語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『言葉と人間』

2013年06月05日 | ●加藤周一
 東西の本をかわるがわる約80編とりあげ、その思想をもって(コラム発表当時の)今日的問題の要点を明らかにする。

 その特徴の第一は、自在な文体である。ときには文体模写をもって、その文体の持ち主の思想を加藤が(したがって私たちが)直面する現実へ適用してみせる。
 たとえば、『三酔人経綸問答』をとりあげ、鼎談する各人の論法を換骨奪胎して、原水爆反対運動の分裂を批評する。
 すなわち、「いかなる国の核実験にも反対する」悲願君、「核実験も状況次第で一律には扱えない」とする政策君、その両者に部分的には理解を寄せつつもいずれにも与しない南海先生、という三者三様の思想または態度の構図である。
 あるいは、『論理哲学論考』の特異な文体を借りて、『仮名手本忠臣蔵』の小社会学を論じる。

 特徴の第二は、とりあげる話題の幅の広さである。芸術は美術から能まで、文学は古今東西いたらざるはなく、かたや哲学、かたや政治に及ぶ。
 たとえば、「世論操作あるいは『乃木希典日記』の事」。
 戦さの時代には戦さに明け暮れた武士も、戦さのない時代には別の生き方をした。徳川時代の武士は、支配層として行政に従事した。武士道は行政マンの心構えであり、儀礼と精神主義がその内容である。乃木将軍は武士道の権化であった。それにも拘わらず、ではなくて、それゆえに戦場の指揮官としては常に失敗せざるをえなかった。
 旅順は、乃木将軍が指揮する間はいつまでたっても落ちなかった。犠牲があまりに大きかったから、乃木は更迭されて児玉源太郎が代わった。要塞が落ちたのはそれからだ。陸軍はしかし、その事実を隠して乃木を表にたてて開城の儀式を行い、御用歌人佐々木信綱をして「水師営の会見」の唱歌をつくらせ、国定教科書に載せる、と操作を行った。
 乃木夫妻が殉死したとき、現場には10か条からなる遺書があり、その中には伯爵乃木家の廃絶と邸宅の東京市への寄付の2項目も記されていた。政府は、この2項目を削って公表した。遺書の内容を知った新聞は事実を発表したが、政府は責任をとるどころか、3年後に乃木の旧藩主の弟を据えて伯爵家を再興した。「権力による世論操作のこれほど見事な例は少ない」
 軍人として無能だった「乃木を、権力はその中心から遠ざけると同時に、陸軍の象徴としてカミにすることに成功した(軍神乃木)。カミの個人としての意思は無視される。たとえ生涯に一度、遺書に述べた意思でさえも。なぜならば、フォイエルバッハもいったように、カミが人を作ったのではなく、人がカミを--いや、もっと正確にいえば、日本帝国の権力機構がカミを作ったのだ」
 権力による世論操作の薄汚さを簡潔に整理して、痛烈きわまりない。

 特徴の第三は、人生の多様な楽しみ方である。「二流詩人または『南海詩集』の事」は、タイトルだけで推察がつきそうだが、ここでは「その日暮しまたは『ある日の言葉』の事」を挙げる。
 加藤一流のやや諧謔に満ちた紹介によれば、ポール・レオトーは出版社に勤めて生計をたて、雑誌に好きな文章を書き、売れない本を出版して世間の注目を集めることがなかった。評価されるようになってから、彼の警句を集めた本が出版された。すなわち『ある日の言葉』("Propos d'un jours")である。
 「私は来るべきもの、または可能性をあてにしたことがない。常に現在の、実際の、確かなものだけを信用した」
 「作家としての私は想出を書くことが多かったが、過去に係ること私よりも少ない男はないだろう。後をふり返らず、前を見つめず、私はいつもその日暮しをつづけてきたし、今なおつづけている。その日暮し、とさえいえるかもしれない。この時間を愉しもう・・・・」
 現在至上主義は、古来、日本の土着的世界観の根元にあった、と加藤はいう。ただし、レオトーのように自覚的に「その日暮し」に徹底し、生活を愉しむことを生活の原理にした者はきわめて稀れであると。
 この原理を実践すれば、名声、金、権力など他の多くを犠牲にしなくてはならない。
 「私はあまりにも静かさを愛する」
 「私はあまりにも余暇を愛する」
 現在の愉しみ方は人によって異なる。レオトーにとっては愛すること(少数の女友だち)と、書くこと(または読むこと)であった。「私の書いたものが愛を傷つけたことも少なくなかった・・・・しかし何よりも書くこと。私はそのためには世界をも犠牲にするだろう」
 こう引用しつつ、平安仏とロマネスク彫刻を愉しむ友人の例を引いて加藤はいう。
 「私自身は、私の友人のようにも、またレオトーのようにも、それを徹底したことがない」

□加藤周一『言葉と人間』(朝日新聞社、1977、後に朝日選書、1980)
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