ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

「中学生下宿放浪記」を始めます(1)

2009年09月12日 | 中学生下宿放浪記
自分の人生をふりかえってみますと、特異な経験としましては、
なんといっても中学生時代の下宿生活ではないかと思います。
中学3年間に9軒のご家庭にお世話になりました。下宿といっても
いわゆる専門の下宿屋さんは少なく、多くが普通の家庭にそれぞれ
ご厄介になりました。
家族同然に温かく、そして時には居候(いそうろう)のような気持ちに。


両親の協議離婚後、母の元に引き取られた私は4歳から、母ひとり子ひとりの
生活を前橋市内で過ごしました。母は結婚するまでの若い頃、川崎市の東京芝浦
電気小向工場の従業員寄宿舎(寮)の舎監(寮母)に徴用でなく志願で入社し、
その任務についていました。「お国にため命を捧げる覚悟だった」とも。

軍需工場の東芝を狙った米軍機の空襲には何度も遭い、ある晩、手をつないで
一緒に逃げていた寮生が敵機の機銃掃射で目前で落命した地獄絵も見たといいます。
それだけに生前の母は時々「九死に一生を得て今生きているのが不思議だ」と
しみじみ感慨深そうに話していました。ただ東芝での舎監の仕事は、使命感を感じ
やり甲斐があったと懐かしんでいました。

私が小6の時、群馬県に進出する関西の電機会社が、新たに女子寮をつくるに
当たり経験者を探しているという話が、県庁に勤めていた叔父経由で母の耳に
入りました。

母は、三洋電機での就職を決意するに当たって小学生の私に「女子寮勤務は
住み込みが前提で別居になるけれど一人で大丈夫か」と心配そうに何回も
尋ねました。その頃の私は、もう子供じゃないという気持ちから問われる
たびに「平気さ。時々会いに行くからぜんぜん心配ないよ」と強気の返事でした。

まもなくして私は中学に入り、母は大泉町の東京三洋電機で勤め始めました。
私は祖母と叔父の住む前橋市相生町に、それまで母と住んでいた国領町から
移りました。

今では、前橋~大泉間は車で1時間程度で簡単に行けますが、当時は列車か
乗合いバス。大泉町は、とても遠いところと思いました。

別れの日、前橋駅から両毛線伊勢崎方面行きに乗る母は着物姿で列車は蒸気
機関車(SL)でした。
初めて母との別離。前橋駅まで見送りに行き、母を乗せた列車が静かに
遠ざかると、なんと自分では少しも予想していなかったほど、急に胸が締め
つけられ、目頭も熱くなり不安な気持ちになってしまったのを、
今でも覚えています。
これまでの母の厚い庇護から脱し、いよいよ甘えッ子、一郎の乳離れの始まりでした。
  (つづく)


(写真は、中学1年生の筆者と叔母)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする