『ラフカディオ・ハーンの耳』は、比較文化学者によるハーン論集である。
『大黒舞』『ざわめく本妙寺』ほかの論文をおさめる。写真、図版を多数収録。
収録論文の一、『耳なし芳一考』は、ハーンの短編『耳なし芳一』を芳一、阿弥陀寺の住職、平家の亡霊の三角関係においてとらえる。
阿弥陀寺は平家の怨霊をなだめるために建立されたが、僧侶だけでは民衆を守りきれず、琵琶法師の手を借りなければならなかった。つまり、琵琶法師は楽師である前に民間祈祷師であり、地神の怒りを鎮める盲僧として共同体に属する存在だった。
しかるに、阿弥陀寺の風流を好む和尚は芸術上のパトロンとして芳一を独占してしまった。
芳一も経済的保障を優先して、無意識のうちに共同体を裏切ったのだ、うんぬん。
といった書き出しから、この物語における聴覚優位に着目し、原典の『臥遊奇談』に記される「耳きれ芳一」をハーンが「耳なしEarless芳一」へ変えた点を追求する。
併せて、聴覚から視覚へ転換する際の怪奇性(般若心経を全身に書かれたために亡霊は耳しか見えない、その耳をもぎとる場面)、琵琶法師たち漂泊の芸能民と寺院との癒着に係る歴史的考察、柳田国男に拠りつつ逃竄説話(魔性にとらわれた人間が身体の一部を譲りわたして帰る話、たとえばこぶとり爺さん)への位置づけ・・・・といった多様な観点からも論じる。
民俗学や歴史学を援用しながら作品を透視する作業の延長に、ハーンの姿が炙りだされてくる。
それは語る女に執着するハーンである。
妻セツをはじめ、横浜のマッサージ師といい、松江の大黒舞の一座といい、神戸の門づけといい、ハーンが日本紀行の中でとりあげた街頭芸能者は女性に偏っていた、と著者は指摘する。
彼女たちを通じて日本文化の暗部に踏み込んでいった、と。
教壇の上からもっぱら男子学生に対して、ハメルーンの笛吹き男のように「奇妙な笛を吹きならす笛吹きである自分にも耐えなければならなかった」ハーンにとっては、耳なし芳一は「日本に来てはじめてみずからを投影できた芸能者であっただけではなく、ハーンが求めても求められなかった悦びに浴しえた、羨むべき芸人でもあったのである」
さらに、著者は、ハーン作品のうち少なからぬ数が「おしどり」や「雪おんな」などの「魔性の女」、あるいは「宿命的な女性」に捧げられていると指摘し、『耳なし芳一』もこの系譜に属するという。
だとすると、著者が推定するように、ハーンの心は阿弥陀寺の和尚よりも「老女」や泣きわめく女官の側に置かれていたことになり、この短編は悠々自適するディレッタントである和尚の勝利と見るわけにはいかない。
『耳なし芳一考』の末尾は、カフカの寓話『セーレーンの沈黙』と比較し、周囲に「心地よい雑音」があふれかえっていたハーンの幸福を説く。しかし、やや唐突な印象をまぬがれない。
とまれ、一短編を素材に日本の伝統的文化の一端から一文学者の個性まで滔々と論じて、じつに刺激的で面白い。
□西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波同時代ライブラリー、1998)
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『大黒舞』『ざわめく本妙寺』ほかの論文をおさめる。写真、図版を多数収録。
収録論文の一、『耳なし芳一考』は、ハーンの短編『耳なし芳一』を芳一、阿弥陀寺の住職、平家の亡霊の三角関係においてとらえる。
阿弥陀寺は平家の怨霊をなだめるために建立されたが、僧侶だけでは民衆を守りきれず、琵琶法師の手を借りなければならなかった。つまり、琵琶法師は楽師である前に民間祈祷師であり、地神の怒りを鎮める盲僧として共同体に属する存在だった。
しかるに、阿弥陀寺の風流を好む和尚は芸術上のパトロンとして芳一を独占してしまった。
芳一も経済的保障を優先して、無意識のうちに共同体を裏切ったのだ、うんぬん。
といった書き出しから、この物語における聴覚優位に着目し、原典の『臥遊奇談』に記される「耳きれ芳一」をハーンが「耳なしEarless芳一」へ変えた点を追求する。
併せて、聴覚から視覚へ転換する際の怪奇性(般若心経を全身に書かれたために亡霊は耳しか見えない、その耳をもぎとる場面)、琵琶法師たち漂泊の芸能民と寺院との癒着に係る歴史的考察、柳田国男に拠りつつ逃竄説話(魔性にとらわれた人間が身体の一部を譲りわたして帰る話、たとえばこぶとり爺さん)への位置づけ・・・・といった多様な観点からも論じる。
民俗学や歴史学を援用しながら作品を透視する作業の延長に、ハーンの姿が炙りだされてくる。
それは語る女に執着するハーンである。
妻セツをはじめ、横浜のマッサージ師といい、松江の大黒舞の一座といい、神戸の門づけといい、ハーンが日本紀行の中でとりあげた街頭芸能者は女性に偏っていた、と著者は指摘する。
彼女たちを通じて日本文化の暗部に踏み込んでいった、と。
教壇の上からもっぱら男子学生に対して、ハメルーンの笛吹き男のように「奇妙な笛を吹きならす笛吹きである自分にも耐えなければならなかった」ハーンにとっては、耳なし芳一は「日本に来てはじめてみずからを投影できた芸能者であっただけではなく、ハーンが求めても求められなかった悦びに浴しえた、羨むべき芸人でもあったのである」
さらに、著者は、ハーン作品のうち少なからぬ数が「おしどり」や「雪おんな」などの「魔性の女」、あるいは「宿命的な女性」に捧げられていると指摘し、『耳なし芳一』もこの系譜に属するという。
だとすると、著者が推定するように、ハーンの心は阿弥陀寺の和尚よりも「老女」や泣きわめく女官の側に置かれていたことになり、この短編は悠々自適するディレッタントである和尚の勝利と見るわけにはいかない。
『耳なし芳一考』の末尾は、カフカの寓話『セーレーンの沈黙』と比較し、周囲に「心地よい雑音」があふれかえっていたハーンの幸福を説く。しかし、やや唐突な印象をまぬがれない。
とまれ、一短編を素材に日本の伝統的文化の一端から一文学者の個性まで滔々と論じて、じつに刺激的で面白い。
□西成彦『ラフカディオ・ハーンの耳』(岩波同時代ライブラリー、1998)
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