語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【O・ヘンリー】賢者の贈りもの

2016年08月24日 | 小説・戯曲

 若く貧しい夫婦の誇るに足りる財産は二つ。一つは夫ジムの金時計、もう一つは妻デラの美しい髪。
 デラは、夫にクリスマス・プレゼントとしてプラチナの時計鎖を贈るため、髪を売る。帰宅した夫は、デラを見て茫然とする。くだんの時計を売り払って、かねがねデラが憧れていた櫛一揃を買っていたのだ・・・・。
 ご両人、愚者である。互いに相手にとって役に立たないものを贈ったのだから。事前に打ちあわせておけば、かかる無駄な犠牲は発生しなかった。夫婦のコミュニケーションが足りない、と指弾されても返す言葉はあるまい。
 しかし、日はまた昇る。デラの髪はまた生える。ジムもいずれ出世して、ふたたび金時計をポケットに入れる身分になるだろう。二人には未来がある。
 その未来が現実となる日までは、相手が自分の大事なものをこちらのために犠牲にできる人だという形而上学的な価値が、二人を支え続けてくれるだろう。

□オー・ヘンリー(飯島淳秀・訳)「賢者の贈りもの」(『オー・ヘンリー傑作集』、角川文庫、1969)
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【宮沢賢治】討議『銀河鉄道の夜』とは何か

2016年08月22日 | 小説・戯曲

 (1)本書の目次は、
  Ⅰ
   討議Ⅰ 『銀河鉄道の夜』とは何か
   討議資料
    なぜ<カンパネルラの死に遭ふ>か  銀河鉄道の彼方・序説    天沢退次郎
    『銀河鉄道の夜』研究のための二つの資料    入沢康夫編
  Ⅱ
   討議Ⅱ 銀河鉄道の「時」 ふたたび『銀河鉄道の夜』とは何か
  Ⅲ
   関連レポート
   『銀河鉄道の夜』覚書                  天沢退次郎
   「薤露青」解説                      天沢退次郎
   「青木大学士」の運命                  天沢退次郎
   黒インク手入れの意味                 入沢康夫
   『銀河鉄道の夜』の本文の変遷についての対話  入沢康夫

  付録資料★筑摩昭和42年版全集所収『銀河鉄道の夜』(本文と後記)

 (2)本書は、『銀河鉄道の夜』(以下『夜』と略する)をめぐって入沢康夫及び天沢退次郎が①1970年及び②1973年に行った2つの対談(詩誌「ユリイカ」に掲載)に若干のレポートを補足して構成される。
 2つの対談で異なるのは、依拠するテキストだ。
 ①1970年の対談(討議Ⅰ)のテキストは、刊行済みの文献だ。すなわち、筑摩書房版全集(1967年)にもっぱら依りつつ(『銀河鉄道の夜』の本文と後記の全文を本書に付す)、十字屋書店版全集(1939年)、筑摩書房版全集(1956年)、岩波文庫(1950年)、岩波文庫改版(1966年)、「昭和文学全集14 宮沢賢治集」(角川書店、1953年)、「宮沢賢治童話全集6」(岩波書店、1965年)を参照する。
 ②1973年の対談(討議Ⅱ)では直筆原稿がテキストだ。

 (3)宮沢賢治は、自作について推敲につぐ推敲を重ねる作家・詩人だった。短い生涯に多産だったし、推敲を重ねたから、『銀河鉄道の夜』にも誤字(「ハルレヤ」)があるし、原稿が欠落した箇所(ことに5枚分の欠落)もある。歴代の全集等の編集者は、彼らなりに解釈を加えつつ、まとまった作品として読者に提示できるように再構成してきた。
 ①討議Ⅰは、作品の読みを深める作業である。互いをよく知る前衛詩人にして仏文学者同士らしく、マラルメやブランショ等を援用しつつ、あるいはナボコフ『ヨーロッパ文学講義』のように読解に資する地図ないし列車内の乗車位置図を作成して議論を進める。しかし、多くはふつうの読者でも注意深ければ気づくような指摘だ。たとえば、ジョバンニが夢から醒めた終わり近く、ふいに、しかも初めて登場する「あのブルカニロ博士」の「あの」の言いまわしから、元の原稿にはブルカニロ博士が登場する場面があって、削除されたのに違いない、削除されたとすればこの箇所だ、などという推定だ。とはいえ、ふつうの読者と違って、天沢たちは、疑問を読み流さないで徹底的に追求する。この一歩の違いは大きい。
 ①討議Ⅰで提示された疑問、矛盾は、その後2人が直接原稿にあたることでほぼ解消された。原稿から2人が再構成した『銀河鉄道の夜』は、筑摩書房版全集(1967年)とは36箇所も異なる(改行、句読点、表記、ルビ等の異同は含まない)。
 ②討議Ⅱは、こうした文献批判をふまえて行われた。ペンの色(鉛筆も含む)、原稿の裏のメモ(別の原稿を含む)等の手がかりから、執筆順、執筆年代、賢治の意図を推定し、こうした作業から深められた読みが披露される。他の作品にも文献批判の手が及んだから、『銀河鉄道の夜』と他の作品との関連も同様の深みから読みこなされる。「あのブルカニロ博士」にしても、夢に出てくる「セロのような声」「講義した歴史学者」と三位一体であることが指摘される。

