベトナム戦争はサイゴン陥落からまもない時期に書かれた話なのだが、緊迫した場面の設定や人物の言動は今もって新鮮だ。
 どうやら、こう考えるのは私ばかりではないらしく、訳書は版を重ね、出版社をかえ、今日も店頭にならんでいる。
 著者は早逝したのか、その後の作品をみない。惜しいことだ。
 余談ながら、航空機ファンならばホーカー・シドレーハリアーを念頭におくと、興趣が深まると思う。

□ルシアン・ネイハム(中野圭二訳)『シャドー81』(新潮文庫、1977;改版1996。ハヤカワ文庫、2008)
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書評:『爆殺魔(ザ・ボンバー)』 ~スウェーデン・ミステリー~

2011年02月25日 | □スウェーデン
 ときは2003年。ところは7か月後に夏季オリッピックが開催される(という設定の)ストックホルム。
 ヒロインは32歳の記者アニカ・ベングツソン。夕刊紙クヴェルスプレッセンの事件報道部デスクに抜擢されたばかりだ。
 クリスマスを間近にひかえた12月18日(土)、午前3時22分、アニカは夜間デスクからの電話によって泥のような眠りからたたき起こされた。オリッピックのメイン会場が爆破されたのだ。ヴィクトリア・スタジアムを一望できる場所で、現場で合流したカメラマンとともにアニカは医療班の面々がビニール袋を手に何かを拾い集めている場面を目撃する。
 被害者は、オリンピック組織委員会委員長クリスティーナ・フルハーゲだった。
 オリンピック開催に対するテロ、という見方が他の新聞、TV、ラジオでは優勢だった。しかし、アニカは警察のディープ・スロートによる情報に基づいて個人的怨恨説を採り、クリスティーナの当日の行動、さらにその人となりと過去を追う。かくて、部下からは敬愛され理事からは満腔の信頼をおかれていた有能な人物の、隠されていた側面がだんだんと明かになる。
 そして第二の爆殺事件が起きた。追求の手を休めないアニカにも危機が迫る・・・・。

 記者ものミステリーは、米国ではウィリアム・P・マッギヴァーン、わが国では三好徹が名高い。彼らは、事実の背後に真実を探る探偵と化した新聞記者を描いて秀逸な作品を量産した。
 リサ・マークルンドもこの流れに立つが、彼らにないにはない独自な視点がある。すなわち、仕事と家庭との葛藤である。
 スウェーデンは、子育てのために閣僚の椅子を捨てた男性もいるお国柄である。アニカが2人の幼い子どもを大切にするのは不思議ではない。しかし、事件記者である以上、一朝事件が発生すればクリスマスの準備や子どもたちと過ごす時間を犠牲にせざるをえない。ともに暮らすトーマス・サミュエルソンは理解あるパートナーで、保育園への送迎を受けもったりするが、料理しても後かたづけはしない性分である。それに、彼にも国家公務員としての仕事がある。当然、時として夫婦のあいだに育児や家事の分担をめぐっていさかいが生じる。親族との間にもきしみもある。トーマスの昔かたぎの母は、保育園利用に批判的なのだ。このあたり、制度をみるだけではつかめないスウェーデン国民の実生活がかいま見られて興味深い。

 勤務先でもアニカの神経をすり減らす種が次から次に湧いてくる。自分をさしおいて、という思いをもつ男性の先輩は理不尽な嫌がらせをするし、脳天気で軋轢を起こしがちな同性の部下をしかと管理しなくてはならない。男女平等も楽ではないのだ。かててくわえて、編集会議ではほとんど権力闘争に等しい丁々発止の議論が待ち受けている。

 爆殺されたクリスティーナは、こうした経験を経て大きな組織の長となったのだ。
 そして、ネタばらしの禁忌をあえて侵せば、男女平等を標榜するスウェーデン社会の現実が爆殺魔を生んだ。つまり、記者アニカ、被害者クリスティーナ、犯罪者の三者は、比喩的に言えば一卵性の三つ児なのである。
 本書はスウェーデンの推理小説アカデミー新人賞及びポロニ賞(新人女性推理作家に贈られる)を受賞し、スウェーデンでは、人口の1割以上の部数が売れるベストセラーとなった。本書は、続々と生産されることになるアニカ・シリーズの第1作である。

□リサ・マークルンド(柳沢由美子訳)『爆殺魔(ザ・ボンバー)』(講談社文庫、2002)
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【言葉】統計でウソをつく法

2011年02月24日 | 心理
 カゼなどは、適切な手当をすれば七日のうちにも治るだろうが、そのままにしておいてもたかだが1週間ぐずつくくらいのものである。

【出典】ダレル・ハフ(高木秀玄訳)『統計でウソをつく法 』(講談社ブルーバックス、1968)
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書評:『スーパーマンへの手紙』

2011年02月23日 | ノンフィクション
 スーパーマンは米国の英雄だが、スーパーマンを演じる役者には不遇が待ち受けているらしい。TVドラマで初めてスーパーマン役を演じたジョージ・アリンはアルツハイマー病になり、彼のあとを継いだジョージ・リーブスは45歳で自殺した。そしてクリストファー・リーブもまた人気絶頂のさなかの1955年5月27日に、落馬して脊髄を損傷し、四肢麻痺の身となった。
 しかし、リーブは前二者と異なり、不屈の意志で闘病し、ふたたび映画界に甦る。このあたりの事情は、リーブ自身の手記『車椅子のヒーロー(原題”STILL ME”)』(布施由紀子訳、徳間書店、1998)に詳しい。

 もともと気骨のある人物だったらしい。たとえばアムネスティの活動を支援する一環として、1987年、チリに飛び、軍事政権により死に直面していた俳優たち77名を救っている。
 とはいえ、個人の意思だけでは復活できなかったに違いない。家族の支えが大きかったはずで、その家族は数多くのファンや友人から支えられた。おそらくリーブ自身も。

