<その幸【引用者注:日出男・同志社大学神学部講師(当時)】先生の授業で何を学んだかというと、戦時下における宗教者の抵抗の歴史です。先生はいろいろな宗派を取りあげられました。ひとのみち教団、いまのPL教団や、そこから分かれた倫理研究所に、天理本道(現・「ほんみち」)なども扱いました。しかし主として扱ったのは、大本(大本教)と創価教育学会(創価学会)です。
大本への弾圧は、凄まじいものでした。1921年と1935年の二度にわたり弾圧を受けていますが、二回目の弾圧は、(京都府綾部、同亀岡の)神殿をダイナマイトで全部爆破し、完全な更地にしたうえで、その費用をすべて大本側に補償させるというものでした。大本の信者たちは、共産党の人々以上の拷問を受けましたし、弾圧も受けているのです。
大本というのは、神道系といっても、根っこが伊勢信仰、アマテラス信仰ではありません。スサノオ・オオクニヌシ信仰です。スサノオやオオクニヌシは、おそらくはアマテラス信仰を信じる人々が日本列島に来る前に、人々が信じていた神々です。本来は戦争によって、どちらかの神々が戦いの末に勝ち負けをはっきりさせないといけないところですが、平和裏に権力を移譲してしまいました。それで光の世界をアマテラスが支配し、闇の世界と死者の世界はスサノオ、オオクニヌシが支配しているということになった。
神道の考え方では、日本全土は一応、アマテラスの統治下にあるわけですが、一ヵ所だけ、アマテラスの統治が及ばないところがあります。島根県です。島根県には出雲大社があって、あそこはオオクニヌシを祀(まつ)る。スサノオ・オオクニヌシ信仰の中心地です。東京であれば府中の大國魂(おおくにたま)神社です。
近現代の天皇について多くの著作を出している政治学者の原武史(はらたけし)さんに、『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)という作品があります。その後半では「埼玉の謎」を論じています。それは何か。埼玉県に境を接する東京都北部や、特に埼玉県を中心に、スサノオ・オオクニヌシ信仰の神社がたくさんあるというのです。例えば、武蔵国一宮の氷川(ひかわ)神社(さいたま市)は、スサノオ・オオクニヌシを祀る氷川(簸川)神社の総本社です。
ところが、明治天皇もすごく注意深く行幸しています。これは、不思議です。なぜなら、天皇の祖先に国譲りしたスサノオ系は、いわば負け組だからです。その負け組のほうが、なぜ武蔵一宮なのか? なぜ伊勢信仰の神社ではないのか? 日本の国の謎を解いていくとこのスサノオ・オオクニヌシ信仰が出てくるようです。だから、スサノオ・オオクニヌシ信仰を探っていくと、それはどこかで国家権力とぶつかる。
大本の創設者の一人、出口王仁三郎(でぐちわにさぶろう)の著述『霊界物語』は、壮大なスサノオ、オオクニヌシの世界のイメージの話です。これは、皇室の祖先であるアマテラスを奉じる伊勢神道とパラレルの世界観ということです。
ちなみに、森友学園問題を起こした籠池泰典(かごいけやすのり)理事長ですが、あの人の発想の何が最大の問題でしょうか。教育勅語を子どもに覚えさせるなどといったことよりも、大きな問題があります。彼は、神道の小学校をつくると言っていました。そして、「神道は宗教ではありません」と学校のHPで言い切っていました(現在はアクセス不能)。これが最大の問題です。
籠池さんの発想は、戦前の神道を国家宗教、国教とするというのと同じ論理です。戦前においては、国家神道は、神道という宗教ではありませんでした。出雲信仰の拠点ですから、出雲大社は神道です。大本も教派神道の一つという意味では神道です。黒住(くろずみ)教や金光(こんこう)教も、みんな教派神道という神道です。つまり、宗教です。ところが戦前の考え方では、国家神道は神道ではない。これは「宗教」ではなく、日本国の臣民の「慣習」だからです。慣習であるから、たとえどんな宗教を信じていても、神社にはいかないといけない。このような論理でした。>
□佐藤優『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』(KADOKAWA、2018)の「第二講 改革と革新の源流」の「スサノオ・オオクニヌシ信仰」を引用
【参考】
「【佐藤優】亡くなっても魂にも個性がある/ウアゲシヒテ「原歴史」 ~「日本」論(6)~」
「【佐藤優】葬式は宗教の強さに関係する ~「日本」論(5)~」
「【佐藤優】紅白歌合戦の持つ大きな意味 ~「日本」論(4)~」
「【佐藤優】歴史的時間の「カイロス」と「クロノス」 ~「日本」論(3)~」
