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語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】竜安寺

2010年07月31日 | □旅
 竜安寺の池泉回遊式庭園は、「鏡容池」と呼ばれる。キョウヨウチである。石庭よりもこちらのほうが知名度の高い時代があったらしい。
 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。『論語』がここでいう水は流水のことだと思うが、池でもさしつかえあるまい。
 いま蓮が盛りで、純白がまぶしい。
 しかし、辨天島の青鷺は、蓮には目もくれず、池底の獲物をねらっている。



 石庭の前は、修学旅行らしき中学生と青い眼の異人さんでいっぱいだった。
 中学生は徒党を組み、制服で一目瞭然である。自由行動をとっているらしく、引率の先生は見あたらない。
 中学生たちは、キャピキャピと写真を撮りあっている。
 十代のヤンキー娘が跳ねるように端から端まで歩きながら石の数をかぞえはじめた。能書きにあるとおり15個あることを確かめている。この無邪気さには抗しがたい。
 京都の寺社仏閣に群れる白人は、概して穏やかなまなざしだ。生き馬の目をぬくニューヨークのビジネス・パーソンとは、別の人種であるかのようだ。

 軒端を中学生と青い目の人に占領されているから、観客の頭越しに庭を眺望するしかない。
 奥にしりぞいて眺めると、別のものが見えてくる。
 土壁と、壁を越えて庭に垂れる緑の枝であり、塀の外に鬱蒼と茂る木立である。これらも庭の一部となっていることに気づく。
 こうした目でみれば、一枚の落葉も庭の一部を構成する。

  

 しかし、庭の中には石と砂しか置かれていない。
 わずかに苔の緑がところどころに散在するばかりだ。

  

 加藤周一には白砂が群青の海にみえ、5つの石の集まりが島にみえた。ひとたび立ちあがって、縁の端から端まであるけば、おどろくべし、島は互いに近づいたり離れたりしながら、広大な海の表面にあたかもバレーの踊子の動きのような、ほとんど音楽的な位置の変化を示すのであった。それは、疾走するジープから加藤が秋の瀬戸内海を眺めたときの印象と寸分ちがわぬ海なのであった。いや、むしろそれ以上に微妙な変化に富み、それ以上に広大な眺望を支配する・・・・。
 加藤の目には、竜安寺の石庭はクールベが描いたエトルタの海に似ていたし、伊豆や須磨明石その他、かつてみたあらゆる海に似ていた。しかし、正確にはそのいずれでもなく、そのすべてに通じ、そのいずれにも完全には実現されていないものなのであった。ある特殊な海ではなく、特殊な海に頒たれている海一般というべきだった・・・・。

 砂を波、石を島と見立てるならば、苔は平野部の草木に見立ててもよいだろう。
 あるいは、加藤の見立てから一挙に遠ざかって、個々の石を人に見立てることもできるだろう。
 素材がシンプルだから、かえってさまざまな解釈を引き出すことができる。
 さまざまの解釈を許すうえに、見る角度によって、ちがった相貌が目に入る。石と石との距離は、見る角度によって近くなり、また遠ざかる。したがって石相互の関係も、石と見る人の関係も無限の変化がある。
 見ていて飽きないから、時間はたちまち過ぎ去る。腕時計の針は2時間の経過を指摘するが、石を眺めてすごした2時間は、仕事に費やした2時間とは別個の時間である。フッサールのいわゆる内的時間意識がこれだろう。
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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみられる批評精神(抄) ~日本という国家、軍隊という組織~

2010年07月30日 | ●大岡昇平
●「4 海軍」
 大本営海軍部はしかし、【台湾沖航空戦後の】敵機動部隊健在の真実を陸軍部に通報しなかった。今日から見れば信じられないことであるが、恐らく海軍としては全国民を湧かせた戦果がいまさら零とは、どの面さげてといったところであったろう。しかしどんなにいいにくくともいわねばならぬ真実というものはある。

●「5 陸軍」
 山本五十六提督が真珠湾を攻撃したとか、山下将軍がレイテ島を防衛した、という文章はナンセンスである。真珠湾の米戦艦群を撃破したのは、空母から飛び立った飛行機のパイロットたちであった。レイテ島を防衛したのは、圧倒的多数の米兵に対して、日露戦争の後、一歩も進歩していなかった日本陸軍の無退却主義、頂上奪取、後方攪乱、斬り込みなどの作戦指導の下に戦った、第16師団、第1師団、第26師団の兵士たちだった。

   *

 死んだ兵士の霊を慰めるためには、多分遺族の涙もウォー・レクエムも十分ではない。

   家畜のように死ぬ者のために、どんな弔いの鐘がある?
   大砲の化物じみた怒りだけだ。
   どもりのライフルの早口のお喋りだけが、
   おお急ぎでお祈りをとなえてくれるだろう。

 これは第一次世界大戦で戦死したイギリスの詩人オーウェンの詩「悲運に倒れた青年たちへの賛歌」の一節である。私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。75ミリ野砲の砲声と38銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一のことだからである。

●「7 第35軍」
 増援軍の遅延は必ずしもこういう軍の楽観のせいばかりではない。それは一般に日本軍隊の非能率化、船舶の不足、各地の状況の悪化と関係がある。

   *

 これらレイテ戦初動の作戦の誤りは、米上陸軍を2個師団と速断したこと、従来の米軍の行動から見て、ゆっくり橋頭堡を固めてから、内陸進撃を開始するだろうから、レイテ平原に溢出するのは1週間前後だろう、と勝手にきめていたことから起こっている。つまりこっちが縦深抵抗に変更すれば、敵も内陸進撃を早めるだろうと予想する、要するに想像力が欠けていたのである。

●「8 抵抗」
 日本兵の白旗による欺瞞はニューギニア戦線でもよく見られた行動である。20対1、50対1の状況になった時,敵を斃すために手段を選ばずという考え方は、太平洋戦線の将兵に浸透していた。しかし白旗は戦闘放棄の意思表示であり、これは戦争以前の問題である。こうでもしなければ反撃の機会を得られない状態に追いつめられた日本兵の心事を想えば胸がつまる。射ったところでどうせ生きる見込みはない。殺されるまでに一矢を報いようとする闘志は尊重すべきである。しかしどんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。

●「9 海戦」
 しかしこの新しい構想は、古い艦隊撃滅の観念に捉われていた現地司令官に理解されず、栗田艦隊のレイテ湾突入中止によって、画餅に帰する。しかし同時に米第三艦隊司令官ハルゼー大将を誤らせて、聯合艦隊は全滅を免れ、多くの艦艇を連れて帰ることになる。/ その経過において、われわれの創意と伝統との矛盾、アメリカ側には驕りと油断との関係が、複雑な艦隊行動となって現れているのである。

   *

 すべて大東亜戦争について、旧軍人の書いた戦史及び回想は、このように作為を加えられたものであることを忘れてはならない。それは旧軍人の恥を隠し、個人的プライドを傷つけないように配慮された歴史である。

   *

 軍艦もまた民族の精神の表現といえる。「大和」「武蔵」は、わが国の追い着き追い越せ主義の発露といえる。排水量72,000トン。46センチ主砲9門は世界最大の威力である。仰角45度で発射すれば、富士山の二倍の高さを飛んで、41キロ(東京より大船までの距離)遠方に達する。その他多くの日本造艦の技術者の智恵をしぼって建造されたもので、その性能は極度の機密に守られていたので、伝説的畏敬と信頼を寄せられていたのであった。
 しかし200カイリの攻撃半径を有する空母に対しては、その巨砲も用うる余地なく、一方的な攻撃を受けて沈まねばならなかったのである。
 起工当時海軍内部にも山本五十六や大西滝治郎等いわゆる「航空屋」の反対意見があったが、主力艦対決主義は日本海海戦以来の伝統であり、その偏見の下には無力であった。空母中心に艦隊を組み、戦艦は主砲以外はすべてを空母掩護用の高角砲に切り替えたアメリカ海軍の柔軟性に屈したのである。

   *

 巨艦はそのあまり複雑な機構のため、一部に不測の故障が起こると、一挙に戦力を損じたのである。

   *

 空から降ってくる人間の四肢、壁に張りついた肉片、階段から滝のように流れ落ちる血、艦底における出口のない死、などなど、地上戦闘では見られない悲惨な情景が生れる。海戦は提督や士官の回想録とは違った次元の、残酷な事実に充ちていることを忘れてはならない。

●「10 神風」
 こういう戦果の誇張は、散華した僚機への同情という感情的動機を持ったものだったのだが、軍首脳部にますます特攻を促進さす結果になった。

●「11 カリガラまで」
 友近少将は30日漸くセブからオルモックに渡ったような呑気さで、折柄オルモックに上陸した第1師団に、カリガラ平原会戦を指示したくらい実情にうとかった。諸部隊が行方不明ならば、情況悪化を想像してよいはずなのに、タクロバン入城の夢に取りつかれて、都合の悪いことは考えたくなかったのである。

●「12 第1師団」
 軍隊の行動に責任を負う旧軍人の回想には、こういう作為があるから警戒を要する。

●「17 脊梁山脈」
 山は常に美しく、時として荘厳であり、観光道路上の自動車の窓から眺めれば、ほほえむように人を迎える。しかしもし人間が生活とか戦争とか登山の必要から、徒歩で山に入るならば、そのあらゆる起伏、気候、林相、そこに棲む諸動物によって、恐るべき障害となって現れる。

●「18 死の谷」
 20日の攻撃命令は、友近少将の回想にも、『第1師団レイテ戦記』にも現れない。レイテ戦の惨状が明らかになった戦後では、遺族に対する遠慮から、自然になされる隠匿であるが、事実はこの段階で、最も犠牲が多く出たのである。軍隊とは、このように愚劣で非情な行動が行われ、しかもそれを隠匿する組織であることを覚えておく必要がある。

   *

 これらはみな今日の眼から見た結果論というのは易しい。しかし歴史から教訓を汲み取らねば、われわれは永遠にリモン峠の段階に止まっていることになる。ただしこれは必ずしも旧日本陸軍の体質の問題だけではなく、明治以来背伸びして、近代的植民地争奪に仲間入りした日本全体の政治的経済的条件の結果であった。レイテ沖海戦におけると同じく、ここにも日本の歴史全体が働いていた。リモン峠で戦った第1師団の歩兵は、栗田艦隊の水兵と同じく、日本の歴史自身と戦っていたのである。

●「24 壊滅」
 35軍は俄作りの軍で、人材に乏しく、敗軍と共にあまりかっこいい様子を見せなくなる。目賀田少尉のような予備士官学校出の部隊付将校に、却って肚の据わった人物が見出されるようである。

●「25 第68師団」
 動員下命は6月25日、校長来栖猛夫少将がそのまま旅団長となって、7月3日公主嶺出発、13日釜山に着いた。聯隊長沖静夫大佐が飛行機で東京へ飛び、聯隊旗を受領してきたが、兵隊はあまり関心がなかったといわれる。最新式の装備を持つと共に、聯隊旗に対する物神的畏敬の念も失われたのである。

●「28 地号作戦」
 現在のところ、準公刊戦史とでもいうべきは服部卓四郎『大東亜戦争全史』だが、その筆者服部大佐は当時の作戦課長にほかならず、工合の悪いことは隠蔽されているのである。大佐は緒戦以来陸軍の作戦指導の実際に当たって来たが、宮崎部長の就任に伴う方針変更、さらに20年2月の沖縄増強案について独断専行があって、罷免された。レイテ決戦続行も大佐の失敗といえるので、大本営指導の線は『大東亜戦争全史』では隠蔽される。

