『黒後家蜘蛛の会』シリーズは、邦訳で全5巻。最初の短編は1971年3月に発表された。
アシモフ自身、いたく気に入っていたシリーズらしい。単行本収録にあたって各短編の末尾に作者あとがきを追記し、作品成立の裏話を披露しているが、じつに楽しそうだ。
どの巻の、どの短編も構成は同工異曲だ。
黒後家蜘蛛の会という月例の親睦会があって、毎回ゲストが招かれる。談論活発な会食の後、ゲストは「何をもって自身の存在を正当とするか?」と問いかけられる。6名の会員とゲストのやりとりのうちに謎が発生する。あるいは、さいしょからゲストが謎を持ちこみ、各人各様の角度から追求する。しかし、解決に至らない。そこへ給仕ヘンリーがデウス・エキス・マキーナとして慎ましやかに登場するのだ。
このパターンは、どの短編でも変わらない。
手がかりは遺漏なく提示されるから、読者もまた会員とともに推理をめぐらすことができる。フェアといえばフェアだが、時々特殊な知識を要求されるから油断できない。
だが、謎解き以上に饒舌な雑談、歓談が楽しい。いささか辛辣だが、節度のある議論である。
要するに、このシリーズは、論理的に明快で、遊び心が横溢したミステリーである。
卑見によれば、アームチェア・ディテクティブはハリイ・ケメルマン(永井淳/深町眞理子・訳)『九マイルは遠すぎる』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1976)をもって至高とするのだが、『黒後家蜘蛛の会』シリーズはこれに準じる、と思う。
本書には12編が収録されている。
冒頭の『追われてもいないのに』は、多産で、自尊心のかたまり、うぬぼれの権化のような作家、まるでアシモフそっくりのモーティマー・ステラーがゲストである。「おそらく、わたしの書くものを越える文章はないでしょう」とか、私は何でも書く、「だからわたしはよく作家にある、行き詰まった、という経験がありません」とか、傲然たるものだ。戯画化されているが、アシモフ自身の本音くさい。
それはさておき、ステラーは、さるパーティでジョエル・バーコヴィッチと知り合う。そして、創刊予定の新雑誌「ウェイ・オブ・ライフ」への寄稿を依頼された。バーコヴィッチは編集長に就任するはずだった。
ステラーは、くだんのパーティを素材に、しかし実在の人物はボカして、わずか1週間で書きあげた。
バーコヴィッチ編集長は約束どおり買い上げた。しかるに、創刊号には掲載されなかった。爾来2年たつが、依然としてお蔵入りのままである。いつ掲載するのか、と問い合わせたが、言を左右にして答えない。ちゃんと原稿料は支払われているから強くは文句を言えない。ただ、付加価値、つまり単行本への収録ができない。
この際、胸のつかえをぬぐい去ろうと、ステラーは黒後家蜘蛛の会の会員に事情を打ち明けたのだ。
手直しが必要だったのではないか(いや、原稿料は支払い済みである)、原稿を失くしたのではないか(いや、ステラーの手元に写しがある)・・・・などなど、会員が多様な角度から検討したが、どれも正鵠を射ているらしくない。
ところで、かのパーティにバーコヴィッチは愛人らしいホステスを同伴していた。その半年後、バーコヴィッチは心臓を患っていた妻を亡くし、晴れて、かの愛人と再婚したのだ。
百家争鳴の後、ヘンリーは一つの解を提示する。
バーコヴィッチが原稿料を払って初公表権を獲得し、かつ掲載しないでいるのは、自分の雑誌にせよ他の雑誌にせよ、パーティを描いた原稿のどこかの箇所を公表されたくないからではないか。その箇所はおそらく・・・・。
この推定に基づき、自分の作品を発表したいというステラーの欲求と、推定されるところのバーコヴィッチにとっての不都合とを同時に解消する方法が提案された。
隠すよりあらわるるはなし。この古来の真理を安楽椅子の探偵たちは証明する。それと同時に、関係者のいずれにとっても満足のいくプラグマティカルな解決法をも案出するのである。このあたりが、米国らしさというか、少なくともアシモフらしいところだ。
□アイザック・アシモフ(池央耿訳)『黒後家蜘蛛の会2』(創元推理文庫、1978)
