語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『黒後家蜘蛛の会2』

2010年07月21日 | ミステリー・SF
 『黒後家蜘蛛の会』シリーズは、邦訳で全5巻。最初の短編は1971年3月に発表された。
 アシモフ自身、いたく気に入っていたシリーズらしい。単行本収録にあたって各短編の末尾に作者あとがきを追記し、作品成立の裏話を披露しているが、じつに楽しそうだ。
 どの巻の、どの短編も構成は同工異曲だ。
 黒後家蜘蛛の会という月例の親睦会があって、毎回ゲストが招かれる。談論活発な会食の後、ゲストは「何をもって自身の存在を正当とするか?」と問いかけられる。6名の会員とゲストのやりとりのうちに謎が発生する。あるいは、さいしょからゲストが謎を持ちこみ、各人各様の角度から追求する。しかし、解決に至らない。そこへ給仕ヘンリーがデウス・エキス・マキーナとして慎ましやかに登場するのだ。
 このパターンは、どの短編でも変わらない。
 手がかりは遺漏なく提示されるから、読者もまた会員とともに推理をめぐらすことができる。フェアといえばフェアだが、時々特殊な知識を要求されるから油断できない。
 だが、謎解き以上に饒舌な雑談、歓談が楽しい。いささか辛辣だが、節度のある議論である。
 要するに、このシリーズは、論理的に明快で、遊び心が横溢したミステリーである。
 卑見によれば、アームチェア・ディテクティブはハリイ・ケメルマン(永井淳/深町眞理子・訳)『九マイルは遠すぎる』(ハヤカワ・ミステリ文庫、1976)をもって至高とするのだが、『黒後家蜘蛛の会』シリーズはこれに準じる、と思う。

 本書には12編が収録されている。
 冒頭の『追われてもいないのに』は、多産で、自尊心のかたまり、うぬぼれの権化のような作家、まるでアシモフそっくりのモーティマー・ステラーがゲストである。「おそらく、わたしの書くものを越える文章はないでしょう」とか、私は何でも書く、「だからわたしはよく作家にある、行き詰まった、という経験がありません」とか、傲然たるものだ。戯画化されているが、アシモフ自身の本音くさい。
 それはさておき、ステラーは、さるパーティでジョエル・バーコヴィッチと知り合う。そして、創刊予定の新雑誌「ウェイ・オブ・ライフ」への寄稿を依頼された。バーコヴィッチは編集長に就任するはずだった。
 ステラーは、くだんのパーティを素材に、しかし実在の人物はボカして、わずか1週間で書きあげた。
 バーコヴィッチ編集長は約束どおり買い上げた。しかるに、創刊号には掲載されなかった。爾来2年たつが、依然としてお蔵入りのままである。いつ掲載するのか、と問い合わせたが、言を左右にして答えない。ちゃんと原稿料は支払われているから強くは文句を言えない。ただ、付加価値、つまり単行本への収録ができない。
 この際、胸のつかえをぬぐい去ろうと、ステラーは黒後家蜘蛛の会の会員に事情を打ち明けたのだ。
 手直しが必要だったのではないか(いや、原稿料は支払い済みである)、原稿を失くしたのではないか(いや、ステラーの手元に写しがある)・・・・などなど、会員が多様な角度から検討したが、どれも正鵠を射ているらしくない。
 ところで、かのパーティにバーコヴィッチは愛人らしいホステスを同伴していた。その半年後、バーコヴィッチは心臓を患っていた妻を亡くし、晴れて、かの愛人と再婚したのだ。

 百家争鳴の後、ヘンリーは一つの解を提示する。
 バーコヴィッチが原稿料を払って初公表権を獲得し、かつ掲載しないでいるのは、自分の雑誌にせよ他の雑誌にせよ、パーティを描いた原稿のどこかの箇所を公表されたくないからではないか。その箇所はおそらく・・・・。
 この推定に基づき、自分の作品を発表したいというステラーの欲求と、推定されるところのバーコヴィッチにとっての不都合とを同時に解消する方法が提案された。
 隠すよりあらわるるはなし。この古来の真理を安楽椅子の探偵たちは証明する。それと同時に、関係者のいずれにとっても満足のいくプラグマティカルな解決法をも案出するのである。このあたりが、米国らしさというか、少なくともアシモフらしいところだ。

□アイザック・アシモフ(池央耿訳)『黒後家蜘蛛の会2』(創元推理文庫、1978)
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書評:『壺霊』 ~内田康夫の京都ガイド~