 (4)付録の克明な資料や補足的な考察が、2つの濃密な対談に厚みを加えている。
 『宮沢賢治の彼方へ』ほかの賢治論で斬新な洞察を読書界にもたらした天沢は、テキストの厳密な考証を通じて、地味ながらいっそう確かな考察を展開させた。同様に、入沢もまた。
 念のためにいうと、本書のタイトルをなす『銀河鉄道の夜』とは何か、とは要するに、定稿はどれか、ということだ。いや、定稿という考え方は『銀河鉄道の夜』には当てはまらないらしい。原稿によって賢治の推敲の過程を綿密に追求した結果、『銀河鉄道の夜』には大きく4つの層があり、それぞれ固有の言語空間を構成することが明らかになったからだ。

 (5)こうした綿密なテキスト・クリティークは『銀河鉄道の夜』以外にも及び、「校本宮沢賢治全集」(『銀河鉄道の夜』は第10巻に所収、筑摩書房、1974)として結実した。
 さらにその後の研究の成果を踏まえて「〈新〉校本宮沢賢治全集」(『銀河鉄道の夜』は第9巻に所収、筑摩書房、1995)が刊行された。

□入沢康夫、天沢退次郎『討議『銀河鉄道の夜』とは何か 新装版』 (青土社、1990)
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【阿刀田高】『アラビアンナイトを楽しむために』

2016年08月16日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)論文にはサマリーがある。議論の要点を提示して、関心が持てる内容なら本文に読み進める仕組みだ。
 この伝で、小説や物語にもサマリーがあってもよい。あまりにも長すぎるとか、古典中の古典で、読みごたえがあるにしてもとっつきにくいとか、そういう本には論文のサマリーに相当する要約本があってもよい。リーダーズダイジェストは新刊について要約を紹介しているが、あいにく日本版は1986年に休刊した。
 
 (2)『アラビアンナイト』も長すぎる本だ。しかも脇筋へ遠慮なくどんどん逸れていくから、主筋を追いにくい。追っても意味がない。主筋はあってなきがごとしで、独立した説話が次々に付け加わるだけなのだから。
 全編が面白ければよいのだが、饒舌なだけでじつに退屈な挿話もある。

 (3)煩瑣に耐えてバートン版(大場正史訳)、マルドリュス版(豊島与志雄ほか訳)、東洋文庫版(前嶋信次訳)の3種類を読破し、血わき肉おどる部分を12編の短編小説仕立てに料理したのが本書。
 原作を読まないと読んだうちに入らない、というリゴリスムは無視してさしつかえない。ダイジェストであろうと翻案であろうと、まったく読まないよりマシだ。
 阿刀田高は、古典について幾冊かものしているが、これはこれで貴重な仕事なのだ。現代の言葉で、忙しい現代人が古典中の古典に接する機会を提供しているのだから。

 (4)そもそも、わが国には、黒岩涙香以来、翻案小説の伝統がある。比較的最近では、発達心理学の泰斗にしてわが国における文章心理学の草分け、波多野完治がジュール・ヴェルヌの『二年間の休暇』を翻案して『十五少年漂流記』に仕立てあげている(新潮文庫)。
 本書も、作品紹介というよりも翻案だ。しかも、読みやすい阿刀田調の語り口にのせられて、読者は一編また一編と、ページをめくるのがもどかしい思いをするだろう。
 本書は、『アラビアンナイト』をまったく読んだことのない人には読書案内となるし、一部しか読んだことのない人には覚えのある物語に再会する愉しみがある。そして、原作からぐんと離れて、星新一的に現代的な解釈をほどこした短編には、思わず微笑するにちがいない。

□阿刀田高『アラビアンナイトを楽しむために』(新潮社、1983)
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【司馬遼太郎】『竜馬がゆく』

