11月23日
<ブラウエンの戦い>
■第4航空軍は、「天号作戦」を発令した。「天号作戦」は、ふつう、後に沖縄戦の段階で行われた特攻作戦の総称である。「『決号作戦』『天号作戦』など、後に陸海軍の終末的決戦の名称が、レイテ戦の段階で現地軍によって使われているところに、決戦の気構えが窺われる」(19) 高千穂空挺隊による「天号作戦」も薫空挺隊と同じ飛行場殴り込み作戦だが、胴体着陸ではなく、落下傘降下による正攻法である。(19)
■南方総軍は、「和号作戦」を発令した。(19) 「天号作戦」が実施される翌日、26Dの1個大隊(=重松大隊)及び16Dの残部1,600名が飛行場を攻撃、確保する。あとから26D主力が逐次マリトボ=ブラウエン道より溢出、戦果を拡大する、というもので、決行日を12月5日から10日までの間とした。(19) 「和号作戦」は、地上軍の作戦の呼称で、「天号作戦」と結合した全体がブラウエン攻略作戦である。(19) この頃、26D主力はまだ必要な軍需品を受け取っていない。(19)
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】斎藤支隊の実数は2個大隊、これに対する米軍も実施2個大隊であった。(20) 兵力は2個大隊ずつでほぼ均衡し、米軍の火砲数と補給が十分でなかたので、日本側が攻勢に出て、1週間にわたる激戦となった。斎藤支隊は、レイテ戦の経過中、もっとも巧みな戦いを戦った。(20) 1830、パラナスの戦いは26Dの砲撃から始まった。(20)
11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
■「リモン=バイバイ間100キロの間には、スペイン統治時から、山越えの徒歩道が二つあった。一つは26Dの先遣今堀支隊が通った道で、オルモック北方5キロのタンブコから右に切れ、ダナオ山の裾野中のドロレスを経て、アルト山(1,550メートル)の北を通って、ハロへ出る約30キロの道である。支隊は11月4日までに、ハロを見下ろすラアオ山(1,000メートル)マムバン山(1,300メートル)の中間の線に進出した」(17)
■「もう一つの脊梁山脈越えの山径は、オルモック南方10キロの町マリトボから、タリサヤン川を遡り、山中のルビを経て、ディナガット川の上流に降り、ブラウエンに出る20キロの道である。これも古い道であるが、脊梁山脈はこの辺では最も厚い。川は深い峡谷を付くって、道は錯綜している。むろん砲車は通行不能で、せいぜい山砲を分解すれば搬送出来ないことはないという程度である」(17)
■だが、この道があったからこそ、ブラウエン斬り込み作戦が採用されたのだ。(17) 作戦は、第4航空軍と協力して空挺部隊を降下させ、16Dの残兵、アルブエラから山越えに進出する26D主力とともにブラウエン地区の三つの飛行場を占拠するというものだった。「その規模は雄大、日本的奇襲の観念にも適い、レイテ戦の掉尾を飾るにふさわしい作戦であった。ただそれを遂行する兵力、補給の裏づけがなく、脊梁山脈の自然的条件に妨げられて、26師団の将兵は最も苛酷悲惨な行動を強いられることになった」(17)
■方面軍は予想もしなかったが、山道は荒廃して殆ど存在せず、徒歩道を作ることすら困難な状態だった。(21)
■26Dは、上陸以来工兵隊をアルブエラに派遣して、海岸道路に平行した野道を野砲道に改造しようとしていた。しかし、雨に妨げられて工事は進捗せず、作戦に間に合わなかった。「和号作戦」は砲兵を持たない斬り込み作戦なのであった。(21) 先着41聯隊(30D)は当面の必要からカリガラ方面に使用され、重松大隊(Ⅲ/13is/26D)がブラウエン道に先遣された。26D主力は予備としてオルモックにとどめられていた。(20)
11月23~27日
<ブラウエンの戦い>
■26Dは、師団司令部をイピル(オルモックの5キロ南方)に置き、オルモック南部の警備を兼務としつつ、次期作戦準備に専念した。(20) 「26師団の上陸によって、レイテ島上の陸軍兵力は45,000になった。当時定められていた1個師団の1日の補給量は、糧秣、弾薬、ガソリン等合計150である(そのうち100-120トンは弾薬)。3個師団が戦闘するためには、毎日少なくとも450トンが揚陸されなければならない。ところが第2次輸送(第1師団主力)が、予定量1万立方メートルを揚陸しただけで、以後12月末までに6,500立方メートルしか揚陸していない」(16)
