呑む気オヤジ/蔵王山麓蓬莱庵便り

訳アリで山暮らしから都会に戻ったオヤジの日記。合唱も映画もドライブも温泉も、たまには俳句も・・・😄

呑む気父さんの映画鑑賞記~「サハラ」

2005-12-30 | 映画(DVD)の話
サハラ -死の砂漠を脱出せよ-

アミューズソフトエンタテインメント

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★「サハラー死の砂漠を脱出せよ」

この映画の原作はクライブカッスラーの「ダーク・ピットシリーズ」だ。友人Yから「このシリーズ、面白いよ~」と聞いたのが7~8年前だろうか。それ以来旧作は全部、新作は発刊されるとその日のうちに買い込んで読んでいる。その面白さはまた別の機会にたっぷりと書きたい。
本作は「タイタニック号を引き上げろ」以来、多分20年ぶりぐらいの2回目の映画化作品。本当は公開されたときに映画館で見たかったのだが、全米№1の割には上映館も少なく期間も短かったため見逃してしまった。で、DVDでの鑑賞となった。
冒険活劇映画としてはよく出来ていると思う。テンポもよくハラハラドキドキもあって面白かった。でも原作の面白さは半分ぐらいしか描かれていないように思う。まず登場人物のイメージが小説と映画では随分違う。肝心のダークやアルはそんな顔じゃないだろう!という感じ。これで興味が減少する。それにストーリーが省略されていて原作の持つ歴史の緻密な入り繰りが判らない。
タイタニック…に引き続き、カッスラーが映画の出来に怒って訴訟をおこしているというが、それも肯けないでもない。やっぱり「ピットシリーズ」の魅力は映像にはできないのかなぁ~、残念!
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呑む気父さんの読書感想文・その10~「ノスタルジア」

2005-12-30 | 本の話
ノスタルジア

講談社

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★「ノスタルジア」小池真理子著 講談社文庫

本作の前段で描かれる「落ち着いた潤いのある大人の恋」には憧れる。もちろん読み進めてゆくとそんな単純な甘い物語ではないことがわかる。しかし、ひっそりした老舗のうなぎ屋や持て成しの心が行き届いた旅館での食事などは若いカップルには似合わない。気負いや性急な欲望とは一線を画した、大人の時刻が過ぎてゆく。
また若い頃に自分の父親の同級生と人ならぬ恋に落ち、その後も急死した相手が忘れられず独身を通す主人公の儚さ、哀しさには心が痛む。あのときにあの人に出会わなければ、全く違う人生が待っていたかもしれない…。人の途は不可解なり。そんな妹とは対極の途を歩む姉。早くに父を亡くしたため母と妹を養う自己犠牲と潔癖症が故に処女を通す。これまた哀しい人生だ。
でも人の人生を「哀しい」とか「儚げだ」とか思うのは他人の勝手な思い込みであり、おこがましいことであるのかもしれない。たとえ一生処女であろうと、巡りめぐって「異形の恋」に落ち込んでしまおうと、それは自分が選んだ途であり他人がとやかく言うことではない。

先日の日経新聞に「痴呆防止法」が載っていた。毎日散歩すること、日記を付けること、料理をすること…要するに体と頭を適度に使って脳への血流を良くする事が大切らしいのだが、その中でも特に目を引いたのが「恋をすること」。「不倫をしろということではない」と断り書きがあったが、要は人間恋をするといろいろ考え工夫し相手に気に入られようと努力をする、これがボケ防止に良いらしい。然もありなん!
「大人の恋」をしてみたいね。願望だけなら誰でも持てるし自由でしょ…てかっ!?
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呑む気父さんの読書感想文・その9「ラッシュライフ」