2016年08月15日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 司馬遼太郎が描くところの坂本竜馬をひと口でいえば、可能性である。竜馬がはらんでいた豊かな可能性がたっぷりと描かれている。
 竜馬がなし遂げたことは殆どない。国家の枠を越えた市民、コスモポリタンの夢は夢で終わり、明治以降もごく少数が個人的に実現しただけである。海外に目を向けながら、語学を修得する根気も時間も持たなかった。船を愛しながら、幾隻も沈めてしまった。前代未聞の株式会社、海運業も萌芽にとどまった。かろうじて薩長連合の仲介役としてのみ歴史に名を残した。
 しかし、何と魅力的な生涯だろう。むろん司馬遼太郎の才筆があってのことだが、全編、すみずみまで青春の香気を感じる。香気はもとより譬えである。実物は蓬髪、垢まみれ、近寄れば異臭がしたらしい。が、かかる無頓着ぶりさえ魅力をおぼえる。無頓着は包容力につうじる。包容力は、男女さまざまの人々を惹きつけた。その最大の人は勝海舟である。勝との出会いは竜馬の運命を変え、暗殺されずに明治の代まで生きのびたら大きく花開いたはずだった。
 いや、歴史に「もしも」はない。さればこそ、彼の非命は哀惜を人びとに呼び起こすのだ。

□司馬遼太郎
 『竜馬がゆく 立志編』(文藝春秋社、1963)
 『竜馬がゆく 風雲編』(文藝春秋社、1964)
 『竜馬がゆく 狂瀾編』(文藝春秋社、1964)
 『竜馬がゆく 怒濤編』(文藝春秋社、1965)
 『竜馬がゆく 回天編』(文藝春秋社、1966)
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【司馬遼太郎】『花神』

2016年08月15日 | 小説・戯曲
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)村田蔵六、のちの大村益次郎は、長州は周防の村医の息子として生まれた。長じて蘭学に志し、大阪で緒方洪庵の適塾で学んだ。塾頭となったが、父の命にしたがって帰郷し、家業をついだ。
 英才を求める宇和島藩に招かれて、砲台の建設、初の国産蒸気船の建造に寄与する。居を江戸に移し、幕府が新設した洋学研究所、蕃書調所(後の東大)に採用されて、教授手伝から教授へ進む。併せて私塾を経営し、塾は繁盛した。桂小五郎(後の木戸孝允)と相知る仲となり、桂の招聘で故郷に錦を飾る。
 当初は新参の身、鳴かず飛ばずだったが、やがて軍師として頭角をあらわし、推されて長州の軍司令官、ついには官軍の総司令官となって、幕軍とその残党を蹴散らした。
 抜群の合理的思考の持ち主だった。反面、無愛想と受け取られかねない無口、冷徹すぎる論理は敵をつくった。大村益次郎は西郷隆盛を軽んじ、西南の役を予想する先見の明があったが、明治2年、大西郷を奉じる海江田信義が放った刺客に暗殺された。

 (2)毎晩豆腐だけを肴に銚子2本をあけるという杓子定規な、カント的習慣の持ち主であった。しかも石部金吉である。シーボルトの娘、産科医のイネに慕われるが、少なくとも本書ではそういう設定だが、大村益次郎のほうからは知的な会話以上の働きかけはない。歯がゆい思いをするのは、イネだけではない。
 かといって、正妻のお琴は、生涯のほとんどを旅に暮らした夫君をちっとも理解しなかった。友人といえるほどの友人もなかった。
 小説の主人公としては実に退屈だが、かかる人物を司馬遼太郎があえて描こうとしたのは、戦前から戦中にかけて、著者自身が情念優位の土俗ナショナリズムに苦しめられた体験があったからだろう。少なくとも司馬遼太郎描くところの大村益次郎の合理的精神が昭和の軍部に支配的だったならば、軍人としての司馬はもっと快適に過ごせただろうし、そもそも十五年戦争は生じなかったはずだ。

□司馬遼太郎『花神(上中下)』(新潮文庫、1976)
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【本】逆転につぐ逆転の法定ミステリー ~炎の裁き~

2016年08月14日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)主人公ピーター・ヘイルの父は、さる法律事務所の代表弁護士、オレゴン州法律家協会の会長経験者。ピーターも弁護士だが、高校からロー・スクールまで成績は劣悪、私生活でも不始末ばかり。要するに、親の庇護の下でかろうじて弁護士でござい、という顔をしていられたのだが、自信だけはたっぷりあって、主任弁護士に任命してもらえない不満を常日ごろ抱いていた。
 とある事件の最終弁論が予定されている朝、父が心臓の発作で倒れた。救急車で運ばれる寸前、父は無効審理の申し立てを厳命する。しかし、野心に燃えたピーターは、あえて父に代わり自分が法廷に立った。傲岸と浅慮の結果は、惨めなものであった。初歩的なミスをおかし、クライエントに大損害を与えたのである。

