この画像はNHKの「美の壺・招き猫」番組内の1シーンです。ご覧になられた方も少なくないかと思います。新宿区内の「水野原」遺跡から出土した丸〆猫です。
これまで、いろいろな近世遺跡からの出土例を探してもみつからなかった丸〆猫にやっとめぐり逢いました。今(2010.3月)から4年前くらいでしょうか?新宿区の歴史博物館の図書室で遺跡報告書を閲覧していた際、報告書巻末の白黒の遺物写真を見ていましたら、土人形類を一括して撮影した写真があって後ろのほうに見覚えのある構図の招き猫がありました。早速閲覧申請をして現物に対面したところ、背面にやっぱりありました。丸〆の陽刻が、、、。以前は報告書には一個一個の遺物の実測図、データ表があったものですが、コストの面でひとつづつの記録はしていないので、この猫についてのデータは写真以外何もなかったのです。担当の方もさして関心がない様子でした。2度目に申請して再会し、いろいろなアングルから写真を撮ったり、採寸したり、持参した拙作の丸〆猫の素焼きと並べて比べたりしました。
この遺跡では安政年間に火災があって、遺物にも焼き焦げが見られる、ということで、この猫にも焦げたようなところがありました。招く手先が欠損しているのが残念ですが、もう一体別の遺跡報告書に中に同じ型と考えられる猫がありまして、これも申請しているのですがまだみつからないようです。その後、NHKから美の壺で招き猫を採り上げたいから取材にお邪魔したいという依頼があって、その際、この出土遺物のこともお教えして、番組に採り上げられたわけです。それまでは、廃校になった小学校の地下室にある収蔵庫パン箱の中で、他の遺物に混ざって忘れ去られ、眠っていた猫でしたが、番組放映後は、歴史博物館の収蔵庫で重要資料として収まったと聞いています。大出世ですね。それにしてもみつかってうれしいです。とりあえず今
の時点ではこれが確認できるところ今戸焼の最古の招き猫であり、尚且つ確認できる造形物として最古の物証ではないかと考えています。この姿は横座りで顔だけ正面を向いて招いており、今戸焼の招き猫としての特徴を具えています。もっと後になると西日本の招き猫の影響を受けた正面向きの姿の招き猫も今戸焼で作られるようになりますが、もともと座り姿の猫(横座り)がたくさん作られていた今戸焼では座り猫から鞠抱き猫が生まれ、それから招き姿に変化したと考えればごく自然だと思います。
丸〆猫に関する記事は①から⑭まであります。お時間ありましたら通してご覧くださると幸いです。
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私がいま一つはっきりしないのは江戸時代の招き猫の役割です。赤ものは疱瘡よけ、土人形は節句もの、狐は奉納、犬張り子は安産祈願などとわかりやすいけれど、招き猫はやはり色町などの人寄せの飾りで、子どものおもちゃではもともとなかったのでしょうか?
近世遺跡から出土した土人形はその遺跡の区の教育委員会などで保管されたり、報告書が発行されたりしているんですが、担当者の人が余程興味を持っていないと、処理がとんちんかんになっていたりすることが多いと思います。また異なる区どうし、同じ区内でも複数の遺跡があったりで、特に土人形に関してはどこの遺跡から出た「○○」と「××」とは型が同じだとかそういう結びつきもなく、パン箱に眠っているだけ、ということが多いです。なので、自分から報告書をチェックして、申請して閲覧するということではじめて異物の形状とか状態とか把握できるという感じで、画像の丸〆猫は報告書の中で土人形ひと山といった感じに並んで写っていた最後列に前面だけ見えたのでした。ましてや、個々の人形の観察表もなく、申請は「何ページ画像南蛮の最後列の左から何番目に見える猫」という表記で書類に書いて決済を待ってやっと実物に巡り合えたということだったのですが、肝心の丸〆の陽刻が背面に本当にあったのには感動しました。
閲覧中監視付き添いの学芸員みたいな人も無関心そうでしたが、それがNHKの取材を受けた後、急にお宝になってしまったのはよかったですが、ずーっと遠いところへ行ってしまった、という気分もします。実は、同じ区内の他の遺跡からも同じ型の丸〆猫らしきものが出ていて、それも閲覧申請したのですが、保管場所がないので霧ケ峰だかの倉庫にに移したというまでで、その後まだ対面は叶っていません。画像の猫は右耳から手先、胸にかけて欠損していますが、霧ケ峰に眠っているであろう猫は顔や腕は欠損しておらず、足元が欠損しているはずで、両者をならべれば、お互いに欠けた部分のモデリングを補い合うことになるので、みつからず残念です。今はどうか知りませんが、招き猫倶楽部のサイトが昔ありましたね。その中で丸〆猫に関する検証的な内容で、江戸時代の丸〆猫は確認されていないから、実際には江戸にはなかったのではないか?みたいなことを書いてあったように思い出しますが、この猫の存在によって、存在は確認されたわけです。嘉永5年の「武江年表」の記述には泥塑で作った猫について「招き猫である」「丸〆の陽刻がある」とは書かれていなかったのもそう考えられていた理由ですが、同じ嘉永5年の「藤岡屋日記」には「招き猫」「丸〆」とはっきり記述されているので符合します。江戸の文献全般について自分が古文書に疎いということもあり断定できませんが、「招き猫」という記述は嘉永5年以前にある、と聞いたことがありません。猫は経典を船で日本に運ぶときに船底にいるネズミたちから経典を守るために一緒に日本へ来たとかいいますね。
だから「ネズミ除け」というイメージはあったであろうし、実際養蚕農家ではネズミ除けに張り子の招き猫だとか木版の「猫絵」を蚕室に置いたり貼ったりしたとか、、。江戸の市中でもネズミの害はあったでしょうから、猫はネズミ除けのシンボルだったし、人々の生活の身近な友達でもあったと思います。近世遺跡からたくさん出土する「座り猫」は招いていませんが、招き猫ができる前段階の猫の姿です。かなり親しまれていたと思いますが、それに願い事とか縁起担ぎがついていたのかどうか、、。話は戻って「藤岡屋日記」には芸人さんたちや花柳界でもてはやされたように書かれています。「寝る妓」と書いて「ねこ」と掛け合わせていたり小唄の「猫じゃ猫じゃと仰いますが、猫が下駄履いて絞りの浴衣で行くものか おちょこちょいのちょい」ってのがあり芸者さんとか粋な筋のイメージにもなったんでしょうね。昔の子供というのは、西洋式の教育が定着する以前は結構おませだったから、親は子供に「見ちゃいけない、見せちゃいけない」ということも緩かったのではないでしょうか。今戸の昔の泥めんこの図柄なんかに結構エッチなのがあったりします。今戸の座り猫の伝世品は「今戸人形」のカテゴリーで紹介したことがありますが、「座り猫」が描かれている錦絵もありますのでそのうちアップしてみたいと思います。
そう言えば、多摩張り子も養蚕と関係があるかもしれませんね。もっとも材質が紙だったらネズミにかじられてしまいます。インド紙塑の猫、仮小屋に住んでいたときにかじられました(笑)。
ネズミは土人形でもかじりますよ。
地塗りに胡粉と膠液を混ぜて塗りますね。
この膠はコラーゲンですからお腹のすいたネズミには絶好の栄養源です。古い土人形でネズミにかじられて顔や胴体がボロボロになっている子をよくみかけました。あと練り人形なんかおがくずとふすまで練りこんであるからネズミも虫も大好物ですね。