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1975年、佐藤優は高校1年生の夏休みにただ一人で、東欧とソ連を旅した。エジプトのカイロ空港経由でスイスのチューリヒ空港に降り立ち、そこからチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアをへてソ連に入り、中央アジアを横断してナホトカからバイカル号で帰国した。
スイスでは2泊(チューリヒおよびシャフハウゼン)した後、西ドイツを経てチェコスロバキアに入った。ミュンヘンでプラハ行きの切符を買った。十数両連結されている中の真ん中あたりにプラハ行きの車両が2両あった。
<チェコスロバキアに行くのはどうもこの2両だけのようだ。指定された車両に入った。コンパートメントは8人掛けの椅子になっていた。
コンパートメントでは2人の女性と乗り合わせた。姉妹だという。姉は30歳前後で、夫がチェコ人だという。夫はビルゼンに住んでいるが、チェコスロバキアから出国できないので、2~3か月に1回、こうしてドイツからビルゼンを訪ねているという。妹はギムナジウムに通っているが、今は夏休みなので、こうして同行させることにしたということだ。妹は僕よりも2つ年上の17歳だった。
姉は、「結婚して10年ちかくなるけれど、もうこういう状態が7年も続いている。ビザが出ないこともあるので困る」と言っていた。
その時は気付かなかったが、後で考えてみると7年前というと1968年だ。この年の8月20日未明、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構5ヵ国(ソ連、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア。ルーマニアはワルシャワ条約機構に加盟しているが出兵を拒否)の軍隊がチェコスロバキアに侵攻した。そして、当時、チェコスロバキア共産党指導部が進めていた「プラハの春」と呼ばれる民主化運動を叩き潰した。その後、この運動に参加して、転向しないチェコ人、スロバキア人はパスポートを取り上げられ、出国ができなくなった。このドイツ人女性の夫もそのような一人なのであろう。ただし、列車の中で話しているときには、僕はそのことに気付かなかった。
列車がチェコスロバキアの国境に近づくにつれて、次々と車両が切り離されていく。最後にドイツの入国管理官の制服を着た男がやってきて、パスポートを見て、西ドイツの出国印を押した。それから、西ドイツの税関職員がやってきて、「申告を必要とする物を持っていたら伝えてください」と言った。僕もドイツ人姉妹も「特に申告する物はありません」と答えた。
国境の手前で、ドイツ側の入国管理官、税関職員が列車から降りた。外を見るとあちこちに柵があり、有刺鉄線が張られている。国境から列車がチェコスロバキア側に入った途端に全員が車両から降ろされた。そして、小さな駅舎に連れていかれた。制服を着た入国管理官が出てきて、パスポートを取り上げた。そして、資本主義国と社会主義国の人間が分けられた。
資本主義国の人間は、僕とドイツ人姉妹を含め十数人しかいなかった。僕はこのドイツ人姉妹の後ろについて、入国審査の列に立った。入国審査では、ビザの紙が1枚切り取られた。それから、パスポートと書類に入国審査官が四角いスタンプを押した。ガイドブックには、国境で滞在予定日数分の強制両替があると書かれていたが、税関審査だけで、両替はなかった。現地通貨がないとプラハに着いてから困る。恐らく駅に銀行か両替所があるので、そこに行けば何とかなると思った。
その後、僕たちはバスに乗せられた。ドイツ人の姉が僕に耳打ちした。
「この付近には軍事基地があるの。だから、西側の人間はバスで移動させられることになるの」
「プラハまでバスで行くことになるの」
「そうじゃない。2時間もしたところで、もう一度列車に乗せられるわ」
軍事基地という言葉を聞いて、僕は緊張した。
バスは20年くらい使っているような旧式だった。椅子のクッションがよくない。ひどく揺れる。バスに乗っているうちに、外の景気が白んできた。バスに2時間近く揺られた後、列車の駅に着いた。そこで列車に乗ったが、ミュンヘンから乗ったのとは別の車両だった。車両の色は深緑色だが、ドイツの車両と比べてくすんだ色をしていた。車両の真ん中に*SD(チェコスロバキア国鉄)のロゴがついている【注】。ドイツからチェコスロバキアに入った車両は2両編成だったが、この列車は十数両編成だ。ドイツ人姉妹の後について指定された車両に入った。コンパートメントは8人掛けの椅子になっていたが、入口の扉が木だ。ドイツ鉄道、スイス鉄道では、ジェラルミンだった。車内の表示が、チェコ語、ドイツ語とロシア語で書かれている。キリル文字とともにラテン文字のアルファベットの上に小さな*(ハーチェク)がつくチェコ語を見て、佐藤は「違う世界に来た」と実感した【注】。
コンパートメントにはすでに5人乗っていたので、僕とドイツ人姉妹の3人が加わったことで満席になった。誰も何も話さない。スイスやドイツでは、コンパートメントでいっしょになった人たちは世間話をしたのに、チェコスロバキアでは違うようだ。共産圏の人々は、みんなこのように無口なのだろうか? しばらくすると銀行職員が乗り込んできた。僕はチェコスロバキアに3日間滞在する予定なので、45ドルを強制両替させられた。銀行職員は、パスポートにホチキスで留められたビザの書類に強制両替額を書き込んで、スタンプを押した。
列車に乗ってからしばらくすると、ドイツ人姉妹は「ビルゼン行きに乗り換える」と言ってコンパートメントから去っていった。
それから3~4時間して、列車はプラハの中央駅に着いた。>
【注】ハーチェクは末尾の画像を参照。文中の「*SD」はCの頭にハーチェクの付いたもの+SD(čSD)。
□佐藤優『十五の夏(上下)』(幻冬舎、2018)の「第二章 社会主義国」の「4」から引用
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