 (2)父は、ピーターを事務所から追放した。オレゴン州東部のウィタカー市の法律事務所に斡旋したのが、せめての思いやりであった。
 人口1万3千人の町で、年棒1万7千ドル?
 ピーターの失望は深かった。
 事件が、向こうからやってきた。
 ウィタカー市で再会したスティーヴ・マンシー(ロー・スクールの同級生)の、新妻ドナの弟ゲイリー・ハーモンが女子大生殺害の容疑で起訴されたのである。ゲイリーには軽度の知的障害があり、尋問で警察官の誘導にのせられた疑いがある。
 だから勝てる、と見てピーターは弁護を引き受けた。最初、高額の報酬に目がくらみ、事件を失地挽回の機会とだけとらえていたピーターだが、次第に真剣に取り組むにいたる。
 ゲイリーの告白は、知的障害者特有のあいまいさがあり、立証された他の事実との矛盾もあった。
 裁判が進むにつれ、有罪となる見こみが高くなってきた。法廷で対決する検察官、ベッキー・オシェイは、死刑判決を勝ちとることで出世をもくろむ野心家であった。当然、準備は万端おこたりはない。ピーターの反撃は、次々に撃退される。判決の日、陪審員はゲイリーにとって最悪の結論をくだす。

 (3)以下、ネタバレの恐れあり。
 たいがいの法廷物はここでジ・エンドとなるのだが、本書では紙数がまだたっぷり残っている。最後の最後まで、意外な事実がいくつも曝露されるから、息をぬけない。
 伏線がきちんと用意されていている。立証された事実と矛盾するゲイリーの告白すら、ゲイリーの視点に立って事実を見なおせば、事実の別の様相が明らかになる仕組みになっている。
 著者は映画を意識しているらしく、映画談義が本書にちらと出てくる。
 著者はまた、ペリー・メイスンを意識しているらしく、本書に何度かこの名が出てくる。実際、真実を率直に語らない依頼者という点で、また真犯人が依頼者とは別にいるという点でペリー・メイスン・シリーズのパロディだ。ただ、真実を語らないのは知的障害ゆえに表現力に限界があるから、という点で新味を出している。その知的障害の描き方はやや類型的だが、それなりに特徴を描きだしている。

□フィリップ・マーゴリン(田口俊樹・訳)『炎の裁き』(ハヤカワ文庫、2000)
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【本】宝さがしと謎とき ~海賊オッカムの至宝~

2016年08月14日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)星新一編訳『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫、1986)にいわく、<カナダの東部ノバスコチア沖のオーク島には、深い縦穴がある。水がたまっていて、その底は不明。18世紀に正体不明の男たちが掘ったという以外、なにもわからない>。
 これが、本書の舞台、米国メーン州沖合に位置するノコギリ島のモデルである。

 (2)ノコギリ島には海賊エドワード・オッカムの財宝、20億ドル相当が埋蔵されているという伝説があり、2世紀にわたって幾たりかの人々が挑戦したが、財宝が隠されているとおぼしき一帯の〈水地獄〉に祟られて経費がうなぎのぼりに上がり、破産した。命を失った者も少なくなかった。
 こうした一人を祖父としてもつ医師、ハーバード大学出のマリン・ハッチのもとに、一人の男が訪れた。祖父からノコギリ島の地権を継ぐマリンと契約を交わしたい、と申し出たのである。資金もスタッフも資材も確保済みだという。ヴェトナム戦争で掃海艇の艇長をつとめた男、ナイデルマンは、静かに自信に満ちた口調でハッチを説得をする。20年間、宝探しの山師を追い返してきたマリンは動揺した。とどめの言葉は、「<水地獄>を誰が設計したか、その正体を突き止めたのです」
 設計者? 自然が欲深な人間を阻止してきたのではなかったのか。少年時代に兄を呑みこんだ〈水地獄〉の謎が、今や解き明かされようとしているのか。
 かくて、スティーブン・スティルバーグ監督映画さながら、テンポの速い展開で、愕くべき結末まで一気に進む。

 (3)以下、ネタバレの恐れあり。
 罠の先に罠が待ち受けている、さらに別の罠が。
 こうしたくどさもスティルバーグ監督映画と共通しているが、読んでいるうちは気にならない。一読後、矛盾に気づく。たとえば、ナイデルマンが必死に探し求める宝物〈聖ミカエルの剣〉。小説が設定する効果をもつ物質を豪奢な装飾をもつ剣に仕立て上げることができる人間は、少なくとも海賊オッカムの時代にはいないはずだ。
 とはいえ、スティーブンソン『宝島』に胸を躍らせた人なら、本書を堪能できる。いや、『宝島』を読んでいなくても宝探しや発掘に関心をもつ人なら、やはり楽しめる。暗号、コンピュータ、地質学が好きな人も。
 海賊の知識があると、いっそう興趣が深まる。クリントン・V・ブラック(増田義郎・訳)『カリブ海の海賊たち』(新潮選書、1990)なぞ、どうだろう。