■「糧食は3個師団分で1日3食とすれば白米50トンである。マニラから積み出した白米7,000トン、そのうち到着したのは1,000トン、20日分にすぎない。しかもその多くは陸上輸送力不足のため、オルモックに集積されたままで、前線に届かなかった。かりに輸送がうまく行ったとして、途中輜重兵、部隊幹部のピンはねによって、最前線に届くのは出荷量の10分の1というのが軍隊の相場である。前線の歩兵部隊が、飢餓によって戦闘力を失って行ったのは当然であった」(16)
■「しかし揚陸に成功した場合でも、トラック不足のため、オルモック、フアトンに蓄積されたまま、敵の爆撃の目標になるだけだった。最後にはオルモック逆上陸によって、敵に鹵獲されることになる」(16)
■レイテ戦続行のためには有効な補給が必要であり、そのため東海岸の飛行場を奪回しなければならない。かといって、カリガラ方面を迂回している余裕はない。かくて、方面軍作戦は、12月7日のブラウエン斬り込み作戦となって実現するところの敵航空基地撃破に向かって進んだ。(16)
11月24日
○米B29、東京初空襲。<年>
11月25日
<ブラウエンの戦い>
【重松】1個小隊が東方2キロのブラウエン背後の205高地まで潜行し、別の1個中隊は東南方3キロの327高地に着いて右側を偵察した。(21) 同日、マタグパ、パグフドラン東方高地で米軍と交戦した。(21) 11月下旬、補給不十分なまま米第511連隊と交戦を重ねたあげく、多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出た。(21)
【今堀】今堀支隊の川上少尉がダガミの16D司令部に連絡に行った。その時点での16Dの状況の報告が「レイテ戦史」に記録されている。16Dはすでに1か月間山籠りし、マラリヤ、下痢、栄養失調で死亡病臥する者多く、この頃では1日の人員消耗数75名に達していた。(21)
11月26日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】夜、米軍陣地を一気に抜く好機が生じたが、「ただ理由のわからない米軍の退却に戸まどいし、直ちに戦果を拡大して完全勝利に持って行く判断をする将校がいなかった」(20) 「逸機」である。9日に輸送船で多数の中隊長が戦死したのが打撃だったといわれる。(20)
<オルモック湾の戦い>
■26D司令部は、南方へ移動するとき、イピルの国道西側にあった砂糖工場に書類を埋めた。(22)
11月26~27日
■薫空挺部隊、ブラウエン方面に強行着陸。<年>
11月27日
■ペリリュー島の日本軍抵抗終わる。<年>
<ブラウエンの戦い>
【重松】「マタグバ方面に敵第86師団進出アルガゴトシ」と報告。山に入ってすでに半月経ていた。補給は十分でないから、この頃は多くの栄養失調、マラリア、下痢患者が出ていた。同日1230~1800、「287高地後方ニ進入シ来タレリ敵100ヲ奇襲攻撃シ其ノ半数以上ヲ殺傷、ソノ他ノ戦果ヲ得タリ」と報告した。ダキタン川渓谷に沿う小高地を巡って米511iと苦闘。<重>
11月27-28日
■多号第6次輸送。これより、「26師団は、上陸16日目にやっと弾薬と食糧を支給された」(19)
11月28日
■35Aは、「和号作戦」を下達。(19) この頃26D司令部は斎藤支隊の作戦指導のためマリトボに移動していたが、「ブラウエン方面専念」の命令を受けた。(19)
■35Aは、最初ブラウエン作戦に批判的だったが、作戦決定の上は総力をあげて実施体勢を整えていた。成功すれば東海岸の米軍航空兵力は著しく減退し、輸送状況が改善されるはずだから、レイテ戦の主導権奪回のための必死の作戦といえる。(19)
■しかし、この場合も障害は情報の不足だった。米軍はブラウエン地区の3飛行場のうち、サンパブロは11月23日に、ブリ、バユグは11月30日に放棄し、新たな飛行場をタナウアン海岸に建造中だった。日本軍はそれを知らなかった。(19)
■ブラウエンへの「突入は一応成功したが、残念ながら、労多くして効少なき結果となった。レイテ島東海岸の米空軍に何ほどの打撃を与えることが出来なかったのである」(19)
