語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【中野好夫】早々と放棄されていた沖縄と北千島 ~外交文書秘録~

2016年03月22日 | ●中野好夫
 (1)敗戦も必至という1945年の春。ひそかに中立諸国を通じて、和平の打診が試みられていた。7月12日、ついに勅命による近衛特使ソ連派遣が決まった。
 この事実を知る人は多い。
 しかし、表面的には白紙交渉というふれこみだったものの、内実は「和平交渉の要綱」なる文書をまとめていたことを知る人は多くない。

 (2)全文は「要綱」と「解説」に分かれている。「要綱」の一節、「条件」なる項によると、(ロ)領土問題に
 <なるべく他日の再起に便なることを努むるも、止むを得ざれば固有本土を以て満足す>
とある。
 では、固有本土とは何か。
 「解説」の3項「条件について」に具体的に記されている。すなわち・・・・ 
 <固有本土の解釈については、最下限沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半部を保有する程度とすること>
 近衛派遣は、すでに手遅れで、流産に終わった。
 ただ、サンフランシスコ平和条約にみる領土条項は、ほぼこの通りだった(その上に、千島など近衛私案以上にもぎ取られた)。

 (3)注目するべきは、近衛「私」案にせよ、このときすでに沖縄は「固有本土」のうちに数えられてはおらず、早々と棄てられかけていたことだ。その1か月足らず前まで、非戦闘員だけでも20万人以上の県民犠牲を強いた沖縄であるにもかかわらず。

 (4)この文書、さすがに外務省編集『終戦史録』(昭和27年刊行)には収録されていない。全文掲載されているのは、淮陰生が参看したかぎりでは、矢部貞吉『近衛文麿』下巻だけだ。
 近衛とその側近による私案とはいえ、近衛は天皇に示し、御璽まで添えた親書として携行する腹だったらしい。
 1977年6月、外務省は敗戦直前から連合軍進駐直後の一時期までの外交機密文書を公開した。この公開文書によれば、近衛私案にある北千島放棄について、すでに5月11~14日の最高戦争指導会議においてはっきり合意をみていた。
 最高戦争指導会議に係る公文書は、『終戦史録』二巻において公開されている。ただし、北千島放棄に関する合意の要所だけは、「以下省略す」との数語で、さりげなく隠されている(上巻332ページ)。

   *

 岩波書店のPR誌「図書」の1970年1月から1985年1月まで掲載されたコラム「一月一話」の集大成『完本 一月一話』の筆者、淮陰生の正体は誰か。
 連載中から、中野好夫ではないか、という噂があった。英語にも漢文にも堪能、シェークスピアへのたび重なる言及、該博な知識、剛毅な文体、犀利な政治批判・・・・。
 ちなみに、中野好夫は1903年(明治36年)8月2日生、1985年(昭和60年)2月20日没。コラム中断時期と中野昇天の時期とは付合する。コラムに「上方育ち」と自己紹介しているが、中野は愛媛県松山市生まれ、三高の卒業生だ。
 そして、本書の著作権は、中野静に属した。すなわち中野好夫の夫人である。

□淮陰生『完本 一月一話 ~読書こぼればなし~』(岩波書店、1995)
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【中野好夫】人びとの気持ちを変えるテクニック ~シェークスピア~

2016年03月21日 | ●中野好夫
 (1)『ジュリアス・シーザー』第3幕第2場、シーザー暗殺の後、まず暗殺主謀者の一人ブルータスが登場する。暗殺のやむをえなかった理由を説明し、市民は歓呼して、これを納得する。続いて、故人シーザーの友人にして同志のアントニーが登場する。その雄弁をもって、市民をして逆にシーザー万歳、暗殺者たちの邸を焼き討ちしろ、と叫ばせる。市民は暴動化する。
 舞台でみれば僅々20分間余。アントニーの演説は12~3分間程度。アントニーは舌先三寸で、この12~3分間のうちに、民衆の意志と行動を180度回転させるのだ。
 ここで注意したいのは、中野は当初「市民」と呼んでいるのだが、アントニーが「いわば真西を向いていたものを真東に向け変え」るあたりに筆が及ぶと、「民衆」と呼び換えている。以後「市民」は消えて、「群衆」または「大衆」となる。激越な評語を伴って。このあたりに中野の複雑な心情を忖度できる。
 以下、市民/民衆/群衆/大衆の用語は、中野の原文に合わせている。

 (2)まず、ブルータスの演説がある。
 シーザー暗殺の大義を説く。シーザーを愛する以上に、ローマを愛する心が篤かったからだ。
 彼の野心を知ったがゆえに、刺した。彼の友情に対しては涙、幸運に対しては祝福、勇気に対しては尊敬、しかし野心に対し得は死をもって酬いたのだ。この運命は、もし自分にもまた野心家という疑いがあれば、いつでも喜んで甘受する、云々。

 (3)(2)は、まことに堂々たる正論である。論理的にも首尾一貫している。それを見事な三段論法で畳みこんでいく。
 しかし、ブルータスは高邁な政治哲学者だったかもしれないが、実際政治家ではなかった。書斎人政治家であって、生きた実際の大衆の心の動きに完全に無知であった。大衆は、究極において理性や論理によって動くものではない。
 自分の論理的説得を過信したあまりか、迂闊にも演壇をアントニーに明け渡して引き上げてしまう。

 (4)アントニーが演説を始めるときは、四面楚歌、万民が反シーザー=反アントニーである。
 演説は、徹底的な低姿勢をもってはじまり、市民たちをまず安心させる。
 「私はシーザーを葬るために来たのであり、彼を賞賛するために来たのではない」
 ほとんど大詰めにくるまで、一言としてブルータス一味を誹謗するような言葉を口にしない。
 それどころか、敵への賞賛をじつに十度近くくりかえしている。
 「ブルータス君は人格高潔の士であります」
 アントニーは、決して群衆の理性などに訴えない。三段論法など、持ちださない。
 まず、きわめて卑近な事実を具体的に述べる。シーザーが貧しい市民たちとともに泣き、また戦争捕虜の身代金を国庫に納めてローマの富をふやした、というような。
 次に、いわくありげた遺言状のことを持ちだす。
 これらの事実で多少市民たちの心が動いたとみると、こんどは血に染んだシーザーの外套をかざす。
 最後に、まだ血の渇かぬ傷ましい死骸の傷口まで示して見せる。
 すべてがじつに具体的な事実、それも、もっとも女子どもの情に訴えやすい感傷的な事実ばかりなのだ。
 最後になって、民衆の心の変化を十分に見きわめた上で、はじめて、ブルータス一味に対して「反逆者」という烙印をあたえる。
 「このシーザーの傷口一つ一つに、心なき石をさえ暴動に決起させる力があるはずだ」
 かくて、10分ほど前にまではブルータス万歳を絶叫していた民衆は、たちまち掌を返すように反逆者打倒を叫び、暴動化していく。 
 アントニー、快心の悪魔的笑い。
 「あとは勢い。復讐の鬼め、動きだしたな。どっちへ行こうと、あとは貴様の気任せだ」

(4)アントニーは、大衆というものの心の秘密だけは知っている現実政治家であった。
 夫が急死したあと細君の身代わり候補は、必ず最高点で当選するに決まっている、というあのいわゆる不文律の秘密を、彼は見事に知っていた。
 「が、それでももちろん感傷的な民衆は、次次と明らかにされる具体的な事実の前に、じりじりと無意識に動いていく」
 「アントニーの語る感傷的な訴えは刻々民衆の心を移していく。そして、気がついたときには、われにもなく、変節を変節とは意識せず、いつのまにか暴動一歩手前のシーザー賛美者に変わっているのである」 
 暴動化した民衆は、「勝手に踊っている民衆である」。
 「ブルータス君は人格高潔の士」という殺し文句の巧妙きわまる反復を見のがしてはならない。真西を向いた大衆の心が、じりじりと微妙な動きでまわりだす。と、アントニーはそれを抑えるかのように、この殺し文句をタイミングよくくりかえす。四面敵の中で反対派の扇動家と怪しまれたら、危険が身辺に迫るのだ。激しく動きそうな民衆の兆候をみると、前述の殺し文句をはなつ。これなら敵も安心するのだ。
 それだけではない。この殺し文句、天の邪鬼という人間通有の弱点を刺激しているのだ。人心操縦の秘密である。なに、アントニーはあんなことを言っているが、事実はどうだか・・・・。
 シェークスピアは、いつ、どこにでもいる二つの政治家の型を見事に描き出しているように思える。
 ブルータス・・・・高潔、理想家、頭もよく、政治哲学もちゃんと持っている。が、民衆から遊離し、かんじんの民衆の心だけは知らない。
 アントニー・・・・他の政治的能力はともかくとして、民衆の卑近な要求、その心の秘密だけは薄気味悪いほと知り抜いている実際政治家。
 「せめてこの場面など、もし日本の政治家たちが若いときから味読していたら、国民指導の上などで、もっと巧く、もっと円滑に行ったろうに」
 中野のこの指摘、もちろん、反語というものだ。シェークスピアは大衆操作を語ったが、大衆の側からすれば、操作に対する防御法をここで学ぶことができる。

□中野好夫『シェークスピアの面白さ』(新潮選書、1967)
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【読書余滴】中野好夫の『酸っぱい葡萄』

2010年11月01日 | ●中野好夫
 『酸っぱい葡萄』は、剛毅な精神の持ち主である中野好夫の「恥さらし」の文集である。「恥さらし」とは、著者自身の「いささか長すぎるまえがき」での自評だが、仮に「恥さらし」だとしても、それを公刊する精神はやはり剛毅というものである。

 収録したのは1937年から1949年までの42編である。日中戦争の年から戦後の“朝鮮戦争”の前年まで、政治、文化、教育、知識人、語学、思い出と、論題は多様である。多様だが、一読して人間中野の動かぬ眼と精神がうかがえて、しずかな感銘に身をおくことになる。