 受傷後ぞくぞくと寄せられた手紙は、3週間で3万5千通。その後もとぎれず、書き手は米国の全州に加えて十数か国に広がる。日本からも千羽鶴が送られた。これらの書簡を一部抜粋し、テーマ別に編集したのが本書である。
 クリスのファンならば、間奏曲ふうに挿入される「あのころのあなたは」を最初に読むとよい。小学生時代の老担任教師から偶然言葉をかわした人たちまで、さまざまな出会いが証言されている。
 映画ファンならば、「楽屋裏」から入ろう。キャサリーン・ヘップバーンたち錚々たる俳優・女優、監督たちの熱い友情の言葉を目にすることができる。ことにエマ・トンプソンの手紙がよい。役柄から受ける印象そのままに、愕きと哀しみにみちた心情を切々と、しかし控えめに綴っている。
 全体として明るく、笑わせる文面が多いのは、米国人の国民性なのか、編者の選択の結果なのか。「子供たち」はもとより「みんなの願いと祈り」も読んで楽しい。真摯な助言を集めた「治療法と癒し」さえ、ほのかなユーモアが漂う。
 趣が他とやや異なるのは、「逆境を乗りこえて」。病気や障害のちがいはあっても、クリスと同じような立場に立つ人々やその家族から寄せられた手紙の数々である。そのいずれも、自分のことだけでも精一杯であるはずだと思われる人々が励ましの言葉を贈っているのだ。

 本書を通読すると、生きているだけで、それだけで十分に貴重なのだ、という思いを新たにする。

□デイナ・リーブ(岡山徹訳)『スーパーマンへの手紙』(講談社シネマブックス、2001)
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書評:『サイゴンから来た妻と娘』

2011年02月22日 | ノンフィクション
 著者は、ベトナム出身の夫人を通じてベトナム文化あるいはベトナム人気質を見る。たくましい生活力、旺盛な食欲、それを満たすための執念、子どもに対する愛情と厳しさ、万事みずから決断する者のもつ独特の深さ・・・・。
 著者は職業ジャーナリストなのだが、その文章は客観的叙述をこえて、不思議な包容力を醸しだしている。異文化に対するいくぶんの違和感と、妻子に対する愛情がないまぜになった観察は、単なる観察をこえて、ベトナム的なものへの考察に広がっている。この広がりがあるからこそ、本書は私小説的回想にとどまっていない。
 たとえば、「市場文明圏」(著者の造語である)。

 雨期の前になると、うまそうなマンゴーが出まわる。売り子は、無知な異邦人には2千ピストル(当時2千円)とふっかける。ベトナム人相手なら半額の千ピストルで済ませる。
 だが、勝手知ったる著者の細君は「2百ビストルにしなさい」と一気に5分の1の値段を切り出す。当然、相手は渋る。「そんな、あんた--9百ピストルにしておこうよ」
 「ダメ、250ピストル」
 このあたりから交渉が本格化する。
 最初から正直な言い値を言い合って時間を節約したら、と著者は思うのだが、「そう思うこと自体が、そもそも、せわしないスーパーマーケット文化圏の発想なのだろう。市場文化圏では、この、私たちの目には消耗的でもあり、ムダにも見える日々のかけ合いそのものが、生活の実質らしい」
 このかけ合いはセレモニーではない。生活をかけた真剣勝負だ。かたや相場の二倍、三倍をふっかけ、かたや平然と五分の一に値切る手合いだから、ともにかたときも油断がならない。「売り手は日頃のよしみでまけるわけにはいかないし、買い手も過去の恩義で不当な値をのむわけにはいかない。目つきも顔つきも油断なく身構え、義理人情抜きの、キツネとタヌキになる」
 相手の顔色を読みながら駆け引きしなくてはならない。これ以上注文をつけたら相手が傷つき、怒り出すな、と思ったらいったん引いて、お世辞の一つや二つは言わねばならない。このへんの呼吸がわからないと駆け引きできない。
 一事が万事。ベトナム人のこうした交渉能力は、停戦交渉でも発揮された。

 なぜわずか1ピアストルにこだわるか。
 無駄に使えば「あいつは金の価値を知らない」と馬鹿にされる。ひとたび馬鹿にされたら、次からはカモにされて、家屋敷さえむしりとられる。
 ベトナムの社会にはこうした苛酷さがある。飛ぶ鳥を落とす権勢をほこったグエン・カオ・キ元副大統領も、ひとたび失脚するや、釣瓶落としに凋落した。
 奔放に見えて苛酷、悠長に見えてまったく気を許せないベトナム社会の自由の状況に耐えていくには、自前の価値観をしっかりと固めておかねばならない、と著者はいう。
 ちなみに、フランス人も米国人も、しわい駆け引きをする。
 だが、日本人は、売り手の言い値の8割で妥協する「アッサリ型」か自分の言い値を譲らない「頑固型」の2種類に分かれるそうな。交渉能力に欠けるのである。

 距離的にはさほど遠くないベトナムだが、遠い米国よりもよく知らない・・・・というのが大方の日本人だろう。
 当時サンケイ新聞社記者だった著者、近藤紘一は、ベトナムとその民を日本人に身近くひきよせてくれた。惜しくも1986年没、享年45歳。あまりに早すぎる死だといわねばならない。

□近藤紘一『サイゴンから来た妻と娘』(文春文庫、1981)
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【読書余滴】小沢一郎の私兵、野党としての自民党の罪、政治家の無駄遣い ~大臣と元大臣との対談~

2011年02月21日 | 批評・思想
●小沢一郎の私兵
□民主党は、政党の組織についての整備をしていなかった。選挙に強いといわれた小沢軍団は、ほとんど私兵であって、政党組織ではない。彼が検察審査会にかかった問題も、直接的には政党のカネの問題ではなく、陸山会という個人の資金管理団体の問題だ。「政党が中心になって政治を行うという前提で選挙制度改革を行ったはずなのに、それに対応した組織になっていない。相変わらずコンビニのフランチャイズ・チェーンのように看板は一緒だけれども、経営は別みたいな、もっと言えば鎌倉時代の御家人集団みたいな状態にとどまっている」
△小沢は選挙結果というものを絶対視しすぎる。国政選挙は、その時点でのある種の「激情」が一票の中に入ってしまう。選挙のための民意には、何か情緒的部分がある。あいつをやっつけてしまえ、という感じの。だから、そういう一時点での熱狂に左右されないように、もっと広く民主主義の土台は熱狂から遠ざけておくのだ。その代表的なものは、宮内庁、検察庁、内閣法制局だ。だから、そういうものに対して、絶対多数を取ったからといって、手を突っ込むのはよくない。
□教科書風にいえば、民主主義は議論が一番重要で、discuss and persuade だ。議論して、異論・反論の中から合意を形成していく。議論の経過が重要だ。ところが、小沢は、そういうことにほとんど価値を認めていない。小沢が幹事長のとき、税制を議論した議事録をみると、突如、次の会でそれまでの議論とは関係なく、まったく違った結論になってしまっているものがある。前回までこういうことだったが、党から要望があって、こうなりましたという説明だけ。小沢から政務三役に電話が入って結論が変わったのだ。それなら、そういう政治だと言えばよい。「北朝鮮民主主義」だと。「公開プロセスだと言っておいて、実はそれとは別のところにデジション・メーカーがいるというのは、まさに二重権力です。こんな政党ではだめですね」

