ポポロ通信舎

(旧・ポポロの広場)姿勢は低く、理想は高く。真理は常に少数から・・

無着成恭さん、ご逝去

2023年08月10日 | 研究・書籍
無着成恭(むちゃく・せいきょう)さん(教育者、僧侶)先月7月、25日にお亡くなりになりました。敗血症性ショック、96歳。

ここポポロ通信舎でも氏のことは何度か話題にさせていただいています。

1948年(昭和23年)に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。〔共同〕

無着成恭と言ってもご存じない方が多くなっていますね。TBSラジオ『全国子ども電話相談室』の回答者を1964-1989年の25年間、回答者をされていた良い子たちの「せんせい」です。わたしも布団のなかで無着成恭せんせいのラジオに耳を傾けていた記憶があります。

さらに時を経て、三島由紀夫と同じように氏が群馬県大泉町の中島飛行機小泉製作所(現在のパナソニック・三洋電機)に戦時中、学徒動員で働いていたことを会社訪問の来客様から知りました。

著書『無着成恭 ぼくの青春時代』(日本図書センター)も読んでみました。

その一節です。
西小泉駅で下車。下車したとたんに空をあおいでフーッと呼吸をした。空には練習機がとんでいる。めずらしくてたまらない。駅前の小泉荘というところで朝飯を食べる。もちろん、家から持ってきたおにぎりだ。・・・会社のバスが迎えに来た。それで中島高林寮に向かった。途中、右手に飛行機がずらりと並んでいるのが、ちらっと見えた。すごいなあと思った」すでに敗色漂う昭和19年8月7日、山形中学(現山形東高)5年生、無着成恭17歳でした。

終戦の年の4月、無着成恭ら卒業学年生は高林寮を去って山形に引き上げる。帰路、福島県白河に着いたら東京は大空襲を受けている、と駅員が言った。誰かが「今、高林寮が直撃弾を受けて全滅だそうだ」と、どなった。ほかの学校の生徒はどうしただろう。酒田中学など全滅したんでないかな。沼田中学はどうだろう今の話デマであればよいなと思った、と生々しい記憶の記述が残されています。

学徒動員のイメージからか、何
んとなく今のような暑さの厳しい時期、「夏」を連想します。
無着せんせいのご冥福をお祈りいたします。


(参考:過去ポポロブログ ↓↓ クリックを)
中島飛行機と学徒動員2011年10月30日
無着成恭と中島小泉製作所2021年8月23日



(敬称略)【木工さんの写真】矢嶋秀一作 フォト 田口大輔

 

👇動画23分ごろから無着成恭さんについて
【全国こども】【無着成恭】さんのバトン【相談チャンネル】
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