●「30 エピローグ」
 一勝を博して和平交渉に入るのはレイテ戦から存在した夢であるが、こっちの肚を見透かした敵が断固「否」といって、あくまで攻撃して来たらどうするか、むしろその方がありそうだ、と考える思考力を失っていたのである。
 ただ天皇と国民の前に、面子を失いたくないという情念、危険に対する反応としての攻撃性、及びこれらの情念を基盤として生れた神国不敗の幻想にかられて、その地上軍事力(国内的にはクーデタ的暴力となる)を背景に、主張したのであった。
 しかしその軍事力の基礎は国民である。徴集制度は、近代の民族国家の成立の根本的条件であるが、それが政治と独立した統帥権によって行われる場合、反対給付を伴わない強制労役となる。そのように日本の旧軍隊は徴募兵を牛馬のように酷使した。本土決戦では二千万人の国民が犠牲になれば、アメリカは戦争をやめるといい出すだろうと計算された。
 フィリピンの戦闘がこのようなビンタと精神棒と、完全消耗持久の方針の上で戦われたことは忘れてはならない。多くの戦線離脱者、自殺者が出たのは当然だが、しかしこれらの奴隷的条件にも拘わらず、軍の強制する忠誠とは別なところに戦う理由を発見して、よく戦った兵士を私は尊敬する。

   *

 しかし申すまでもなく、これは今日から見た結果論である。国土狭小、資源に乏しい日本が近代国家の仲間入りするために、国民を犠牲にするのは明治建国以来の歴史の要請であった。われわれは敗戦後も依然としてアジアの中の西欧として残った。低賃金と公害というアジア的条件の上に、西欧的な高度成長を築き上げた。だから戦後25年経てば、アメリカの極東政策に迎合して、国民を無益な死に駆り立てる政府とイデオローグが再生産されるという、退屈極まる事態が生じたのである。

   *

 これは太平洋で戦われた唯一の大島嶼の戦闘であったから、日米双方に幾多の錯誤があった。しかし老朽化した日本陸軍は、現代戦を戦う戦力も軍事技術も持っていなかったので、米軍の錯誤も重大な結果を生まなかった。戦闘は終始米軍の主導の下に行われ、日本軍の決戦補給は事実上は消耗補給となって、じり押しに敗北に追い込まれたのである。

   *

 作戦の細目には幾多の問題が残った。16師団の半端な水際戦闘、第1師団のリモン峠における初動混乱、栗田艦隊の逡巡、ブラウエン斬込み作戦の無理などがあるが、それらは全般的戦略の上に立つさざなみにすぎず、全体として通信連絡の不備、火力装備の前近代性--陸軍についていえば、砲撃を有線観測によって行い、局地戦を歩兵の突撃で解決しようとする、というような戦術の前近代性によって、勝つ機会はなかった。
 しかし、そういう戦略的無理にも拘わらず、現地部隊が不可能を可能にしようとして、最善を尽くして戦ったことが認められる。兵士はよく戦ったのであるが、ガダルカナル以来、一度も勝ったことがないという事実は、将兵の心に重くのしかかっていた。「今度は自分がやられる番ではないか」という危惧は、どんなに大言壮語する部隊長の心の底にもあった。その結果たる全体の士気の低下は随所に戦術的不手際となって現れた。これは陸軍でも海軍でも同じであった。
 陸海特攻機が出現したのは、この時期である。生き残った参謀たちはこれを現地志願によった、と繰り返しているが、戦術は真珠湾の甲標的に萌芽が見られ、ガダルカナル敗退以後、実験室で研究がすすめられていた。捷号作戦といっしょに実施と決定していたことを示す多くの証拠があるのである。
 この戦術はやがて強制となり、徴募学生を使うことによって一層非人道的になるのであるが、私はそれにも拘わらず、死生の問題を自分の問題として解決して、その死の瞬間、つまり機と自己を目標に命中させる瞬間まで操縦を誤らなかった特攻士に畏敬の念を禁じ得ない。死を前提とする思想は不健全であり煽動であるが、死刑の宣告を受けながら最後まで目的を見失わない人間はやはり偉いのである。
 醜悪なのはさっさと地上に降りて部下をかり立てるのに専念し、戦後いつわりを繰り返している指揮官と参謀である。

   *

 ここで演説は中断された。「声がつまって、続けることができなかった」とマッカーサーはいっている(『マッカーサー回想録』1964年)。しかし彼はなにかいう必要がある時、いわずにおくような男ではなかった。彼の勝利と栄光の記念すべき日の演説では、美辞麗句と泣き真似で十分だった。それ以上何かいうのは危険でもあったのだ。

   *

 マッカーサーがフィリピン諸島の隅々まで米軍を派遣したのは、日本軍に占領された資源を、フィリピン人のためではなく、アメリカの投資家と金持ちのフィリピン人のために確保するためであったと信ずべき理由がある。

   *

 1945年8月15日、日本降伏後の日本戦後処理については、われわれはよく覚えている。われわれはアジアにおいて、フィリピンと共に、アメリカ軍を「解放軍」と読んだ唯一の独立国である。コミュニストがアメリカに協力した、世界で唯一の国である。

   *

 それにも拘わらず神の如きマッカーサーと民政局はあくまでワシントンに反抗して、12歳の民主主義国家日本の育成に努めたということになっている。しかし朝鮮戦争が勃発すると、この民主主義の神は、最も積極的な作戦を推進した。常に情報分析で間違えてばかりいた(いつもその主人の喜びそうな情報ばかり集めるからである)ウィロビイを信頼した結果、中国の介入に関して見通しを誤る。1950年のクリスマス敗戦の後にも、台湾中立化廃棄(蒋介石の軍隊の朝鮮における使用)、鴫緑江対岸爆撃を主張して、罷免された。
 民主主義の神のこの突然の変貌は、1949年から1年の間に行われたと考えるよりも、それが1943年のオーストリアにおける予言的所感以来、彼の一貫して変わらないアジアの武力制覇の構想であったとする方が筋が通る。日本占領初期の民主主義的蜜月は、ソ連と対日理事会をごまかすための猿芝居であったと見るほうが現実的である。

   *

 太平洋戦争はアメリカの極東政策と日本の資本家の資源確保の必要との衝突として捉えるのが適切であるなら、二つの軍事技術が、哀れなフィリピン人の犠牲において、群島中の一つの農業島の攻防戦に尖端的な表現を見出したのが、レイテ島をめぐる日米陸海軍の格闘であったといえよう。

   *

 レイテ島の戦闘の歴史は、健忘症の日米国民に、他人の土地で儲けようとする時、どういう目に遇うかを示している。それだけではなく、どんな害をその土地に及ぼすものであるかも示している。その害が結局自分の見に撥ね返って来ることを示している。死者の証言は多面的である。レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである。(全巻の掉尾)
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書評:『あなたに似た人』

2010年07月29日 | 小説・戯曲
 奇妙な人物の話ばかり15編集めた短編集である。
 奇妙とはいえ、こんな人物なら誰しも一度くらい出くわしたことがありそうだ。あなただって、奇妙な人物と思われているかもしれない。ということで、総タイトルは「あなたに似た人」。
 たとえば、『味』。

 男は、金持ちの友人マイク・スコウフィールド一家の晩餐に招かれた。株式仲買人のマイクは自宅に貯蔵するワインを鼻にかけている。同席した美食家プラットは、マイクの虚栄心に乗じて賭に誘いこんだ。マイクが自慢するワインの産地をあてたらマイクの娘をいただく、負けたら2軒の別荘を提供しよう、と。
 珍しいワインだから、あたりっこない、とマイク。
 万が一もある、と彼の妻と娘はやきもきする。
 マイクの倨傲、その家族の抵抗と欲。
 そして、一見紳士的なプラットのしたたかぶり。
 プラットはひと口ごとに正確に産地を特定していく。
 食卓だけを舞台にサスペンスがじょじょに高まっていく。

 賭けに憑かれた人々の狂気めいた執念、賭けがもたらす緊張が、賭になじみのない読者にも伝わってくる。読者を軽く戦慄させる小さなどんでん返しがあって、最後にドカンと大きなどんでん返しが読者を待ち受けている。
 省略のきいた文章だ。その先を知るのは怖い、こわいけれども知りたい、知らなくても想像できる・・・・そんな場面はあっさりと読者の想像に委ねてしまうのだ。

□ロアルド・ダール(田村隆一訳)『あなたに似た人』(ハヤカワ文庫、1976)
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【読書余滴】斎藤美奈子の反語的文芸時評 ~小説における素材~

2010年07月28日 | 批評・思想
 小説は、素材(何を書くか)より包丁捌き(どう書くか)にウェイトがおかれるジャンルである。
 だが、あえて素材に着目して論じたのが、2010年7月27日付け朝日新聞の文芸時評。
 以下要旨だが、斎藤はまず素材の内容によって「体験型」と「調査型」を区別する。
 前者の素材は、自分の体験であり(いわゆる私小説)、その延長線上に一族の歴史も含まれる。
 後者の素材は、森羅万象、なんでもよい。

 今月、素材の力が生きていた作品は柳田大元『ボッグブリッジ』。エチオピアを舞台とする。作者はアフガニスタンで拘束された体験を綴った『タリバン拘束日記』(青峯社)もあるフリージャーナリスト。紛争地帯の放浪(?)体験が作品に昇華した例。「そこで勝負されても困る、という意見もあるだろうけれど、こういう小説は机の上だけではけっして生まれない」
 また、楊逸『ピラミッドの憂鬱』は、中国のひとりっ子政策が素材として作品に大きな位置を占める。祖父母4人と親二人と子ども一人の家族のなかで、子どもは「小皇帝」として君臨するが、親の力が失われたとたんにピラミッドは簡単に逆転して、子どもに一族の負担がかかる。この皮肉な構造が「何かを考えさせはする」。書く材料はいくらでもある、といっているような楊逸だが、日本の若い作家には素材を探すのが困難らしい。
 法月のり『空腹のヴィーナス』は、2002年のニューヨークを舞台として、それなりに小説らしくできあがっているのだが、いくつもの素材が松花堂弁当のように並べられているかのようで、物足りない。「しかし、それでも、お行儀のいい弁当箱をひっくり返したらどうなるかを見てみたい、と思わせるところがある」
 「半径数メートル圏内の見飽きた素材を読ませるには特異な技術が必要で、だったら新鮮な素材を探しに外に飛び出したほうが『勝ち』の場合も少なくないのだ。最終形態が小説でも、そのプロセスは研究論文やノンフィクションとそう変わらないかもしれない。繊細な料理人になる前に果敢なハンターたれ、である」

【参考】2010年7月27日付け朝日新聞
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書評:『高く孤独な道を行け』

2010年07月27日 | 小説・戯曲
 『ストリート・キッズ』、『仏陀の鏡への道』に続くニール・ケアリー・シリーズ第三作。
 第一作では、路上生活をおくっていた11歳の少年ニール・ケアリーが「朋友会」にスカウトされる。「朋友会」は、すなわちロードアイランド州の名門キタリッジ家が、家業の銀行業のほか、顧客の安全と平穏を守るために組織した私的調査機関である。「朋友会」の会長はニールの利発さに目をとめ、学費を出すことにしたのだ。当初は渋った少年も、就学を承知し、学業にいそしむ。そして、大学院生となったニールは、最初の任務を与えられた。上院議員にして次期副大統領候補の家出した娘を所定の期限内に探しだすべし・・・・。

 第二作では、前作で活躍しすぎた結果、米国から逃げだして英国はヨークシャーの荒れ地で暮らすはめになったニール。修道僧のように孤独な研究生活だったが、性に合っていた。しかし、7か月ぶりに新たな任務がくだる。中国娘に心を奪われて失踪した研究者を米国の会社へ連れ戻すべし・・・・。ニールは香港へ飛び、生死の境をさまようことになる。