□ダグラス・プレストン/リンカーン・チャイルド(宮脇孝雄訳)『海賊オッカムの至宝』(講談社、2000)
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【本】少年に自立を教えるには ~スペンサー・シリーズの初秋~

2016年08月14日 | 小説・戯曲

 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)スペンサー・シリーズにおいて、主人公スペンサーは自らについてほとんど語らず、スペンサー以外の者がスペンサーについて語る。結果として、
   ①スペンサーは自己抑制的で何ものにも心を動かされないタフな神経の持ち主という印象を読者に与える。
   ②生じる問題も弱みも、スペンサー以外の誰か(依頼者あるいは事件に群がる有象無象)に属し、スペンサーには属しない、という印象を読者に与える。
 実際にはそうではなくて、怖い時には怖い、とスペンサーは率直に漏らす。それは当然だ。自分の力の限界を自覚しないでやたらと強がるのは、状況判断能力の欠如を示す。非常に危険だ。
 しかも、スペンサーの場合、怖さを意識しつつ、それに押しつぶされることなく、乗り切る意志の強さをもつ。つまるところ、スペンサー・シリーズの魅力のひとつは、この意志であり、自己コントロールの強さだ。

 (2)ところで、『初秋』の主題は、失敗した家庭内教育と、成功した社会教育である。
 妻よりも母親よりも女でありたいパティ、漁色に忙しく、離婚した元妻パティには嫌がらせしか考えないメル。こうした両親のもとで、近々16歳になろうとするポール・ジャコミンはテレビしか楽しみのない無気力な少年となっている。
 スペンサーは、森で少年と一緒に暮らし、手作りで家を建てつつ少年の体力を鍛える。体力のみならず、自分が何をしたいのかを自分で決める意志も育てる。
 スペンサーの教育方法はいっぷう変わっているが、その精神は奇異なものではない。米国にはフロンティア精神の伝統がある。その精神は今はどこかの博物館で埃をかぶっているのかもしれないが、スペンサーが短期間のうちに少年に教えたのは、まさにかっての開拓者の知恵であり、自立の精神であった。

 (3)スペンサー・シリーズでは、いくぶんキザだが、単純で筋のとおった哲学が随所に披露される。このあたりも、シリーズの魅力だろう。本書では例えば、少年とスペンサーは次のような会話をかわす。
 「なにが書いてあるの?」
 「14世紀のことだ」
 彼は黙っていた。薪の端から樹液が流れ出て下の熱い灰の中に落ちた。
 「なんで1400年代のことを書いた本を読むの?」
 「1300年代。20世紀が1900年代であるのと同じだ」
 ポールが肩をすぼめた。「だから、なぜそんなことについて読むの?」
 私は本をおいた。「当時の人々の生活がどんなものだったか、知りたいのだ。読むことによって、600年の隔たりをこえた継続感を得られるのが好きなのだ」

□ロバート・B・パーカー(菊池 光・訳)『初秋』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1988)
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【ジョン・グリシャム】路上の弁護士

2016年08月14日 | 小説・戯曲
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)人気作家ジョン・グリシャムの長編第9作目。法廷あり弁論あり、手慣れた筆致で弁護士の生態が描かれるが、マンネリズムには陥っていない。一作ごとに、米国の今日的な社会問題に切りこむからで、本書でも新たな分野に挑戦している。
 グリシャム作品は、エンターテインメントの形式を借りた社会学とでもいうか、米国社会の一面を活写しているのだが、本書ではこの特徴がことに濃厚で、弁護士のソーシャルワーク的機能を盛りこんでいる。かと言って、ちっとも堅苦しくはなく、三枚目ふうの、幾分軽佻浮薄な語り口に乗って、一気に読みとばせる。

 (2)主人公は、マイクル・ブロック、32歳。弁護士800名を擁するドレイク&スウィーニー法律事務所の反トラスト法部門に所属するシニア・アソシエイトである。週6日、一日15時間働き、年収は12万ドル。パートナーに昇格すれば年収100万ドルは軽い。同期の入所者中、パートナーに最短距離に位置すると目され、3年後には昇格がほぼ約束されていた。だが、禍福はあざなえる縄の如しで、妻クレア(外科医師、レジデント)との結婚生活は破綻寸前だった。