●野党としての自民党の罪
□自民党の批判は、ほとんどパンチ力がない。これが問題だ。変わらざるものとして、野党があった。善し悪しは別にして、だめなものはだめという勢力があって、一定の共感を、自分の党の支援者以外にも波及させるだけの力が昔はあった。いまはそれがなくなった。自民党がわあわあ言っても、それをみんなが笑って見ているような風潮になった。これは自民党の罪でもある。民主党も自民党も、国民に対するプレゼンスがすごく落ちた。
△両方とも劣化している。
□とにかく政党が力を持っていない。政党の力が発揮できない。これが一番気になる。

●政治家の無駄遣い
□政治の問題だったら、政党交付金の使い方ぐらい、ちゃんと明朗にするべきだ。170億円ももらって、「どこかのどなたかが決めていて、さっぱりわからない」・・・・だ。こんなぶざまなことはない。官房機密費は、告白やら内部情報が出ている。それを見ると、これまでの使い方はボロボロだ。文書交通費とか歳費とか、国会議員の処遇は、一般の国民から見たらべらぼうだ。国民に税負担増を求めるなら、政治家たちも身を切る覚悟をせよ、という声は当然出てくる。
□政治家は、政治資金は税金ではないから、そんなに厳しく考えなくてもいい、と思っている向きがある。ところが、政党交付金が党に入って、これが支部にいく。政治資金の中には、実は税金が紛れこんでいる可能性がある。また政治資金として集めたカネも、出し手の側は税の控除を受けられる。免税資金を政治家は集めている。集めた側の政治家も、事業者が必要経費を控除されるのと同様に、政治活動を行う経費だから課税されていない。そのへんの自覚が、いまの政治家にない。為政者がこんな感覚でいるかぎり、具体的に増税の話が出たとき、多くの人が賛成することには、多分ならない。  
△宮澤喜一元首相がつぶやくように言った言葉をずっと覚えている。「税金を使って政治活動をやるようになったらおしまいだな」、なんで政党交付金なんだ、と。政治にカネがかかるところが間違いだ。かからないようにすればいいだけの話だ。慶弔電報代だけでも年間1,000万円以上もかかる人もいるらしい。さらに、ゲートボール大会とか盆踊りまで打っていれば。
□同じ政党なら、電報ぐらい一つにしなさい。複数の国会議員が連名で打てば、経費は途端に3分の1、4分の1になるのに、それをしない。コンビニのフランチャイズ・チェーンだから、みんなが自分で打つ。
△その電報が税金から出ているという話になったら、みんな払わないだろう。
□事業仕分けしたらいい、政治家の政治活動経費も。
△ああいう億単位の政党交付金をもらっていて、財政再建も何もない。財政が健全化するまでは、政党交付金は棚上げにするぐらいのことを民主党がやらなかったら、国民はついていかない。

   *

 以上、片山善博/田中秀正「対談 いま、政治に何が求められているか」に拠る。
 □は片山善博、△は田中秀正の発言要旨である。
 なお、対談日は、2010年6月17日。片山善博は、2010年9月17日に総務大臣に就任したから、対談当時は正確には大臣ではない。

【参考】片山善博『日本を診る』(岩波書店、2010)


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【読書余滴】酒井啓子の、エジプト政権を転覆させた市民運動の新しさ

2011年02月20日 | 批評・思想
(1)超党派の運動
 チュニジア、そしてエジプト・・・・若者を中心とした一般市民が超党派で立ち上がったのは、中東ではイラン革命以来だ。これまで弾圧を恐れて動かなかった市民が動いた点で、パレスチナのインティファーダ(1987年)を彷彿させる。
 他のアラブ諸国にも波及している点で、50~60年代にアラブ民族主義軍人が英仏の中東支配に反撥して各国で次々にクーデタを起こした歴史を想起させる。その軍人たちが作りあげた政権の成れの果てに対して、民衆は恐怖をふりはらって抵抗した。

(2)イデオロギー的主張を控えた市民運動
 経済悪化や格差拡大は、今に始まったことではない。なぜ突然、市民運動が高揚したのか。
 新しい市民運動の背景には、近年のアラブ世界の若者の政治不信がある。政治的自由化は成果を上げていない。野党は十分な役割を果たしていない。かかる状況の中で、既存の政党や組織によらない無党派の反政府運動が徐々に形成されたのだ。
 その典型例が2008年の「4月6日青年運動」だ。それまでの政党活動に限界を見て、ネットを通じた市民運動を独自に広げた。
 チュニジアもエジプトも、デモの中心となった市民運動は、基本的に党派性から距離を置いた。デモは、学生や労働者を中心に、社会経済的観点から政権批判を展開した。反米、反イスラエルの声はほとんど上がらず、イスラム色も薄い。イデオロギー的主張は影を潜めている点が特徴的だった。