 本書は、3年間中国で幽閉されていたニールが救出される場面からはじまる。米国へ舞い戻り、懐かしいベーコンとマフィン、コーヒーを味わうのだが、さっそく任務を与えられた。実父ハーレー・マコールに誘拐された娘、すなわち映画プロデューサーのアン・ケリーの娘コーディを捜索するべし・・・・。
 ハーレーの足跡を追ってハリウッドからネヴァダの高原へ移った。西部劇時代のおもかげを残す土地である。ハーレーがひそむ気配のあるハンセン牧場の隣、といっても3キロも離れているが、ミルズ牧場に住み込んで働きつつ探索を続けた。
 ハンセン牧場は、カルト教団、反有色人種主義や反ユダヤ主義を標榜する犯罪集団に占拠されているらしい。
 ニールの雇用主となったスティーブ・ミルズは、古きよき開拓者精神の持ち主。琴瑟相和するその妻のはからいで、ニールは恋人カレンを得る。だが、任務のためカルト集団へ潜入し、メンバーの反ユダヤ主義的言動を黙過したため、気骨のあるスティーブやカレンと対立する立場に置かれてしまう。
 覆面捜査官ものと西部劇との混淆みたいな欲ばった筋立てだが、たしかに派手な撃ち合い場面もある。

 シリーズ全体をとおしてみられる洒落て、ひねりのきいた会話が楽しい。会話が軽快なテンポで物語を展開させる。第二作では、保護者同然のジョー・グレアムから復帰をうながされるのだが、

  「最後に話したとき、ぼくは“停職”になってたんじゃなかった?」
  「あれは、おまえの熱を冷ますためだ」
  「で、その熱がもう冷めたってわけ?」
  「氷になっちまっている」

 しかし、このシリーズの特徴は、なんといってもニールの成長にある。父親は行方をくらまし、母親は麻薬中毒、という悲惨な家庭で、11歳のニールは、かっぱらいで糊口をしのいでいた。「朋友会」とつながりができたのも、「朋友会」の探偵グレアムの財布を掏ろうとしたのが機縁だ。
 それが、グレアムから探偵術をしこまれ、学業につき、中国で幽閉されている間は僧坊で伏虎拳を修業を重ねたりもする。ミルズ牧場におけるニールの生活はシンプル・ライフそのもので、こうした求道的な側面に注目する読者もいるだろう。
 人生の真実をしみじみと洞察するニールの独白を第一作から引こう。共感する人は多いにちがいない。
 「読書はすてきだった。読書はすばらしかった。本を読んでさえいれば、寂しさとは無縁でいられた。寒けも恐れも感じられず、いつも誰かがそばにいるように思えた」

□ドン・ウィンズロウ(東江一紀訳)『高く孤独な道を行け』(創元推理文庫、1999)
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【読書余滴】なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか

2010年07月26日 | 心理
 べらぼうに面白い本である。
 訳者あとがきから引こう。
 「記憶は私たちの関心を惹きつけて止まない。なぜなら、ある意味で、記憶とは人間そのものだからである。記憶を失うと、文字通り『私は誰?』ということになる。『私は私だ』といい切れるのは記憶があるおかげなのだ。つまり、記憶が私たちの存在を支えているわけだが、記憶というのは一筋縄ではいかない代物だ。『絶対に覚えておこう』と思ってもすぐに忘れてしまったり、『忘れたい』と思ってもどうしても忘れられなかったりする」

 「なぜ私たちは、逆方向にではなく順方向に思い出すのか」「なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか」といった章題をみて、「おお!」と興味をそそられた読者も多いのではないか。

 なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか。
 10歳の子どもにとって1年は一生の10分の1だから長く感じ、60歳の人にとっては60分の1だから短く感じるのだ。
 ・・・・これは、130年前にピエール・ジャネが立てた説である。
 ジャネは、フランスの精神医学者、心理学者である。まことに明快な説明だが、本書は異論を立てる。 

 ところで、本書第14章で奇妙な実験を紹介している。
 心理学者ツヴァーンは、イスラエルで、右から左へ書かれるヘブライ語を母語とする被験者を対象に、二つのカードを提示した。ほとんどの被験者は、「前」を表すカードを「後」をあらわすカードの左に置いた。オランダでの同じ実験でも、被験者のほぼ全員が「前」を表すカードを「後」をあらわすカードの左に置いた。
 時間は左から右へ動く、という感覚なのである。

 「日常会話もまた、時間に方向性を与えるだけでなく、時間に速度や伸縮性を与える。時間はゆっくり進んだり、飛んだり、速くなったり、止まったままだったりするし、伸びたり、縮んだり、拡張したりもする。思考や会話のなかの時間は空間を満たし、時間の経験が空間の経験と一致しうるという事実は、(中略)彼らは三人とも、遠近法の法則を自分の内的知覚に応用した。だが実験においても、それと同じ時間と空間との類推が見られる」
 彼ら三人とは、ジャン=マリ・ギュイヨー、マルセル・プルースト、トーマス・マンである。

【参考】ダウエ・ドラーイスマ(鈴木晶訳)『なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか -記憶と時間の心理学-』(講談社、2009)
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【読書余滴】野口悠紀雄の、世界を徘徊する財政赤字という妖怪 ~『「超」整理日記No.521』~

2010年07月25日 | ●野口悠紀雄
 全世界的に財政赤字という妖怪が徘徊している。
 これは、経済危機で税収が落ちこみ、他方で各国政府が危機対応策をとったことの後遺症だ。
 ギリシャのみならず、スペインの財政も急激に悪化しているし、ハンガリーの問題も深刻らしい。イギリスでも、2009年度末の財政赤字の対GDP比がギリシャを上回る12.7%以上だ。アメリカの財政赤字も拡大し、対GDP比で戦後最悪の10.0%となった(前年度の3.2%から大幅な上昇)。
 日本の財政赤字がきわめて深刻であることは言うまでもない。
 今後の世界は、長期にわたって巨額の国債残高に攪乱されることになる。未曾有の事態である。

 IMFは、2010年5月14日、各国の財政状況を分析した報告書を公表した。通常言及される単年度の赤字より重要なのは、この報告書が対象としている債務残高だ。
 注目するべき第一は、どの国でも、残高の隊GDP比が顕著に上昇したことだ。G7平均では、危機前には70~80%程度であったものが、90%を超える事態になった。
 日本は、1970年代中頃まではきわめて低い水準にあったが、1980年代には50%を超え、1990年代からは100%を超えて推移している。2010年では227%だ。他の国より飛び抜けて高い。
 債務の定義は一様ではないので注意が必要だが、財務省の資料では国の普通国債残高の対GDP比は134%、国と地方の長期債務残高は181%である。

 IMFの報告書は提言した、各国は遅くとも2011年には財政再建に着手するべきだ、と。日本は歳出抑制と増税が必要だとしている。消費税を5%から10%に引き上げれば、GDPの2.6%に相当する税収が得られるとしている。
 「ここでの分析は、菅直人首相の消費税増税発言や、六月下旬のG20における財政赤字削減目標の基礎になったものと考えられる」

 国債残高が巨額だと、(1)残高を縮小できないし、(2)インフレによって経済活動が混乱する可能性がある。(3)(2)とはならなくとも巨額の国債残高は経済活動を圧迫する。
 ただし、事はさほど簡単ではないし、日本では現実に問題が発生しているわけではないのでわかりにくい。国債発行が過大なら金利が上昇するはずなのだが、日本ではこの事態は起きていないし、アメリカでも長期金利は下落している。
 しかし、日本で問題が深刻化しているのは事実だ。資本蓄積が阻害されているからだ(民間設備投資・公的投資が低水準)。
 この結果、資本不足経済の生産力はきわめて低水準に落ちこむであろう。
 ところが、金利高騰が起きていないので、問題が認識されにくい。ために、国債発行の削減について合意を形成しにくい。増税も歳出削減も、選挙を意識せざるをえない政治家は避けて通ろうとする。
 増税は、短期的には明らかに経済にネガティブな影響を与える。消費税を増税しても、単年度の赤字は減るが、残高がただちに減るわけではない。
 日本のグロスの残高の対GDP比は200%を超え、さらに増加しつづける。人類がこれまで経験したことのない事態である。そこに何が起こるか、はっきりわからない点が多い。

【参考】野口悠紀雄『「超」整理日記No.521』(「週刊ダイヤモンド」2010年7月24日号、所収)
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書評:『本読みの達人が選んだ「この3冊」』

2010年07月24日 | 批評・思想
 丸谷才一による前書きが本書の委細をつくしている。
 本好きには特に気に入っている分野がある。そこに目をつけて各界の読書人にいろんな分野の本ベスト・スリーを推薦してもらったのが、本書のもとになった「この3冊」。毎日新聞書評欄「今週の本棚」のコラムである(1995年4月から1998年3月まで)。
 井上ひさしの「アメリカ野球小説」、平岩外四の「時代小説」、都留重人の「経済学者の自伝」などが登場した。
 その後、追悼文的なものがまじった。矢代静一の「遠藤周作の本」、川本三郎の「藤沢周平の本」、伊東光晴の「脇村義太郎の本」など。
 翻訳の名手の名訳をえらぶ企画も出た。安藤元雄の「堀口大學の翻訳」、佐伯彰一の「中野好夫の翻訳」など。異色なのは、柴田元幸の「村上春樹の翻訳」。
 ひとくくりにできないテーマもあって、たとえば宮部みゆきの「タイムトリップ小説」がそれ。『蒲生邸事件』に感心した丸谷才一が思いついたものだそうだ。

 本書に登場する読書人150人は、各界の錚々たる方々だ。学者、文筆業者はもとより、財界人から野球人まで。
 たとえば、スポーツジャーナリスト・新体操インストラクターの山崎浩子が選ぶ「スポーツの本」のベスト・スリーは、①『汚れた金メダル』(松瀬学/文藝春秋)、②『オリンピックヒーローたちの眠れない夜』(佐瀬稔/世界文化社)、③『メンタル・タフネス -勝つためのスポーツ科学』(ジム・レイヤー/TBSブリタニカ)。
 オリンピックのメダリストは、一時はもてはやされても、そのうちタダの人になる。しかし、国によっては、メダルを獲得するか否かで、その後の生活が天国と地獄ほどの差が生じる。ために、ドーピングに手を染めることもある。中国競泳陣のドーピング疑惑にとりくんだのが①。ドーピング隠しのあの手この手が明らかにされる。
 ・・・・といったような内容紹介と、「華やかな舞台の裏を垣間見ることができる」という短評が付く。

 あるいは、弁護士にして詩人の中村稔が選ぶ「海外弁護士ミステリー」のベスト・スリーは、①『大はずれ殺人事件』(クレイグ・ライス/ハヤカワ・ミステリ文庫)、②『門番の飼猫』(E・S・ガードナー/ハヤカワ・ミステリ文庫)、③『依頼人(上下)』(J・グリシャム/新潮文庫)。
 ②のペリー・メースン・シリーズは評者も愛読していたが、中村稔はどう評価しているのか。彼の自伝『私の昭和史』、『私の昭和史 戦後編(上下)』にはミステリー談義は出てこなかったような気がする。だが、「シリーズ中では初期の作品にすぐれたものが多いが、意外性、推理に無理のないこと、テンポの早さで」②が随一のものだと考えている、というから、このシリーズを網羅的かつ丹念に読んでいるのは確かだ。
 ちなみに、中村稔はこう書く。「芝居気たっぷりで野心的で、いつも大向こうの喝采をあてにするのは、弁護士の本来の資質であり、ペリー・メースンほど弁護士らしい弁護士はいない」と。
 夫子自身、芝居気たっぷり、野心的なのだろうか。だとすると意外な一面を知ったことになる。

