(1)茶事の焼き菓子
お好み焼きの起源は、遠く千利休に発する。小麦粉を溶いて鍋に流し、片面にみそを塗って巻く。そんな茶事の焼き菓子を、利休が手ずから作った。
(2)麩の焼き、文字焼き、もんじゃ焼き、どんどん焼き
これが「麩の焼き」という名で江戸期に商品になった。餡を巻いた甘い焼き菓子だ。
のちに、せんべい、落雁、どら焼きなどの菓子になっていく。醤油味の麩の焼きも出た。これもおやつ菓子だ。
江戸後期、文政10(1827)年版の『誹風柳多留』94篇に「杓子程筆では書ケぬ文字焼屋」という川柳がある。すでに文字焼き屋が出現していたことがわかる。駄菓子屋や屋台で、子どもたちが小麦粉を砂糖蜜で溶き、鉄板の上で薄く焼いて食べるのが流行した。溶いた小麦粉で杓子を使って文字を書いて遊んだ。あくまで遊びであり、間食だった。
この「文字(もんじ)」がなまって、「もんじゃ」になった。
屋台の文字焼き屋が太鼓をたたいて流して歩いたので、「どんどん焼き」とも呼ばれるようになった。
(3)洋食焼き
明治15(1882)年に、米国から小麦粉が輸入された。従来の小麦粉をうどん粉と呼んだのに対し、この新しい小麦粉はアメリカンをなまってメリケン粉と名づけられた。小麦粉の食文化が大いに広がった。明治から大正にかけて、桜エビや天かすなどの具を載せる食べ方に変わった。大阪では洋食焼きと呼んだ。メリケン粉を使って、どこか洋食の味がしたからか。あるいは、日ごろは洋食を口にできない庶民のあこがれからか。値段が一枚一銭だったので、一銭洋食と称した。
一方、東京では「どんどん焼き」とか「もんじゃ焼き」と、それまでの名をそのまま継承した。いずれも、まだ子ども相手のおやつでしかない。
(4)作り方の東西
このあたりから、東西の差ができてくる。
大阪では水溶きをした小麦粉を鉄板に流し、順次その上に具を載せ、自分の手でひっくり返して、すっかり焼き上げる。
東京は違う。まず具を焼き、それでドーナツ状に堤防をつくり、その中へ小麦粉を流し入れる。周りの具を少しずつそれに混ぜながら食べる。ぐちゃぐちゃのままだ。
横町の決まった場所や、神社や寺院の縁日に屋台が出た。当時は、毎晩どこかで夜店が出ていた。一文菓子屋でも、片隅に鉄板を置いた。東京でいう駄菓子屋のことだ。どちらも、多くは下町にあった。
「あんなゲロを吐き出したようなもんは食べられへん」「お好み焼きは、こんなんとちゃう」というのが大方の大阪人が見た「もんじゃ焼き」だ。
東京は集まって楽しむだけだが、大阪は食文化を追求する。
(5)ソース
大阪で一銭洋食にソースを塗り始めたのは、昭和5(1930)年ごろらしい。ソースは外来の調味料だ。洋食焼きの名にぴったりだった。
国産ソースを最初に製造したのは、ヤマサ醤油(千葉県銚子)の「ミカドソース」だった。明治18(1885)年である。が、売れずに中絶した。
ついで、明治25(1892)年に「日の出ソース」(神戸)、明治27(1894)年に「三ツ矢ソース」(大阪)と「錨印ソース」(大阪)が本格的に発売され、普及した。
日本人好みの味を追求する気持は関西が強い。昭和4(1929)年に大阪梅田に阪急百貨店が開業され、大食堂のソーライスが評判になった。ただのライスにタダのソースを自由にかけて食べる。時期がほぼ同じだ。洋食焼きのソースと関連があるのかもしれない。
(6)お好み焼きと色事
洋食焼きがお好み焼きに変容した。
この子どもの食べ物が大人の世界に広まった。まず、大阪ミナミの甘党屋が扱うようになった。洋食焼きを上品に上等におしゃれにした。好きなものを載せて自分で焼くから、女性的だ。若い女性がたちまちファンになった。やがて専門の店を構えるようになる。洋食焼きとは違い、都心の盛り場の横町に多い。
鉄板をはさんで差し向かいに坐る。ひとりでは寂しい。好きな人とふたりで焼いて食べる。所帯の真似の、ままごとの味わいがある。これはなかなかに、男女の逢い引きに利用できると気づいた。旦那衆と芸者が座敷のあとでやってきた。花街の近くにしゃれた店が集まった。大阪では宗右衛門町や曾根崎新町の横町、東京では銀座の路地裏だ。特定は難しいが、昭和一桁台であるのは間違いない。
