(1)日本政府は、きわめて積極的な原発拡大政策をとってきた。その根拠とされてきたのは、(a)安全性、(b)供給安定性、(c)環境保全性(環境適合性)、(d)経済性(経済効率性)において原発は優れている、というものだった。
福島原発事故はしかし、これらすべての反証となった。
(a)’現場作業員や周辺住民はもとより国民全体に重大な生命・健康上の脅威を及ぼしている。
(b)’東電管内に数カ月にわたる深刻な電力不足が発生した。事故・災害・事件による原発の脆弱さが改めて浮き彫りになった。
(c)’陸海空への広域的な放射能汚染を起こした。
(d)’福島原発事故の経済的損失として数十兆円が追加され、原発の発電原価は火力発電の2倍以上となることが避けられなくなった。
(2)しかし、政府は脱原発という政策上の方向性を明確にしていない。のみならず、従来の原発に対する基本政策を変える姿勢をまったく見せていない。福島原発事故への対症療法的な政策を立てるにとどまっている。
個々の電力会社も、東電が大破した福島第一原発1~4号機の廃止を決めたのを例外として、経営戦略を変えていない。
(3)政府と電力会社が依然として原発に固執する理由は、外交・安全保障にある。それを一言でいえば、軍事利用と民事利用の両面にまたがる「日米原子力同盟」/「日米核同盟」だ。
(a)日米原子力同盟の民事利用における特徴は、日米の原子力メーカーが密接な相互依存関係を結んでおり、製造面では米国のメーカーは日本メーカーに強く依存していることだ。日本の脱原発は、ドミノ倒し的に米国における脱原発に波及する可能性が高い。米国政府が原発の輸出を外交カードとして、また利害関係者への便宜供与のために積極的に活用しようとするならば、日本の脱原発に対して強く反対するだろう。また、米国内に原発を建設するに際しても、同様の対日依存があるため、日本メーカーのサポートが不可欠だ。つまり、米国の外圧が日本の脱原発の障害となるのだ。
(b)日米原子力同盟の軍事利用面における特徴は、日本が米国の核兵器政策に対して、全面的に協力するとともに、自前の核武装を差し控えてきたことだ。日本は核武装のための技術的・産業的ポテンシャルを発展させてきた。軍事転用の観点からすると、商業用軽水炉はあまり魅力的ではない。しかし、核燃料サイクルの技術はきわめて野心をくすぐる。かかる核武装ポテンシャルを実際に発動して核兵器保有国となれば、日本が独自の外交政策・安全保障政策を展開する誘因が強まる。日米同盟の不安定化を招きかねない。米国としては、日本独自の核武装を押しとどめるとともに、日本の核武装ポテンシャルの発展を容認することが最善の策だった。もし容認しなければ自主防衛論の火に油をそそぎ、これまた日米同盟の不安定化をもたらす恐れがあった。
(4)自民党一党支配体制のもとで、日本の政治指導者は「侵略抑止至上主義」的な世界観を米国と共有し、それを基盤として核兵器による日本防衛を不可欠のものと考え、独自の核武装自粛の見返りに、米国からの「核の傘」の提供を求めてきた。
仮想敵国が核兵器を保有するならば、こちらも核兵器で対抗するしかない。銃には銃を、という考え方を究極まで肥大化させた世界観は、米国の軍事戦略にとって好都合だった。また、日本の政治指導者にとっても、日本が核武装ポテンシャルを堅持すれば、米国は日本の自前の核武装をなんとしても避けるために「核の傘」の提供を拒むことはできないだろう。これが日米原子力同盟のもう一つの支柱となった。
「侵略抑止至上主義」的な世界観は、被害妄想めいたところがある。軍事抑止は相互的なものだ。一方の軍拡は他方の軍拡を誘導する。その逆も真だ。日米同盟の周辺諸国にとっての脅威こそ、日本に仮想敵国からの核兵器の照準が合わせられている。しかし、日本の政治指導者はそうした認識を持たなかった。
こうした日米原子力同盟が、日本の脱原発に立ちはだかる最強の障害になっている。
日本は、脱原発へ向けた明確な方針を示すととともに、日米原子力同盟を破棄するか、少なくとも骨抜きにしなければならない。それが「脱原発国家」だ。
(5)核燃料サイクルは、核燃料の採鉱から廃棄までの全校的を包括的に表現するものだ。原発創成期に当然と考えられていた循環的再利用は、今では多くの国で放棄されている。