 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』は、寝ころんで読める程度に軽い。手にもって軽いし、気軽にページを開くことができるという点でも軽い。どのコラムも見開き2ページにおさまっているから、任意のページから読みはじめてよい。すべての選者に和田誠のさし絵がついていて、これがまた楽しい。
 アクセスしやすさのわりに、なかみは濃い、と思う。選者とテーマのとりあわせが斬新だし、文筆のプロはプロなりの、アマチュアはアマなりの本の読み方、評し方は読みごたえがある。さらには、中村稔のように、選者をより深く知る機会ともなる。
 選ばれた本の一部に当時すでに品切れのものがある点にやや難があるが、前書きで「かなりの良書だと思つてゐる」と丸谷才一が自賛するのも、むべなるかな。

※本書のさわりは次をどうぞ。
 【読書余滴】本読みの達人が選んだ「この3冊」 ~SF、ミステリー、SFミステリー~
 【読書余滴】本読みの達人:テーマは女 ~笑い、ファッション、評伝~
 【読書余滴】本読みの達人:テーマは歴史 ~イギリス史、フランス史、ローマ史~

□丸谷才一編『本読みの達人が選んだ「この3冊」』(毎日新聞社、1998)
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【読書余滴】本読みの達人:テーマは歴史 ~イギリス史、フランス史、ローマ史~

2010年07月23日 | 批評・思想
 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、英文学の小池滋が選ぶ「イギリス史」のベスト・スリーは、①『概説イギリス史 -伝統的理解をこえて』(青山吉信、今井宏・編/有斐閣選書)、②『ピープス氏の秘められた日記』(臼田昭/岩波新書)、③『ミドロジアンの心臓』(ウォルター・スコット/岩波文庫)。
 一般の日本人のイギリスに対してもつイメージは一面的になりがちなのだが、これを排し、複眼的見方を強調するのが①。「ジェントルマンの功罪」という一章が特に設けられている。人を理解してこそ、はじめて国の歴史がわかる。
 イギリス人の一典型が日本人によって見事に描かれたのが②。ちなみに、日本のピープス氏は『元禄御畳奉行の日記 ―尾張藩士の見た浮世』(神坂次郎/中公新書)に描かれた。
 イングランドとスコットランドの違いと断絶を史書以上にわかりやすく教えてくれるのが③。両チームによるラグビーの「国際」試合に驚く人は、スコットの小説で勉強したまい。

 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、詩人・評論家の与謝野文子が選ぶ「フランス史」のベスト・スリーは、①『ジョゼフ・フーシェ』(シュテファン・ツワイク/岩波文庫)、②『バルザック全集』全26巻(東京創元社)、③『フランス史3 -19世紀なかば~現在』(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦・編/山川出版社)。
 入れ替わる政権をささえ、どの政権下でも生きのびる警察官僚フーシェの心理を描くのが①。著者は礼讃していない。だが、伝記作家の力は偉大だ。日本の読者をして、縁もゆかりも、親しむべきいわれもない一人のフランス人を妙に記憶にとどめしむ。
 19世紀のすさまじい変化の妙味をあじわうにはバルザック全編を追うにしくはない。王党派的保守的感性のほうが、スタンダールのような進歩的知性より、社会の実相をよく映しだす。階級と風俗、心性、都市と田舎、新民法、土地の細分化などなどが描きつくされる。
 ③のように、最新研究の傾向を反映し、社会・経済・文化現象からとらえた歴史は、年代と人命と勝利の記録にあふれた昔の歴史から遠い。あったままの過去を描くという使命は、仮構としての歴史の壁にたえずぶつかっている。

 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、歴史学者の弓削達が選ぶ「ローマ史」のベスト・スリーは、①『クォ・ヴァ・デス』(シェンキェーヴィッチ/岩波文庫)、②『ローマ人の国家と国家思想』(マイヤー/岩波書店)、③『ローマの歴史』(モンタネッリ/中公文庫)。
 ローマへの関心を植えつけてくれる小説が①。木村毅訳(世界文学全集25、昭和3年刊)、河野与一訳(岩波文庫)が出ていたが、いま入手しやすいのは木村彰一訳(岩波文庫)だ。
 弓削達がローマ史を専門として勉強する過程で、ローマ理解の骨格をつくってくれたのが②。
 「歴史の研究成果は叙述によって完成する。叙述は完成であり問題提起である。ローマ史のように千年以上もつながる歴史の叙述は至難の業である。それを一冊の本でこなしたもの」が③。「前2000年頃から、ローマ帝国の終りまでの叙述に脱帽する。著者が専門の歴史家ではなかったから出来たのかもしれない」

【参考】丸谷才一編『本読みの達人が選んだ「この3冊」』(毎日新聞社、1998)
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【読書余滴】本読みの達人:テーマは女 ~笑い、ファッション、評伝~

2010年07月23日 | 批評・思想
 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、ロシア語会議通訳者の米原万里が選ぶ「いまどきの女の笑い」のベスト・スリーは、①『禿頭考』(清水ちなみ/中央公論社)、②『受難』(姫野カオルコ/文藝春秋)、③『謝々! チャイニーズ』(星野博美/情報センター出版局)。
 笑い上戸の人口比率は女のほうが高いはずなのに、笑わせる達人はもう圧倒的に男性優位。それが、ここにきて、笑わせ上手な女が質量とも急増した。
 『おじさん改造講座』主宰者が男と女の身もフタもない本音にせまる①は、「ミーハーを装いながら本格的にポピュラー・サイエンスし、哲学している力作だ」。
 30過ぎのいまも処女にして不感症の主人公の膣に、ある日人面瘡が棲みつき、日夜彼女を「ダメ女」と罵倒しつづけるのが②。「人間関係が希薄なのに性情報ばかりが氾濫する現代における性愛の可能性を、主人公と人面瘡の卑猥にして真剣な対話という卓抜な方法で深めていく。そしておとぎ話風のオチで一気に花開かせる」
 経済開放政策の下、中国は華南を単身旅するカメラ・ウーマンによる③は、「お上を信ぜず自力のみを頼る中国庶民のメチャクチャ型破りな生態と自由な魂を色鮮やかに描きだす」。「こんなに面白い旅行記はひさしぶり」

 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、ファッション・ライターの川本恵子が選ぶ「女性のファッション」のベスト・スリーは、①『エイジ・オブ・イノセンス』(E・ウォートン/新潮文庫)、②『サマータイムス・ブルー』(S・パレッキー/ハヤカワ・ミステリ文庫)、③『ハリスおばさんパリへ行く』(ガリコ/講談社文庫)。
 「女のお洒落を描くことは、女性史ではなく社会史になりうる」
 1993年に映画化されて蘇った①は、1920年の作。1870年代のニューヨーク社交界が舞台で、厳格なピューリタンが頑なにまもる上流社会のルールが事こまかに記されている。ほんのすこし肌を露わにしたドレス姿だけで自堕落と目される社会だった。
 現代女性ファッションは、階級どころか性別さえ不問。自分の意志があるからこそオシャレという時代だ。職業人としてどう見られるか、がオシャレの基準になってくる。②の女探偵の「靴は“マグリ”」という言葉で、どれだけブランドのファンが増えたことか。
 しかし、ほんとうの女のオシャレは、美しい服を無垢な心で愛ずることかもしれない。③を読んだら、誰もブランド好きの悪口はいえなくなる。1958年当時の“美しいもの”の象徴は、ディオール作の完璧なドレスであった。「こういう夢はとっておきたい」

 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、JT生命誌研究館副館長の中村桂子が選ぶ「女性科学者の評伝」のベスト・スリーは、①『キュリー夫人』(オルギェルト・ヴォウチェク/恒文社)、②『動く遺伝子』(エブリン・フォックス・ケラー/晶文社)、③『ロザリンド・フランクリンとDNA』(アン・セイヤー/草思社)。
 ついこの間まで、理系の女子学生は珍獣にちかい扱いをうけていた。苦労のなかでたくましく生きた先輩世代のなかから3人を選ぶ。
 キュリー夫人は、科学だけでなく、人間に対しても情熱的だった。夫の学生とのあいだの噂もあったらしい。①は、祖国ポーランドの女性が愛国者としてのキュリーを描く。
 ②のバーバラ・マクリントックは、トウモロコシの遺伝学にとりくみ、30代で“動く遺伝子”という革命的発見をした。男性なら、ただちに有名大学の教授に就くところだが、彼女は職を得るのに苦労した。ノーベル賞受賞は、“動く遺伝子”発見の50年以上後のことである。
 ③のロザリンドは、DNAのX線解析により二重らせん構造の発見に大きく貢献した。ノーベル賞受賞者のワトソンがデータを断りなく使用したうえ、癌で若くして亡くなったため、ノーベル賞は受賞できなかった。悲劇の人だが、研究室の日々は充実していた。

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【読書余滴】本読みの達人が選んだ「この3冊」 ~SF、ミステリー、SFミステリー~

2010年07月22日 | 批評・思想
 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し梅雨が明けたとたんに、炎帝が君臨する日々となった。
 たちまち豆腐状態になった大脳新皮質にとって、読むのは軽めの本がよい。
 軽い本といえば、ミステリーかSF。どちらがよいだろうか、と悩めばビュリダンの驢馬となる。

 さいわい、斯界には両者を総合したSFミステリーというジャンルがある。
 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、評論家の瀬戸川猛資が選ぶ「SFミステリー」のベスト・スリーは、①『はだかの太陽』(アイザック・アシモフ/ハヤカワ文庫SF)、②『星を継ぐもの』(ジェイムズ・P・ホーガン/創元SF文庫)、③『継ぐのは誰か?』(小松左京/ジャストシステム)。
 昔からSFは、ミステリーと切っても切れない関係にあったらしい。
 瀬戸川猛資、たとえば『はだかの太陽』を評していわく、「不可能興味の謎解き小説。メイン・トリックは単純明快、探偵小説ファンの琴線に触れるものである」。

 ちょい待ち、ミステリーはミステリーなのだよ、とジャンルの独立を標榜する向きもあるかもしれない。
 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、科学史家・科学哲学者にして国際基督教大学教授の村上陽一郎が選ぶ「女と男の探偵小説」のベスト・スリーは、①『女には向かない職業』(P・D・ジェイムズ/ハヤカワ・ミステリ文庫)、②『ダウンタウン・シスター』(サラ・パレッキー/ハヤカワ・ミステリ文庫)、③『初秋』(ロバート・B・パーカー/ハヤカワ・ミステリ文庫。
 村上陽一郎、たとえば『ダウンタウン・シスター』を評していわく、「男性の庇護的なパターナリズムに抵抗するために、身体を張って戦うことを生きがいにしたハードボイルド的な女探偵が主役である。(中略)ウォーショースキーに典型的なフェミニズムは、男性の探偵にも屈折した形で陰を落としている」。

 SFにも同様の立場をとる人がいるらしい。
 『本読みの達人が選んだ「この3冊」』で、SF評論家にして慶応大学助教授(当時)の巽孝之が選ぶ「現代日本のSF」のベスト・スリーは、①『白壁の文字は夕陽に映える』(荒巻義雄/早川書房/絶版)、②『日本沈没』(小松左京/光文社文庫)、『メンタル・フィメール』(大原まり子/ハヤカワ文庫)。
 これらは、シュールレアリスムの系譜を継ぐ内宇宙の探究をめざし、英国で発生したニューウェーブ運動の日本版である・・・・らしい。
 巽孝之、たとえば『日本沈没』を評していわく、「阪神大震災と関連して語られることが多いけれど、じっさいには日本人のユダヤ人的民族離散という重いテーマで高度成長期日本の国際化要請に深い思索をめぐらし、日本独自のSF的可能性を確立した一冊」。

【参考】丸谷才一編『本読みの達人が選んだ「この3冊」』(毎日新聞社、1998)
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書評:『黒後家蜘蛛の会2』