みな、つい立てや仕切りをした。大阪の食べ物屋はあまりしないのだが、これだけは別だった。小間に暖簾をかけ、個室もできた。男女がしんねこを決め込む。これは飲食店ではなく風俗営業だと警察がうるさく取り締まりをすることになった。
いつしか、お好み焼きという名になった。自由に好みの具を選ぶことができる。衛生上からか、具の一切は初めから混ぜて全部をカップに入れるように変わっていたが、豚肉とかイカとかの注文ができる。しかし、それだけではない。好きという字に色気がある。男女の密会の性格に合う。
(7)家庭のお好み焼き
昭和21(1946)年6月、西野栄吉さんが自宅(大阪玉出)の玄関先で、お好み焼き屋を開いた。「ぼてぢゅう」という屋号にした。ぼってりと厚みがあり、具の豚肉が焼けるときに、ぢゅうと音を立てることからきている。
戦後の混乱期で米がなく、メリケン粉が代わりに配給されていた。パンを焼いたり、お好み焼きをつくったり、人びとは家庭で小麦粉を扱うことを覚えた。具のないべた焼きから始まった。こんどは密会ではなく、家族団欒にもいいことをみなが知った。次第に、今あるものを具に入れるようになる。昭和25(1950)年から、お好み焼きは大流行する。
「ぼてぢゅう」は成功した。昭和29(1954)年に、ミナミの宗右衛門町に進出した。それまでのお好み焼き屋の小間をやめて、広いカウンターにした。好み焼きは密室内からオープンに変わった。普通の人も多く食べに行くことになった。
同時に、おばさんがやっていたお好み焼き屋が、企業化されるきっかけとなった。マヨネーズをかけることも始まった。お好み焼きは洋食なのだから、案外ピタッと合った。もっとも、それ以前から食べていた年配のファンには嫌われた。
□大谷晃一『続大阪学』(新潮文庫、1997)の「第2章 庶民グルメの味 お好み焼き」
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お好み焼きの起源は、遠く千利休に発する。小麦粉を溶いて鍋に流し、片面にみそを塗って巻く。そんな茶事の焼き菓子を、利休が手ずから作った。
(2)麩の焼き、文字焼き、もんじゃ焼き、どんどん焼き
これが「麩の焼き」という名で江戸期に商品になった。餡を巻いた甘い焼き菓子だ。
のちに、せんべい、落雁、どら焼きなどの菓子になっていく。醤油味の麩の焼きも出た。これもおやつ菓子だ。
江戸後期、文政10(1827)年版の『誹風柳多留』94篇に「杓子程筆では書ケぬ文字焼屋」という川柳がある。すでに文字焼き屋が出現していたことがわかる。駄菓子屋や屋台で、子どもたちが小麦粉を砂糖蜜で溶き、鉄板の上で薄く焼いて食べるのが流行した。溶いた小麦粉で杓子を使って文字を書いて遊んだ。あくまで遊びであり、間食だった。
この「文字(もんじ)」がなまって、「もんじゃ」になった。
屋台の文字焼き屋が太鼓をたたいて流して歩いたので、「どんどん焼き」とも呼ばれるようになった。
(3)洋食焼き
明治15(1882)年に、米国から小麦粉が輸入された。従来の小麦粉をうどん粉と呼んだのに対し、この新しい小麦粉はアメリカンをなまってメリケン粉と名づけられた。小麦粉の食文化が大いに広がった。明治から大正にかけて、桜エビや天かすなどの具を載せる食べ方に変わった。大阪では洋食焼きと呼んだ。メリケン粉を使って、どこか洋食の味がしたからか。あるいは、日ごろは洋食を口にできない庶民のあこがれからか。値段が一枚一銭だったので、一銭洋食と称した。
一方、東京では「どんどん焼き」とか「もんじゃ焼き」と、それまでの名をそのまま継承した。いずれも、まだ子ども相手のおやつでしかない。
(4)作り方の東西
このあたりから、東西の差ができてくる。
大阪では水溶きをした小麦粉を鉄板に流し、順次その上に具を載せ、自分の手でひっくり返して、すっかり焼き上げる。
東京は違う。まず具を焼き、それでドーナツ状に堤防をつくり、その中へ小麦粉を流し入れる。周りの具を少しずつそれに混ぜながら食べる。ぐちゃぐちゃのままだ。