2010年07月20日 | ミステリー・SF
 本書は、内田康夫150冊目の本、浅見光彦シリーズの1冊。
 浅見光彦シリーズは、主人公の年齢も仕事も、そして家族構成も永遠に変わらない。ライターの主人公は、33歳のまま歳をとらない。老母もまた、かくしゃくとして介護保険による給付は不要である。可哀想に、14歳年長の兄の陽一郎は警察庁刑事局長から異動しないし、これ以上出世しない。46歳の兄嫁は家事をそつなくこなし続け、高校1年生の姪や14歳の甥はちっとも成長しない。お手伝いさんはいつまでも27歳の若さをたもち、どこまでも主人公に対して純情である。
 ディック・フランシスの数ある作品の主人公も浅見光彦とおおむね同年配だが、作品ごとに新たな主人公が創造され、その出自と職業は他の主人公と異にする。この結果、一連のフランシス作品は、階級社会イギリスの社会各層の諸相を重層的に描きだす。ディック・フランシス作品は、イギリスとイギリス人を知る格好のテキストである。
 他方、浅見光彦シリーズは、社会の諸相ではなく、風俗だ。しかも、通りすぎていく旅人の目にうつる風俗である。その土地とも土地の人々とも、主人公と本質的な関係が築かれることはない。浅見光彦は、基本的には、「あっしには関わりのねぇことでござんす」とうそぶいた木枯紋次郎の末裔なのである。その証拠に、旅先で結婚を本人または親族から迫られるほど親しくなっても、どの女性とも関係が深まることはない。 

 ところで、『壺霊』がとりあげる風俗は、京都のそれである。
 主人公は東山区の古色蒼然たる民家を拠点とし、檜の湯船に浸かり、生霊やら魑魅魍魎が出そうな町家の雰囲気を味わい・・・・魑魅魍魎ではなくて、巨大なゴキブリを退治する。これも古都の一面である。
 また、愛車ソアラを駆って縦横に京の街を疾駆するから、巻頭の地図を参照しながら読めば、たちまち京都の地理があたまに入る。懇切にも、本書は通りの名の覚え方まで教えてくれるのだ。「丸竹夷二押御池」は、御所のすぐ南を東西に走る丸太町通から順に南へ、竹屋町通、夷川通、二条通、押小路通、御池通。さらに南は、「姉三六角蛸錦」。
 浅見光彦は、秋に1週間の予定で京都へ出張し、それが延びて結局10日あまり滞在するのだが、謎解きの調査をする必要のない観光客なら、もっと短期間で主人公と同じルートを辿ることができるはずだ。
 要するに、『壺霊』はれっきとした京都ガイドブックである。事件が起こり、謎解きがあるのだが、それは刺身のツマにすぎない。

 京都ガイドブックの性格は、グルメにいたって、ますます顕著である。そう、『壺霊』はグルメ小説でもある。
 たとえば、大徳寺前にある「松屋藤兵衛」。銘菓「松風」は、主人公の母堂がかねてから贔屓にしていたことが明らかにされる。
 四条河原町にある京都タカシマヤ7階のダイニングガーデン京回廊は本書にたびたび登場するから、浅見光彦の味わいぶりを参考に店と料理をチョイスできる。
 そして、蕎麦の本家尾張屋に、中華の大傳月軒。木屋町通の大傳月軒では、店の来歴を知ることで、主人公は事件の渦中にある人物の隠された謎をあぶりだすのだ。
 篠田一士『世界文学「食」紀行』の文明批評や文学談義のみならず、殺人事件をも話題にして会食できることを明らかにしただけでも本書の意義は大きい。
 ところで、嵐山は渡月橋を渡って南側の豆腐料理で浅見光彦は年上の美人と会食するのだが、その店の名が記されていないのは妙だ。なにか、いわくがありそうだ。これこそ、グルメ小説としての本書の最大の謎である。

□内田康夫『壺霊』(角川書店、2008)
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書評:『モスクワ、2015年』

2010年06月10日 | ミステリー・SF
 2015年、ロシアを二分した内戦はようやく終結し、ムルマンスクの街はお祭り気分の一色に染められていた。
 とある朝、祝杯に酔いつぶれた国家警察官コンスタンチン・ヴァジムのもとに客が訪れる。かって生活を共にしたユーリャ・ペトロワからの密使であった。
 ユーリャは、思想的理由からヴァジムの敵陣営に息子を連れて身を投じ、女性戦闘師団の司令官として西側にもその名がとどろいていた。敗戦後は、追手を避けて潜行中の身であった。
 今なお別れた妻を愛している彼は、もとめに応じて資金を調達するが、これが遠因で職務上の失態をおかし、僻地へ左遷される瀬戸際に立たされる。これを救ったのが旧友ロイ・ロルキン、秘密警察の少佐であった。ある特殊な任務をはたすことが条件だった。
 承知したヴァジムは、顔を整形され、経歴も偽装されて、新任地のモスクワへおもむく。折しも、女ばかりが犠牲になる猟奇的な連続殺人事件が起きていた。さっそくこれを担当する。
 ヴァジムは殺人犯を追求し、ロルキンは新政権に抵抗するテロリストを追求する。
 一方には刑事事件のおそるべき真相があり、他方には政治の暗部の暴露があり、ヴァジムはうち震える・・・・。

