ポポロ通信舎

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石原莞爾翁、晩年のリベラル性

2013年02月23日 | 研究・書籍

版権フリーの青空文庫で『新日本の進路ー石原莞爾将軍の遺書』を読む。亡くなった年の昭和24年の書なのでまさに最期のメッセージと言えるものだった。

「人類歴史は統制主義の時代にある」「日本は統制主義国家として独立しなければならぬ」「日本は世界に先駆け平和憲法を制定した」「大政翼賛会は完全に失敗、東亜的統制主義を確立」「組合経営的な農工一体の体制を」・・

補足として「統制主義は全体主義と混同されたが、統制主義は専制主義、全体主義ではない。経済の法則は自由経営と官公営、いうなれば資本主義と社会主義とを巧みに按配して総合運用すべき時代になっている・・と、混合経済社会を述べている。

石原翁の云う「統制主義」を今風に言うなら「社会民主主義(民主社会主義)」に置き換えるとぴったり当てはまり今日的な意義を放ち続けていると思えた。これからは「組合国家」の形態に発展するという考えも面白い。その後の日本社会はそうとは言えない形で進行しているが・・。敗戦の経験を踏まえて、当時の石原翁の新日本構想にリベラル志向が感じとることができ興味深かった。

東條内閣とは真っ向対立

若者たちが歴史の授業で石原莞爾の名を知ることはまずない。私も石原莞爾を知ったのは社会人になってからだ。私の親世代(戦前戦中派)の方々はご存じのはず。政策・方針をめぐって東條英樹と激しく衝突した人物として石原莞爾は知られている。東條が制定した『戦時訓』(生きて虜囚の辱めを受けず=捕虜になるくらいなら自害せよの意)についても石原は、直ちに激怒し「明治からの『軍人勅諭』で十分良い。何もこんなものは読むべきでない」と言い放ったという。日中戦争(支那事変)と太平洋(大東亜)戦争でも東條英機とはことごとく対立し解任され、晩年は一予備役として退官していた。

【写真】リアカーに乗りしばしば東京裁判法廷に出向く。膀胱癌を患っていたがリアカーでの帰路途上、事故の衝撃で世を去る。行年60歳。

石原莞爾(いしはらかんじ) (1889-1949)山形県鶴岡生れ。陸士陸大卒。満州事変の首謀者。日中戦争勃発時の参謀本部作戦部長。世界最終戦論を唱え東亜連盟を指導。日蓮信者。

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