(3)ムバラク後の危機意識
 市民運動の広がりに対してムラバク大統領は、国民の間に再び恐怖を呼び覚ますことで対応した。
 生活や生命が脅かされる恐怖、政治が過激に揺れる恐怖である。ムバラク支持派を反政府デモ隊にぶつけたことは、典型的な挑発だった。ムバラクなきエジプトでは暴力が日常化する、という脅しだ。市民が暴徒化すれば軍は鎮圧に動かざるをえない。ムバラク政権で支配層の一角を占める軍に対して、特権的地位から転落する可能性について危機感を煽った。
 そして、このたび何よりも特徴的だったのは、エジプトが反米化した場合の恐怖が強調されていた点だ。
 1月末に民衆デモが大規模化するや、イスラエルのメディアでは、政権転覆後のエジプトのイスラム化を危惧する大合唱が始まった。ハマスやイラン革命を引き合いにだして、危機意識が煽られた。
 だが、今のムスリム同胞団は決して急進的でもなく暴力的でもない。近年では、新ワフド党やキファーヤ運動など、世俗派の中道勢力と共闘を図ってきた。

(4)ムバラク後の新体制構築
 ムバラク体制終焉後の新体制構築が困難なものとなるのは確かだ。市民運動は、政権転覆には大きな役割を果たしても、政権の中心となりうる組織を持たない。方向性もバラバラだ。
 ムバラク後の体制は、それまで支配層だった軍やビジネス界、そして既存の野党勢力を加えた「昔ながらの」政治エリートによる調整で組み立てられていくだろう。
 その際、(a)ムスリム同胞団をどう位置づけるかは、新体制の大きな課題となる。(b)新しい運動に政治が開かれないと、市民運動による政治批判は収まらないだろう。

(5)市民運動の新しさ
 今アラブ世界を覆う反政府市民運動の高揚は、20年前の東欧民主化革命の波と並ぶ大きなうねりだ。
 米国は、東欧の変化は賞賛したが、アラブ世界の市民運動は双手をあげて歓迎するわけにはいかない。政治の自由化が一挙に進み、反米、反イスラエル勢力が台頭するのは避けたいからだ。
 この点を市民運動側もよく理解している。危惧を国内的にも対外的にも抱かせないよう慎重に超党派性を維持している。この点もまた、このたびの運動が新しいゆえんだ。

【参考】酒井啓子「エジプト独裁体制の終焉 市民による政権転覆 中東の新しいうねり」(「週刊東洋経済」2011年2月19日号)
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書評:『自治体の挑戦 改革者たちの決断と実践』

2011年02月19日 | 社会
 本書は、「地方自治体の変化こそが、国の変化を促す」という観点から、28の地方自治体における新しい取り組みを、その開始の経過や鍵となる事項に重点を置いて報告する。
 福祉、環境、教育など八つのテーマに大別される。
 たとえば、情報公開。住民との「情報共有」まで徹底したのは北海道ニコセ町である。誰にでもわかる予算説明書を作成しているのだ。A4サイズ、約130ページ。写真、表が盛り込まれ、字体も見やすい。説明は、具体的である。道路補修整備事業を見ると、予算額だけではなくて施行場所まで記されている。この予算説明書は、縦割り行政を打破する副次的効果もある。役場の職員にしてみれば、自分の仕事が他のどの分野に関わるかを把握しやすいからだ。
 予算を知ることから予算配分への関与まで、ほんの一歩の距離である。一例をあげれば、全国で初めて平成5年9月に24時間ホームヘルスサービスを開始した秋田県鷹巣町。福祉政策は、ワーキンググループに住民が参加し、検討し、合意のうえ決定される。
 「私たち、国民一人ひとりが、決定権をもてる能力を有しているという自信をもつことが大事だ」と著者は言う。
 住民参加も行政の自己変革も、まだ始まったばかりにすぎない。「挑戦」とタイトルにある所以である。されば、住民の住民による住民のための地方自治実現を志す人々にとって、本書はよき水先案内になるだろう。自治体の職員は、他の自治体で行われていることに興味があっても、その情報を得る機会は多くない。その意味で、自治体の職員にも資するところが大であろう。
 ただし、この手の著作の性質上、負の側面には言及されていない
 たとえば、群馬県太田市は、市庁舎内清掃の民間委託をやめて職員がおこなうことにした。住民サービスのプロたちの時間を一部割いて庁舎の清掃に振りむけたわけだ。コスト・ダウンを評価するか、もったいないと見るか、評価が分かれるところだ。

□細川珠生『自治体の挑戦 改革者たちの決断と実践』(学陽書房、2000)
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書評:『自立のスタイルブック -「豊かさ創世記」45人の物語-』

2011年02月18日 | 社会
 バブル崩壊による不況は、個人と社会の価値観を変容させた。
 個人においては、従来正統的とされてきた生活のスタイルが見なおされた。たとえば、ある33歳の女性は、11年間勤めた商社を退職して、子ども時代からの夢であるイラストレーターになるためにニューヨークの美術大学へ進んだ。あるいは、別の27歳の女性は、花火への思いやみがたく、OLを辞めて、きつい、汚い、危険の「3K職場の典型のような」花火メーカーに転職した。
 会社経営のスタイルも変わった。かたや、事業リーダーもメンバーも公募、実力主義と競争原理を徹底させて、1994年度以降5年連続で利益が二桁増のミスミ(東証一部上場)。かたや、社長を置かず、役員はすべて平取締役、社員のすべてが何らかの形で経営の意思決定に参加し、ボーナスの査定は廃止、年功序列を堅持して65歳の実質定年まで雇用しつつも赤字とは無縁で大企業に劣らない賃金水準を維持する白光(大阪市)。
 本書には、こうした個性的な生き方、創造的な経営のしかたの実例が45件、報告されている。
 「自立」とは何か。本書の事例からすると、既成の社会通念や組織の惰性になずむことなく、志をたいせつにして自分の生きる道を選択することであり、あるいは時代に機敏に対応した組織改革や起業を行うことである。言うは易く、行うは難しい。じじつ、ある30代の男性は父子関係を重視して父親育児休暇を取ったために「事実上の左遷」となり、別の50歳の男性は一人暮らしの高齢者が集える食堂を開いて年収が半減した。自分の「こころ」を大切にして社会通念とは異なる生き方をすれば、それだけの犠牲を払わねばならないのだ。組織においても同様のことが言える。
 とはいえ、時代の変化は、人々に厳しい要請をするだけではなくて、それまで不遇だった人に光をあてた。たとえば、ある下肢障害者は、パソコンを使った在宅勤務、SOHOと出会ったおかげで社会参加が可能になり、安定した収入を得るにいたった。
 そもそも、時代は一方的に人へ与えられるだけではなくて、人がつくりだすものでもある。民間非営利団体(NPO)をはじめ、環境保護から手作りの祭りまで地域に広がった市民運動がこの点をよく示す。
 本書は、旧套を墨守しない生き方、組織のあり方を探る人々に多くの示唆を与えてくれる。新聞掲載時から若干の期間をおいて追跡した「追録」には、記者の肉声も加わっているから親しみやすい。また、連絡先や関連するホームページのサイトが付記されているから、より深く知りたい読者にとって便利である。

