今さっき本体と手足を繋げて乾かしているところ。
「何だこれは?」「こわそう…。」と感じる方もいらっしゃいますかどうか。
これは「ぶら人形」と呼ばれるもので、都内の近世遺跡からたくさん出土されているもので、本体と手足の連結が残っているものは観たことがありません。連結されていた素材は反故紙か何かたったのか、布は昔は貴重品だったから、せいぜい手ぬぐいの晒しとか、麻布だったのか、それともお呪い的な用途に連結されなかったのかどうか?
伝世の人形で観たことあるのは愛好家の人が愛蔵していたという、江戸とか古いものではなくて、面相的に尾張屋 金澤春吉翁かその周辺の誰かが本体だけの状態に胡粉で地塗りして頭の青剃りみたいに水色か浅葱色に塗って、面描きしてある人形の写真を観たことがあります。
研究家によっては「お墓から出たので副葬品」という意見も聞きますが、浅草橋の「人形は顔が命」の吉徳さんの前の店舗の建て替えのとき、地面から木箱に入った状態で裃雛や大黒様や鳩笛なんかと一緒に出てきた、という話が吉徳資料室の小林すみ江先生著の「人形歳時記」に出て来て、副葬品として人形屋で取り扱うというのはどうか?手慰み品として扱っていたとすれば自然、というような話を読みかじっていたし、実際出土した場所はお墓ではないところもたくさん
あるので他の今戸の人形とともに子供の遊び相手であったのだろうと思って作っています。
今回は3回目で、はじめて取り組んだのはまだ日本橋の東急百貨店があって、正月の郷土玩具即売会が行われていた頃。遺跡報告書の図を参考に作ったので巨大で不気味な感じ。その数年後、まだ30代の頃、サイズをコンパクトにして、相変わらず報告書の図を頼りに彩色は先の写真の印象で手足の連結は反故代用紙を使いました。
その後、手持ちの古い郷土玩具と物々交換で色の取れた本体が手元に来たのでそれをお手本に再度チャレンジしようと思ったまま10年以上過ぎてしまい、やっと今回に至りました。
今回は反故紙ではなく布で連結してみようと、手に入れた汚れた古い麻布を数日漂白剤に晒してきれいにしたものもを蘇芳の煮出し汁で染めておいたものを使います。色は、赤系なら蘇芳、時代の古い、高級品の抱き人形には浅葱色に染められた縮緬が使われていたりしたので、麻布を藍でもよいか?とも思っていたのですが。
ぶら人形は例えば鴻巣とか越谷辺りで練り(桐の木屑につなぎを混ぜて練ったもの)が実際存在して何より軽くて、持ちやすいのに対して、本体も手足も素焼きで重く、落とせばすぐ割れてしまう素材だというのがふしきですが、実際出土品はたくさんあるものだし、それだけたくさん作られたものだったのだから、研究家ではないけれど自分なりの好奇心と想定で作ったもの。
どうでんすな。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます