どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

今日はさらに何もしない

2017-09-20 18:40:13 | 日記

 

今日は泳ぐ予定だった。午前中まではそうだった。だが昼過ぎから全てのデーターが、2時過ぎあたりから天気が崩れると出ていた。まあそれでは外に出ることもない。かといってどうも人に会わないのもどうなのかと思う。喫茶渡辺にいただけで、買い物をして帰った。

 

 

渡辺に行ったのは、からかいにゆくためだった。てくりのイベントで、東京の南青山にあった大坊珈琲店の大坊氏と盛岡の自家焙煎コーヒ店の機屋の関氏のコーヒー飲み比べと対談がある予定だ。てくりに出てきた喫茶店の若手の自家焙煎のコーヒ屋のシンポジウム?とかも予定されていたという。

喫茶渡辺は出場を辞退した。おかげでからかうことができなくなってしまった。

ただこれは正しい。自分のところの味とかのコンセプトをどんなに自慢したとしても、コーヒーは農産物でありものすごく難しい。それを単純な言葉で語るのは、誤解を招く可能性がある。下手な場所に出て語るのは、とてもいいことではない。

 

 

その意味では国連総会でのトランプさんの演説は、確かにアメリカ人に向けたものだというのはよくわかるが、国際的に見ればヘイトスピーチになるのだろう。直接的な発言は避けるべきな場で、北朝鮮をロケットマンと言ったのは間違いだろう。

国連は複雑な組織だ。その中で一貫しているのは協調だ。そのためには共感を得るための演説が欠かせない。利害が対立する中では特に、説得ではない、共感を呼び覚まさなければいけないのだ。

国連は確かにアメリカにとっては華やかな場所ではない。拒否権を持つ常任理事国としてもそうだが、国内ニュースにならない場でもあるからだ。だがそうでない国の方が多い。国連総会で演説するというのはとても重要なのだ。

北朝鮮もベネゼエラもイランも、いや多くの国々が多分一番不快に思ったのは、国連の場で、アメリカ向けなことだろう。

そう、国連総会での演説を国連のために使わなかった。とても問題なのだ。

 

 

ただこれはジレンマである。SNSの発達で個人のポジションが厳密に決められるようになりつつある。この問題は転向しにくいということだ。

SNSにおいては人生という言葉はない。その瞬間であるからこそ、常に一定でないと、その言葉が保証されないのだ。強い言葉ほどそうなる。

 

 

アカゲラの幼鳥だろうか。

 

 

ひどく雨が降った。

 


今日ほど何も語ることのない日もない

2017-09-20 01:16:03 | 日記

 

今日は本当に何もしなかった。せいぜい明日は古紙の回収日なのでその準備をしたことと、近所のスーパーのポイントセールでビールを買いだめしたことと、喫茶響に行ったことぐらいで、後は何もなかった。

強いていえばビックコミックオリジナルの秋山ジョージの「浮浪雲」が最終回になったということか。名作でもあり駄作でもあるというナゾの作品なのだが、ないと落ち着かないというところはある。そして一つの話に一つの言葉しかなくて、そこがシビレルという作品でもある。その意味では最終話のカメさんの「生きているというのを忘れちゃったんじゃないかしら」というのは、多分最終話にして最後の、仏教説話的な究極の言葉なのだろう。

 

 

そういえばブルーボトルコーヒーの株式の68%をスイスのネスレが収得した。ブルーボトルコーヒーは日本的な喫茶店文化とアメリカ西海岸的なリベラルで先進的な取り組みのコーヒーチェーンではあるが、真面目にこれ以上ブルーボトルコーヒーが世界中に発展するとは思えない。スターバックスが世界中に広がったような展開は難しい。それでもネスレがブルーボトルを必要とするのはコーヒーに真面目なことだけだと思うが、伝統文化としてのコーヒーということでは異常なまでの浅煎りのコーヒーは、果たしてネスレにとって正しい選択なのだろうか。

ただ西海岸的な、創業者が売りにくという点ではブルーボトルはまさしく成功した。その上株式の68%を取られても経営権は今の所保持できる契約になっている。非常に有利な契約ではある。ネスレも生豆を入れた商品を一時期作っていたが、今やあんな健康食品は不味すぎて作っていない。

ネスレは実験的にブルーボトルの株式がまだ相対的に安いうちに買い占めたのだろうか。インスタントコーヒ用のロブスタ種の買い付けは得意だが、アラビカ種の買い付けはイマイチだから買ったのだろうか。それともやっぱり健康食品としてコーヒーを位置づけて、ブルーボトルを買ったのだろうか。ネスレは人々の健康と安全を担う企業と、真面目に取り組んでいるから、その点は考えられる。

両者の思惑がイマイチわからない。

 

 

世界は思想とかイズムとかが壊れた状態だ。そこで経済的な格差が生まれ、世界企業がさらに利潤を追求する時代で、さらに本物とか安全安心とかを歌うようになってくると、それって本当なのかと誰もが疑うようになる。疑いに満ちた社会では、島宇宙がはびこることになる。その島宇宙をつなぐ過去にあったような基盤が崩れた状況では、つまり互いに疑い続ける社会ということだが、これは今の資本主義社会では全く解決できないだろう。

だがかつての共産主義国家のように特権階級が成立した状況では、もっとないわけだ。

かつて言われた世界市民という言葉は、現実の元のズタボロになっているが、残念ながらこの言葉しか残っていないように思える。

かつての啓蒙主義の正しかったのは教育の充実だ。それ以外は失敗した。だが未来の啓蒙主義がまだ全然見えていない。接続がない状況では、啓蒙という言葉すらない状況だ。