「【佐藤優】点と線の意味づけによって複数の歴史が生じる ~「日本」論(2)~」
「【佐藤優】江戸時代の「鎖国」は反カトリシズムだった ~『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』~」
大本への弾圧は、凄まじいものでした。1921年と1935年の二度にわたり弾圧を受けていますが、二回目の弾圧は、(京都府綾部、同亀岡の)神殿をダイナマイトで全部爆破し、完全な更地にしたうえで、その費用をすべて大本側に補償させるというものでした。大本の信者たちは、共産党の人々以上の拷問を受けましたし、弾圧も受けているのです。
大本というのは、神道系といっても、根っこが伊勢信仰、アマテラス信仰ではありません。スサノオ・オオクニヌシ信仰です。スサノオやオオクニヌシは、おそらくはアマテラス信仰を信じる人々が日本列島に来る前に、人々が信じていた神々です。本来は戦争によって、どちらかの神々が戦いの末に勝ち負けをはっきりさせないといけないところですが、平和裏に権力を移譲してしまいました。それで光の世界をアマテラスが支配し、闇の世界と死者の世界はスサノオ、オオクニヌシが支配しているということになった。
神道の考え方では、日本全土は一応、アマテラスの統治下にあるわけですが、一ヵ所だけ、アマテラスの統治が及ばないところがあります。島根県です。島根県には出雲大社があって、あそこはオオクニヌシを祀(まつ)る。スサノオ・オオクニヌシ信仰の中心地です。東京であれば府中の大國魂(おおくにたま)神社です。
近現代の天皇について多くの著作を出している政治学者の原武史(はらたけし)さんに、『〈出雲〉という思想』(講談社学術文庫)という作品があります。その後半では「埼玉の謎」を論じています。それは何か。埼玉県に境を接する東京都北部や、特に埼玉県を中心に、スサノオ・オオクニヌシ信仰の神社がたくさんあるというのです。例えば、武蔵国一宮の氷川(ひかわ)神社(さいたま市)は、スサノオ・オオクニヌシを祀る氷川(簸川)神社の総本社です。
ところが、明治天皇もすごく注意深く行幸しています。これは、不思議です。なぜなら、天皇の祖先に国譲りしたスサノオ系は、いわば負け組だからです。その負け組のほうが、なぜ武蔵一宮なのか? なぜ伊勢信仰の神社ではないのか? 日本の国の謎を解いていくとこのスサノオ・オオクニヌシ信仰が出てくるようです。だから、スサノオ・オオクニヌシ信仰を探っていくと、それはどこかで国家権力とぶつかる。
大本の創設者の一人、出口王仁三郎(でぐちわにさぶろう)の著述『霊界物語』は、壮大なスサノオ、オオクニヌシの世界のイメージの話です。これは、皇室の祖先であるアマテラスを奉じる伊勢神道とパラレルの世界観ということです。
ちなみに、森友学園問題を起こした籠池泰典(かごいけやすのり)理事長ですが、あの人の発想の何が最大の問題でしょうか。教育勅語を子どもに覚えさせるなどといったことよりも、大きな問題があります。彼は、神道の小学校をつくると言っていました。そして、「神道は宗教ではありません」と学校のHPで言い切っていました(現在はアクセス不能)。これが最大の問題です。
籠池さんの発想は、戦前の神道を国家宗教、国教とするというのと同じ論理です。戦前においては、国家神道は、神道という宗教ではありませんでした。出雲信仰の拠点ですから、出雲大社は神道です。大本も教派神道の一つという意味では神道です。黒住(くろずみ)教や金光(こんこう)教も、みんな教派神道という神道です。つまり、宗教です。ところが戦前の考え方では、国家神道は神道ではない。これは「宗教」ではなく、日本国の臣民の「慣習」だからです。慣習であるから、たとえどんな宗教を信じていても、神社にはいかないといけない。このような論理でした。>
□佐藤優『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』(KADOKAWA、2018)の「第二講 改革と革新の源流」の「スサノオ・オオクニヌシ信仰」を引用
【参考】
「【佐藤優】亡くなっても魂にも個性がある/ウアゲシヒテ「原歴史」 ~「日本」論(6)~」
「【佐藤優】葬式は宗教の強さに関係する ~「日本」論(5)~」
「【佐藤優】紅白歌合戦の持つ大きな意味 ~「日本」論(4)~」
「【佐藤優】歴史的時間の「カイロス」と「クロノス」 ~「日本」論(3)~」
「【佐藤優】点と線の意味づけによって複数の歴史が生じる ~「日本」論(2)~」
「【佐藤優】江戸時代の「鎖国」は反カトリシズムだった ~『「日本」論 --東西の“革命児”から考える』~」