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アシモフ自身、いたく気に入っていたシリーズらしい。単行本収録にあたって各短編の末尾に作者あとがきを追記し、作品成立の裏話を披露しているが、じつに楽しそうだ。
どの巻の、どの短編も構成は同工異曲だ。
黒後家蜘蛛の会という月例の親睦会があって、毎回ゲストが招かれる。談論活発な会食の後、ゲストは「何をもって自身の存在を正当とするか?」と問いかけられる。6名の会員とゲストのやりとりのうちに謎が発生する。あるいは、さいしょからゲストが謎を持ちこみ、各人各様の角度から追求する。しかし、解決に至らない。そこへ給仕ヘンリーがデウス・エキス・マキーナとして慎ましやかに登場するのだ。
このパターンは、どの短編でも変わらない。
手がかりは遺漏なく提示されるから、読者もまた会員とともに推理をめぐらすことができる。フェアといえばフェアだが、時々特殊な知識を要求されるから油断できない。
だが、謎解き以上に饒舌な雑談、歓談が楽しい。いささか辛辣だが、節度のある議論である。
要するに、このシリーズは、論理的に明快で、遊び心が横溢したミステリーである。
卑見によれば、アームチェア・ディテクティブはハリイ・ケメルマン(永井淳/深町眞理子・訳)『九マイルは遠すぎる』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1976)をもって至高とするのだが、『黒後家蜘蛛の会』シリーズはこれに準じる、と思う。
本書には12編が収録されている。
冒頭の『追われてもいないのに』は、多産で、自尊心のかたまり、うぬぼれの権化のような作家、まるでアシモフそっくりのモーティマー・ステラーがゲストである。「おそらく、わたしの書くものを越える文章はないでしょう」とか、私は何でも書く、「だからわたしはよく作家にある、行き詰まった、という経験がありません」とか、傲然たるものだ。戯画化されているが、アシモフ自身の本音くさい。
それはさておき、ステラーは、さるパーティでジョエル・バーコヴィッチと知り合う。そして、創刊予定の新雑誌「ウェイ・オブ・ライフ」への寄稿を依頼された。バーコヴィッチは編集長に就任するはずだった。
ステラーは、くだんのパーティを素材に、しかし実在の人物はボカして、わずか1週間で書きあげた。
バーコヴィッチ編集長は約束どおり買い上げた。しかるに、創刊号には掲載されなかった。爾来2年たつが、依然としてお蔵入りのままである。いつ掲載するのか、と問い合わせたが、言を左右にして答えない。ちゃんと原稿料は支払われているから強くは文句を言えない。ただ、付加価値、つまり単行本への収録ができない。
この際、胸のつかえをぬぐい去ろうと、ステラーは黒後家蜘蛛の会の会員に事情を打ち明けたのだ。
手直しが必要だったのではないか(いや、原稿料は支払い済みである)、原稿を失くしたのではないか(いや、ステラーの手元に写しがある)・・・・などなど、会員が多様な角度から検討したが、どれも正鵠を射ているらしくない。
ところで、かのパーティにバーコヴィッチは愛人らしいホステスを同伴していた。その半年後、バーコヴィッチは心臓を患っていた妻を亡くし、晴れて、かの愛人と再婚したのだ。
百家争鳴の後、ヘンリーは一つの解を提示する。
バーコヴィッチが原稿料を払って初公表権を獲得し、かつ掲載しないでいるのは、自分の雑誌にせよ他の雑誌にせよ、パーティを描いた原稿のどこかの箇所を公表されたくないからではないか。その箇所はおそらく・・・・。
この推定に基づき、自分の作品を発表したいというステラーの欲求と、推定されるところのバーコヴィッチにとっての不都合とを同時に解消する方法が提案された。
隠すよりあらわるるはなし。この古来の真理を安楽椅子の探偵たちは証明する。それと同時に、関係者のいずれにとっても満足のいくプラグマティカルな解決法をも案出するのである。このあたりが、米国らしさというか、少なくともアシモフらしいところだ。
□アイザック・アシモフ(池央耿訳)『黒後家蜘蛛の会2』(創元推理文庫、1978)
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