(1)「カレーハウス CoCo壱番屋」は国内1,285店、海外156店を展開する。その創業者は宗次徳二氏(68)は、3歳で孤児院から養父母に引き取られ、ロウソクの明かりで暮らし、野草を食べて飢えをしのぐ極貧生活を経験した。そこから如何にして、カレー専門店では業界トップ、世界一の店舗数を誇る壱番屋を築き上げたのか。
(2)宗次徳二氏の最も古い記憶は夜逃げだ。4歳か5歳、母に手を引かれ、駅からの道を歩いていた。岡山県玉野市の新居に向かうところだ。
父は競輪狂いで、日雇い仕事でもらう日当400円ほどのうち300円はすぐ車券に化けた。母は魚の行商で家計を支え、自転車の後ろにトロ箱を重ねて天秤棒を担ぐ後ろを氏もついていった記憶がある。
あるとき畑のなかで、父が棒で母を何度も叩く光景を見た。その日から母はいなくなった。
父は氏のことなどほったらかしで、食べ物がなくてガリガリに痩せていた。家に米がないときは、うどん粉を練って焼いて食べた。
空腹をまぎらすために、隣家のラジオによく耳を傾けていた。窓からその家族が食卓を囲む様子が見えて、その母親が玉子を溶いて子どもたちのご飯にかけている光景は今も鮮明に覚えている。羨ましいと思いながらも、妬む気持はなかった。うちは違うんだから、と割り切っていた。
学校は給食だが、たまに弁当の日があって、食べ物がない氏は校庭でみんなが食べ終わるのを待った。
それほど貧しくても、明るい性格のせいか、いじめられた記憶はない。遠足では同級生の女の子が氏の分まで弁当を持ってきてくれ、担任の先生が氏にだけお菓子をくれたことがあった。
生活保護を受けていたが、父が家賃を払わないので、何度も夜逃げした。近所の人は初めは氏に親切にしてくれるが、乱暴者の父がすぐトラブルを起こし、誰も近寄らなくなる。
小学2年生のとき、失踪した母の居所がわかって名古屋に引っ越し、また親子3人で暮らすことになったが、母はしばらくするとまた出ていった。
父と二人の生活に戻ると、電気を止められ、夜はロウソクの明かりで過ごした。銭湯は週1回行けばいいようで、夏はいつも井戸水で行水していた。相変わらず食べ物はないので、小学校の高学年になると、川の堤防沿いに生えているイタドリなどの野草を食べ、柿などをもいで飢えをしのいだ。
父にはよく叩かれた。それでも親は好きだから恨む気持はなく、中学生になっても一切反抗しなかった。
その父母が実の親ではないと知ったのは15歳のときだ。高校に入る準備で戸籍謄本を取ってくると、親の欄には見知らぬ男女の名があり、自分の名前と生年月日も違う。自分の名は「基陽(もとはる)」だと思っていたが、「徳二」と書いてあった。
胃癌で入院していた父に尋ねると、3歳のとき孤児院から引き取って養子にしたと聞かされた。名を変えたのは、ギャンブルで負けが続いたから、という理由だった。
戸籍や父の話から、自分が石川県で生まれ、兵庫県尼崎市の孤児院にいたとわかった。しかし、それ以上出自に対する関心はなかった。
父の入院後、氏は母と暮らすようになり、ようやく電灯がともる生活になった。バレーボール部の友だちが豆腐屋だったので、登校前や休みの日にアルバイトをさせてもらった。養父が亡くなったのは、高校1年の夏のことだった。
(3)高卒後、不動産販売の会社に就職し、21歳で大和ハウス工業の名古屋支店に転職した。ここで結婚し、その翌年、24歳で会社を辞め、新居の1階に不動産仲介業の事務所を構えた。当時は「列島改造論」で空前の土地ブームだったから、建売住宅などで利益をあげることができた。
商売が面白くなり、妻・直美と「現金商売もやってみたいね」と話すうちに喫茶店を開くことに決めた。店は主に妻が運営し、氏も不動産業のかたわら手伝おうと考えたのだ。