 題名からすると近未来小説だが、むしろ、かつてどこかの国であったかもしれない展開だ。ひとたび手にすれば巻を置くあたわざる本書の唯一の、しかし些細な瑕疵である。
 構成は、重層的にして緻密。謎を解明する伏線がいたるところに過不足なく描きこまれている。
 酒と女に弱い主人公のキャラクターは、愉しい。主な脇役の性格もていねいに描きわけられている。ことに主人公をとりまく女たち、ユーリャ、米人にして恩赦国際監視団員イモージェン、検死官ナターリャはいずれも個性的に躍動していて、殺人事件及び政治という素材の重苦しさをほどよく中和している。

□ドナルド・ジェイムズ(棚橋志行訳)『モスクワ、2015年(上・下)』(扶桑社ミステリー文庫、1999)
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【言葉】巧みな嘘つき

2010年06月06日 | ミステリー・SF
 もっとも巧みに嘘をつく者はときにしゃべりすぎることがある。

【出典】アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『殺人課刑事』(新潮社、1998)

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新刊書一読:『兇弾』 ~禿鷹シリーズ第5作~

2010年06月02日 | ミステリー・SF
 『禿鷹の夜』、『無防備都市』、『銀弾の夜』、『禿鷹狩り』につづく第5作。
 第4作で主人公のハゲタカこと禿富鷹秋警部補(死後二階級特進により警視)はあの世に成仏したのだが、彼が属していた神宮署の裏金作りに係る裏帳簿のコピー(ハゲタカが握っていた)をめぐって関係者が右往左往する。「死せる禿鷹、生けるキャリアを走らす」と帯にある。
 ハゲタカは浮世ばなれした悪徳刑事だが、憎めないキャラクターの持ち主だった。それゆえか、ハゲタカにいいようにされた渋六興行の水間や同僚の嵯峨刑事やらが「弔い合戦」に乗りだす。
 荒唐無稽といえば荒唐無稽な話だが、日和る御子柴刑事をふくめて、登場人物には妙なリアリティがあって、逢坂剛の筆は冴える。

□逢坂剛『兇弾』(文藝春秋、2010.1)
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書評:『ハバナ・ベイ』 ~『ゴーリキー・パーク』シリーズ最終巻~

2010年05月24日 | ミステリー・SF
 ロシアの人民警察捜査官アルカージ・レンコを主人公とするシリーズ第4作。
 著者は、『ローズ』に続き、本書でハメット賞を受賞した。

 このシリーズ、1981年以来(邦訳はその翌年)、5年間に一作のわりで刊行されてきた。そして、一作ごとに時代背景が変っている。つまり、このシリーズは、旧ソ連、そして現ロシアの激変する世相を忠実に反映している。
 本書の解説には、第1作『ゴーリキー・パーク』、これに続く『ポーラー・スター』、『レッド・スクエア』の梗概が紹介されている。したがって、まず解説から読みはじめてもよい、と思う。ちなみに、『ゴーリキー・パーク』はウィリアム・ハート主演のTVドラマ(1984)がある。
 第1作で、レンコはKGBのプリブルーダ少佐(後に大佐)と当初対立するが、事件の解決に尽力するうちに親しくなる。
 第2作では、プリブルーダは、レンコの命を救った。

 そのプリブルーダ大佐(KGBの後身の連邦保安機関SVRに所属)が大使館付き武官としてキューバへ赴任し、行方不明になって1週間後、死体で発見された。
 身元確認のためレンコはキューバを訪れる。大佐の息子は、ピザ店を経営していて動けない、というのだ。プリブルーダにおいて、親子の関係はレンコとの職業上のつながりほど濃くないわけだ。げにも、人間は社会的動物である。

 レンコは復権し、モスクワ検察局に勤務していたが、キューバでは何の権限もない。
 それどころではない。かつてキューバに対して「封建君主」のようにふるまっていたロシアの「裏切り」に対する敵意ないし嫌悪に取り囲まれた。しかも、プリブルーダにはスパイの疑いがかけられ、国際問題になりかねない。キューバとしてはアルカージをさっさとロシアへ追い返したい、という雰囲気なのだ。
 周囲の悪意と圧力の中で孤立無援のまま捜査するのがアルカージの宿命らしい。