□共同通信社経済部編『自立のスタイルブック -「豊かさ創世記」45人の物語-』(株式会社共同通信社、2001)
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書評:『デキゴトロジー -恋の禁煙室-』

2011年02月17日 | ノンフィクション
 川崎市の会社員Kさん(35)が属する自治会の役員選挙が行われた。
 役員は、前年度の班長12名から選出される。
 班長だったKさん夫婦は大の競馬ファンで、土、日曜日はテレビとラジオにかじりつくのが常だった。
 貴重な時間をつぶすハメになっては一大事とばかり、役員就任を断固拒否することにした。役員選考会は欠席した。
 選考会の翌日、自治会長が訪れていわく、選考会ではあみだくじを引いて役員を選んだ、Kさんが役員に当選した、うんぬん。
 Kさん、いきりたって、「うちはすぐ近くに寝たきりの親がいるんです。土日はいつでも世話で大変なんです。老いた親を見捨ててまで役員をやれというんですか!」
 次の日曜日、Kさんは馬券があたって、妻子とともに夕食へ出かけることにした。
 ばったり出会った自治会長に、小学2年生の娘が無邪気にいった。「あのね、お馬さんが当たると、日曜はいつもパパとママがレストランへ連れていってくれるの。いいでしょ」

 「へーえ、そうだったの。いいねえ」
 自治会長の目は少しも笑っていなかった。

  *

 本書は、「週間朝日」に連載された「デキゴトロジー」集成の一。オリジナル文庫化第3弾である。
 「デキゴトロジー」は、すれっからしの視線に徹して、下ネタも避けない。週刊誌としてはやや高踏的な「週間朝日」のうちで、唯一無頼の気配をただよわせるコラムだった。
 連載中に愛読し、単行本を全巻そろえ、いまでも折りにふれてとりだしては睡眠薬代わりにしたりもする。
 このコラムは、前記の一例のように、いずれも秘めやかな笑いをもたらし、時として読者をおおいに哄笑させる。
 しかし、海千山千がひしめく世間で人気を保ちつづけるためには、ネタ発掘の取材に悲喜劇がともなったのである。記者のひとり森下典子は、手持ちのネタが尽きてのちは親兄弟や友人を売り、はては自分自身を売って祇園の舞妓に変身した(『「典奴どすえ』、角川書店、1987)。

□週間朝日編『デキゴトロジー -恋の禁煙室-』(朝日文庫、1997)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、財政再建の基本は地方自治の確立だ ~1940年体制の改革~

2011年02月16日 | ●野口悠紀雄
 国と地方の関係一般の見直しが必要だ。
 本来議論するべきは、「税と社会保障の一体改革」ではなく、「税、社会保障、そして国と地方との関係」だ。

 地方財政制度は、1940年度に確立された。その基本思想は、「地方自治の否定」だ。財源を所得税(ことに給与所得に係る源泉徴収税)と法人税という形で国に集中し、それを地方に再配分する。そして、全国一律の公共サービスを提供する。・・・・というものだ。
 このしくみは戦後日本にそっくり残り、高度成長期には適切に機能した。
 高度成長は、製造業の発展を基盤とした。よって、所得税と法人税が順調に伸びた。
 工業地域と農業地域の格差が開いたが、国が再配分し、調整した。

 その後、財政をめぐる基本的条件は変化した。
 (a)社会保障関係費の増加。
 (b)所得税、法人税の伸び率の低下。
 これらは、90年代以降の国の財政事情を悪化させた。この変化を経済危機が一挙に加速した。 
 しかるに、こうした大変化にもかかわらず、国と地方の関係に係る基本的な見直しは行われていない。

 むろん、国と地方の分担に係る議論はあった。05年の義務教育費国庫負担に係る存廃問題、現在の子ども手当や後期高齢者医療費に係る地方の負担拒否。
 ただし、これらは当該問題の枠内だけのアドホックな議論だ。国と地方の負担の押し付け合いであって、国と地方の関係に係る基本が議論されたわけではない。 
 このテーマは、一般の関心を惹かない地味な話題なのだが、財政の基本に係る論点を含んでいる。

 公共サービスのうち地方政府が提供するものは、義務教育、警察、消防、清掃などだ。
 これに加えて、年金を除く社会保障についても、地方の役割を中心に制度を再構築することは可能だ。生活保護、医療保護、介護保険は、基本的に地方に任せるのだ。さらに、子ども手当、農家の個別所得補償などの再分配政策も地方が行う。また、産業、公共事業も地方に移管する。
 そして、それに必要な財源措置を講じる。
 国の仕事は、年金、防衛、外交、司法などの分野に限定する。

 支出についても財源についても、地方公共団体が自由に決定できる制度にすることが重要だ。地方交付税交付金や国庫支出金の形で国が提供するのではなく、地方が税率を決められる地方税で徴収する。
 このような制度には、消費税は不適切だ。税率の低い地方で購入することで税負担を逃れられるからだ。固定資産税、住民税、事業税のような税目が必要だ。

 こうすれば、「足による投票」が実現する。
 (例)ある地方は子ども手当が多いが、地方税負担も重い・・・・と考える人々は、居住地を選択する。
 これは市場メカニズムと類似の機能だ。むろん、居住地の変更は容易でないから、市場メカニズムと同じようには機能しない。しかし、住民は通常の選挙を通じても、財政に係る意見を表明できる。

 財政支出が野放図に増加するのは、支出と負担の関係が明確に意識できないからだ。
 高い財政便益には高い負担が必要だ。この当然のことが、いまの日本の財政構造では意識できない。この構造が残る限り、いくら増税しても支出が膨張してしまう。
 消費税率引き上げは、当面の財政を工面するつじつま合わせにしかならない。消費税を引き上げても焼け石に水だ。