1974年に名古屋市内で喫茶店「バッカス」をオープンした。初日、開店と同時に大勢の客が押し寄せてきた。その光景を見て「これは楽しい。自分にとっての天職ではないか」と直感した。氏は翌日から不動産屋のスーツを脱ぎ捨て、ポロシャツ姿で店のカウンターに座った。
名古屋の喫茶店にはコーヒーにつまみ、モーニングサービスと称してトーストとゆで卵がついたが、「バッカス」ではそういうサービスは一切しないで、ピーナッツ小皿に30円の値段をつけた。「金をとるのか」と不満を言う客がいたし、銀行の融資担当者からも強く反対された。
しかし、オマケや安売りで来てもらうのではなく、心のサービスで客に必要とされる店、いつも笑顔あふれる店で勝負したかった。
〈例〉自分専用のカップを購入してキープできる「マイカップサービス」では棚に160種類ものカップが並んだ。接客も含めて、他店と違う“素人商法”でも、徐々に客が増えて、常連客もちゃんとついてくれた。
10ヵ月後に2店目をオープンして繁盛店になると、さらに売上げを伸ばすため、軽四輪車で出前サービスを始めた。このときメニューに加えたのがカレーライスだ。初めに業務用のカレーをいくつか試すと、味に納得できなかった。そこで思いついたのが、妻が新婚当時よく作ってくれたカレーだ。商品として出してみると大変な評判で、喫茶店でも注文が増えた。「これはいける」と手応えを感じて、1978年にオープンしたのが「カレーハウス CoCo壱番屋」1号店だ。
(4)ここでも独自のアイデアで店づくりに励んだ。ルウの辛さは甘口、普通、1辛から5辛を選べるようにする。ご飯の量も100グラムごとに選べる。これらにちゃんと料金の差をつける。それまでのカレー専門店にはなかったシステムだ。
1店舗の売上が1日6万円を超えたら次の店を出すと決めてスタートしたが、これが大変な苦労で、当初の目標どおり2号店を出したのは1年後だった。その後も同様な目標を掲げ、ひたすらその達成を目指した。振り返ったら、「あ、すごいことになった」と気づくようなものだ。成功の秘訣を聞かれて、氏がいつも「成り行きですね」と答えるのは実感だ。
むろん、経営の苦労を語り出せばキリがない。一人息子を授かったときはカレーハウス3店舗の応援に忙しい頃で、妻は身重で厨房に入り、経理担当として金銭管理や資金調達に奔走していた。生まれたときは4号店ができていて、赤ん坊の口に哺乳瓶をくわえさせて店に出るようなこともあった。いま思えば、危ないことをしていた。
現場主義という点では、アンケートはがきなどで寄せられる客の声も大切なことの一つだ。各店に置かれたアンケートはがきは社長宛に送られ、そのすべてに目を通した。1日千通を超えると、読むだけで3時間以上かかる。その時間を捻出するために、毎朝5時に出勤した。アンケートの大多数は褒める言葉だが、なかには厳しいクレームや苦情があって、それが店舗運営や独自のアイデアに役立つ。
株式上場を決めた1998年、氏は会長に退き、妻・直美が社長に就いた。喫茶店を始めて25年目、氏が50歳となり、500店舗を達成した年だ。
2002年、2号店の頃に19歳で入社した現社長が育ったと判断し、壱番屋の経営から引退した。
以後、ストレスがない。高校時代から好きだったクラシック音楽のため、2007年に30億円の私財を投じ、名古屋にクラシック専門の「宗次ホール」を建てた。現在はその運営やNPO法人の活動で忙しくしている。
□宗次徳二「極貧の幼少期から世界一のカレー屋に」(「文藝春秋」2016年12月号)
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