2005-12-29 | 本の話
ラッシュライフ

新潮社

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★「ラッシュライフ」(伊坂幸太郎/新潮文庫)
 「東京タワー」の余韻に浸り、なかなか感想文が書けないでいたが、その後も読書は続いておりましたぞ!
 その後読んだのは「ラッシュライフ」(伊坂幸太郎)。友人何人かが読んで「結構おもしろいよ!」との感想であったため私も挑戦した。
 う~ん、なんかよく分からない~。村上春樹ワールドだな。取り立ててどこが面白いというわけではない。でも何かを予感させる。ひょっとしたら次の作品は面白いんじゃないか、もう1冊読んでみようかな・・・、と思わせる何かがある。だからデビュー作の「オーデュボンの祈り」や「重力ピエロ」は読んでみようかな。でも春樹ワールドのように「結局なんなんだぁ~!訳わかんねぇ~!!」で終わりそうな気もする。


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呑む気父さんの読書感想文・その8「しゃばけ」

2005-12-29 | 本の話
しゃばけ

新潮社

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この作家は全く知らなかった。本編の続編が出版され、2冊まとめて本屋に平積みされていて目についた。江戸大店の跡取り息子が妖(あやかし=妖怪)たちと一緒に繰り広げる「捕物帳」といった趣の話で、結構面白かった。宮部みゆきの「あかんべえ」に通じるものがある。ただ畠山氏は59年生まれの46歳、宮部さんより年を重ねている分文章が洗練されている感じがする。

「厚い雲が月を隠すと、江戸の夜の闇は、ずしりとのしかかるように重かった。
前も後ろもない、うっかりその闇の中に踏み込んだら、そのまま落ちていきそうな、
ひやりとする暗さ。その黒一面の中を、提灯の明かりがぽつりと、わずかに夜を
分けて進んでゆく。」

くぅ~、巧いねぇ~!現代と違って大江戸八百八町とはいえ、夜は漆黒の闇であったろう。その暗闇の中を一つの提灯を頼りに歩いてゆく光景が、まざまざと目に浮かぶ。本作の冒頭の一文であるが、どうやったらこういう文章を思いつくのだろう。山本一力なみですな!
話としては眉間に皺を寄せて読むようなシリアスな内容ではないので気軽に読める。憎めない妖たちに囲まれた鬼太郎のような若旦那が、これからどんな活躍を見せてくれるか、どんな妖が現れるか、続編が楽しみである。さっそく続編「ぬしさまへ」を読もうと思ったがいくつかの本屋で売り切れだった。畠山さん、私が知らないだけで結構人気作家だったのかな?

尚、ちなみに「しゃばけ」とは「娑婆気」のことで、俗世間における様々な欲望のことだそうです。


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「第九」の〆はお寿司で一杯・・・?