横町の決まった場所や、神社や寺院の縁日に屋台が出た。当時は、毎晩どこかで夜店が出ていた。一文菓子屋でも、片隅に鉄板を置いた。東京でいう駄菓子屋のことだ。どちらも、多くは下町にあった。
「あんなゲロを吐き出したようなもんは食べられへん」「お好み焼きは、こんなんとちゃう」というのが大方の大阪人が見た「もんじゃ焼き」だ。
東京は集まって楽しむだけだが、大阪は食文化を追求する。
(5)ソース
大阪で一銭洋食にソースを塗り始めたのは、昭和5(1930)年ごろらしい。ソースは外来の調味料だ。洋食焼きの名にぴったりだった。
国産ソースを最初に製造したのは、ヤマサ醤油(千葉県銚子)の「ミカドソース」だった。明治18(1885)年である。が、売れずに中絶した。
ついで、明治25(1892)年に「日の出ソース」(神戸)、明治27(1894)年に「三ツ矢ソース」(大阪)と「錨印ソース」(大阪)が本格的に発売され、普及した。
日本人好みの味を追求する気持は関西が強い。昭和4(1929)年に大阪梅田に阪急百貨店が開業され、大食堂のソーライスが評判になった。ただのライスにタダのソースを自由にかけて食べる。時期がほぼ同じだ。洋食焼きのソースと関連があるのかもしれない。
(6)お好み焼きと色事
洋食焼きがお好み焼きに変容した。
この子どもの食べ物が大人の世界に広まった。まず、大阪ミナミの甘党屋が扱うようになった。洋食焼きを上品に上等におしゃれにした。好きなものを載せて自分で焼くから、女性的だ。若い女性がたちまちファンになった。やがて専門の店を構えるようになる。洋食焼きとは違い、都心の盛り場の横町に多い。
鉄板をはさんで差し向かいに坐る。ひとりでは寂しい。好きな人とふたりで焼いて食べる。所帯の真似の、ままごとの味わいがある。これはなかなかに、男女の逢い引きに利用できると気づいた。旦那衆と芸者が座敷のあとでやってきた。花街の近くにしゃれた店が集まった。大阪では宗右衛門町や曾根崎新町の横町、東京では銀座の路地裏だ。特定は難しいが、昭和一桁台であるのは間違いない。
みな、つい立てや仕切りをした。大阪の食べ物屋はあまりしないのだが、これだけは別だった。小間に暖簾をかけ、個室もできた。男女がしんねこを決め込む。これは飲食店ではなく風俗営業だと警察がうるさく取り締まりをすることになった。
いつしか、お好み焼きという名になった。自由に好みの具を選ぶことができる。衛生上からか、具の一切は初めから混ぜて全部をカップに入れるように変わっていたが、豚肉とかイカとかの注文ができる。しかし、それだけではない。好きという字に色気がある。男女の密会の性格に合う。
(7)家庭のお好み焼き
昭和21(1946)年6月、西野栄吉さんが自宅(大阪玉出)の玄関先で、お好み焼き屋を開いた。「ぼてぢゅう」という屋号にした。ぼってりと厚みがあり、具の豚肉が焼けるときに、ぢゅうと音を立てることからきている。
戦後の混乱期で米がなく、メリケン粉が代わりに配給されていた。パンを焼いたり、お好み焼きをつくったり、人びとは家庭で小麦粉を扱うことを覚えた。具のないべた焼きから始まった。こんどは密会ではなく、家族団欒にもいいことをみなが知った。次第に、今あるものを具に入れるようになる。昭和25(1950)年から、お好み焼きは大流行する。
「ぼてぢゅう」は成功した。昭和29(1954)年に、ミナミの宗右衛門町に進出した。それまでのお好み焼き屋の小間をやめて、広いカウンターにした。好み焼きは密室内からオープンに変わった。普通の人も多く食べに行くことになった。
同時に、おばさんがやっていたお好み焼き屋が、企業化されるきっかけとなった。マヨネーズをかけることも始まった。お好み焼きは洋食なのだから、案外ピタッと合った。もっとも、それ以前から食べていた年配のファンには嫌われた。
□大谷晃一『続大阪学』(新潮文庫、1997)の「第2章 庶民グルメの味 お好み焼き」
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