東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸人形「寒紅の丑」(鈴木 たつ 作他)

2011-01-23 07:46:47 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010027 底冷えのする厳しい寒さの毎日です。暦では昨日1月22日が今年の「寒の土用の丑」の日のようです。

ものの本には「寒の土用の丑」に作られた紅には口中の荒れや女性の病に薬効があるとして重用されていたとか、、。またこの日には紅を商う小間物屋は画像のような今戸焼で作られた牛の姿をおまけとして配ったということです。

昭和のはじめの有坂与太郎の著作には、作者は今戸・長昌寺前の「鈴木たつ」であると書かれています。たつの母親の「鈴木きん」もまたこれを作っていた、またたつの姉の「江川しん」(川向の向島に住んでいた)は専ら木地を作っていたとも書かれています。昭和のはじめまではまだこの一族によって生産され、供給していたのは向島の「小町紅本舗」であったとか。現在浅草に「小町ヘアー」というお店がありますが、もしかすると「小町紅」と関係のあるお店なのでしょうか。まだ聞きにいったことがないのでわかりません。

牛には黒塗りと金塗りと2種類あり、配られた際、どのような区別がされていたのか、または2つ対で配られたのかなど不明な点があります。何か参考になる本などありましたらご教示いただけると幸いです。一時はこれらのような牛は古物としてかなり見かけたものですが、最近ではあまりそうした機会も少なくなってしまったような気がします。当時としてかなり出回っていたものだったような気がします。

上記の有坂与太郎の著作によれば、磁器の固焼き製の牛が登場してから、昔ながらの土の牛が駆逐されてしまったようなのです。ひとつ疑問なのは、紅丑の習慣は明治から遡ることはない、と記されているのに、都内の近世遺跡からの出土品の中には色のとれてしまった同じような牛がみられることです。

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8 コメント

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寒い毎日ですがお身体の調子はいかかですか? (松蔦)
2011-01-24 01:11:24
「寒紅の丑」は今頃の時期に出された物だったんですね。
ただ好きなだけで知らない事ばかりの自分は大変勉強になります。