 (3)そのドレイク&スウィーニー法律事務所に、白昼堂々と賊が侵入した。腹にダイナマイトを巻き、マイクルをはじめとする9名の弁護士に銃を突きつける。浮浪者の身なりだが、かってはそれなりの暮らしをしていたらしい。頭は切れる。悠揚せまらぬ物腰は、かえって人質たちの恐怖を募らせる。
 「きみ」という馴れ馴れしい呼称を拒んで、ミスターと呼ばせる。ミスターは、弁護士たちへ奇妙な問いを発した。「おまえたちは慈善事業にいくら寄付したのか?」
 ホームレスの給食所には?
 救護所には?
 無料診療所には?
 居並ぶ弁護士たちは次々に、寄付していない、という答を返す。銃の脅威が、ますます深刻になってきた。

 (4)これが発端である。事件は急転直下解決を見るのだが、ミスターの発した謎の問い、「だれが強制立ち退きの担当者なんだ?」がマイクルの胸中にくすぶった。
 心の後遺症は、後に主人公自身思いもよらなかった行動に導く。事件直前までそのために身を粉にして働いていた巨大法律事務所とまっこうから対決することになるのである。いずれが破滅するのか。緊張に満ちた1か月間が本書で描かれる。

 (5)表題の「路上の弁護士」は、①ホームレスを弁護する弁護士、②ホームレスとなった弁護士、③ホームレスを弁護するホームレスである弁護士・・・・の3通りの解釈ができよう。そのいずれであるかは、一読すれば直ちに自答できる。

□ジョン・グリシャム(白石朗・訳)『路上の弁護士』(新潮社、1999/後に新潮文庫、2001)
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【A・J・クィネル】地獄の静かな夜 ~短編集~

2016年08月14日 | 小説・戯曲
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)A・J・クィネル唯一の短編集。「手錠」「愛馬グラディエーター」「バッファロー」「ヴィーナス・カプセル」「六十四時間」「ニューヨーク、ニューイヤー」「地獄の静かな夜」の7編をおさめる。
 この連作短編は、訳者あとがきによれば、1993年にクィネルに出会ったときに訳者・大熊榮が持ちかけたのが契機となった。作家としての想像力の広さを示したい、と考えていたクィネルは二つ返事で引き受けた。

 (2)その自負は作品が証明している。長編作家クィネルの別の才能が本書で発揮されている。
 世界各地を舞台とし、ストーリーはどれ一つとして他と似ていない。じつに多彩である。共通しているのは、緊密な構成で、結末のひねりもよくきいている。プロ・ボクサーの筋肉のように、落とせるところまで贅肉をおとして、長編とはちがう短編の妙味、切れ味のよさを見せている。
 短編作品によって、フレデリック・フォーサイスとの違いがますます明らかになる。フォーサイスは人間を突き放して見ている。それはそれで独特の味わいがあるのだが、登場人物はレポートの対象でしかないという印象も強い。クィネルの場合、情念のドラマがある。これを訳者は「愛(と憎しみ)」と呼んでいる。友情を含むこの「愛」は、いずれも抑制され、持続的で、常に行動をともなう。

 (3)こうしたクィネル的特徴は、本書の総題となった「地獄の静かな夜」 A Quiet Night in Hell に遺憾なく発揮されている。
 読者に対するサービスも遺漏はない。「愛馬グラディエーター」には、クィネル・ファンには疾く承知の人物が最後の最後に登場し、しかも重要な役割をはたすのだ。

□A・J・クィネル(大熊榮・訳) 『地獄の静かな夜』(集英社、2001)
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 【参考】
書評:『ブルー・リング』
書評:『モサド -暗躍と抗争の六十年史-』 ~インテリジェンスと国家~
書評:『あの原子炉を叩け!』
書評:『スナップ・ショット』


【本】ラーゲリ ~イワン・デニーソヴィチの一日~

2016年03月15日 | 小説・戯曲
 『シベリア物語』を持ち出したからには、本書を取り上げないわけにはいかない。スターリニズム下のソ連の、極寒のシベリアのラーゲリにおける囚人の一日が語られる。
 日本へ最も早く紹介した小笠原豊樹・訳でまず読んだ。小笠原はマヤコフスキーの紹介者であり、岩田宏の筆名で知られる詩人である。