2010年07月21日 | ミステリー・SF
 『黒後家蜘蛛の会』シリーズは、邦訳で全5巻。最初の短編は1971年3月に発表された。
 アシモフ自身、いたく気に入っていたシリーズらしい。単行本収録にあたって各短編の末尾に作者あとがきを追記し、作品成立の裏話を披露しているが、じつに楽しそうだ。
 どの巻の、どの短編も構成は同工異曲だ。
 黒後家蜘蛛の会という月例の親睦会があって、毎回ゲストが招かれる。談論活発な会食の後、ゲストは「何をもって自身の存在を正当とするか?」と問いかけられる。6名の会員とゲストのやりとりのうちに謎が発生する。あるいは、さいしょからゲストが謎を持ちこみ、各人各様の角度から追求する。しかし、解決に至らない。そこへ給仕ヘンリーがデウス・エキス・マキーナとして慎ましやかに登場するのだ。
 このパターンは、どの短編でも変わらない。
 手がかりは遺漏なく提示されるから、読者もまた会員とともに推理をめぐらすことができる。フェアといえばフェアだが、時々特殊な知識を要求されるから油断できない。
 だが、謎解き以上に饒舌な雑談、歓談が楽しい。いささか辛辣だが、節度のある議論である。
 要するに、このシリーズは、論理的に明快で、遊び心が横溢したミステリーである。
 卑見によれば、アームチェア・ディテクティブはハリイ・ケメルマン(永井淳/深町眞理子・訳)『九マイルは遠すぎる』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1976)をもって至高とするのだが、『黒後家蜘蛛の会』シリーズはこれに準じる、と思う。

 本書には12編が収録されている。
 冒頭の『追われてもいないのに』は、多産で、自尊心のかたまり、うぬぼれの権化のような作家、まるでアシモフそっくりのモーティマー・ステラーがゲストである。「おそらく、わたしの書くものを越える文章はないでしょう」とか、私は何でも書く、「だからわたしはよく作家にある、行き詰まった、という経験がありません」とか、傲然たるものだ。戯画化されているが、アシモフ自身の本音くさい。
 それはさておき、ステラーは、さるパーティでジョエル・バーコヴィッチと知り合う。そして、創刊予定の新雑誌「ウェイ・オブ・ライフ」への寄稿を依頼された。バーコヴィッチは編集長に就任するはずだった。
 ステラーは、くだんのパーティを素材に、しかし実在の人物はボカして、わずか1週間で書きあげた。
 バーコヴィッチ編集長は約束どおり買い上げた。しかるに、創刊号には掲載されなかった。爾来2年たつが、依然としてお蔵入りのままである。いつ掲載するのか、と問い合わせたが、言を左右にして答えない。ちゃんと原稿料は支払われているから強くは文句を言えない。ただ、付加価値、つまり単行本への収録ができない。
 この際、胸のつかえをぬぐい去ろうと、ステラーは黒後家蜘蛛の会の会員に事情を打ち明けたのだ。
 手直しが必要だったのではないか(いや、原稿料は支払い済みである)、原稿を失くしたのではないか(いや、ステラーの手元に写しがある)・・・・などなど、会員が多様な角度から検討したが、どれも正鵠を射ているらしくない。
 ところで、かのパーティにバーコヴィッチは愛人らしいホステスを同伴していた。その半年後、バーコヴィッチは心臓を患っていた妻を亡くし、晴れて、かの愛人と再婚したのだ。

 百家争鳴の後、ヘンリーは一つの解を提示する。
 バーコヴィッチが原稿料を払って初公表権を獲得し、かつ掲載しないでいるのは、自分の雑誌にせよ他の雑誌にせよ、パーティを描いた原稿のどこかの箇所を公表されたくないからではないか。その箇所はおそらく・・・・。
 この推定に基づき、自分の作品を発表したいというステラーの欲求と、推定されるところのバーコヴィッチにとっての不都合とを同時に解消する方法が提案された。
 隠すよりあらわるるはなし。この古来の真理を安楽椅子の探偵たちは証明する。それと同時に、関係者のいずれにとっても満足のいくプラグマティカルな解決法をも案出するのである。このあたりが、米国らしさというか、少なくともアシモフらしいところだ。

□アイザック・アシモフ(池央耿訳)『黒後家蜘蛛の会2』(創元推理文庫、1978)
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書評:『壺霊』 ~内田康夫の京都ガイド~

2010年07月20日 | ミステリー・SF
 本書は、内田康夫150冊目の本、浅見光彦シリーズの1冊。
 浅見光彦シリーズは、主人公の年齢も仕事も、そして家族構成も永遠に変わらない。ライターの主人公は、33歳のまま歳をとらない。老母もまた、かくしゃくとして介護保険による給付は不要である。可哀想に、14歳年長の兄の陽一郎は警察庁刑事局長から異動しないし、これ以上出世しない。46歳の兄嫁は家事をそつなくこなし続け、高校1年生の姪や14歳の甥はちっとも成長しない。お手伝いさんはいつまでも27歳の若さをたもち、どこまでも主人公に対して純情である。
 ディック・フランシスの数ある作品の主人公も浅見光彦とおおむね同年配だが、作品ごとに新たな主人公が創造され、その出自と職業は他の主人公と異にする。この結果、一連のフランシス作品は、階級社会イギリスの社会各層の諸相を重層的に描きだす。ディック・フランシス作品は、イギリスとイギリス人を知る格好のテキストである。
 他方、浅見光彦シリーズは、社会の諸相ではなく、風俗だ。しかも、通りすぎていく旅人の目にうつる風俗である。その土地とも土地の人々とも、主人公と本質的な関係が築かれることはない。浅見光彦は、基本的には、「あっしには関わりのねぇことでござんす」とうそぶいた木枯紋次郎の末裔なのである。その証拠に、旅先で結婚を本人または親族から迫られるほど親しくなっても、どの女性とも関係が深まることはない。 

 ところで、『壺霊』がとりあげる風俗は、京都のそれである。
 主人公は東山区の古色蒼然たる民家を拠点とし、檜の湯船に浸かり、生霊やら魑魅魍魎が出そうな町家の雰囲気を味わい・・・・魑魅魍魎ではなくて、巨大なゴキブリを退治する。これも古都の一面である。
 また、愛車ソアラを駆って縦横に京の街を疾駆するから、巻頭の地図を参照しながら読めば、たちまち京都の地理があたまに入る。懇切にも、本書は通りの名の覚え方まで教えてくれるのだ。「丸竹夷二押御池」は、御所のすぐ南を東西に走る丸太町通から順に南へ、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通。さらに南は、「姉三六角蛸錦」。
 浅見光彦は、秋に1週間の予定で京都へ出張し、それが延びて結局10日あまり滞在するのだが、謎解きの調査をする必要のない観光客なら、もっと短期間で主人公と同じルートを辿ることができるはずだ。
 要するに、『壺霊』はれっきとした京都ガイドブックである。事件が起こり、謎解きがあるのだが、それは刺身のツマにすぎない。

 京都ガイドブックの性格は、グルメにいたって、ますます顕著である。そう、『壺霊』はグルメ小説でもある。
 たとえば、大徳寺前にある「松屋藤兵衛」。銘菓「松風」は、主人公の母堂がかねてから贔屓にしていたことが明らかにされる。
 四条河原町にある京都タカシマヤ7階のダイニングガーデン京回廊は本書にたびたび登場するから、浅見光彦の味わいぶりを参考に店と料理をチョイスできる。
 そして、蕎麦の本家尾張屋に、中華の大傳月軒。木屋町通の大傳月軒では、店の来歴を知ることで、主人公は事件の渦中にある人物の隠された謎をあぶりだすのだ。
 篠田一士『世界文学「食」紀行』の文明批評や文学談義のみならず、殺人事件をも話題にして会食できることを明らかにしただけでも本書の意義は大きい。
 ところで、嵐山は渡月橋を渡って南側の豆腐料理で浅見光彦は年上の美人と会食するのだが、その店の名が記されていないのは妙だ。なにか、いわくがありそうだ。これこそ、グルメ小説としての本書の最大の謎である。

□内田康夫『壺霊』(角川書店、2008)
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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(1)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
 主として『レイテ戦記』に基づき、一部他の資料から補足しながら、レイテ戦における第26師団の動きを追跡してみる。

<符号>
 A:軍、野砲兵聯隊。Ab:砲兵大隊。As:独立砲兵聯隊。B:旅団。Bs:独立混成旅団。D:師団。FA:航空軍。FL:野戦病院。i:歩兵聯隊。ibs:独立歩兵大隊。is:独立歩兵聯隊。K:騎兵聯隊。KD:騎兵師団。P:工兵聯隊。SO:捜索聯隊。T:輜重兵聯隊。ⅠⅡⅢ:大隊番号。
 【今堀】:今堀支隊の動向、【斎藤】:斎藤支隊の動向、【重松】:重松大隊の動向、■日本軍の概況、○米軍の概況、【US】:米軍の動向。
 なお、『レイテ戦記』にならい、「聯隊」の表記は日本軍に、「連隊」の表記は米軍に適用する。

<出典>
 文末の(04)・・・・以下は、『レイテ戦記の』各章である。(04) 「4 海軍」、(09) 「9 海戦」、(12) 「12 第1師団」、(13) 「13 リモン峠」、(14) 「14 軍旗」、(15) 「15 第26師団」、(16) 「16 多号作戦」、(17) 「17 脊梁山脈」、(18) 「18 死の谷」、(19) 「19 和号作戦」、(20) 「20 ダムラアンの戦い」、(21) 「21 ブラウエンの戦い」、(22) 「22 オルモック湾の戦い」、(23) 「23 オルモックの戦い」、(24) 「24 壊滅」、(25) 「25 第68旅団」、(26) 「26 転進」、(27) 「27 敗軍」、(28) 「28 地号作戦」、(29) 「29 カンギポット」、(30) 「30 エピローグ」。
 また、<年>は太平洋戦争年表(『レイテ戦記』巻末)、<重>は「重松大隊の戦記」、<雨>は「第一師団戦闘行動経過表」。

------------------------------------
 ■師団長幕僚以下、高級将校は皆戦死しているから詳しいことは伝わらない。ただし、聯隊ごとの戦記は比較的早く、昭和33年に刊行されている。(15)
 ■「師団からの帰還者は300余名であるが、大部分はマスバテ島漂着部隊とルソン島残存部隊で、レイテ島からの帰還者は、将校1、兵22,計23名にすぎない。万事はっきりしないことの方が多いのである」(15)
 ■マスバテ島漂着部隊とは、レイテ島へ輸送中に空襲を受けてマスバテ島に避難し、終戦時まで山中に残った部隊約200名のことである。(15)

【昭和10年】
2月
 ■熱河省で歩兵2個連隊を基幹として11Bsが編成された。(15)

【昭和12年】
10月
 ■11Bsは、静岡から名古屋、岐阜にいたる東海、中部地方の第3師団管区から現役兵をもって補充され(下士官は主として久留米)、師団に昇格した(26D)。11is、12is、13isを基幹とし、歩兵各聯隊は1個大隊が4個中隊のフル編成で、「山西省の八路軍と対峙、対ゲリラ戦の経験を持つ歴戦の部隊であった」(15)

【昭和18年】
10月20日
 ■16D20i、レイテ島討伐。<年>

【昭和19年】
3月8日
 ■インパール作戦開始(7月退却)。<年>

3月12日
 ■牧野中将(16D長)、D司令部(ルソン島ロスバニヨス)に着任。<年>

4月13日
 ■16D司令部、レイテ島進出。<年>

6月9日
 ■マリアナ沖海戦。<年>

7月初旬~
 ■1Dと同じく対米作戦参加の内命を受けた26Dは、対戦車肉薄攻撃、輸送船舷側の昇り降りなど、南方派遣部隊としての訓練を行った。(15)

7月7日
 ■サイパン島の日本軍全滅。<年>

7月13日迄
 ■原駐地厚和、大同に集中を終わった。(15)