 便益と負担をリンクさせ、かつ、それらを地方に移管する。・・・・財政支出の膨張をチェックするには、これしかない。1940年以来70年間続いた財政の基本構造を変革するのだ。
 これが財政再建に係る基本問題だ。
 「消費税を目的税化するべきか」「年金は税方式か社会保険方式か」といった問題設定は、枝葉のことだ。

【参考】野口悠紀雄「財政再建の基本は地方自治の確立 ~「超」整理日記No.549~」(「週刊ダイヤモンド」2011年2月19日号)
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【読書余滴】谷口誠の、米国のTPP戦略 ~その対抗策としての「東アジア共同体」構築~

2011年02月15日 | 批評・思想
 米国はなぜTPP(環太平洋経済連携協定)を強力に推進しはじめたか。
 米国は、2011年度から、ロシアとともに東アジア・サミットに招かれる。しかし、アジアの地域統合において主導権を握れないことを見抜いている。だから、米国主導の下で推進できるTPPを強力に進めようとしているのだ。
 そもそも、第二次大戦後の米国の世界経済戦略は、GATT/WTO体制にみられるように多角的貿易自由化政策を基盤としている。
 1987年にオーストラリアのイニシアティブの下に設立されたAPECも、基本的には貿易と資本取引の自由化をめざしている。APECはしかし、21の参加国の大半がASEANをはじめ開発途上国だった。米国の意図に反し、自由化を義務づけるものではなかった。
 米国は、APECの限界を見てとって、2006年には、より厳しい自由化をめざしたFTAAP(アジア太平洋自由貿易圏)構想を提唱した。完全な形での貿易と資本取引の自由化をめざし、そのためにTPPを強化してFTAAP実現のための核にすることを狙った。
 日本は、米(778%)のみならず、まだ多くの品目が高関税(小麦252%、バター360%、牛肉38.5%、粗糖328%)および規制により保護されている。これらは本来WTOが取り扱うべき問題だが、WTOは機能麻痺に陥っている。だから、米国はWTOに依存せず、APECよりもより強力かつハイ・レベルな自由化をめざすTPPを組織して、日本・韓国のみならず広く発展するアジア諸国、特に中国市場の自由化を狙っているのだ。

 菅政権がTPPへの加入を急ぐ背景に、最近の不安定化する東アジア情勢があるのだろう。安全保障の見地から米国に近づきはじめたわけだ。
 国内経済の不況から脱するためにもアジア太平洋への進出を狙うオバマ政権にとっては、一つのチャンスだ。米国が先般のAPEC会議において、急遽TPPを推進してきた真意もそこにある。

 米国のTPP戦略は、世界の農産物市場支配をめざす。これを可能にするのは、圧倒的に強い米国農業の生産性だ。米国で最も強いセクターは、農業である。
 米国は、長年にわたる直接、間接の公的資金投入により、灌漑、種子の改良、さらに農民の所得補償などを通じて農業の近代化に努め、世界最高の生産性を誇る農業を築きあげてきた。この事実については、意外と知られていない。米国が莫大な公的資金を投入していたことについては、公表されていない。GATT上も一種の hidden agenda (隠された課題)とされていた。GATTを創設し、そのルールを作ったのは米国である。米国は、GATTのルールに直接抵触しない形の農業保護戦略をとってきた。

 OECDの1997年の調査によると、2020年に農産物の純輸入量の最も多い国は日本だ。1,750億ドルの輸入を必要とする。次が中国で、農業の自由化を進めるならば1,700億ドルの輸入量となる。この時に農産物を供給できるのは米国だ。2,750億ドルの輸出余力を持つ。ついでオセアニアが1,100億ドル、ラテン・アメリカが800億ドル、ブラジルが480億ドルと続く。
 2020年の世界の農産物貿易の輸出入はバランスしているが、2050年の世界となると、世界人口、特に中国、インド、アフリカ等の人口増大と、これら諸国の所得上昇による食料消費量の増大により、世界の農産物輸出入のバランスは崩れる。食糧不足に陥る危険性は排除できない。
 要するに、世界の農産物供給能力の鍵を握っているのは、主として米国なのだ。この見とおしに立って、米国はTPP戦略を進めている。
 そして、米国は、EUやラテン・アメリカに比べて容易にTPP戦略を展開しうると見て、アジア太平洋地域にTPP戦略を持ち出した。その真のターゲットは中国だ。

 TPPが単に米国だけではなく、もとはアジア、特にASEAN諸国からも出てきた自由化構想であれば、日本は対アジア政策としても、これを無視することはできない。また、日本一国でこの流れを阻止または潰すことはできない。日本は、TPPを契機として利用するべき面は多いに活用し、悪しき面は排除するべきだろう。
 日本は、長期的視野に立って、(1)TPPとの関連で最も問題となる農業問題をどうするか、(2)TPPにより追いこまれる前に懸案の日・韓FTA、日・中FTAを結ぶこと、(3)「東アジア共同体」の実現に向けた地固めに着手するべきだ。

 2050年の世界人口は、推定91億人に増大する。中国、インド等人口大国も、豊かになるにつれ、食糧消費量が増大していく。
 1973年から1975年にかけて、米国は大豆輸出を規制し、大豆の需給が切迫したことがあった。谷口はこの時、米国の農林省の担当局長に、米国産大豆の最大顧客である日本には特別に大豆を供給してくれ、と頼みに行った。しかし、なぜ日本にだけ供給しなければならないのか、と簡単に断られた。
 いつまでも米国の食糧供給に依存するのではなく、日本の食糧自給率を高めるべきだ。併せて、食糧供給の安全保障を確保するべきだ。農業に関しては、米国のTPP戦略に迎合するべきではない。