 水死体には顔も指紋も残っていない。身長、体重、臼歯の鉄の詰め物(ロシアの典型的な歯科治療)はプリブルーダの特徴と矛盾しないが、それだけでは「かもしれない」としか言えない。じじつ、レンコはそう答える。
 こうした細部へのこだわり、または論理の徹底がレンコを有能な捜査官としたが、同時に彼の存在を不都合とする者をも生じさせた。かつてはロシアン・マフィアがそれだったが、キューバにも類似のグループがいる。
 かくて、レンコによる孤独な捜査は、またしても社会主義社会の裏面を浮き彫りにするのだ。

 調べていくうちに、死体はどうやらプリブルーダ当人らしいことがわかってくるが、背後の事実を追求するうちに自らも死体となる危機に遭遇する。
 こうした努力をわかってくれる人はやはりいるのだ。出会った当初はレンコを毛嫌いしていたオフィーリア・オソーリョ刑事は、やがてレンコを母親と娘のいる自宅へ連れていく関係となる。娘の問いに、「いい人よ」などと答える。

 長く続くシリーズには、文章も独特の味わいがある。

   オフェーリアは勇気がよみがえるのを待った。すぐだろう。

 勇気が甦るまでの束の間の静寂な時間。
 警官も人間だ。勇気が萎える瞬間がある。
 しかし、萎縮してそのままの人もいるし、萎縮してのち、立ち直る人もいる。

   「冷たい気候には冷たい人びと、いえるのはそれだけだな」

 キューバではレンコを罠にかけたが、犯罪者とは別の立場で動いていた自動車整備工のエラスモ・アレマンが雪のモスクワでアルカージに再会し、別れしなに告げた言葉である。
 砂糖の契約の再交渉のため訪露したエラスモは、オフォーリアの消息を伝えるため、車椅子をこいでわざわざレンコの前に姿を見せたのだ。

□マーティン・クルーズ・スミス(北沢和彦訳)『ハバナ・ベイ』(講談社文庫、2002)
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書評:『ポーラー・スター』 ~続『ゴーリキー・パーク』~

2010年05月23日 | ミステリー・SF


 アルカージ・レンコ・シリーズ第2作。
 前作で正当防衛ながらも検事局長を殺害したレンコは、免職、党籍剥奪のうきめにあった。
 検事局長の有力な友人たちが執拗に彼を追求する。
 前作で友人となったプルブルーダ少佐(本書では大佐に進級している)は、精神病院における苛酷な尋問では生命すら危うくなったレンコを救いだし、2、3年シベリアでほとぼりを冷ませ、と忠告した。
 かくてシベリアの労働キャンプや北極海のトロール船を転々とし、今や「ポーラー・スター」号の加工場で2級船員として働いている。

 といった事情は全体の4分の1ほどページを繰ったあたりの回想でわかるのであって、本書の幕はトロール船の同僚ジーナ・パチアシュヴィーリの死で開く。
 レンコの前歴を知る船長は、彼に捜査を命じた。
 殺人事件ならば、船員たちの唯一の慰安、寄港地での上陸を許可できない。船長は、犯人発見もさりながら、船員の不満を爆発させたくはなかった。

 レンコは事情を聞いてまわるうちに、女性たちとの交情、上級船員の一部との共感が生じる。
 他方、政治士官や正体不明の敵の敵意が募っていき、再三生命を狙われる。
 調査するうちに、故人とその一味が従事していた副業、加工船「ポーラー・スター」号に課された別の使命がだんだんと炙りだされてくる。

 ロシア庶民の根っからのひとのよさ、官僚の詐術的冷酷さ、ソ連に(現ロシアではいっそう)はびこるブラック・マーケット、裏稼業に従事する者の冷血ぶり、当時の酷薄な諜報戦が重層的に描かれて厚みのある作品となっている。
 ペレストロイカの頃のソ連の雰囲気(「新思考」)、当時の米ソの関係(合弁事業)にも言及されている。ミステリーも時代の子なのだ。
 ちなみに原著は1989年に刊行された。

□マーティン・クルーズ・スミス(中野圭二訳)『ポーラー・スター』(新潮文庫、1992)
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書評:『ゴーリキー・パーク』

2010年05月22日 | ミステリー・SF
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書評:『殺人課刑事』

2010年05月16日 | ミステリー・SF
 タイトルから容易に察せられるように、ミステリーである。
 ヘイリー唯一のミステリーだ、と念を押そう。
 よって、アーサー・ヘイリーのファンもミステリー・ファンも見のがせない。

 ヘイリーはたっしゃなストーリー・テラーである。本書も山あり谷ありで、起伏に富む。
 ヘイリー作品の登場人物のおおくは、ことに主人公は組織の善良な一員であり、誠実に行動する。対立する者がいるけれど、立場の相違から意見をたがえるか、相手に思慮が足りない結果対立するにすぎない。組織全体としては、事はうまく運ぶ。つまるところヘイリー作品は、予定調和説の産物なのだ。