 たしかに、著者自らいうように、敗戦直後の「天皇制支持」から、1949年の「天皇制廃止」へと、きわだって変わった点もある。しかし、読者がうたれるのは、情況が変わったからといって、前の情況下での自分の姿をかくさない著者の姿勢である。

 たとえば戦後さいしょの文の一つ(「文化再建の首途に」)で、こう書く--「私は占領軍最高司令部の前にはっきり言うが、私は戦争に協力した。しかも便乗して協力したと、はっきり言明しておく」。それは居直りでも、いやみでもない。正直なところを平明に表白することで、情況とともに変わり、現実の中身なしに「概念濫用」で大見えをきるものの軽薄をつく。いやそんな意図的なことではなく、そこには人間性をもって事の判断、理非をおのずから明白にする著者の持ち味が浮かぶ。

 「いうならば私は社会主義を信じる保守主義者である。人間観としては、人間がいわゆる天使でもなければ獣でもない。中間の謎のような存在物であると信じている。進歩は否定しないが、ユートピアの夢は持たない。ただ論理的だけに首尾一貫徹底した思想に好意を持たない。むしろ矛盾はあっても、深く現実を愛する思想を好む」

 著者の文は、肩を張ったり、晦渋を極めたりはしない。男性的にからっと思うところを表出して、朴直である。その「現実的人間主義」の表白である本書を読んで、評者は一つの感動をえた。評者も戦後の評論で鬼面人をおどろかすていの言動をし、30年をへて自分なりに落ち着くところがあったが、『酸っぱい葡萄』を読むと、そのことごとくが、すでにこの本で中野好夫が明示した事柄だったからである。

 ここにもう一冊の“戦中と戦後のあいだ”を示す好著を得た。不動のものは、やはりあったのである。

   *

 以上は、朝日新聞書評欄の1979年9月16日付け書評である。
 評者の氏名は、ついに不明のままだ。
 ちなみに、“戦中と戦後のあいだ”は、丸谷真男の著書『戦中と戦後の間 1936‐1957』(みすず書房、1979)を踏まえている、と思う。
 余談ながら、「天皇制」という用語は、コミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)によって作られた単語だ。1932年5月にコミンテルンで「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(通称「32年テーゼ」)が採択された。日本語では、昭和7年(1932年)7月10日付国際共産党日本支部(日本共産党)中央委員会機関誌『赤旗』特別号に発表された。この「32年テーゼ」によって「天皇制」という共産党用語が流行するようになった【注】。

 【注】佐藤優『日本国家の神髄 -禁書『国体の本義』を読み解く-』(産経新聞出版、2009)P.25による。

【参考】中野好夫『酸っぱい葡萄』(みすず書房、1979)
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【読書余滴】中野好夫の、人は獣に及ばず

2010年10月30日 | ●中野好夫
 オランダ人は細工には巧みなようだが「獣の類なり」、と放言した客に対して、司馬江漢は即座に、「人は獣に及ばず」と一蹴した。

 本書の冒頭に置かれた短文「人は獣に及ばず」は、このエピソードを枕に、人類は「邪悪で、残忍で、貪慾で、しかも醜陋」と断罪し、その所業をあげる。
 たとえば人類が絶滅に追いやった信天翁、あるいは戦争。
 そして天文学者ジェームズ・ジーンズの一書から引用し、人類が、少なくとも生命が宇宙に誕生したのは偶然の産物であり、何千年後か何万年後には人類は必ず滅ぶ、と断言する。
 人類文明の後は「原始時代の状態に返り、そしてまた将来の可能性も何一つのこさぬ、死塊のような地球だけが、無限広大な宇宙空間の中を、ただ黙々として展転しつづけるのであろうか」。

 野口悠紀雄の「『自然との共生』賛美」批判」を読むと、どうしても中野好夫のこの一文を想起せざるをえない。
 自然を制御し、自らの「福祉」を拡大してきた人間は、地球に生存するだけの価値がある存在なのか。

 「人は獣に及ばず」に漂うのは、濃厚な厭人主義である。厭人の行き着く先には自殺が待っている。アルベール・カミュは、いみじくも喝破した。真に重大な哲学上の問題は一つしかない、それは自殺である、と。

 もとより中野好夫は自分から命を縮めるような真似はしなかった。
 剛毅に生きて、次々に書きまくり、現に本書には1973年から1981年にかけて発表された70編近くのエッセイが連なる。冒頭の一編を除き、いずれも世相や文学、交際のある人物を語って自在、酸いも甘いも噛みわけて闊達、率直に言い切って簡勁にして豪快。冒頭の「人は獣に及ばず」とは別の趣である。
 若年の頃から人間性の複雑さに目を向けた中野好夫は、夫子自身、じつに複雑な人ではあった。

【参考】中野好夫『人は獣に及ばず』(みすず書房、1982)
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