<昭和33年1月20日、遺骨収集船「銀河丸」が芝浦桟橋を出た。(中略)戦後、厚生省引揚援護局がはじめて出す船だった。一ヵ月ばかり前に発表された予定地にミンドロ島は入っていなかった。ところが一週間前の新聞に不意にその名が出た。私は衝撃を受け、いまから申込んで便乗出来ないか、どこかの新聞社に頼んで特派員の列に加えて貰えないものか、なんとか打つ手はないか、と考えた。
ミンドロ島サンホセは、私が昭和19年8月から12月まで駐屯した町である。(中略)
ミンドロ島の名が出たのは夕刊で、私は食事をはじめていた。二本のビールに酔った頭で、翌日方々へ電話をかけて、なんとか段取りをつけることを空想した。しかし興奮が鎮まってみると、結局仕事のやりくりもつきそうもないし、一週間では出国手続が間に合わないことは、あまりにも明らかであった。
20日夜、銀河丸出帆の光景がテレビのニュースに出た。埠頭で遺族が泣いていた。
私も涙を流し、部屋に帰って、詩のようなものを書きつけた。
おーい、みんな、
伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤、
そのほか名前を忘れてしまったが、サンホセで死んだ仲間達、
西矢中隊長殿、井上小隊長殿、小笠原軍曹殿、野辺軍曹殿、
練習船「銀河丸」が、みんなの骨を集めに、今日東京を出たことを報告します。
あれから13年経った今日でも、桟橋で泣いていた女達がいたことを報告します。
とっくの昔に骨になってしまったみんなのことを、まだ思っている人間がいるんだぞ。
あの山の中、土の下、薮の中の、みんなの骨まで、行くことは出来そうもないが、
とにかくサンホセではお祭りが行われる。
坊さんがお経を読み、サンホセの石を拾って帰って、
みんなのお父さんやお母さん、兄さんや妹さん、子供に渡すということだ。
坊さんのお経の長いことを祈り、
石が員数でないことを祈る。
僕も自分で行きたかったんだが、
誰も誘ってくれる人はなく、
なまじ生きて帰ったばっかりに仕事があり、
仕事のせいで行けないんだ。
ここでこうやって言葉を綴り、うさ晴らしするだけとは情けないが、
なさけないことは、ほかにもたくさんあるんです。
誰も僕の気持ちを察してくれない。
なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。
わかって貰えるのは、みんなだけなんだと、こん日この時わかったんだ。
しかしみんなは今は土の中、薮の中で、バラバラの、
骨にすぎない。骨に耳はないから
聞こえはしないし、よし聞こえたって、
口がないから、「わかったよ」と
いってもらうわけにも行かない。
しかしとにかく今夜この場で、机の前に坐り、
大粒の涙をぽたぽたこぼし、
みんなに聞いてもらいたい、
・・・・・・・・
以下、103行、私としても生まれて初めて書く詩みたいなものだった。
その頃私は一応自分の戦争経験を書き終わり、一週間に三度ゴルフをやったり酒を飲んだり、昭和30年代の大衆社会状況に絶望しながら、結構呑気な生活を送っていたのだが、一つのテレビ放送によって、痙攣的な反応が起きたのは、自分でも意外だった。
また10年経った。昭和42年から私は「中央公論」に『レイテ戦記』を書きはじめた。レイテ島は同じフィリピンでもミンドロ島のような呑気な戦場ではなく、昭和19年10月以来、太平洋戦争で最も大規模な、空陸海の決戦が行われたところである。
私は(中略)そこ【引用者注:タクロバンの俘虜収容所】で陸海軍の俘虜に会い(それは主にスリガオ海峡から突入した西村艦隊と、東海岸の水際で戦った第16師団の兵士だった)、レイテ島の戦闘の話を聞き、感銘を受けた。
それをもとにして小説を書いたこともあるが、最近漸く各種資料が出版され、レイテ島の戦闘の全貌がわかって来たのである。同時に、私は自分の戦ったミンドロ島の戦闘についても、一兵士にはわからなかったこと、帰国してから回想を書いた時にも、知ることが出来なかった多くのことを知った>