2005-12-29 | コンサート・LIVE・演劇などの話
★12月某日 「第九」&「さなか大森店」
7月に職場が変わり中野坂上になった。仕事も久々に営業を離れ研修の担当に。正直言って心身ともに随分楽になった。営業はどうしても「成績」のプレッシャーが付き纏う。研修もいろいろ大変なのだが、その点は断然に気楽である。
で、余裕ができたからという訳でもないのだが、新宿区の「第九を歌う会」に参加して先日本番が終了した。久しぶりの「第九(ベートーベンの交響曲第九番)」は練習からとても楽しく参加できた。いくら営業を離れたとはいえ毎回は練習に出れず、参加できるときも最後の1時間だけとかが続いた。でも「第九」も3回目、もともとミュージシャンの(??)私としては「余裕のヨッチャン」(相当古い?)で暗譜も完璧、少しの時間でも大きな声で歌うことは本当によいストレス解消になった。それにこの会はオケが東京都交響楽団で演奏も一流、本番もとても気持ちよく歌えた。
私が第九を始めたと聞いたY(呑み仲間であり、音楽仲間でもある)が「合唱やりたいんならウチの合唱団で一緒にやらない?」と言ってくれた。このお誘いは随分前からいただいている。でも職場も遠く営業時代はいつ仕事が終わるか判らず、とても参加どころではなかった。しかし自分の周りの状況だけでなく、なんとなくYが所属する合唱団に参加することをためらう気持ちがどこかにあった。自分でも「ためらいの理由」が判らずにいたのだが、この前「第九」をやっていてハタと思い当たった。
『自分がやりたいのは、合唱というより「ベートーベンの第九」だったんだ、クラシックの古典が好きで本当はオーケストラがやりたかったんだ!第九の合唱でオケと競演したかったんだ!』
もちろん音楽はなんでも大好きで、合唱もジャズコーラスもロックも好きなのだが、やっぱりオーケストラがやりたかったんだなぁ~と思い至った。小学校のころから楽器が好きで合奏が好きだった。中学も高校もブラバンに入って楽器をやったじゃないか。でもその時担当のクラリネットがあまり好きになれず、結局ブラバンをやめて友人たちとロックバンドを始めたんだ。もちろんその選択が間違っていたとは思っていない。付き合いが30年以上も続いている友人達も、元はと言えばその時のバンドから広がった連中だ。だから自分の人生の相当重要部分を占めるバンド活動なのだ。でも今更ながらにあのままブラバンを続けなかったこと、クラシックを続けなかったことについて後悔の念にかられる。
「あの時ブラバンをやめなければ、大学でオケに入っていれば…」たかが趣味の世界のことではあるが、振り返ると人生にはいろいろなターニングポイントがあるなぁ…と思わずにはいられない今日この頃、そして「第九」のコンサートでありました。

さてグチグチとした後悔話を続けてしまったが、コンサート当日はそのYが聴きに来てくれた。他の友人を誘ってもよかったのだが、今回は特にチケットの割り当てもないしあまりクラシックに興味のない人を無理に誘っても悪いし…と思い、同趣味のYだけにお願いした。Yも合唱仲間を、と思ったようだがなかなかタイミングが合わずに結局一人。
私があまり呑めないため、コンサートの打ち上げは「あがり」で寿司を、と言うことになった。Yが気に入っているという大森の「さなか」という寿司屋に行った。チェーン店のようだがなかなか良かった。何が良かったって?本格的な江戸前寿司で、ほとんどのネタに煮きりがぬってある。煮きりが合わないネタには軽く塩とかぼすを、という感じで結局一度も醤油を使わなかった。値段もすべてオープンでしかも安くてどのネタも美味しい。お店の人とすぐに仲良くなれる特技を持っているYが(そうだよね?)、もう何年来の友人のように話す気さくな店長も感じが良かった。せっかく「第九」を気分良く歌えた後だけに、思う存分呑めなかったことだけが残念な一夜であった。

PS)なぜ呑めないか?。その話は…待たれ次回!
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呑む気父さんの読書感想文・その7 「東京タワー」 

2005-12-14 | 本の話
★「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン」(リリー・フランキー/扶桑社)
 この本を読んでの感想がなかなか書きにくい。自分を含め、世の中の息子と母親の濃密でメンタルな親子関係が如実に語られ、あまりに生々しいからだと思う。『息子と母親』というのは他の親子関係(例えば、母と娘、父と息子など)とは明らかに違うものがある。読みながら母親と自分の関係について、いろいろ思い巡らし昔の記憶が蘇ってきた。