7月24日
 ■捷号作戦が決定された。うち、捷1号は比島を対象とする。(04)
 ■比島派遣14Aが昇格して第14方面軍となり、26D(蒙彊)、8D(満州)、戦車第2師団が戦闘序列に入った。ルソン島中南部の防備を強化するためである。(04) また、ビサヤ、ミンダナオ方面の警備に当たっていた師団、混成旅団を集めて35Aを創設した。35Aは第14方面軍の隷下に入った。(04)
 ■1D(満州)は上海に移された。状況によって、随時、比島あるいは南西諸島に派遣できるよう準備された。(04)

7月28日
 ■鉄路釜山に着いた。そこで師団長が交替した。山県栗花生中将が転補された。(15)
 ■第14方面軍、第35軍新設。<年>

8月8日
 ■26Dは輸送船「玉津丸」「日昌丸」等(8隻、(12))に乗船した。(15)

8月9日
 ○米軍、ダバオ空襲(撤退後初めての攻撃)。<年>

8月10日
 ■九州の伊万里湾で30数隻の大輸送船団を組んで出航した。台湾の馬公を出る時は、改装空母「大鷹」ほか12隻の護衛が付いた。(15)
 ■バシー海峡で、敵潜水艦により、護送空母「大鷹」、駆逐艦1、輸送船6が撃沈された。この頃、目的地に到達するもの平均45%という数値になっていた。(12)

8月22日
 ■ルソン島マニラに着いた。1Dより早い。当時、マニラの状況はそれほど悪化していなかった。(15) 26Dの任務は、リンガエン湾から東海岸バレル湾にいたる中部ルソンの警備だった。(15) しかし、給養はきわめて悪く、副食は腐ったような水牛の塩汁ばかりだったので、下痢患者、栄養失調者が増えた。移動中、道傍の養魚場の魚をとろうとして、補充兵の警備員に叱られたりした。(15)
 【重松】重松大隊(Ⅲ/13is、大隊長重松勲次少佐)、マニラ港入港。停泊すること1日半で下船。リンガエン湾の警備に就いた。<重>

8月27日
 【重松】中部ルソン島タルラック州サンミゲルに進駐。警備と演習に明け暮れた。<重>

9月9日
 ○ダバオ大空襲。<年>

9月17日
 【斎藤】齋藤二郎大佐、海没した安尾大佐の後任として、聯隊長(13is)に着任。<重>

9月21日
 ○ルソン島に第1回目の大空襲があった。<年><重>

9月25日
 ○米軍、ペリリュー島上陸。<年>

9月29日
 ■グアム、テニアン両島の日本軍全滅。<年>

10月6日
 ■第14方面軍司令官山下大将着任。<年>

10月8日頃~10月7日
 ■マニラ集結命令。<重> 26D主力はマニラ付近に集結した。しかし、最初に出た命令は、波止場の荷揚げ作業であった。「こうして26師団の兵士たちは、決戦参加に先立ち、すき腹を抱えての24時間労働で体力を消耗する不運に見舞われた」(15)

10月10~14日
 ■<台湾沖航空戦><年>

10月17日
 ○米レンジャー部隊、スルアン島上陸。<年>

10月19日
 ■捷1号作戦発令。神風特別攻撃隊編成。<年>

10月20日
 【US】米軍、レイテ上陸。<重>
 ■大西滝治郎中将(第1航空艦隊司令官)、特攻を決定。<年> ○米軍、レイテ島上陸(1日で10万を超える人員と10万トン以上の補給物資を揚陸)。<年>
 ■16D(牧野四郎中将)など約2万が配備されているのみ。師団司令部のあるタクロバン正面は手薄、敵上陸第1日で通信網を寸断され、集積物資の多くを失った。→戦況は上級司令部には伝わらなかった。(レイテ決戦決定)<年>

10月24~26日
 ■レイテ沖海戦(09)

10月26日
 ■レイテ島進出の命令が26Dに下った。(15)

10月28日
 ■レイテ島輸送の「多号作戦」が正式に決定された。(15)

10月30日迄
 ■26Dの諸隊は軍装検査を終えた。(15)

10月31日
 【今堀】26Dの先遣部隊、今堀支隊(12is(Ⅱ欠)1,000名、(12))は、1Dとともに出航した。(15)

11月1日
 ■1D(片岡薫中将)主力、オルモック上陸。<年>

11月1~4日
 【今堀】11月1日朝、今堀支隊は、1Dとともにオルモックに到着。午後のうちに上陸を完了した。(12) 今堀支隊所属の野砲4門も上陸した。(17) 今堀支隊は、ドロレスから、水と食糧を求めてまずダナオ湖をめざした。(17) ダナオ湖は、ドロレス=ハロ道から約2キロ南、周囲6キロ、湖面標高800メートルで、折しも雨季と悪路が重なり、ゲリラの襲撃とあいまって苦難の行程だった。(17) 「作戦する前から、蛙やとかげを探さなければならないとは悲惨」な状態だったが(17)、脊梁山脈を越えて(15)、ダナオ湖からハロ側へ3キロ下り(17)、「今堀支隊は脊梁山脈中の小径を抜けて、4日までにハロを見下ろすラアオ山に進出し、後続の師団主力の到着を待っていた」(12)

11月2日
 ■第35軍司令官鈴木中将、レイテ島進出。<年>

11月2日頃
<ダムラアンの戦い>
 ■先着41i(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、1個大隊がブラウエン道に先遣されたが、主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)

11月3日~
 【今堀】11月3日以来、今堀支隊はハロ西方のラアオ山上にあって、4日以来(13)ハロの米長距離砲陣地に斬り込み隊を送り(21)、155ミリ長距離砲を破壊した(17)。 今堀支隊と10キロ離れた552高地に第1聯隊(1D)が東南2キロにわたって展開し、その西北「三ツ瘤高地」東南の脊梁山脈に49聯隊(1D)が展開していた。(13)
 【US】今堀支隊と対峙したのは、米24Dである。(14) オルモック東北方、ラアオ=マムバン山の線で、ハロの米1KD(後に24D)と対峙した。(23) なお、今堀支隊所属の野砲1個大隊は、山路運搬不能なので、ドロレスに待機し、ダムラアンの戦いに加わった。(20)

11月4日
 【重松】102D所属の1個中隊が加わった。徒歩道打通のため師団工兵も加わっていた。(21)

11月5日
 ■○<リモン峠にて日米交戦><年>

11月7日
<ダムラアンの戦い>
 ■35Aは、とりあえずオルモックにあった364大隊(55B、10月27日上陸)の1個中隊をカモテス海に沿って南下させたが、撃退された(10日までに)。(20)

11月8日
 ■最高戦争指導会議、レイテ決戦続行決定。<年>

11月8~11日
 ■「多号作戦」第3次、第4次輸送が実施された。(15)
 ■11月8日に組んだ船団は、11月1日に1Dの輸送を成功させた方式を踏襲したものだった。輸送船は26Dを乗せた「金華丸」「高津丸」「香椎丸」を主体とした。(14) 11月8日から9日にかけて、1Dの追求部隊は1,500トン級輸送船3に乗って先発した。荒天を利用し、22ノットの高速を生かして、素早く軍旗及び人員の輸送に成功した。(14) 9日、26D主力、オルモック上陸。
 【重松】11日払暁を期し上陸すべき準備をしたが、夜明けとともに米海軍機が反復攻撃、艦艇発動機故障等により不成功となり、携行兵器のみで上陸。オルモック街道を急遽。師団主力とともにドロレス(オルモック北方)付近に集結し、今堀支隊の前線基地まで進出した。<重> 重松大隊は重機関銃以下を揚陸し、後に迫撃砲6門増加。<重>

11月9日
 ■レイテ島は雨季に入った。<雨> この年のレイテ島の雨は例年より多かったと言われる。(21)

11月9日
 【US】午後、「米軍が絶対優勢にあるレイテの空の下では信じられないことだが、3隻の日本快速輸送艦がオルモック港に着き、1,000名以上の新手部隊の揚陸に成功した。さらに大型輸送船3、護衛艦多数よりなる別の船団が、レイテ西岸を南下、第5空軍の攻撃にも拘わらず1隻も撃沈されずにオルモック湾に入った」という「ぞっとするような報告」を米第6軍司令官クルーガー中将は受けた。これは軍旗とともに主力を追求中の1Dの残部3大隊と26Dの主力であった。(13)
 ■しかし、平均速度12ノットの本隊の方は、11月1日のようにはうまくいかなかった。レイテ島周辺の航空状況は9日の間に一変していた。(14) 「残念ながら26師団を乗せた輸送船団は、米機の爆撃と大発の不足により重火器を揚陸出来ず、兵員1万を上陸させることが出来ただけだった」(13) 上陸した26Dの兵士約1万名は、三八銃に弾薬130発、食糧1週間分を携行しただけだった。(16) 重火器、トラックと燃料その他軍需資材(6,600トン、(16))多数は揚陸できないまま、輸送船は撃沈された。「この日からレイテ島の補給は枯渇し、敗勢が現れてくる」(14)

11月12日
<ブラウエンの戦い>
 ■先遣今堀支隊のいるラアオ山からハロへの溢出が予定されていた26Dは、方面軍命令により、急遽1個大隊(重松大隊)をアルブエラ方面へ派遣した。マホナグ、ルビを通る土民道によって脊梁山脈を越え、ブラウエン方面の偵察と攻撃準備を行うためである。(16)
<ダムラアンの戦い>
 【US】この頃、米7師団の先鋒1個大隊がアルブエラの南20キロのダムラアンまで北上していた。(16)
 ■「この敵と対抗しながら、ブラウエン攻撃を実施するという面倒な任務が、手ぶらで上陸した26師団に課せられることになるのである」(16) 11月2日にバイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。オルモックに対する直接の脅威なので、後にこれに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに、Ⅱ/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)

11月12日
<ダムラアンの戦い>
 【US】バイバイに出現した米軍は、その後増加の形勢にあった。(20)

11月12日頃
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】オルモックに対する直接の脅威なので、これに対処するため26Dの斎藤支隊(基幹Ⅰ、Ⅱ/13isに/12is、Ⅱ/11isの一部を加えた)が派遣された。後、支隊のみならず師団の全力を注入することになる。(20)

11月12日
<ブラウエンの戦い>
 ■14方面軍は、「和号作戦」を35Aに下達。35軍は、26Dにアルブエラ~ブラウエン方面へ指向せよと命令した。26D主力はダムランを目指して進撃を開始した。<重>
 【重松】山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21) 夕刻、重松大隊は、和号作戦先遣隊としてイピル地区出発。タリサヤン川南岸を東進した。 <重> 11月13日~15日の間に、山中の地形、敵情の偵察を任務とする重松大隊は、オルモックを出発した。(21)

11月13日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26Dの井上大隊(Ⅱ/12is)がダムラアン方面へ派遣された。(20) バイバイの敵の北上は35Aにとってさしあたり脅威であった。1個大隊(13is)がダムラアン方面に派遣された。(17)

11月14日
 ■26Dはオルモックに到着した。(17)

11月15日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】重松大隊、マホナグ着。
 【斎藤】井上大隊の半分がカリダード付近で、他の半分がパラナス川付近で交戦した(互いの兵力を確かめ合った程度)。(20) 同日夕、13is主力(Ⅰ、Ⅱ)はイピルを出発、タリサヤン川(パラナス川の北7キロ、ブラウエンに向かう山径の分かれるところ)に向かった。(20) 1個大隊(13is)の先頭はパラナス川北岸に達し、米軍の先鋒と接触した。(17) 川岸から1キロ退いて、稜線に陣地を構築した。13isは野砲4門の配属を受け、アルブエラの南に布陣した。(17)