 先進諸国のGDPに占める農業の比率は、一般的には決して高くない。米国といえども、わずか1.1%だ。日本より低い。他の先進国の比率も、一部農業国を除けば1%以下だ。しかし、どの国にとっても農業は、他の工業セクターとは異質の戦略的産業である。
 GATTルールも、元来は工業製品を対象としたものだった。農生産物は例外扱いとされていた。米国も、特定の農産物については、1955年にGATT25条のウェーバー(自由化義務の免除)を取得し、輸入農産物の制限措置をとった。また、米国はオーストラリアとの二国間協定により、佐藤と乳製品の2品目については戦略的物資として保護している。EUも、共通農業政策による助成金という形で農民の所得保障のほかに農産品輸出女性を行ってきたし、EUという超国家機構に組みこまれることでグループとして保護されている。
 日本は、食糧転入国として組むべきパートナーを見いだせずに孤立化している。これまでのGATT/WTOの交渉においても不利な立場に置かれてきた。

 TPPがアジアに与える長期的影響は、米国の政治、経済力が相対的に低下しつつあるにもかかわらず、アジアの対米依存体質を変えないことだ。世界第二の大国として躍進しつつある中国も、米国経済への依存体質から脱却していない。韓国経済にいたっては、ますます対米依存関係を深め、実質的にはTPP加入国といってよい。
 アジアがこのような状態から抜け出すには、「東アジア共同体」のもたらすメリットを再検討するべきだ。

 現状では、TPPはアジアを二分する危険性を孕んでいる。日本、韓国は加入あるいは加入を検討する方向に進むだろう。中国はTPPに慎重な対応をするだろう。
 TPPが、アジアにおいて有効な地域協力組織として成功するか否かの鍵は、中国が握っている。

 中国は、農業生産増大に努めることで主要穀物の90数%台の自給率を保っている。しかし、所得増による生活レベルの向上により、食糧消費量は増大する。また、食生活のパターンが穀物より食肉(特に牛肉)の消費に変化していく。そのため、中国の食肉用飼料の輸入は急増しつつある。
 中国が農業市場を自由化すれば、中国が日本を抜いて世界最大の食糧輸入国となる。
 アジアに係る米国のTPPによる農業戦略の弊害を回避できるかどうかは、日本と中国、特に中国がどの程度食糧自給体制を保ち、いつまで食糧自給率を維持できるか、にかかっている。

 日本も中国も、米国をはじめとする一部の限られた国または地域に依存することは、きわめてリスクが高い。
 現状では、食糧供給の安全保障について、日本は裸に近いし、中国もリスクを抱えている。日中が協力して「東アジア共同体」を構築し、アジア諸国の共通農業政策の下で食糧供給の安全保障システムを打ち立てることが重要だ。
 日本は、限られた自然条件の中で育成した高品質の農産物を生産する能力と技術を持つ。すぐれた環境技術も持つ。これらをアジア諸国に移転することでアジアに新しいグリーン・レボリューションを起こすことができれば、アジアは米国の農業に依存しないで自立の道を歩むことができる。
 これは「東アジア共同体」の構築によってのみ可能であり、「東アジア共同体」のもたらす最大のメリットだ。

【参考】谷口誠「米国のTPP戦略と『東アジア共同体』 -私たちがいま考えなければならないこと-」(「世界」、2011年3月号)
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【読書余滴】山口二郎の、幻滅の与党&空洞化の野党に対して国民はどう付き合うか ~政党政治の危機~ 

2011年02月14日 | 批評・思想
(1)はじめに
 「民主党に対する幻滅が決定的となった今、政党政治と辛抱しながら付き合うという感覚は持ちにくい。しかし、自民党に代わる政権政党を作り出すということは、半世紀がかりの大仕事である。期待が大きかったあまり、民主党政権のすべてを否定するという態度は誤りである。今までの経験を通して学習し、矯正すべき部分と、政権交代の大義に照らして逸脱した現状を厳しく批判するという部分を識別することが必要である」

 「同時に、今の民主党政権が実現できること、優先的に実現すべきことをある程度絞り込むという現実的な対処法を取るべきである。(中略)政権が取り組む政策綱領を絞り込み、力を発揮できる領域でその実現を図ることを応援することが必要である」

 「一年足らずでまたしても政権崩壊ということになれば、国民の政党不信は無限大となる。自民党政権に戻すという選択が魅力的でないことも明らかである」

(2)民主党における常識の必要
 「民主党にはいろいろな問題があるが、最大の問題は政策以前に、政党、政権の体をなしていないという点で、人々が呆れているというのが実態であろう。与党の政治家の最大の役割は、予算編成など国家の経営のために必要な意思決定を紀元までに行うことである。民主党は、党として決定に責任を負うという体制を持っていない」

 「与党の政治家が責任感を持つということは、統治の大前提である。責任感の中身には、目先の人気や忠実な支持者の利益だけを重視するのではなく、広い視野でものを考えること、一度決まったことには個人として不満があってもそれに従い、支えることなどがある。政権を担えば、あちらを立てればこちらが立たずちった類の問題について、意思決定を繰り返していかねばならない。その種のトレードオフから逃げず、これを引き受けることこそ、政治家の責任である」

 「さらに、政策調査会を復活させた以上、議員が政策論議に参加し、党として意思決定を行うためのルールを確立しなければならない。(中略)これを通して、トレードオフについて責任を持って決定するという感覚を党全体で共有しなければならない。政権交代以後、一年半ほどの民主党は、まさに仮免許状態だったのであり、そのことを率直に謝って、新しい体制を作るしかない」

(3)政権交代の大義と政策的基軸
 「民主党に綱領が存在しないことは、しばしばこの党が理念的根拠を持たないことへの批判として語られる。(中略)しかし、対立軸の困難な時代において、政党が機会主義になることは必ずしも悪いことではない。政党にとっては、万古不易のイデオロギーを探すことよりも、同時代の問題を察知し、その解決を図る際に役立つ道標を見つけることのほうが重要である。問題認識や打ち出す処方箋の適格性をめぐって、政党は競争するしかない」

 「『生活第一』路線は、ポスト小泉改革の時代、生活苦を感じるようになった国民に支持された。問題は、民主党がその機会を生かして、『生活第一』路線を実現する実際的な能力を発揮するかどうかである。民主党の議員が全員社会民主主義の思想を持つ必要などない。しかし、国民から負託を受けた以上、この衆議院の任期中に『生活第一』を具体化する政策を一つでも多く実現することは、民主党の責務である。政治家に必要な理念とは、このような専門的職業人としての責任感である」