 本書には真の悪党が登場する。ヘイリーのこれまでの作品系列からはみだすが、ミステリーも予定調和説に立つのだ。たいがいのミステリーでは、最後には悪は滅び、善は栄えるのだから。よって、ヘイリーがミステリーをものしたのは、ちっとも不思議ではない。

 ミステリーである以上、本書には犯罪者が登場する。猟奇的な、残虐きわまる連続殺人を犯す。その犯人を主人公マルコム・エインズリー部長刑事が理解する。元カソリック神父という特異な経歴ゆえに、犯人が残した黙示録にちなむメッセージを正確に読み解くのだ。

 カソリック神父は、悪にも理解が深い。
 「あるものは同じものによって知られる」というアリストテレスの哲学が正しいとすれば、エインズリーも犯罪者の素質をそなえているのか。
 そうかもしれない、と思う。暴力団を取り締まる警官は、暴力団めいた行動をとるが、エインズリーも悪党的に考えることができるのだろう。
 ただ、暴力団めいた行動をとっても、警官は暴力団とは一線を画する。
 エインズリーも、犯罪には走らない。あくまで愛妻家であり、家庭を守るよき市民である。自分の中に悪の要素があるから犯罪者を理解するが、理解にとどまり、共感はしない。きわどい一歩のちがいかもしれないが、この一歩は大きい。
 エインズリーふうの理解は、彼が勤務するマイアミ警察殺人課の掲示板に張りだされた「エインズリー語録」に明らかだ。一例を引こう。

  もっとも巧みに嘘をつく者はときにしゃべりすぎることがある。

□アーサー・ヘイリー(永井淳訳)『殺人課刑事』(新潮社、1998、後に新潮文庫、2001)
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書評:『影の兄弟』

2010年05月16日 | ミステリー・SF
 スターリンは、晩年、ユダヤ人を弾圧した。1959年の反ファシズム作家委員会役員の逮捕に始まり、1953年の医師団事件に至る。そのADA医、暗殺があり拷問があり、1953年3月5日まで、つまりスターリンの死まで粛正が続いた。
 ノンフィクションをよくし、史実をたくみに取り入れた国際謀略小説に定評があるバー=ゾウハーは、如上の史実を背景にドラマを組み立てた。すなわち本書、詩人トーニャの二人の息子の数奇な運命である。

 KGBのボリス・モロゾフ大佐は、ユダヤ系の詩人トーニャを愛し、策謀をめぐらせてその夫ヴィクトルと離婚させた。夫のヴィクトルの助命と引き替えにKGB高官モロゾフの妻となったトーニャは、二子ジミトリを産む。しかし、スターリンのユダヤ人迫害の余波を受けてトーニャは処刑され、その1年後にボリス自身も銃殺された。ボリスは失脚の直前に、トーニャと先夫の間に生まれたアレクサンドルを米国在住のニーナ、すなわちトーニャの姉のもとへ送りとどけ、実子ジミトリーをモスクワの孤児院へ避難させた。

 アレクサンドルは長じてソ連通の学者となり、ジミトリーはKGBの有能な暗殺要員として順調に出世した。
 アレクサンドルは長らく弟の所在を求めていたが、フランスへ留学中に再会をはたした。兄弟が接触するなかだちになったのは、ロマノフ王家の血筋をひくタチアナだった。実はタチアナはジミトリーの手先であると同時に彼の愛人でもあり、兄弟再会は孤独なジミトリーが手配してアレクサンドルをパリに招いたからであった。肉親だけがもたらすやすらぎ。

 ところが、何ということか、事情を知らぬアレクサンドルはタチアナを愛してしまったのだ。
 タチアナも表裏のないアレクサンドルに惹きつけられる。
 だが、二人の関係はたちまちジミトリーの探知するところとなった。瞋恚の炎をもやすジミトリー。
 CIA工作員フランコ・グリマルディは、かつて自分が管理するスパイを抹殺したジミトリーを深く恨み、打倒の機会をねらっていた。好機到来とばかり、身を隠したタチアナの所在をジミトリーに密告した。
 タチアナは惨殺された。
 復讐心に燃えたアレクサンドルは、フランコのもくろみどおり復讐を誓ってCIAの局員となった。かくて、骨肉あい食む熾烈な闘いがはじまった。

 本書を流れる時間は1953年、スターリンが鬼籍に入る約2か月前から現代(原著は1993年刊)までの半世紀にわたり、舞台はソ仏米の3か国にまたがる。
 本書は単なるスパイの暗闘ではなくて、二人の成長史でもあり、兄弟とその両親の視点からする現代史の一側面でもある。
 兄弟が憎悪をぶつけあう後半がやや図式的だが、結末のどんでん返し、明らかにされる衝撃的な事実は、アイデンティティとは何か、民族とは何かという哲学的考察を誘い、奥ゆきの深いエンターテインメントとなっている。
 原題はそっけなく、ただの『兄弟』。訳題は裏社会の住民、スパイを暗示して、本書の内容をより正確に反映している、と思う。

