ちょっと前にG型大学、グローバル人材育成の大学と、L型つまりローカル(この時点でドメスティックと言わないのが良くわからんが)大学があり、L型は実践教育をしろと言う物があった。
株式会社 経営共創基盤 代表取締役CEO 冨山和彦氏が「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」で提出した文章から始まったものだ。
これはもう悪評フンプンだったので、もういう事は無いが国立大学改革プランって多分この人が作ったんだろうと言う内容だった。イヤ、教育でPDCAサイクルを回す困難を考えたら、この改革プランは存在しない。それでも回そうとしたら1年1クールでしかまわせない。そして4年続けてようやくチェックを入れられるのだ。それはPDCAサイクルとは言わないだろう。
とはいえ改めて見たら修正している気がするのは私だけだろうか。当初よりは穏やかに見えるのは、多分この書類のせいだろう。
大学に入った時の教育方針と授業計画は契約である。だから同じ年に入った子達にイミ無かったと言って全面変更は出来ない。部分修正しか出来ないのだ。この時点でPDCAサイクルは動かなくなる。せめて先生個人の努力になってしまう訳だ。それは組織としてPDCAサイクルで解析出来ない物だ。だから次年度に改革は持ち越されるのだが、それでは前の年度に入学した学生はどう思うかと言えば当然不満が出てくる。なので全面的な改革が必要になる。トカゲのシッポきりなのだが、結論から言おう。初年度はうまく行く。理由は解らないが、手探り状態の教育の方がなぜか優秀な子が育つ。
そもそも学科再編された初年度に大学に入ってくる子は、指標も無い所からはいってくるアドベンチャーだからだ、というのが自説だが、安定してくるとどうも優秀な子がはいってこなくなるように思える。教育産業と言うのはそう言った物なのだ。
そう言った要因があって、初年度はイケる。しかししばらくするとどうもうまくなくなる。そう言った流れを地方国立大学は続けている。
イヤ帝大系だって、大なり小なりそうなのだ。学部再編は帝大だって行われて来た。しかしその度に衰弱して来ているように思える。それは目に見えた成果をすぐに出さないといけなくなっているからだ。結果基礎研究がどの程度の厚みを作って来ているのか、今までのようになっているのかは、怪しいように思える。
さてこのGL線なのだが、困った事に大学のみでいっている。多分それで問題が起きている。あの、「法学部は道路通法、大型第二種免許・大型特殊第二種免許の取得」これはさすがに無いだろう。
「筆者が卒業したスタンフォードビジネススクールのMBAプログラムでさえ、その本質は高級職業訓練校(言わば高級簿記学校)に過ぎない!」
極論だと思う。MBAには基本的にシェークスピアの学者ではなくとも、シェークスピアを引用出来るような教養は必要だ。ある一面をはぎ取っただけの極論にしか思えない。一体彼の人生は何だったんだろうかと思う。
問題なのは、大学にG・Lのランキングをしている事なのだが、高卒と中卒を忘れてはいないか?ヤンキー経済と言う言葉があったが、そのランクだ。そして働きたくとも体がどうしようもない人たちもいる。心を壊してしまった人もいる。
大学改革だから、大学の事を語ればいいのだが、明らかにヤンキー層を刺激する言葉だった。地方の私学高校では、ハッキリと重機免許をとるとかフォークリフトの免許を取らせるとか、そう言った免許系は多い。そして専門学校もある。
これらは大学と言うエリート?たちの仕事ではなかった。そこをいきなりいってしまう所がアンポンタンだと。
そしてここに断層があるのだ。もちろん高卒だろうが中卒だろうが優秀な人はいっぱいいる。土建業で必要な免許を全部持っていると言えば、トンネル職人だ。月収100万だ。
だが同じくらい免許を持っていても、地元から離れられない人もいる。トンネルのように地方を点々とする事が出来ない人の方が多い。
免許を活かす事も無い。そういった向上心があるにもかかわらずくすぶる人もいる。出て行かないからそうなるのだと非難する事は簡単だ。でも出来ない事は出来ない。
その現実を解っていない、単純分析しか出来ないコンサルなのだろう。もちろん一点突破しか方法が無いというならそうなのかもしれないが、複雑な物には応用しにくいPDCAサイクルを言う当たりはとてもよろしくない。
本質的には中卒であろうが大卒であろうが、世界に打って出る人材を見つけて育成するのが正しい。だがそう言ったシステムは今の日本ではかなり限られている。すべてが貧しかった戦前の話だ。人柄や経歴、そして仕事まで見極めて人を引っ張り上げるシステムが今は虚弱になっている。大企業はまだその余力があるが、地方ではその余力はない。
さて今のままでは、冨山和彦氏は簑田胸喜と変わらない結果になると思っている。というのはいっている内容がおなじだからだ。なにを彼にして駆り立てているのかは解らないが、日本を変えようとする時に権力者に頼ったというところが、同じだと思う。
大学いらない論はいっぱいある。ただその根底を考えれば、ドメスティックな世界があって、大学卒もその世界に入り込まないといけない状況がある。それでいてドメスティックな地域社会を支えている人たちからはよそ者と言われている。なぜそうなるのかと言えば、あうんの呼吸が出来なくなるからだ。
どうしても大学卒は原理的に物を考えがちだ。これは大学と言うのが多様性に満ちあふれているからだ。地方から来る人も入れば地元もいる。価値観が多様な中では基本原則をどう掴むかが大切になる。それでも問題があるのだが、その中での多様性を学ばざるを得ないのが大学だ。外国人だけではない、日本にはもの凄い多様性がありそれを目の当たりにするのが、実は大学だったりする。
だが地元でがんばっている人たちは、原則的に物を考える。地縁や血縁まで含めて人とのつながりをどうするのかを考える。その複雑さが生産性を悪くしている。というのは誰もが知っている。そしてそれがサラリーマン社会にも繋がっている。
農奴社会か?
話は飛んだが、基本的に大卒が望む多様性の社会と、高卒以下の求める地域の安定とはかなり食い違っている。そして大卒が増える事で高卒の人の仕事を奪っている。もちろんこれは意図して書いている。大卒が増えて仕事にあぶれたからというのが一番の理由だが、高卒のレベルが下がったと言うのが大きい。
もちろん優秀な人はいっぱいいる。しかし自分の能力を限定する人が目立って来ている。上を目指さないのを前提とした生き方だ。それはそれで今までいくらでもいた生き方なのだが、選択してそう言った生き方をしているのではなくて、消去法でそう言った生き方になってしまっている人が目立つ。
もちろん、私もそう言った生き方をしている。だからこそ解る事がある。
簑田胸喜は戦う相手と手段を間違った。そして今回は、簑田胸喜にすらあった社会主義的、そして国富が考えられない。
日本の重層性を無視した、単純すぎる議論だと思う。
ちなみにその重層性の矛盾最たる団塊の世代が引退しつつある。だから若い子には、ヤッチャえと平気で言う私がいる。実は今の時代はかなり若い子が何かしようとした時にはラクな時代でもある。それをよく知らない若い子が多いのが実は問題だ。