 <朝の五時、いつものように起床の合図が鳴った。本部バラックの脇のレールをハンマーで叩く音。とぎれとぎれの響きが、指二本の厚さに凍りついた窓ガラスを通して、かすかに伝わり、まもなく静まった。この寒さでは、看守も永いこと鳴らすのが億劫とみえる。
 音は消えたが、窓の外は、シューホフが用便に立った真夜中とすこしも変わりない、闇また闇だ。黄色いあかりが三つ、窓に映って見える。二つは立入り禁止区域〔有刺鉄線の両側二メートル幅の地帯〕の、一つは収容所《ラーゲリ》構内のあかりである。
 なぜかバラックの扉をあけに来る様子がない。当番の者が用便桶に棒をさしこんで、かつぎ出す音もきこえない。
 シューホフは、起床合図を聞きもらしたことは一度もなかった。いつも合図と同時に起きる。点呼までの一時間半は、公《おおや》けのものではない、自分の時間だった。収容所《ラーゲリ》の生活を知る者は、つねに内職のチャンスを逃すまいとする。だれかに、古服の裏地で、指なし手袋のカバーを縫ってやってもいい。金まわりのいい班員の寝床まで、乾いたフェルト靴〔膝までの防寒用長靴〕を運んでやってもいい。山と積まれた靴のまわりで、はだしで足踏みしながら、えらび出す手間がはぶけるわけだ。あるいは、衣料配給所をひとまわりして、掃除をしたり、何かを運んだり、相手構わずサービスする。あるいは、食堂へ行って、テーブルの上の食器を集め、見あげるばかりに積みかさねたのを食器洗い場まで持って行く。これをやると、たべものにありつけるが、それだけに志願者が多くて、どうにもならない。しかも、食器に何か残っていたら、つい我慢しきれなくなって、食器をなめてしまうのが問題である。シューホフは、最初の班長だったクジョーミンのことばを、はっきり記憶していた。一九四三年ですでに服役十二年目という、この収容所《ラーゲリ》の古狼は、いつか森の空地の焚火のかたわらで、戦線から引っ張られた新入りたちに、こう言ったのである。
「いいか、ここの掟は、すなわち密林だ。ただし、こんな所でも人間は生きられる。収容所《ラーゲリ》で身をほろぼすのは、食器をなめる奴、医療部に行きたがる奴、それから政治将校《クーム》に密告する奴」
 政治将校《クーム》に密告というのは、もちろんクジョーミンの義憤だった。密告する連中は、わが身を守ることが上手なのだ。ただし、他人を犠牲にして身を守る。
 いつも合図と同時に起きるシューホフだが、今日は起きなかった。ゆうべから、どうも具合がよくなかったのである。寒気がするかと思えば、体のふしぶしが痛んだ。おまけに一晩じゅう体があたたまらなかった。夢うつつで、ひどい病気になったと思い、またいくらかよくなったかとも思った。朝が来るのがいやだった。
 けれども朝はとどこおりなくやって来た。
 だいたい、ここで体があたたまろうはずはない。窓には氷がこびりついているし、壁と天井が接するあたりには、バラック中(なんというバラックだろう!)白い蜘蛛の巣が張っている。霜だ。>

 最後は次の一行で終わる。
 <一日が過ぎ去った。どこといって陰気なところのない、ほとんど幸せな一日が>

□アレクサンドル・ソルジェニーツィン(木村浩・訳)『イワン・デニーソヴィチの一日』(新潮文庫、1963)/(染谷茂・訳)『イワン・デニーソヴィチの一日』(岩波文庫、1971)
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 【参考】
【本】ラーゲリ ~シベリア物語~
書評:『鶴』
【医療】患者の自己決定権 ~『ガン病棟』~
【心理】アニマル・セラピー ~セント・バーナード~

 

【本】ラーゲリ ~シベリア物語~

2016年03月14日 | 小説・戯曲
 長谷川海太郎は3つのペンネームを持っていた。その一つが林不忘で、丹下左膳シリーズで知られる。ほかに、冒険小説の牧逸馬・谷譲次もペンネームだった。
 梅太郎の次弟が?二郎(りんじろう)で、画家だが、地味井平造のペンネームで推理小説も書いた。
 ?二郎の弟が濬(しゅん)で、ロシア文学者となり、ニコライ・バイコフの『偉大なる王(ワン)』を訳している。
 ?二郎の弟、つまり海太郎の末弟が四郎だ。
 満鉄調査部、満州帝国協和会調査部、関東軍を経て1945年8月にソ連軍の捕虜となり、11月、シベリアのチタ近郊チェルノフスカヤの炭鉱に送られた。以後、シベリア各地の捕虜収容所を転々、労働。コルホーズ、レンガ工場、炭鉱、道路工夫、材木流送、線路工夫、掃除人などに従事した。1950年2月、帰還。1951年4月から「近代文学」に「シベリア物語」を連載し始めた。