 「菅政権は、政権交代に希望を托した人々の思いを無視し、民主党には一度も投票したことがなく、政権交代など起きて欲しくないと思っていた集団【引用者注:法人税減税を要求する集団・武器輸出三原則を変えたい集団】の意向を必死で聞こうとしているようである。そのことこそ民主党への失望が広がっている最大の原因であることに、指導部は気づくべきである」

(4)民主党の統合と小沢問題
 「小沢に対する検察の捜査は、政党政治に対する官僚権力の介入という別の問題をはらんでいる。検察の暴走が明らかになった今、起訴されただけで離党や議員辞職を要求するというのは、政党政治の自立性を自ら放棄することにつながる」

 「他方、小沢の側にも、犯罪事実があったかどうかは検察が証明する責任を負うという姿勢を続けるだけでは不十分である。与党の実力者は、身に覚えのないことであっても、疑惑が持ち上がれば進んで自らそれを払拭するための努力をしなければならない。進んで公開の場に出て、野党の追及の矢面に立つことが政治家の宿命である。小沢が国会で釈明することを拒み続けるのは、民主党ももう一つの自民党に過ぎないという失望感を広めるだけである」

 「マニフェストの財源に関する公約は不十分なものだった。(中略)したがって、『生活第一』の理念に照らして、マニフェストの中のどの政策から先に実現するかという優先順序をつけ、そのための財源をどのように確保するかを考えるという作業にまじめに取り組まなければならない。民主党の議員はすべてその作業から逃れることはできない」

 「菅首相が何よりもはっきりさせるべきことは、『生活第一』という理念を堅持することである。『生活第一』を、責任を持って実現するために、税制や社会保障制度を改革することが必要だという論理で、与党や国民を説得するしかない。(中略)小沢を厄介払いしようとする姿勢は、『生活第一』を廃棄しようとする態度に重なって見える。そのことが民主党の混迷の最大の原因である。TPP(環太平洋経済連携協定)への参加は、『生活第一』への逆行という批判を受けて当然である」

(5)税・社会保障一体改革をめぐって
 「この布陣には、『生活第一』を国民合意のもとに安定した政策基軸に高める可能性があると期待できる。/そもそも与謝野【引用者注:与謝野馨・経済財政担当大臣】は、自公政権末期の社会保障国民会議や安心社会実現会議の中心として、社会保障改革の議論を主導した経験がある。(中略)当時、小さな政府路線からの転換に関しては、程度の違いはあったが、実は政党間で共通の問題意識が存在したのである」

 「菅首相と与謝野が目指そうとしているのは、かつて自公連立の福田、麻生政権でも主張していた『人生全般をカバーする社会保障』である。(中略)日本では神野直彦が北欧諸国の経験をもとに、日本でもこのようなモデルを取るべきと提唱してきた。福田、麻生政権以降の自民党の展開と民主党の言う『生活第一』の両方を公平に視野に入れるならば、新しい社会保障モデルで幅広い国民的合意を構築することも、決して荒唐無稽な話ではない」

 「もちろん、気息奄々の菅政権がいきなりこのような合意を求めても、すぐに議論が進むわけではない。ただし、野党の抵抗については、憂慮する必要はない。下野した後、敗北の総括もせず、敵失で政権復帰をねらう自民党に対しては、国民の期待は大きくない。政局第一で立ち回るなら、世論の支持は得られない。今の空洞化した野党にとっては、きわめてリスクの大きな選択肢である」

 「問題は国民の理解を得るための手順と議論の中身である。各種の世論調査が示すように、国民は社会保障を確保するためであれば、税負担の増加を受け入れる用意があると考えている。しかし、税制改革や負担増の問題を議論するときに人々が不信感を持つのは、負担増がどのような社会をつくり出すことにつながるのか、はっきりした道筋が見えないからである」

 「その際の障害は、財務省と経済界という二つの主体である。財務省は財政赤字の縮小のために一貫して増税に執念を持っている。その健全財政主義には二つの欠陥がある。第一は、増やすべき財源として消費税に偏っている点である。金額としては消費税率の引き上げがすぐに大きな歳入増につながるとしても、公正、公平な負担という理念に照らせば、増税の手順を十分議論する必要がある。/第二は、負担増によってどのような社会を目指すのかという基本的理念が空白だという点である。本来財務省の主計官僚は予算編成の事務屋である。大きな負担で大きな福祉国家を作るのか、小さな負担で貧弱な社会保障を選ぶのかは、国民が決めることである。しかし、財務官僚は分際を超えて、国民の選択を先取りしてきた。税と社会保障の一体改革の中では、このような財務官僚の越権を打破しなければならない」

 「経済界およびその利益を代弁する一部のメディアは、依然として小さな政府のイデオロギーを信奉している。彼らは民主党政権の積極的な社会政策をバラマキと非難する一方で、法人税減税を要求してきた。(中略)その点で経済界は、臆面もなく自己利益を主張する最後の圧力集団である。日本の企業が利益を追求するために労働市場の流動化を進めたことこそ、日本人の生活の安定を脅かす一因となった。かつてのように終身雇用で日本人の生活を支えろというのは過剰な要求だろうが、それが崩壊した今、社会の底割れを防ぐために応分の負担をせよというのは、真っ当な要求である。経済界が消費税率の引き上げを要求するのは、単に国債の暴落を防ぐためだけであろう。そんな動機の議論が国民の理解を得られるはずはない」

(6)おわりに 政党政治と辛抱して付き合う
 「政権交代とは、単に権力者を入れ替えるだけではない。新しい権力者に任せきりにしていては、政権交代の意義などたちまち消え失せる。我々のおかげで政権を取ったのだから我々が望む理念を追求せよというふうに政権に対して声を上げ続けることが、選んだ側の役割である」

 「もちろん、このように政権交代の結末を辛抱強く見守ろうと主張することと、政権が何をしても許すということとは同じではない。譲れない一線を持ちつつよりましな道を選ぶという態度で政治を見ることこそ、政権交代可能な時代を切り開く市民に求められる」

【参考】山口二郎「民主党の“失敗” 政党政治の危機をどう乗り越えるか」(「世界」、2011年3月号)
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