アップストリーム(フロントエンド)におけるウラン濃縮とダウンストリーム(バックエンド)における核燃料再処理が、核燃料サイクル技術の双璧をなす期間技術だ。高速増殖炉は、原子炉の一種であり、核燃料をこね回す技術には属さないが、バックエンド工程で抽出されたプルトニウムの消費技術として見ることができるため、核燃料サイクル関連技術、それも核燃料サイクルバックエンド関連技術の範疇に加えることもできる。
ウラン濃縮、核燃料再処理、高速増殖炉の三者は、機微核技術の中核をなす。機微核技術は、核兵器の開発・製造・利用に直結する技術を指す。その種類は多岐にわたるが、核爆発装置に用いる高品質の核分裂物質を大量生産する技術が、その中核となることは言うまでもない。
(6)脱原子力国家を実現するためには、商業発電用原子炉を廃止するだけでなく、これら3種類の核燃料サイクル施設を廃止する必要がある。
さらに、それに加えて「核抑止」を根幹に置く日米同盟の見直しも必要だ。「核の傘」が日本全土の上空を覆い、さらに北東アジア全域に巨大な陰を作っている今日の状況を根本的に変えずして、脱原子力国家について語るのは、ほとんどブラックジョークだ。
原子力は、産業技術としては、国家の手厚い保護・支援なしには生きていけない脆弱な技術だ。それでも、核兵器との技術的リンケージゆえに、今日まで生き延びてきた。しかし、商業化が1960年代から半世紀が過ぎたにもかかわらず、エネルギーとしては低迷し続けている。世界において、原発の一次エネルギー消費に占める比率は、3種類の化石燃料(石油・石炭・天然ガス)には遠く及ばない6.3%(2008年)にとどまる。しかも、実質的には水力(2.4%のシェア)の後塵を拝する第5位のエネルギーにすぎない。発電電力量そのものを一次エネルギー消費としてカウントする水力発電と異なり、原発では発電電力量の2倍となる廃熱も一次エネルギー消費としてカウントしているので過大表示となるのだ。多くの国の政府の半世紀以上にわたる強いコミットメントによって、かろうじてそうした地位を得ているのが実態だ。
原子力は、そうした脆弱な技術なのだ。原発は、経済合理性の欠如ゆえに、人為的な介入がなくては生存競争を生き延びることは困難だ。そこに脱原発が妥当であることの基本的な根拠がある。
以上、吉岡斉『脱原子力国家への道』(岩波書店、2012)の第1章「なぜ脱原子力国家なのか」に拠る。
【参考】
「【原発】『脱原子力国家への道』」
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福島原発事故はしかし、これらすべての反証となった。
(a)’現場作業員や周辺住民はもとより国民全体に重大な生命・健康上の脅威を及ぼしている。
(b)’東電管内に数カ月にわたる深刻な電力不足が発生した。事故・災害・事件による原発の脆弱さが改めて浮き彫りになった。
(c)’陸海空への広域的な放射能汚染を起こした。
(d)’福島原発事故の経済的損失として数十兆円が追加され、原発の発電原価は火力発電の2倍以上となることが避けられなくなった。
(2)しかし、政府は脱原発という政策上の方向性を明確にしていない。のみならず、従来の原発に対する基本政策を変える姿勢をまったく見せていない。福島原発事故への対症療法的な政策を立てるにとどまっている。
個々の電力会社も、東電が大破した福島第一原発1~4号機の廃止を決めたのを例外として、経営戦略を変えていない。
(3)政府と電力会社が依然として原発に固執する理由は、外交・安全保障にある。それを一言でいえば、軍事利用と民事利用の両面にまたがる「日米原子力同盟」/「日米核同盟」だ。
(a)日米原子力同盟の民事利用における特徴は、日米の原子力メーカーが密接な相互依存関係を結んでおり、製造面では米国のメーカーは日本メーカーに強く依存していることだ。日本の脱原発は、ドミノ倒し的に米国における脱原発に波及する可能性が高い。米国政府が原発の輸出を外交カードとして、また利害関係者への便宜供与のために積極的に活用しようとするならば、日本の脱原発に対して強く反対するだろう。また、米国内に原発を建設するに際しても、同様の対日依存があるため、日本メーカーのサポートが不可欠だ。つまり、米国の外圧が日本の脱原発の障害となるのだ。
(b)日米原子力同盟の軍事利用面における特徴は、日本が米国の核兵器政策に対して、全面的に協力するとともに、自前の核武装を差し控えてきたことだ。日本は核武装のための技術的・産業的ポテンシャルを発展させてきた。軍事転用の観点からすると、商業用軽水炉はあまり魅力的ではない。しかし、核燃料サイクルの技術はきわめて野心をくすぐる。かかる核武装ポテンシャルを実際に発動して核兵器保有国となれば、日本が独自の外交政策・安全保障政策を展開する誘因が強まる。日米同盟の不安定化を招きかねない。米国としては、日本独自の核武装を押しとどめるとともに、日本の核武装ポテンシャルの発展を容認することが最善の策だった。もし容認しなければ自主防衛論の火に油をそそぎ、これまた日米同盟の不安定化をもたらす恐れがあった。