11月17日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】先遣井上大隊(Ⅱ/12is)は、斎藤大佐の指揮下に入り、斎藤支隊主力はパラナス川の線に進出した。(20) 斎藤支隊は、バイバイからカモテス海沿岸を北上中の米7Dの先頭とダムラアン(オルモック南方20キロ)で接触した。(19) 米軍の勢力は増大する傾向にあるので、さらに1個大隊を増強された。これは当時イピルにあった26Dの全力である。(19) 【重松】<ブラウエンの戦い>ルビ着。(21) 重松大隊は、マリトボから山に入り、脊梁山脈を越えて、その先頭は11月17日、全隊は22日、ブラウエンの西4キロの287高地に達した。(21) 287高地は、ブラウエンの西4キロ、ブラウエンの南でレイテ平野に溢出し、東流してドラグで海に入るダギタン川上流左岸の要地である。(21)

11月20日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】ルビ南東2粁に進出。この時一部の敵と遭遇し、これを撃退した。<重>

11月21日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】軍命令、26Dはアルブエラ方面の敵をカリダート以南に撃攘すべし。(20)

11月22日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】重松大隊の尖鋭中隊は、287高地(ブラウエン西方10キロ)に進出した。(19) 重松大隊、マタグバ東方地区に進出。先遣の小泉集成中隊(小泉少尉を長とする学徒兵将校を中心の集成中隊200名、102D)を掌握。<重>
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26D司令部はマリトボ(タリサヤン川南)に前進、作戦指導に万全を期した。(20)

11月23日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米第511降下連隊(1個大隊欠)はブラウエンを出発した。ダギタン川を遡行して脊梁山脈に入った。ダムラアンから北上する米第7師団と対峙する日本兵の背後を衝く作戦部隊だが、山中で散り散りになってしまった。しばしば26Dと交戦したが、統一指揮を失って分隊毎に単独行動をとったので、日本兵の損害も大きくなかった。(21) 当時西海岸にあった米軍の全兵力は、歩兵3個大隊、軽戦車1個小隊(2台?)。火力はリモン峠方面とは比較にならないほど貧弱なもので、11月23日時点で総数14門であった。砲兵はすべて前線から1,500ヤード後方、ダムラアン(オルモックの南20キロ)の町の南のバガン川の両岸に集結していた。(20)

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【大岡昇平ノート】『レイテ戦記』にみる第26師団(2)

2010年07月19日 | ●大岡昇平
11月23日
<ブラウエンの戦い>
 ■第4航空軍は、「天号作戦」を発令した。「天号作戦」は、ふつう、後に沖縄戦の段階で行われた特攻作戦の総称である。「『決号作戦』『天号作戦』など、後に陸海軍の終末的決戦の名称が、レイテ戦の段階で現地軍によって使われているところに、決戦の気構えが窺われる」(19) 高千穂空挺隊による「天号作戦」も薫空挺隊と同じ飛行場殴り込み作戦だが、胴体着陸ではなく、落下傘降下による正攻法である。(19)
 ■南方総軍は、「和号作戦」を発令した。(19) 「天号作戦」が実施される翌日、26Dの1個大隊(=重松大隊)及び16Dの残部1,600名が飛行場を攻撃、確保する。あとから26D主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦果を拡大する、というもので、決行日を12月5日から10日までの間とした。(19) 「和号作戦」は、地上軍の作戦の呼称で、「天号作戦」と結合した全体がブラウエン攻略作戦である。(19) この頃、26D主力はまだ必要な軍需品を受け取っていない。(19)
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】斎藤支隊の実数は2個大隊、これに対する米軍も実施2個大隊であった。(20) 兵力は2個大隊ずつでほぼ均衡し、米軍の火砲数と補給が十分でなかたので、日本側が攻勢に出て、1週間にわたる激戦となった。斎藤支隊は、レイテ戦の経過中、もっとも巧みな戦いを戦った。(20) 1830、パラナスの戦いは26Dの砲撃から始まった。(20)

11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
 ■「リモン=バイバイ間100キロの間には、スペイン統治時から、山越えの徒歩道が二つあった。一つは26Dの先遣今堀支隊が通った道で、オルモック北方5キロのタンブコから右に切れ、ダナオ山の裾野中のドロレスを経て、アルト山(1,550メートル)の北を通って、ハロへ出る約30キロの道である。支隊は11月4日までに、ハロを見下ろすラアオ山(1,000メートル)マムバン山(1,300メートル)の中間の線に進出した」(17)
 ■「もう一つの脊梁山脈越えの山径は、オルモック南方10キロの町マリトボから、タリサヤン川を遡り、山中のルビを経て、ディナガット川の上流に降り、ブラウエンに出る20キロの道である。これも古い道であるが、脊梁山脈はこの辺では最も厚い。川は深い峡谷を付くって、道は錯綜している。むろん砲車は通行不能で、せいぜい山砲を分解すれば搬送出来ないことはないという程度である」(17)
 ■だが、この道があったからこそ、ブラウエン斬り込み作戦が採用されたのだ。(17) 作戦は、第4航空軍と協力して空挺部隊を降下させ、16Dの残兵、アルブエラから山越えに進出する26D主力とともにブラウエン地区の三つの飛行場を占拠するというものだった。「その規模は雄大、日本的奇襲の観念にも適い、レイテ戦の掉尾を飾るにふさわしい作戦であった。ただそれを遂行する兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった」(17)
 ■方面軍は予想もしなかったが、山道は荒廃して殆ど存在せず、徒歩道を作ることすら困難な状態だった。(21)
 ■26Dは、上陸以来工兵隊をアルブエラに派遣して、海岸道路に平行した野道を野砲道に改造しようとしていた。しかし、雨に妨げられて工事は進捗せず、作戦に間に合わなかった。「和号作戦」は砲兵を持たない斬り込み作戦なのであった。(21)  先着41聯隊(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、重松大隊(Ⅲ/13is/26D)がブラウエン道に先遣された。26D主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)

11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
 ■26Dは、師団司令部をイピル(オルモックの5キロ南方)に置き、オルモック南部の警備を兼務としつつ、次期作戦準備に専念した。(20) 「26師団の上陸によって、レイテ島上の陸軍兵力は45,000になった。当時定められていた1個師団の1日の補給量は、糧秣、弾薬、ガソリン等合計150である(そのうち100-120トンは弾薬)。3個師団が戦闘するためには、毎日少なくとも450トンが揚陸されなければならない。ところが第2次輸送(第1師団主力)が、予定量1万立方メートルを揚陸しただけで、以後12月末までに6,500立方メートルしか揚陸していない」(16)
 ■「糧食は3個師団分で1日3食とすれば白米50トンである。マニラから積み出した白米7,000トン、そのうち到着したのは1,000トン、20日分にすぎない。しかもその多くは陸上輸送力不足のため、オルモックに集積されたままで、前線に届かなかった。かりに輸送がうまく行ったとして、途中輜重兵、部隊幹部のピンはねによって、最前線に届くのは出荷量の10分の1というのが軍隊の相場である。前線の歩兵部隊が、飢餓によって戦闘力を失って行ったのは当然であった」(16)
 ■「しかし揚陸に成功した場合でも、トラック不足のため、オルモック、フアトンに蓄積されたまま、敵の爆撃の目標になるだけだった。最後にはオルモック逆上陸によって、敵に鹵獲されることになる」(16)
 ■レイテ戦続行のためには有効な補給が必要であり、そのため東海岸の飛行場を奪回しなければならない。かといって、カリガラ方面を迂回している余裕はない。かくて、方面軍作戦は、12月7日のブラウエン斬り込み作戦となって実現するところの敵航空基地撃破に向かって進んだ。(16)

11月24日
 ○米B29、東京初空襲。<年>

11月25日
<ブラウエンの戦い>
 【重松】1個小隊が東方2キロのブラウエン背後の205高地まで潜行し、別の1個中隊は東南方3キロの327高地に着いて右側を偵察した。(21) 同日、マタグパ、パグフドラン東方高地で米軍と交戦した。(21) 11月下旬、補給不十分なまま米第511連隊と交戦を重ねたあげく、多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出た。(21)
 【今堀】今堀支隊の川上少尉がダガミの16D司令部に連絡に行った。その時点での16Dの状況の報告が「レイテ戦史」に記録されている。16Dはすでに1か月間山籠りし、マラリヤ、下痢、栄養失調で死亡病臥する者多く、この頃では1日の人員消耗数75名に達していた。(21)

11月26日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】夜、米軍陣地を一気に抜く好機が生じたが、「ただ理由のわからない米軍の退却に戸まどいし、直ちに戦果を拡大して完全勝利に持って行く判断をする将校がいなかった」(20) 「逸機」である。9日に輸送船で多数の中隊長が戦死したのが打撃だったといわれる。(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■26D司令部は、南方へ移動するとき、イピルの国道西側にあった砂糖工場に書類を埋めた。(22)

11月26~27日
 ■薫空挺部隊、ブラウエン方面に強行着陸。<年>

11月27日
 ■ペリリュー島の日本軍抵抗終わる。<年>
<ブラウエンの戦い>
 【重松】「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告。山に入ってすでに半月経ていた。補給は十分でないから、この頃は多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出ていた。同日1230~1800、「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告した。ダキタン川渓谷に沿う小高地を巡って米511iと苦闘。<重>

11月27-28日
 ■多号第6次輸送。これより、「26師団は、上陸16日目にやっと弾薬と食糧を支給された」(19)

11月28日
 ■35Aは、「和号作戦」を下達。(19) この頃26D司令部は斎藤支隊の作戦指導のためマリトボに移動していたが、「ブラウエン方面専念」の命令を受けた。(19)
 ■35Aは、最初ブラウエン作戦に批判的だったが、作戦決定の上は総力をあげて実施体勢を整えていた。成功すれば東海岸の米軍航空兵力は著しく減退し、輸送状況が改善されるはずだから、レイテ戦の主導権奪回のための必死の作戦といえる。(19)
 ■しかし、この場合も障害は情報の不足だった。米軍はブラウエン地区の3飛行場のうち、サンパブロは11月23日に、ブリ、バユグは11月30日に放棄し、新たな飛行場をタナウアン海岸に建造中だった。日本軍はそれを知らなかった。(19)
 ■ブラウエンへの「突入は一応成功したが、残念ながら、労多くして効少なき結果となった。レイテ島東海岸の米空軍に何ほどの打撃を与えることが出来なかったのである」(19)

11月28日
<ダムラアンの戦い>
 【US】米軍には部隊の交替があった。(20)

11月28日
<ダムラアンの戦い>
 ■26Dでも戦線整理が行われた。(20)
<ブラウエンの戦い><ダムラアンの戦い>
  【斎藤】「和号作戦」決定に伴い、井上大隊(Ⅱ/12is)残部はブラウエン作戦参加のためルビへ転進を命じられ、支隊主力には以後、カモテス海に沿った本道に縦深抵抗を行う任務を課せられた。(20)

11月28日~30日頃
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】13isは支隊戦闘指揮所と共にアルブエラ東南の185高地(606高地)に集結していた。正面の米軍の阻止を命じられたのはⅡ/11isであるが、その打6中隊は全滅、第5中隊も激減している。第8中隊がバロゴ東方へ撤退した時、兵力は半分に減っていた。(20)