 私は昭和55年(1976年)3月31日に仙台を発って東京に出てきた。奇しくも仙台の路面電車がその日で廃止になった。仙台駅には地元の友人7~8人が見送りに来てくれた。今でもそのときにホームで撮った写真が残っている。母は一緒に上京してくれた。見送りの友達の手前照れくささもあったが、反面一人暮らしに旅立つときに心強さを感じたものだ。
 最初に住んだのは大田区の西馬込のアパート。四畳半一間に小さな流しが付いただけのいわゆる下宿屋的な部屋だった。当面の生活に必要なものを大森の方まで二人で買い物に行った。母はスーパーで台所の洗剤やら銭湯に通う道具やら細々した今日から使うものをテキパキと買ってゆく。二人で両手に買い物した袋を下げながらアパートに戻ったことを覚えている。
 私自身も、好んで東京での一人暮らしを始めた訳だが、やはり心細さはあったと思う。母はどんな気持ちで息子のアパートでの生活用品を買い物したのだろう。あの四畳半の狭いアパートに布団をふたつ敷き、明日から別々に暮らす母親と枕を並べた時の心持ちは、もう忘れてしまった。
 その後私は代々木に引っ越したが、ここもまた四畳半一間。西日しか当たらず目の前に首都高速が通る部屋だった。そのアパートの共同トイレに小さな窓が付いていて、そこから新宿西口の高層ビルが見渡せた。時々所用で上京する母はたまに私のアパートにも立ち寄った。「トイレの窓から高層ビルが見えて、まるで額の中の写真みたいだね」と感心していた。仙台も田舎ではないが、息子のアパートのトイレから見える高層ビル街は、まさに大都会の象徴のように感じたのだろう。こんな大都会の真ん中の、小汚い四畳半に住んでいる息子のことを、母は一体どのように見ていたのだろう。
 決してまじめ一方の学生ではなかった。酒を飲んだり麻雀で負けたりして金がなくなると、実家に電話しては仕送りの前借りを頼んだ。何万円もする通信教育をやるからと仕送りをもらい、申し込んでは見たものの難しすぎてほとんど手付かずだった。就職する際の引越しのときに結局10冊近いテキストを目も通さぬまま捨ててしまった。なんか申し訳なくて涙が出そうだった。
 そんな中でも月に一度ぐらいの割で、米や缶詰、インスタントラーメンなどをダンボールに詰めて送ってくれた。本当にありがたかった。あれから30年も経つがいまだに実家からの宅配便は続いている。今では妻が楽しみにしている。有難きことこの上なし。

 母だけでなくもちろん父も自分の小遣いを削ってでも仕送りをしてくれたのだろう。そんな両親に自分はどれだけ恩返しをして、親孝行をしているのだろう。幸い両親は未だ健在だ。でも父は80歳、母は75歳だ。孝行する時間はそんなには残っていない。何もやらない、できない自分が情けない。息子夫婦と孫が元気で暮らし、たまには顔を見せることが何よりの親孝行だ、などとうそぶいているうちに時間は刻々と過ぎてゆく。
 「東京タワー」のオカンは幸せに逝ったのだろうか。もちろん最後に息子と暮らし、オトンと息子に看取られたのだから幸せだったのだろう。うちの両親は幸せな気持ちで逝くだろうか。私が死ぬとき幸せに逝けるだろうか。それはそのときにならないと判らないし、今からどうすればいいのかもよく分からない。でも両親にはできるだけのことはしてあげたい。