この様な景物が出されていた頃はまだまだ暮らしの中に情緒があったんでしょうね。
尾張屋型の丑は初めて知りました。こちらも良いですね。
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松蔦さま (いまどき)
2011-01-24 22:12:14
コメントをありがとうございます。
ちょっとこのところ体が痛むのですが、何とか過ごしています。
「寒の土用の丑」の日は暦で毎年動くのですが、厳しい寒さの中であることは確かですね。
こうしたものに関心のない方は「何だ?なめくじか?」と仰るケースもよくあります。実際なめくじと言われればそう見えないこともないですね。金と黒、どのように区別していたものでしょうか?尾張屋さんの丑は私もあまり見たことがないのです。
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はじめまして。 (むらさき)
2012-06-21 01:46:02
ひよんなことから、父の家の実家探しを始めたばかりのものです。
残念なことなのですが、父の家は、大戦の空襲により全焼してしまい紅屋は廃業となり
当時をしのばせる品物はほとんど残っておりません。
寒紅の丑、丑紅(父は紅丑とよんでますが)
は、戦前には家にごろごろしてあったそうですが(笑)
往時をしのばせる品をこのような形で観ることができて大変うれしいです。
ありがとうございました。ところで、このような作品は、博物館や資料館で観ることはできるのでしょうか。
お教えいただければ幸いです。
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むらさき さま (いまどき)
2012-06-21 23:51:46
はじめまして、コメントをいただき誠にありがとうございました。
お聞きするところでは、お父様のご実家で紅を商っておられたこと、また画像のような紅丑も取り扱っていらっしゃったということ。大変貴重な情報をいただき感激しています。私など、紅丑については読みがじったことでしか知りませんので、もしお許しいただけましたら、当時の事などご存じのことをお教えいただけますとありがたく存じます。都内の博物館で上記のような紅丑を展示しているところですか、、、。この画像の紅丑とは作者が異なりますが、尾張屋・金澤春吉翁という伝統的な最後の作者がお作りになられたものは江戸東京博物館へ寄贈されているかと思いますが、いつも展示されているとは限りませんので、予めお問い合わせの上お出かけされるとよいかと思います。また申請手続きをすれば指定された閲覧日に出向いて、個人的な閲覧という方法もあります。
このページの画像のような手の紅丑はどこの館で所蔵しているかはっきりとは言えませんが、もしかすると調布市立の博物館に古い収集家の郷土玩具のコレクションが寄贈収蔵されていますのでその中に含まれるかどうかお問い合わせになる価値はあるかもしれません。
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>いまどき 様 (むらさき)
2012-06-25 21:00:23
ご丁寧なお返事ありがとうございます。
私も父の家のことについては調べ始めたばかりであること、
また、父の兄弟も昭和以降生まれしか今は生きておらず、父も幼かったのであまり細かいことはわかっておりません。
ただ、父が、実家は小町紅と紅丑を売っていた、そして、金と黒の牛を寒紅を買ってくれたお客さまに差し上げていたとのことです。伯母は、寒紅の販売日には売り子(?)で着飾って、お店の前にたったとか、そんな話を伺っているのですが。。。なかなか図書館に行けず、ネットで資料を取り寄せてみたり、いまだ推測の域は超えていないのが現状です。
伊勢半ミュージアム(南青山)にも行きましたが、伊勢半さんは、丑紅のことをあまり著作では扱ってませんでしたので。。。(日本紅の資料は大変少ないとききました。)
博物館情報ありがとうございます!江戸東京博物館は近いのでうれしいです!
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むらさきさま (いまどき)
2012-06-29 00:26:53
貴重なお話ありがとうございます。
画像の紅丑についての記述は有坂与太郎の戦前の著作あたりから読みかじったものなので、実際に御商売されていたお家の方のお話では実際どうだったのかということがとても気になっていました。隅田川西岸の今戸も震災戦災での被災は大変で、葛飾方面へ移住して生産を続けられた今戸焼さんも少なくなかったようです。戦後は実質的には葛飾が今戸焼の生産の中心といってよいくらいのようですが、人形に関しては戦災で終わってしまったようです。川向こうの墨田区側にも今戸焼屋さんはいたそうですが、やはり戦災によってなくなってしまったようですね。また当時被災された墨田の今戸焼屋さんのその後の消息なり知りたいと思っていたのですが、今となっては難しいことなので、むらさき様のお話は願ってもない機会で感謝いたしております。伺いたいことは山とありますが、まずひとつ。金色と黒の紅丑の区別は何か意味があったのでしょうか?それとも金と黒一対を顧客へ贈呈されていたのですか?もしおわかりでしたらよろしくお願いいたします。
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>いまどき 様 (むらさき)
2012-07-03 15:06:56
こちらこそ、貴重なお話ありがとうございます!
父と伯母に聞きましたが、自分たちが実際みた記憶のある限りでは、家にあったのは既に磁器製の紅丑であったそうです。(昭和10年代)
残念ながら、金と黒が対にしていたかなど、どの様に配られていたかはわからないそうです。
私は、はじめ父からその話を聞いた時は、単純に売られている紅の値段で金と黒の紅丑をわけて配ったのだと思ってしまっていました(苦笑)。なるほど、そういう考えもあるのかと!
ただ、もし、「対」を意識するならば、紅丑、左右対称に作られた方が自然な感じもいたします。
簡単な例でいえば、仁王像、狛犬でしょうか。
招き猫の腕の左右違う対になるタイプのはなかなか売ってませんし。。。(昔は売られていたのでしょうか?)牛嶋神社の撫で牛も対じゃないですし。

いまどき様のお話から察するに、磁器製の丑紅への変化は大震災契機の可能性が強いような気もいたします。
明治以降、安い洋紅の流入により、日本紅は衰退します。高級な紅を売るにも丑紅自体を紅の器にし、使用後も長く飾れるものとして、と考えたのかもしれません。(付加価値的意味合いです)
充分今戸焼の丑紅、素朴で愛らしいのですが。

あくまで推論に過ぎませんが。
役に立たない情報で申し訳ありません。よい情報がみつかりましたら、いまどき様にご連絡いたしますね!
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むらさきさま (いまどき)
2012-07-09 00:25:16
いろいろご教示ありがとうございます。また更にお教えいただけますとありがたいです。
ちょっと思い出したのですが、もう何年前のことでしょうか、小梅の辺りでしょうか、墨田区立の郷土博物館ができたばかりの頃(まだ行っていないのですが)、電話で紅丑のこと、寺島にいた今戸焼屋さんのことなど質問に電話したことがあったのですが、あの一帯は当時の被災がひどく、焼けてしまって何も残っていない上、あまり資料も情報もないようでした。むらさき様の情報は当然貴重なものだと思います。
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