12月1日
<ダムラアンの戦い>
 【斎藤】26D司令部がブラウエンに向かってからは、野砲、工兵、輜重、その他カモテス海沿岸の諸隊は、斎藤大佐の指揮下に入った。大佐が与えた命令は、国道を見下ろす諸高地の「死守」であった。(20)
<ブラウエンの戦い>
 ■夕刻、「和号作戦」実施の命令を受けた35Aは、オルモックを立って、イピルに一泊した。同日、マリトボにあった26Dも脊梁山脈に分け入った。ほとんど司令部だけの行軍だった。(21)
 ■カモテス海側を北上する米第7師団主力の防禦には斎藤支隊を残し、主力は敵とすれ違いに前進する。側敵行進という最も危険な作戦だが、第35軍は乾坤一擲の奇襲で主導権を奪い返そうとしたのだ。(21)
 ■だが、26Dは実質2個大隊にすぎなかった。先遣重松大隊(Ⅲ/13is)はすでに半月山中にあって戦力を消耗しており、井上大隊はダムラアン方面でさんざん叩かれた欠損部隊だった。砲を持たず、斬り込み程度の効果しか見込めなかった。(21)
12月2日 <ブラウエンの戦い>
 ■35A司令部はイピルを発し、正午、5キロ南のマリトボに着いた。鈴木35A司令官は、所定の5日には26Dはブラウエンを攻撃できない、7日に延期してくれ、と方面軍に懇請した。しかし、6日には68Bを乗せた第8次多号輸送船団がマニラを出発する。ために米航空兵力に一撃を与えておかねばならない、と方面軍は鈴木司令官の要請を拒否した。(21)

12月3日
<ブラウエンの戦い>
 ■工兵聯隊長の指揮する1個小隊は287高地を確保。重松大隊主力は205高地を進出中で、その一部はブラウエン南方5キロ327高地を前進中(詳細不明)。野中集成大隊(10月末オルモックに到着した30D77iの一部を基幹に当時オルモック周辺にあった雑軍を集成)は、0430ルビ着、1500、287高地に前進。井上大隊(Ⅱ/12is)は、夕刻、ルビ着(予定)。(21)
 26D戦闘司令所は4日午後287高地に前進予定。しかし、師団主力は、作戦準備完了予定日の3日、まだルビにあり、軍司令部も到着していなかった。(21)
 【重松】205高地付近を進出。6日、ブラウエン飛行場に40組の斬り込み隊を投入予定。(21) 一部は327高地(ブラウエン南方5キロ)を前進中。(21)

12月5日
<ブラウエンの戦い>
 ■ルビの軍司令部に到着した方面軍派遣参謀田中光祐少佐は、周辺を視察してぞっとした。飢餓に瀬している26Dの兵士たちは、「いずれも眼ばかり白く凄味をおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」(21) これは師団主力ではなくて先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況であった。「やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍が似たような状況に陥る」(21)

12月6日
<ブラウエンの戦い>
 ■朝、「ブリ飛行場を攻撃した150名の兵士がいたのは、16師団の名誉でなければならない」(21)
<ブラウエンの戦い>
 【重松】払暁、サンパブロに突入できるのは重松大隊だけだったが、「これは11月17日以来、すでに20日間山中にあって、米兵と交戦していた部隊である。糧秣はとっくに尽き弾薬は不足していた」(21) 夜、重松大隊は「予定通り突入」という報告を師団司令部に電報したまま、連絡を断った。(21)
 【重松】26Dの僅かな生還者の話では、重松大隊将兵は出発時に自分の持っている幕舎まで焼いて帰らぬつもりで出発した。しかし斬込み後若干は帰ってきた。しかし、飢餓のためもう体力の限界で動けない者が多かった。<重>

12月6日
 【US】米11空挺師団の511連隊(1個大隊欠)は、11月25日以来ブラウエン攻略作戦部隊と交叉して山中を西進していたが、その先頭がマホナグ(カモテス海を見下ろす)に進出した。それから26Dと混戦になった。(27)

12月6~7日
<ブラウエンの戦い>
 ■土居参謀のメモによれば、「和号作戦」を実施する地上兵力は、16D主力と26Dの1個大隊であった。(18)
 ■和号作戦、16D・高千穂空挺部隊、ブラウエン飛行場攻撃。<年>

12月7日
 ■68B、サン・イシドロ上陸。<年>
 ○米77D、オルモック上陸。<年>
 ■和号作戦中止。<年>
<ブラウエンの戦い>
  ■中村高級参謀が「ルビ」に帰来し、「第26師団は昨6日夜先遣重松大隊の一部が夜襲に向かったのみで師団全体では動いていない」旨報告した。<重>
<オルモック湾の戦い>
 ■米第77師団がオルモックに逆上陸し、それまで50日間の戦いに終止符をうった。(22)
 ■劇的なことに、ブラウエン飛行場群への突入作戦が行われ、35軍司令部、26D司令部をあげて、オルモック西南方20キロの山中に入っていた。26Dの斎藤支隊は、米第7師団に対して退却戦を戦っていた。(22)
<オルモック湾の戦い>
 ■「オルモック湾の朝は静かに明けた。少し雲があったが、風は穏やかだった。海面が明るくなるにつれ、ダムラアンからオルモックに到る沿岸の日本兵は、平らなオルモック湾が80隻の艦艇によって廠われているのを見たわけである。遂に聯合艦隊が助けに来てくれた、もう大丈夫だ、これまで頑張った甲斐があった、という言いようのない歓喜が、何も知らない兵の心を充たした。/しかし夜がすっかり明け放たれ、その夥しい船舶が星条旗を掲げているのを見ると、歓喜は一瞬にして、絶望と変わった。この時からレイテ西海岸の日本兵は戦意を失った」(22)
<ダムラアンの戦い>
 ■払暁、カモテス海沿岸を防備していた日本兵は、オルモック湾が艦船で覆われているのを見た。歓喜の声が湧き上がったが、海上が明るくなるにつれ、聯合艦隊だと思っていた各艦艇が星条旗を掲げているのを見た。「やられた」という虚脱感が将兵をとらえる。「7日以後、カモテス海沿岸の戦いは、絶望の戦いとなる」(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■アルブエラ方面にあった26D工兵は、米軍の砲撃に会うと、2キロ内陸の山脚地帯に退いた。米7師団のオルモック進撃路は開放された。(22)
<オルモック湾の戦い><オルモックの戦い>
 【今堀】リモン峠の急迫に伴って12月6日に1D配属されることになり、リモン峠方面への転用が決定した今堀支隊の先遣第1大隊が、12月7日、ちょうどドロレス(オルモック東北8キロ、標高200メートル、ダナオ山の裾野の補給基地、オルモック湾が見はらせる)まで下って来ていた。(22)(23) 友近少将は今堀支隊の1D配属を取り消し、光井部隊と協力して、キャンプ・ドーンズ(オルモック南1キロ)の防衛をするよう命じた。(22)
12月7日夜、実力2個中隊の上条大隊(Ⅰ/12is)は、軽機3、速射砲2を受領してから、車輌輸送でイピルに向かった。オルモック南方で下車、1時間展開前進して敵と接触し、射撃を加えたが反応がないので2キロ後退、竹藪や地隙を利用して壕を掘った。オルモックの南3キロのパナリアン川の線だったらしい。(23)

12月7~8日
 ■「ゲリラが侮るべからざる戦力を持っていることを身をもって知っていたのは、比島に長い駐屯の経験を持つ16師団、102師団だけだった。第1師団、26師団と増援部隊には、戦況、匪情について形式的な訓話ぐらいしか与えられなかった。しかも意気阻喪を考慮して、著しく偽装されたものだった」(18)
<ブラウエンの戦い>
 ■7日未明~8日後半、空挺第3聯隊、16D、重松大隊との連絡が成り、共に行動した。8日朝、軍戦闘指令所に田中方面軍参謀、26D峰尾正生参謀到着。田中参謀は「重松大隊の位置まで行った。第26師団主力は7日の斬込みには間に合わなかった」と報告した。<重>
 【US】米第77師団がオルモックに上陸する直前、レイテ島の米軍兵力は7個師団と1個連隊、補給部隊を入れれば総数27万人に達していた。これに対する日本軍は、すでに半数に減った1D、裸の26Dに第16師団の残部3千人に過ぎなかった。(18)

12月7日
<オルモック湾の戦い>
 【US】7日払暁、米77D2個聯隊、デボジト逆上陸。<重> 1740、米軍の先頭部隊はイピルの村に入り、多くの機密書類を得た。(22)

12月8日
<オルモックの戦い>
 【今堀】水田に足をとられて米軍の進度は遅かったが、上条大隊は最初の1時間で壊滅的打撃を受けた。大隊長上条少佐は重傷を負った。(23) この間に、今堀支隊の主力(聯隊本部、通信隊、聯隊砲中隊、1個中隊を欠く第3大隊、第1大隊第4中隊、計約500名)がオルモックに到着。オルモックの北、コゴン東方の高地に配置された。(23)

12月9日
<ダムラアンの戦い>
 ■11isは巧妙な退却戦を行い、12月9日、11is第8中隊主力はタリヤサン川南岸高地に後退した。(20)
<オルモック湾の戦い>
 ■7日の米軍デボジト逆上陸に伴い、軍司令官は「戦闘指令所は9日朝反転」と決意し、峰尾参謀に「第26師団は一部を以てブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護爾後すみやかに主力をもってオルモック平地に転進。上陸中の米軍を攻撃。16師団の収容」の命令を下した。<重>
<オルモック湾の戦い>
 ■35軍司令官は「和号作戦」中止を命じ、フアトンに転進した。(27) 35A戦闘司令所はマホナグからタリサヤンへ移動を開始した。(21)
 ■26Dは、アルブエラ方面の敵撃破、を命じられた。「しかし師団主力はダムラアンの戦い以来重大な損害を蒙っており、ブラウエン方面から退却してくる兵士は、16師団の敗兵と似たような飢兵で、とても新しい作戦を企画するなど思いもよらない。/海岸から5キロ上流のタリサヤン河谷に停止して、ブラウエン方面から下って来る敗兵を収容するのが精一杯であった」(27) 命令変更を申請したらしいが、35A司令部は15日以来移動を続け、19日にはリボンガオで急襲を受けて西方に退却していた。(27)
 ■1月中旬、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令を受けるが、師団はこの間にも米軍と交戦した。(27)
<ブラウエンの戦い>
 【重松】師団が反転を命ぜられたのは9日。先遣の重松大隊は、師団命令でこの地に残留。イピルを出発して1か月経ており、飢餓と体力の消耗、弾薬の補給も皆無の中、殿軍として、追求の米軍をこの地で阻止する任務を与えられた。白井聯隊長(高千穂挺身隊)の手記には「18日重松大隊とマタグバ東北4キロ付近ジャングル中にて遭遇せり」とある。<重> ブラウエン方面へ進出していた重松大隊の後退は、さらに難渋を極めた。(21)
<オルモックの戦い>
 【今堀】司令部をフアトン(オルモック北方6キロ)に移すとともに、すでにラアオ山を出発していた今堀支隊主力をオルモック北方の丘陵に配置して反撃を準備した。(22) 1か月以上脊梁山脈の雨と霧の中に露営していたから、マラリアと栄養失調で病兵が増加、転進中も多くの落伍者を出して、大隊がドロレスに着いた時の兵力は約200であった。(23) 久しぶりに満腹感を味わった兵士は、オルモック湾内にひしめく敵の艦船を目撃した。(23)
<オルモックの戦い>
 【今堀】今堀支隊は、ラアオ山を撤収するにあたって、前田集成大隊(バレンシア野戦病院退院者、オルモック駐屯の16師団の下士官)の400名を残してきていた。(23) 12月9日、このうち3個中隊300名も急遽オルモックに呼び返された。(23)
 【今堀】戦訓「レイテ戦史」が記録するオルモック防衛戦力のうち今堀支隊の戦力は、第1大隊(大隊長負傷)2個中隊約100名、第3大隊3個中隊約250名、高千穂部隊80名、であった。主要な戦闘は今堀支隊の受け持ちになったが、合計約350名にすぎなかった。(23)

 【重松】この頃、ブラウエン方面に進出していた26Dの重松大隊(Ⅲ/13is)は後退し、アルブエラ方面をめざしたが、難渋を極めた。(23)

12月11日
 ■8D5i、パロンポン上陸。<年>
 ○米軍、オルモック奪還。<年>
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