□マイケル・バー=ゾウハー(広瀬順弘訳)『影の兄弟(上下)』(ハヤカワ文庫、1998)
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書評:『タイムライン』

2010年05月15日 | ミステリー・SF
 卓抜な歴史小説『大列車強盗』を書いた鬼才、マイクル・クライトンの一風かわった歴史小説である。

 クライトンは、一作ごとに新しい題材に挑戦した。本書で挑戦したのは、時間旅行である。
 いや、時間旅行ではない。作中の一登場人物はほぼ次のようにいう。「そもそも、時間旅行という概念自体、ナンセンスだ。時間は流れているわけじゃない。時間そのものは不変なのだよ。過去は現在から隔たっているわけじゃないから、そこへ移動することはできない」
 にもかかわらず、主人公たちは現代の合衆国から中世のフランスへ旅立つ。
 これがどうして可能なのか。解は「量子テクノロジー」と「多宇宙」の二語にある・・・・。

 マイクル・クライトンには科学啓蒙家としての稟質があるらしく、時間旅行学について前書きでも小説の中でも噛んで含めるがごとく解説しているのだが、申し訳ないことに、このあたりは駆け足で通りすぎてしまった。ゆえに、論理的帰結として、時間旅行の理屈は評者には依然としてナゾである。
 冒険小説の読者としては、現代人が中世を旅するという根拠がどこかで説明してあれば、それで十分なのだ。むろん、SFの読者は別の読み方をするにちがいない。

 冒険譚はイェール大学歴史学科教授の失踪に始まる。
 この報を受けた主人公、同学のアンドレ・マルク助教授ほか3名の大学院生は、ニューメキシコ州のITC社へ飛ぶ。ここで驚くべき企業秘密を明かされる。並行宇宙への一種の空間移動を実現する転送装置である。教授は1357年へ転送されたまま、帰還しなかった。そこで、この時代に詳しいマルクたちに救出の白羽が立ったのだ。

 一行は、ドルドーニュ川沿いのカステルガールに到着した。当時、残虐で知られるサー・オリバー・ド・ヴァンヌが支配していた地域である。対抗勢力アルノー・ド・セルヴォルの軍勢との間に、まさに戦端が開かれようとしていた。
 一行は両者の争いに巻き込まれ、息をつがせぬ展開となる。
 一方、ITC社でも問題が生じていた。装置に大幅な修理が必要になり、一定の時間は帰還できない状態になったのである。しかも、システム上、37時間を過ぎると現代に戻れなくなる。
 章ごとに残り時間が表示され、緊迫感を増す。
 時間切れ寸前に、マルクは誰も思いもよらぬ決断をする・・・・。

 クライトンは、娯楽小説のツボを心得た作家である。医学部出身で、人気TVドラマ「ER」の原案者であり、『大列車強盗』ほかの映画監督もつとめた。ゲームの会社も興している。こうした多芸多才ぶりが本書にも反映している。すなわち、映像になりやすい情景描写、波瀾万丈のストーリー、盛り沢山のアクション場面、である。
 脇役にもそれぞれ活躍の場が与えられ、これら小さな挿話が全体の厚みを増している。

 ところで、本書には歴史的なナゾが少なくともひとつある。中世の騎士が概して膂力にすぐれる、とされている点だ。スポーツマンで中世の武器の練習をおさおさ怠らなかったアンドレ・マルクさえ圧倒されるほどの怪力の持ち主が、わんさといたのだ。このアイデア、マイクル・クライトンはどこから得たのだろうか。マルクが意外に感じたところからして、中世史の常識ではないらしい。恐山の巫女の力をかりて泉下のクライトンを呼び出し、尋ねてみたい気がする。

□マイケル・クライトン(酒井昭伸訳)『タイムライン』(早川書房、2000)
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書評:『バースデイ・ブルー』

2010年05月05日 | ミステリー・SF


 詐欺、放火、金融犯罪を専門とする私立探偵V.I.ことヴィクトリア・ウォーショースキーのシリーズ第8作めである。
 事務所が停電する場面から物語ははじまる。低家賃の、ただし老朽化したプルトニー・ビルからなかなか移転できないのだ。稼ぎがわるいせいで。事件の発端となるメッセンジャー家のカクテル・パーティで、片隅の席を与えられてヴィクは自嘲する。「仕事の上で選択をするたびに、意識的に自分を富と権力から遠ざけてきたんだもの。富と権力を持つ階級からしめだされたことに憤慨するのはばかげている」