(4)自民党一党支配体制のもとで、日本の政治指導者は「侵略抑止至上主義」的な世界観を米国と共有し、それを基盤として核兵器による日本防衛を不可欠のものと考え、独自の核武装自粛の見返りに、米国からの「核の傘」の提供を求めてきた。
仮想敵国が核兵器を保有するならば、こちらも核兵器で対抗するしかない。銃には銃を、という考え方を究極まで肥大化させた世界観は、米国の軍事戦略にとって好都合だった。また、日本の政治指導者にとっても、日本が核武装ポテンシャルを堅持すれば、米国は日本の自前の核武装をなんとしても避けるために「核の傘」の提供を拒むことはできないだろう。これが日米原子力同盟のもう一つの支柱となった。
「侵略抑止至上主義」的な世界観は、被害妄想めいたところがある。軍事抑止は相互的なものだ。一方の軍拡は他方の軍拡を誘導する。その逆も真だ。日米同盟の周辺諸国にとっての脅威こそ、日本に仮想敵国からの核兵器の照準が合わせられている。しかし、日本の政治指導者はそうした認識を持たなかった。
こうした日米原子力同盟が、日本の脱原発に立ちはだかる最強の障害になっている。
日本は、脱原発へ向けた明確な方針を示すととともに、日米原子力同盟を破棄するか、少なくとも骨抜きにしなければならない。それが「脱原発国家」だ。
(5)核燃料サイクルは、核燃料の採鉱から廃棄までの全校的を包括的に表現するものだ。原発創成期に当然と考えられていた循環的再利用は、今では多くの国で放棄されている。
アップストリーム(フロントエンド)におけるウラン濃縮とダウンストリーム(バックエンド)における核燃料再処理が、核燃料サイクル技術の双璧をなす期間技術だ。高速増殖炉は、原子炉の一種であり、核燃料をこね回す技術には属さないが、バックエンド工程で抽出されたプルトニウムの消費技術として見ることができるため、核燃料サイクル関連技術、それも核燃料サイクルバックエンド関連技術の範疇に加えることもできる。
ウラン濃縮、核燃料再処理、高速増殖炉の三者は、機微核技術の中核をなす。機微核技術は、核兵器の開発・製造・利用に直結する技術を指す。その種類は多岐にわたるが、核爆発装置に用いる高品質の核分裂物質を大量生産する技術が、その中核となることは言うまでもない。
(6)脱原子力国家を実現するためには、商業発電用原子炉を廃止するだけでなく、これら3種類の核燃料サイクル施設を廃止する必要がある。
さらに、それに加えて「核抑止」を根幹に置く日米同盟の見直しも必要だ。「核の傘」が日本全土の上空を覆い、さらに北東アジア全域に巨大な陰を作っている今日の状況を根本的に変えずして、脱原子力国家について語るのは、ほとんどブラックジョークだ。
原子力は、産業技術としては、国家の手厚い保護・支援なしには生きていけない脆弱な技術だ。それでも、核兵器との技術的リンケージゆえに、今日まで生き延びてきた。しかし、商業化が1960年代から半世紀が過ぎたにもかかわらず、エネルギーとしては低迷し続けている。世界において、原発の一次エネルギー消費に占める比率は、3種類の化石燃料(石油・石炭・天然ガス)には遠く及ばない6.3%(2008年)にとどまる。しかも、実質的には水力(2.4%のシェア)の後塵を拝する第5位のエネルギーにすぎない。発電電力量そのものを一次エネルギー消費としてカウントする水力発電と異なり、原発では発電電力量の2倍となる廃熱も一次エネルギー消費としてカウントしているので過大表示となるのだ。多くの国の政府の半世紀以上にわたる強いコミットメントによって、かろうじてそうした地位を得ているのが実態だ。
原子力は、そうした脆弱な技術なのだ。原発は、経済合理性の欠如ゆえに、人為的な介入がなくては生存競争を生き延びることは困難だ。そこに脱原発が妥当であることの基本的な根拠がある。
以上、吉岡斉『脱原子力国家への道』(岩波書店、2012)の第1章「なぜ脱原子力国家なのか」に拠る。
【参考】
「【原発】『脱原子力国家への道』」
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