11月28日
<ダムラアンの戦い>
【US】米軍には部隊の交替があった。(20)
11月28日
<ダムラアンの戦い>
■26Dでも戦線整理が行われた。(20)
<ブラウエンの戦い><ダムラアンの戦い>
【斎藤】「和号作戦」決定に伴い、井上大隊(Ⅱ/12is)残部はブラウエン作戦参加のためルビへ転進を命じられ、支隊主力には以後、カモテス海に沿った本道に縦深抵抗を行う任務を課せられた。(20)
11月28日~30日頃
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】13isは支隊戦闘指揮所と共にアルブエラ東南の185高地(606高地)に集結していた。正面の米軍の阻止を命じられたのはⅡ/11isであるが、その打6中隊は全滅、第5中隊も激減している。第8中隊がバロゴ東方へ撤退した時、兵力は半分に減っていた。(20)
12月1日
<ダムラアンの戦い>
【斎藤】26D司令部がブラウエンに向かってからは、野砲、工兵、輜重、その他カモテス海沿岸の諸隊は、斎藤大佐の指揮下に入った。大佐が与えた命令は、国道を見下ろす諸高地の「死守」であった。(20)
<ブラウエンの戦い>
■夕刻、「和号作戦」実施の命令を受けた35Aは、オルモックを立って、イピルに一泊した。同日、マリトボにあった26Dも脊梁山脈に分け入った。ほとんど司令部だけの行軍だった。(21)
■カモテス海側を北上する米第7師団主力の防禦には斎藤支隊を残し、主力は敵とすれ違いに前進する。側敵行進という最も危険な作戦だが、第35軍は乾坤一擲の奇襲で主導権を奪い返そうとしたのだ。(21)
■だが、26Dは実質2個大隊にすぎなかった。先遣重松大隊(Ⅲ/13is)はすでに半月山中にあって戦力を消耗しており、井上大隊はダムラアン方面でさんざん叩かれた欠損部隊だった。砲を持たず、斬り込み程度の効果しか見込めなかった。(21)
12月2日 <ブラウエンの戦い>
■35A司令部はイピルを発し、正午、5キロ南のマリトボに着いた。鈴木35A司令官は、所定の5日には26Dはブラウエンを攻撃できない、7日に延期してくれ、と方面軍に懇請した。しかし、6日には68Bを乗せた第8次多号輸送船団がマニラを出発する。ために米航空兵力に一撃を与えておかねばならない、と方面軍は鈴木司令官の要請を拒否した。(21)
12月3日
<ブラウエンの戦い>
■工兵聯隊長の指揮する1個小隊は287高地を確保。重松大隊主力は205高地を進出中で、その一部はブラウエン南方5キロ327高地を前進中(詳細不明)。野中集成大隊(10月末オルモックに到着した30D77iの一部を基幹に当時オルモック周辺にあった雑軍を集成)は、0430ルビ着、1500、287高地に前進。井上大隊(Ⅱ/12is)は、夕刻、ルビ着(予定)。(21)
26D戦闘司令所は4日午後287高地に前進予定。しかし、師団主力は、作戦準備完了予定日の3日、まだルビにあり、軍司令部も到着していなかった。(21)
【重松】205高地付近を進出。6日、ブラウエン飛行場に40組の斬り込み隊を投入予定。(21) 一部は327高地(ブラウエン南方5キロ)を前進中。(21)
12月5日
<ブラウエンの戦い>
■ルビの軍司令部に到着した方面軍派遣参謀田中光祐少佐は、周辺を視察してぞっとした。飢餓に瀬している26Dの兵士たちは、「いずれも眼ばかり白く凄味をおびて、骨と皮ばかりである。まるでどの顔も、生きながらの屍である。地獄絵図のような悽愴な形相である。その上丸腰で、武器をもっていないために、全く戦意を喪失していた」(21) これは師団主力ではなくて先遣重松大隊の傷病兵か井上大隊の状況であった。「やがてブラウエン作戦が中止、退却に移ってからは全軍が似たような状況に陥る」(21)
12月6日
<ブラウエンの戦い>
■朝、「ブリ飛行場を攻撃した150名の兵士がいたのは、16師団の名誉でなければならない」(21)
<ブラウエンの戦い>
【重松】払暁、サンパブロに突入できるのは重松大隊だけだったが、「これは11月17日以来、すでに20日間山中にあって、米兵と交戦していた部隊である。糧秣はとっくに尽き弾薬は不足していた」(21) 夜、重松大隊は「予定通り突入」という報告を師団司令部に電報したまま、連絡を断った。(21)