 亭主から虐待されて身を隠す妻と子どものために奔走しても、14歳の少女を性的虐待を加えた父親から守っても、銀行の口座は増えはしない。怪しい事業所へ夜明け前に侵入するのも、罠を承知で飛行場へ忍びこむのも、もとはといえばフェミニストの同志への無償の支援に発している。
 だが、ロー・スクールの恩師マンフレッド・ヨウはいう。「わが校の卒業生の多くが正義より依頼人への請求金額を重視していることを、恥ずかしく思っている」

 わが党の士は、ヨウ一人ではない。一作ごとにヒロインに年輪が加わるこのシリーズ、大団円では40歳の誕生日をむかえるのだが、亡父の僚友マロリー警部補夫妻をはじめとする数々の友人たちがヴィクをとりまいて、共に満月が沈むまでダンスに興じるのだ。

 本書にかぎらず、このシリーズの特徴だが、事件はヒロインの血縁や地縁、学校時代の仲間といった交友圏に惹起し、またその中へ収斂していく。反面、個人的な関わりのない抽象的な社会悪には関心が薄いし、何があろうとも最後まで依頼人につくすという非情なまでのペリー・メイスン的職業倫理、契約の観念はヴィクには絵空事にすぎない、という感じだ。ヴィクの世界は狭いが、現実的といえば現実的だ。これが女性の感性だ、というと言い過ぎだろうが、まんざら間違いではないような気がする。だとすると、逆にみれば、探偵することによって広がっていく女性の世界がヴィク・シリーズだ、ということになる。

 会話の前後に情念の揺れがくどいほど書きこまれている。これも女性の感性というものか。
 軽口と情感の波が全編を埋めるから、大部な本書だが、長く感じさせない。

□サラ・パレツキー(山本やよい訳)『バースデイ・ブルー』(ハヤカワ文庫、1999)
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書評:『サンディエゴの十二時間』

2010年05月03日 | ミステリー・SF


 ミステリーは、思考実験的ゲームである。プレイヤーの一方が探偵、他方が犯人、というのが対戦の古典的な構図だ。
 『サンディエゴの十二時間』は、ゲーム好きな探偵と、おなじくゲーム好きな犯人が登場するミステリーである。探偵は米国国務省の捜査官ジョン・グレーブス、犯人は政治的意見の相違から大統領の暗殺をはかる大富豪ジョン・ライト。掛け金は高い。大統領の命とサンディエゴの100万人の命である。

 孫子いわく、敵を知り己を知らば百戦危うからず。
 テロリストと化したライトは、金にあかせて張りめぐらした情報網を通じて、自分を追う捜査官の存在をはやくから察知し、敵の情報を収集していた。グレーブスの心理テストの結果を手に入れ、ライトはほくそ笑む。犯罪が成就するには、グレーブスがカギになる、と。

 グレーブスは、ライトがのこした謎の言葉を知る。
 自分のことは自分がよく知っている(つもりだ)が、他人が自分をどう見ているかはわからない。そこで、自分の心理テストの結果を入手した。
 いわく、頭脳明晰、想像力豊富、保守的道徳観、強い競争意欲をもち、賭博やポーカーにすぐれた腕前を発揮する。他方、衝動的、スピードへの欲求が逆に弱点にもなり得る、なぜなら課題が半分ないし3分の2しか片づいていないのに解決したと思いこむことがあるから・・・・。

 「なんだ、こりゃ」とグレーブスは独り言ちた。
 だが、たしかにライトは敵を知ったうえで罠を二重三重にかけたのだ。

 著者マイクル・クライトンは、恐竜もので例外をつくったが、一作ごとにちがう素材に挑戦する作家だった(過去形で語らねばならないのは淋しい)。本書でも、毒ガスにうんちくをかたむけ、心理テスト、すなわちロールシャッハ、TAT、略式WAIS知能検査、クロングバーグ性格診断アンケートをいかにもそれらしく克明に記述している。
 サスペンスを楽しみ、併せて深層心理学ないし性格心理学をすこしかじりたい欲ばり向けの本だ。

□マイクル・クライトン(浅倉久志訳)『サンディエゴの十二時間』(ハヤカワ文庫、1993)
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書評:『もうひとつの「カサブランカ」』

2010年05月01日 | ミステリー・SF
 映画『カサブランカ』はたくさんの謎をはらんでいる。たとえばイルザの夫ヴィクター・ラズロはリスボンからどこへ向かおうとしていたのか。あるいはリックはなぜ米国へ戻れないのか。
 こうした謎が残ったのは映画製作時の事情がからんでいる。