□長谷川四郎『シベリア物語』(旺文社文庫、1974/後に講談社学芸文庫、2014)
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 【参考】
書評:『鶴』

  


【本】筒井康隆の新作、『モナドの領域』

2016年02月13日 | 小説・戯曲
 

 (1)あらゆる表現や芸術には独自性がある。人々に新しい刺激を与えるものだけが支持される。
 筒井康隆(81)は、「これまで誰も書いたことがないもの、さらに言えば自分も書いていない小説」を志向し続けてきた。SF、ブラックユーモア、メタフィクション、『時をかける少女』に代表されるジュブナイル小説・・・・多様な世界を小説で構築してきた。

 (2)新作『モナドの領域』(新潮社、2015)は、筒井が「わが最高傑作にして、おそらくは最後の長編」と銘打つ。これまでの昨夏経験をつぎ込み、アイデアを出し切った、と感じている。「最後と思うからこそ、いろんなことができた」
 物語は、河川敷で女の右腕が見つかる場面から始まる。
 近所のベーカリーにアルバイトに入った美大生が、この腕とそっくりのバゲットを焼き上げ、そのリアルさと美味しさが話題となる。
 警察が注目するなか、店の常連の大学教授が奇妙な言動をとり始める。
 教授に憑いた存在は「GOD」を自称。あらゆる知識や出来事に通暁し、宇宙や人類の成り立ちを語る。出来事のことごとくは、あらかじめ組み込まれた「モナド」によって定められているとし、いずれやってくる人類の滅亡すら「美しい」と言ってのける。
 「GOD」は、人々を祝福せず、罰を与えることもしない。キリスト教など一神教より『バガヴァッド・ギーター』的汎神論に近い存在だ。
 そこに反映されているのは、筒井の宗教観だ。カトリック系の幼稚園に通い、「悪いことをするたびに、どこかで神様が見ていたらどう思うかと考えるような子ども」だった。大学は、プロテスタント系の同志社。「いろんな宗教は、自分の納得のいく神様をつくり上げていく」と、世にある宗教に懐疑的になった。

 (3)怖い。
 大阪生まれの「いちびり」気質。文壇から宗教団体、戦争、高齢化社会、嫌煙権まで、あらゆる権威や世相を小説のなかで洒落のめしてきた。
 「まず読者を笑わせ、ときには感動させたい。その根本には、びっくりさせたい、というのがある」
 この一点に創作の動機がありそうだが、筒井自身もまだわからない。
 彼が恐れるのは、読者から「これは前に書いている」と指摘されることだ。神よりも読者が怖い。
 『現代語裏辞典』(文藝春秋社、2010)の「思いつき」の項目に、
   「優れた着想に対する悪口」
と書いた。「批評家は『単なる思いつき』と言うが、思いつき以外に何があるというのか。何か自分の思想があって、そこから出たものでなければ着想ではないという考え方があるのでしょう。でも僕はそう思わない。だいたい思想がないからね」

 (4)延命。
 売れるかどうかで小説の価値を測る風潮が、「本屋大賞」で強まった、と筒井は感じる。
 「昔に比べてデビューはしやすくなったが、本が売れない。若い作家は大変だと思う。僕は幸運だった」
 作家は、人びとに読まれるものを書くべきなのか。
 それとも、魅力あるものを書けばおのずと読まれるのか。
 作中の「GOD」は、哲学者リオタールの思想を引き、
   作家が思潮に迎合することによる「つかの間の虚しい延命」
について語る。
 「リオタールを初めて読んだときは衝撃を受けたけれど、僕はむしろ嫌われる方向で書いてきたから、自分には当たらない」

□記事「誰も書いたことがない小説 宇宙や人類の成り立ち語る 筒井康隆 モナドの領域 ~ブレークスルー1~」(日本海新聞 2016年2月12日)
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【本】知的考察にも耐える娯楽小説 ~『七つの会議』~

2016年01月25日 | 小説・戯曲
 
 総合商社「ソニック」の子会社「東京建電」を舞台とする連作短編小説。作品ごとに主人公を変え、それぞれの人間模様と、彼(彼女)から見た東京建電の異なる側面を描き出す。東京建電の幹部らが隠している秘密の追究という一貫するテーマがあって、このミステリー的要素が、バラバラの短編の全体に統一感を与える。
 コンプライアンスが現場でどう無視されるか、という企業社会における今日的なテーマも含み、知的な読みにも対応できる工夫がこらされている。
 とはいえ、面倒な理屈はおいといて、娯楽小説の王道たる波瀾万丈を楽しんでいい。
 5点満点で4点。

□池井戸潤『七つの会議』(日本経済新聞出版社、2012)
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