【重松】26Dの僅かな生還者の話では、重松大隊将兵は出発時に自分の持っている幕舎まで焼いて帰らぬつもりで出発した。しかし斬込み後若干は帰ってきた。しかし、飢餓のためもう体力の限界で動けない者が多かった。<重>
12月6日
【US】米11空挺師団の511連隊(1個大隊欠)は、11月25日以来ブラウエン攻略作戦部隊と交叉して山中を西進していたが、その先頭がマホナグ(カモテス海を見下ろす)に進出した。それから26Dと混戦になった。(27)
12月6~7日
<ブラウエンの戦い>
■土居参謀のメモによれば、「和号作戦」を実施する地上兵力は、16D主力と26Dの1個大隊であった。(18)
■和号作戦、16D・高千穂空挺部隊、ブラウエン飛行場攻撃。<年>
12月7日
■68B、サン・イシドロ上陸。<年>
○米77D、オルモック上陸。<年>
■和号作戦中止。<年>
<ブラウエンの戦い>
■中村高級参謀が「ルビ」に帰来し、「第26師団は昨6日夜先遣重松大隊の一部が夜襲に向かったのみで師団全体では動いていない」旨報告した。<重>
<オルモック湾の戦い>
■米第77師団がオルモックに逆上陸し、それまで50日間の戦いに終止符をうった。(22)
■劇的なことに、ブラウエン飛行場群への突入作戦が行われ、35軍司令部、26D司令部をあげて、オルモック西南方20キロの山中に入っていた。26Dの斎藤支隊は、米第7師団に対して退却戦を戦っていた。(22)
<オルモック湾の戦い>
■「オルモック湾の朝は静かに明けた。少し雲があったが、風は穏やかだった。海面が明るくなるにつれ、ダムラアンからオルモックに到る沿岸の日本兵は、平らなオルモック湾が80隻の艦艇によって廠われているのを見たわけである。遂に聯合艦隊が助けに来てくれた、もう大丈夫だ、これまで頑張った甲斐があった、という言いようのない歓喜が、何も知らない兵の心を充たした。/しかし夜がすっかり明け放たれ、その夥しい船舶が星条旗を掲げているのを見ると、歓喜は一瞬にして、絶望と変わった。この時からレイテ西海岸の日本兵は戦意を失った」(22)
<ダムラアンの戦い>
■払暁、カモテス海沿岸を防備していた日本兵は、オルモック湾が艦船で覆われているのを見た。歓喜の声が湧き上がったが、海上が明るくなるにつれ、聯合艦隊だと思っていた各艦艇が星条旗を掲げているのを見た。「やられた」という虚脱感が将兵をとらえる。「7日以後、カモテス海沿岸の戦いは、絶望の戦いとなる」(20)
<オルモック湾の戦い>
■アルブエラ方面にあった26D工兵は、米軍の砲撃に会うと、2キロ内陸の山脚地帯に退いた。米7師団のオルモック進撃路は開放された。(22)
<オルモック湾の戦い><オルモックの戦い>
【今堀】リモン峠の急迫に伴って12月6日に1D配属されることになり、リモン峠方面への転用が決定した今堀支隊の先遣第1大隊が、12月7日、ちょうどドロレス(オルモック東北8キロ、標高200メートル、ダナオ山の裾野の補給基地、オルモック湾が見はらせる)まで下って来ていた。(22)(23) 友近少将は今堀支隊の1D配属を取り消し、光井部隊と協力して、キャンプ・ドーンズ(オルモック南1キロ)の防衛をするよう命じた。(22)
12月7日夜、実力2個中隊の上条大隊(Ⅰ/12is)は、軽機3、速射砲2を受領してから、車輌輸送でイピルに向かった。オルモック南方で下車、1時間展開前進して敵と接触し、射撃を加えたが反応がないので2キロ後退、竹藪や地隙を利用して壕を掘った。オルモックの南3キロのパナリアン川の線だったらしい。(23)
12月7~8日
■「ゲリラが侮るべからざる戦力を持っていることを身をもって知っていたのは、比島に長い駐屯の経験を持つ16師団、102師団だけだった。第1師団、26師団と増援部隊には、戦況、匪情について形式的な訓話ぐらいしか与えられなかった。しかも意気阻喪を考慮して、著しく偽装されたものだった」(18)
<ブラウエンの戦い>
■7日未明~8日後半、空挺第3聯隊、16D、重松大隊との連絡が成り、共に行動した。8日朝、軍戦闘指令所に田中方面軍参謀、26D峰尾正生参謀到着。田中参謀は「重松大隊の位置まで行った。第26師団主力は7日の斬込みには間に合わなかった」と報告した。<重>
【US】米第77師団がオルモックに上陸する直前、レイテ島の米軍兵力は7個師団と1個連隊、補給部隊を入れれば総数27万人に達していた。これに対する日本軍は、すでに半数に減った1D、裸の26Dに第16師団の残部3千人に過ぎなかった。(18)
12月7日
<オルモック湾の戦い>
【US】7日払暁、米77D2個聯隊、デボジト逆上陸。<重> 1740、米軍の先頭部隊はイピルの村に入り、多くの機密書類を得た。(22)
12月8日
<オルモックの戦い>
【今堀】水田に足をとられて米軍の進度は遅かったが、上条大隊は最初の1時間で壊滅的打撃を受けた。大隊長上条少佐は重傷を負った。(23) この間に、今堀支隊の主力(聯隊本部、通信隊、聯隊砲中隊、1個中隊を欠く第3大隊、第1大隊第4中隊、計約500名)がオルモックに到着。オルモックの北、コゴン東方の高地に配置された。(23)
12月9日
<ダムラアンの戦い>
■11isは巧妙な退却戦を行い、12月9日、11is第8中隊主力はタリヤサン川南岸高地に後退した。(20)
<オルモック湾の戦い>
■7日の米軍デボジト逆上陸に伴い、軍司令官は「戦闘指令所は9日朝反転」と決意し、峰尾参謀に「第26師団は一部を以てブラウエン南西6キロを扼して軍の転進擁護爾後すみやかに主力をもってオルモック平地に転進。上陸中の米軍を攻撃。16師団の収容」の命令を下した。<重>
<オルモック湾の戦い>
■35軍司令官は「和号作戦」中止を命じ、フアトンに転進した。(27) 35A戦闘司令所はマホナグからタリサヤンへ移動を開始した。(21)
■26Dは、アルブエラ方面の敵撃破、を命じられた。「しかし師団主力はダムラアンの戦い以来重大な損害を蒙っており、ブラウエン方面から退却してくる兵士は、16師団の敗兵と似たような飢兵で、とても新しい作戦を企画するなど思いもよらない。/海岸から5キロ上流のタリサヤン河谷に停止して、ブラウエン方面から下って来る敗兵を収容するのが精一杯であった」(27) 命令変更を申請したらしいが、35A司令部は15日以来移動を続け、19日にはリボンガオで急襲を受けて西方に退却していた。(27)
■1月中旬、漸くマタコブ南方地区に集結との軍命令を受けるが、師団はこの間にも米軍と交戦した。(27)
<ブラウエンの戦い>
【重松】師団が反転を命ぜられたのは9日。先遣の重松大隊は、師団命令でこの地に残留。イピルを出発して1か月経ており、飢餓と体力の消耗、弾薬の補給も皆無の中、殿軍として、追求の米軍をこの地で阻止する任務を与えられた。白井聯隊長(高千穂挺身隊)の手記には「18日重松大隊とマタグバ東北4キロ付近ジャングル中にて遭遇せり」とある。<重> ブラウエン方面へ進出していた重松大隊の後退は、さらに難渋を極めた。(21)
<オルモックの戦い>
【今堀】司令部をフアトン(オルモック北方6キロ)に移すとともに、すでにラアオ山を出発していた今堀支隊主力をオルモック北方の丘陵に配置して反撃を準備した。(22) 1か月以上脊梁山脈の雨と霧の中に露営していたから、マラリアと栄養失調で病兵が増加、転進中も多くの落伍者を出して、大隊がドロレスに着いた時の兵力は約200であった。(23) 久しぶりに満腹感を味わった兵士は、オルモック湾内にひしめく敵の艦船を目撃した。(23)
<オルモックの戦い>
【今堀】今堀支隊は、ラアオ山を撤収するにあたって、前田集成大隊(バレンシア野戦病院退院者、オルモック駐屯の16師団の下士官)の400名を残してきていた。(23) 12月9日、このうち3個中隊300名も急遽オルモックに呼び返された。(23)
【今堀】戦訓「レイテ戦史」が記録するオルモック防衛戦力のうち今堀支隊の戦力は、第1大隊(大隊長負傷)2個中隊約100名、第3大隊3個中隊約250名、高千穂部隊80名、であった。主要な戦闘は今堀支隊の受け持ちになったが、合計約350名にすぎなかった。(23)
【重松】この頃、ブラウエン方面に進出していた26Dの重松大隊(Ⅲ/13is)は後退し、アルブエラ方面をめざしたが、難渋を極めた。(23)
12月11日
■8D5i、パロンポン上陸。<年>
○米軍、オルモック奪還。<年>
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