赤羽公園の南側に建っている団地。私の小さい頃は自動車教習所でした。それ以前は何であったか記憶にはありません。団地の建っている敷地まるまる教習所だったので、子供心にすごく広い感じがしましたね。写真右端あたりが赤羽公園のプールがあった辺り。今だったらダイエーが見える方向。その右側の工場は今マンションになっています。右側のもっと奥、つまり東側には高柳軒というラーメン屋さんがあり南側には目医者さんや靴屋さんがありました。
教習所の植え込みには真っ赤なカンナが咲いたり、芝生の中にモジズリ(ネジバナ)のピンクの花が咲くんです。それを採りたくて、よくネットの下の隙間をくぐって敷地に入ったりして怒られました。
小学校に上がってからの話なんですが、授業参観日に交通標識の勉強があって、どの標識はどこにあるか?黒板の地図に標識を貼りつける活動がありました。普通の踏切なんか全部知っているので、ここにもあるんだよ、と意気揚々と踏切の標識を自動車教習所の所に貼ったんです。そうしたら担任の先生がそんなところにある訳ないでしょうって、教室内大爆笑。母は穴があったら入りたい気分だったらしいんですが、今思い出しても、私は間違っていなかった、他の子よりひとつ多く知っていたんだと思っています。
私を抱いてくれているのは近所のおばさん。映画とかいろんなところへ連れて行ってくださいました。
今から思えば、私が小さい頃は、ご近所の人どうし、人と人との距離がとても近かったように思えます。
近所のおじさんやおばさんたちが、わが家へも気軽に出入りしてきたし、ちょっとしたお願いをご近所の人に頼んだり、頼まれたり、届いた食べ物とかおかずとかおすそわけしたり、されたりよくありました。
お出かけにいっしょに連れて行ってくれる近所のおじさん、おばさんたくさんいました。今おじさんになってしまった自分ですが、あの頃の人たちのようには立ちまわることはできません。「余計なお世話だったら悪い」というように考えてしまいます。これは、私ひとりの問題ではなくて、世間一般がそういう感じなのではないでしょうか?「水心あれは魚心」相手とのかかわり合い方によっては、打ち解けられるかもしれない、と思いつつ、積極的には動けない自分です。
双葉印刷の社員住宅があって友人がいたのは思い出すのですが。
高柳軒さんは道路拡張で建て直して、、一時は営業していたのですが
現在は?
靴屋さんは十年ほど前にお亡くなりになりました。気さくで親切で気分のいい人でしたのに、
近所のつながりは少なくなりましたね、、
でも志茂はまだまだ下町の気持ちが残っていますよ、
ご近所のつながりが強い所だと実感してる事がしばしばで。。
だから好き、
私も以前は奈良や京都へ子供たちと友達を含めて車で行ったことも懐かしい思い出です
稲付一丁目、懐かしいですね。西口で骨董屋をされていた浦野さんのおじさんが「いなつけ」ではない。「いねつけ」が正しいんだとしきりに主張されていたのを思い出します。高柳軒さん、建て替えられてから暫らく営業されていたのは知っています。今になって返す返す残念なのは、あそこで食べたことがないんです。ラーメンを食べておけばよかったです。靴屋のおじさんは知っています。私は腰痛持ちでして、自宅に風呂はありますが、銭湯で腰をほぐしに行くことがあります。みどり湯へ行くことが多いのですが、あの近辺のローカルな雰囲気にあこがれてしまいます。昔はもっと素敵なところだったんだろうなと想像します。
見つかりません 一応プリントして赤岩中には提供してあるのですが。。
どう検索したか ? 思い出せません ガッカリ
それにしても、和服姿で、素敵な雰囲気の方ですね。
今でも、ご近所づきあいをされているのでしょうか。(前述の近所のおばさんは、数年前に亡くなりました。)
写真のおばさんの家に方には小さい頃本当にお世話になっていたんです。銭湯なんかにも連れて行ってもらいました。悲しい哉、このおばさんもだいぶ前にお亡くなりになられました。御恩返しできたらよかったのですが、、。現在、今戸今戸と言っている私にとって、子供の頃観た浅草の記憶というのも影響があるように思います。それもおばさんに連れて行ってもらったり、また母がSKDのファンだったので、国際劇場へ連れて行ってもらった記憶なんかがあります。ウリ坊さまにはSKDよりもOSKか宝塚のほうが身近だったのではないでしょうか?
現在は引っ越して赤羽にはいませんが
うちの母は川路竜子さんのファンだったそうなので、川路さんや小月冴子さんのサイン入りプロマイドなんかあります。私の記憶にあるのはおそらく「夏の踊り」。歌舞伎の鳴神上人のレビューだったのか舞台に本水の滝があって子坊主姿の団員さんがたくさん踊っていたこと、ツバの大きな麦わら帽子を被って踊っていた賠償美津子さん、エイトピーチェスとかいったちょっとお色気路線?のおばさんたちが踊っていたのがおぼろに思いだされます。国際劇場は外観の形も異様でしたが、巨大な感じでした。客席は何だか薄汚い感じがして、舞台の間口がものすごく広かったと思います。子供心に強く印象的だったのはロビーの円柱形の柱を囲むように巨大なプリンのような黄色いビニール張りのソファーがたくさんあったことです。母の話では、歌が宝塚のほうが上手いけど、踊りはSKDのほうが上手かったというのですが、実際どうなのでしょう。現在、戦前の宝塚のスターの録音のCDが出ていて、私も聴いていますが、結構ハイカラでのんびりとした歌曲が多く、癒されます。ターキー全盛の頃の録音を聞いたことがありますが、あまり歌が上手という印象ではなかったです。