今日は泳ぐ予定だった。午前中まではそうだった。だが昼過ぎから全てのデーターが、2時過ぎあたりから天気が崩れると出ていた。まあそれでは外に出ることもない。かといってどうも人に会わないのもどうなのかと思う。喫茶渡辺にいただけで、買い物をして帰った。
渡辺に行ったのは、からかいにゆくためだった。てくりのイベントで、東京の南青山にあった大坊珈琲店の大坊氏と盛岡の自家焙煎コーヒ店の機屋の関氏のコーヒー飲み比べと対談がある予定だ。てくりに出てきた喫茶店の若手の自家焙煎のコーヒ屋のシンポジウム?とかも予定されていたという。
喫茶渡辺は出場を辞退した。おかげでからかうことができなくなってしまった。
ただこれは正しい。自分のところの味とかのコンセプトをどんなに自慢したとしても、コーヒーは農産物でありものすごく難しい。それを単純な言葉で語るのは、誤解を招く可能性がある。下手な場所に出て語るのは、とてもいいことではない。
その意味では国連総会でのトランプさんの演説は、確かにアメリカ人に向けたものだというのはよくわかるが、国際的に見ればヘイトスピーチになるのだろう。直接的な発言は避けるべきな場で、北朝鮮をロケットマンと言ったのは間違いだろう。
国連は複雑な組織だ。その中で一貫しているのは協調だ。そのためには共感を得るための演説が欠かせない。利害が対立する中では特に、説得ではない、共感を呼び覚まさなければいけないのだ。
国連は確かにアメリカにとっては華やかな場所ではない。拒否権を持つ常任理事国としてもそうだが、国内ニュースにならない場でもあるからだ。だがそうでない国の方が多い。国連総会で演説するというのはとても重要なのだ。
北朝鮮もベネゼエラもイランも、いや多くの国々が多分一番不快に思ったのは、国連の場で、アメリカ向けなことだろう。
そう、国連総会での演説を国連のために使わなかった。とても問題なのだ。
ただこれはジレンマである。SNSの発達で個人のポジションが厳密に決められるようになりつつある。この問題は転向しにくいということだ。
SNSにおいては人生という言葉はない。その瞬間であるからこそ、常に一定でないと、その言葉が保証されないのだ。強い言葉ほどそうなる。
アカゲラの幼鳥だろうか。
ひどく雨が降った。