 本書は、作品としての『カサブランカ』、つまり観客が手にいれることができる唯一の情報に内在する謎にひとつづつ解を与える作業を通じて新たな物語を編みあげる。
 謎のひとつは、チェコの愛国者ラズロのその後だ。彼は、ロンドンで同志と落ち合い、英国諜報部の支援によってラインハルト・ハイドリッヒ暗殺作戦に取り組む。ハイドリッヒは、ヒトラーから自分の後継者と目された切れ者で、当時ナチス国家保安本部長官、ボヘミヤ・モラヴィア保護領総督だった。
 暗殺は史実で、映画『暁の7人』はそのいきさつを描く。
 リックもまたロンドンへ飛び、さらに、白系ロシア人に扮してハイドリッヒの司令部に入りこんだイルザを追って、ラズロとともにプラハへ潜入する。

 謎の別のひとつは、前日譚の形で明かされる。リックの生い立ちから米国脱出までが、後日譚が進行する間奏曲として適宜挿入されるのだ。この前日譚が詳しいから、本書は二つの物語が同時平行で読者の目にふれるしくみだ。

 登場人物はハンフリー・ボガードほか、俳優たちのイメージをそっくり借りている。やたらと煙草をふかす性癖や言いまわし、人間関係も映画の資産を最大限に活かしている。
 本歌取りの手法、伝説の再生である。ただし、断るまでもなく、本書は映画とは別個の作品である。
 冒険小説としては、リックたちのチェコ潜入後が荒削りで物足りなさが残るけれども、映画『カサブランカ』のファンには満足できる出来だと思う。

□マイクル・ウォルシュ(汀一弘訳)『もうひとつの「カサブランカ」』(扶桑社、2002)
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書評:『死体は訴える』

2010年04月24日 | ミステリー・SF
 著者は、カルフォニアにある二つの大学で文章創作を教えた。別の大学で、児童の発達、障害児教育を講じたこともある。本書は、1998年のマカヴィティ賞最優秀処女長編賞を受けた。

 女主人公コナー・ウェストル(37歳)は、ゴールドラッシュの時ににぎわった町、カルフォニアはフラット・スカンクにおける週間新聞発行者兼記者である。半年前まではサンフランシスコの新聞社のライター兼リポーターで、編集もこなした。
 ある日、富裕な未亡人のレイシー・ペンザンスから広告掲載の依頼が入った。幼い頃に養女にやられた妹の所在を知りたい、と言う。ところが、その日のうちにレイシーから電話が入った。取り乱した声で、「広告は取り消す」と。そして、夜、レイシーが殺害された。死体は奇妙なポーズをとっていた・・・・。

 この調査ウーマンのヒロインを先輩にあたるヴィク・ウォーショースキーと比較すると、足を使って事実を集め、真相に達する点で、ヴィクの血を受け継いでいる。だが、ハードボイルド風のヴィクに対して、こちらは幾分コミカルだ。コナーは、年齢のわりに軽い。軽いが、したたかな側面もあって、答えたくない質問は上手に逸らせたりする。
 コナーをとりまく人間関係は、ヴィクのそれよりも濃密である。これは、アメリカ有数の大都市シカゴと田舎町・・・・という舞台のちがいによるところが大きい。

 しかし、一番大きなちがいは、コナーは唇の動きから話を読みとる(読話)人である点だ。ほぼ完全な失聴者、という設定なのである。かの名探偵ドルリー・レーンと同じ立場なのだが、著者はエラリー・クイーンよりもこの方面の実際に詳しいから、細部にわたってリアリティがある。たとえば、唇の動きからはせいぜい3割から5割しか読みとれないからインタビューには録音が必要である(あとで通訳してもらう)とか。
 これで調査、対人サービスができるのか、と怪訝に思う読者がいるかもしれない。が、本書のヒロインは現にやってのけている。著者には実例の裏うちがあるのだろう。

 手話通訳者(もどき)がいる。テレビには字幕が付くし、テレタイプライター(文字電話)で交信もできる。聴者との相違は、若干の「不便」があるだけである。公民権運動の延長上に誕生した「障害のあるアメリカ人法」(ADA)の、機会均等化のポリシーが本書のいたるところに顔をだしている。

 本書は上質なミステリーだが、「ろう」者の世界に関心をもつ人にも興味深いだろう。米国ではシリーズ化され、いずれも「ろう」者の生活に関する洞察に満ちている、と好評を博しているそうな。

 翻訳上の小さな瑕疵をひとつ。
 わがヒロインは、言語をひとたび獲得した(おおむね3歳まで)後の4歳で、髄膜炎により失聴した、という設定である。しかも、音声で話しかけている。本書では終始「ろうあ」と訳されているが、「唖」のない「聾/ろう」または「中途失聴」が正確な訳語だ。

□ペニー・ワーナー(吉澤康子訳)『死体は訴える』(ハヤカワ文庫、1999)
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