□大岡昇平「ミンドロ島ふたたび」(『ミンドロ島ふたたび』、中央公論社、1969)から引用
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ミンドロ島サンホセは、私が昭和19年8月から12月まで駐屯した町である。(中略)
ミンドロ島の名が出たのは夕刊で、私は食事をはじめていた。二本のビールに酔った頭で、翌日方々へ電話をかけて、なんとか段取りをつけることを空想した。しかし興奮が鎮まってみると、結局仕事のやりくりもつきそうもないし、一週間では出国手続が間に合わないことは、あまりにも明らかであった。
20日夜、銀河丸出帆の光景がテレビのニュースに出た。埠頭で遺族が泣いていた。
私も涙を流し、部屋に帰って、詩のようなものを書きつけた。
おーい、みんな、
伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤、
そのほか名前を忘れてしまったが、サンホセで死んだ仲間達、
西矢中隊長殿、井上小隊長殿、小笠原軍曹殿、野辺軍曹殿、
練習船「銀河丸」が、みんなの骨を集めに、今日東京を出たことを報告します。
あれから13年経った今日でも、桟橋で泣いていた女達がいたことを報告します。
とっくの昔に骨になってしまったみんなのことを、まだ思っている人間がいるんだぞ。
あの山の中、土の下、薮の中の、みんなの骨まで、行くことは出来そうもないが、
とにかくサンホセではお祭りが行われる。
坊さんがお経を読み、サンホセの石を拾って帰って、
みんなのお父さんやお母さん、兄さんや妹さん、子供に渡すということだ。
坊さんのお経の長いことを祈り、
石が員数でないことを祈る。
僕も自分で行きたかったんだが、
誰も誘ってくれる人はなく、
なまじ生きて帰ったばっかりに仕事があり、
仕事のせいで行けないんだ。
ここでこうやって言葉を綴り、うさ晴らしするだけとは情けないが、
なさけないことは、ほかにもたくさんあるんです。
誰も僕の気持ちを察してくれない。
なさけない気持で、僕はやっぱり生きている。
わかって貰えるのは、みんなだけなんだと、こん日この時わかったんだ。
しかしみんなは今は土の中、薮の中で、バラバラの、
骨にすぎない。骨に耳はないから
聞こえはしないし、よし聞こえたって、
口がないから、「わかったよ」と
いってもらうわけにも行かない。
しかしとにかく今夜この場で、机の前に坐り、
大粒の涙をぽたぽたこぼし、
みんなに聞いてもらいたい、
・・・・・・・・
以下、103行、私としても生まれて初めて書く詩みたいなものだった。
その頃私は一応自分の戦争経験を書き終わり、一週間に三度ゴルフをやったり酒を飲んだり、昭和30年代の大衆社会状況に絶望しながら、結構呑気な生活を送っていたのだが、一つのテレビ放送によって、痙攣的な反応が起きたのは、自分でも意外だった。
また10年経った。昭和42年から私は「中央公論」に『レイテ戦記』を書きはじめた。レイテ島は同じフィリピンでもミンドロ島のような呑気な戦場ではなく、昭和19年10月以来、太平洋戦争で最も大規模な、空陸海の決戦が行われたところである。
私は(中略)そこ【引用者注:タクロバンの俘虜収容所】で陸海軍の俘虜に会い(それは主にスリガオ海峡から突入した西村艦隊と、東海岸の水際で戦った第16師団の兵士だった)、レイテ島の戦闘の話を聞き、感銘を受けた。
それをもとにして小説を書いたこともあるが、最近漸く各種資料が出版され、レイテ島の戦闘の全貌がわかって来たのである。同時に、私は自分の戦ったミンドロ島の戦闘についても、一兵士にはわからなかったこと、帰国してから回想を書いた時にも、知ることが出来なかった多くのことを知った>
□大岡昇平「ミンドロ島ふたたび」(『ミンドロ島ふたたび』、中央公論社、1969)から引用
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