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自家製「イクラの醤油漬け」そして「はらこ飯」

2005-12-04 | 食べ物・お酒の話

☆11月某日 「イクラの醤油漬け」を作った・・・
 近所のスーパーに買い物に行ったら生筋子を売っていた。北海道では良く見たがこちらのスーパーではあまり見かけたことがない。「こりゃあイクラの醤油漬けを作らねばなるまい!」と早速購入、約150gで1,400円ぐらいだった。
 「イクラの醤油漬け」はとっても簡単。①生イクラを水道の流水でよく洗う。結構しっかり膜にくっついているので、身がボロボロ落ちることはない。(一応下にザルを置いて・・・)②もう一度ボールの塩水で軽く洗う(ものの本には3%の食塩水と書いているが、あまりしょっぱくならない程度でOK)。③イクラをぬるま湯の食塩水の中でほぐしてゆく。または100円ショップで魚焼き網を買って、その上で軽く押し付けて回すようにしてほぐす。網を使うと本当に簡単。ぬるま湯食塩水も結構簡単にイクラが膜からはずせる。ぬるま湯でやった場合は最後に冷水にさらす。少し白くなったイクラがまた鮮やかなオレンジ色に戻る。④ザルで水気を切り適当な容器に移す。イクラ100グラムに対し、醤油大さじ1、酒大さじ1、みりん大さじ0.5を混ぜて容器に。このタレは目分量でもOK。⑤30分~1時間冷蔵庫で馴染ませて出来上がり!
 約2時間漬けたものを熱々のご飯にドバドバッと乗せて、ハグハグッと掻きこんだ。イクラの粒々が口中で弾け、濃厚なコク味がご飯に絡まり一気に胃袋にキュルリンキュルリンと飛び込んでいくのであります・・・(小泉先生のパクリ)。でもこうやって自分で作れば、多分市販品の3分の1~4分の1の値段で楽しめる。ぜひ挑戦願いたい。
 
 我がお手製のイクラ醤油漬けは、家族4人で食べてもまだ半分も残っている。さあ今日も・・・と思っていたら、テレビでたまたま仙台の荒浜という漁港の漁師料理をやっていた。「はらこ飯」といって仙台ではごく一般的で仙台駅の駅弁にもなりいつも大人気。「はらこ飯」は要するに鮭の親子丼。鮭の生身を一口大に切り、醤油と日本酒とみりんのタレに漬け込んで、網で焼く。鮭を漬けたタレをご飯を炊くときに混ぜて味付けご飯にする。このときに切り身を一緒に炊き込んでも良い。味付けご飯を丼ぶりに盛り、焼いた一口大の鮭を並べ、真ん中にイクラの醤油漬けを盛り付ける。食べるときはごちゃごちゃと混ぜて食べたほうが美味い。どうです?美味そうでしょう!これも簡単にできる仙台の味です。
 私は塩鮭が大好きだ。塩鮭がおかずの時は最後は鮭茶漬けで締めないと食事が終わらない。カリカリに焼けた皮が、またお茶漬けにぴったり。最近はしょっぱい塩鮭が少なく、お茶漬けには物足りなくて残念だ。イクラは普段はあまり食べない。健康を気にすることもひとつだが、寿司屋などではイクラやうによりもひかり物や貝類の方が新鮮で美味しい。でもイクラの醤油漬けは美味いな。ご飯が何杯でもお替りできる。やっぱり私には目にも体にも毒かもしれない・・・。
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蕎麦打ち&味覚人飛行物体の話

2005-12-04 | 食べ物・お酒の話

☆11月某日 蕎麦打ち講習&味覚人講演会
 今日はH夫妻と蕎麦打ち講習会に行ってきた。(上記写真は奮闘中のH夫妻)
 港北ニュータウンの遺跡公園内に民家園という江戸時代の民家をそのまま移築して再現した建物があり、その土間での講習会だった。先生はその民家園で月一回蕎麦打ちを行っている「麺ずくらぶ」の面々。普段はサラリーマンだったり自営業者だったりの「蕎麦打ち大好きおじさん」たちである。
 会費は1,000円だったが、その日の材料が北海道幌加内産と新潟妙高のそば粉をブレンドした最高級の粉で、つなぎのうどん粉も旭川のなんとか産、打ち粉はどこどこの産・・・と、とてもそんな値段で手に入る代物ではなかったらしい。でもそこはおじさんの趣味の世界、多少の赤字は気にせず楽しくやろう!ということか・・・。生徒は老若男女50人ばかり、ほとんどの人が始めての蕎麦打ちで3~4人のグループに分かれ「麺ずくらぶ」のメンバーに手取り足取り教えてもらった。
 私は北海道で一度蕎麦打ちを経験していたが、H夫妻は初めてということで緊張の面持ちであった。やはり普段から台所に立っている奥さんのMちゃんは全体的に要領よく、また上手に作業を進めてゆく。旦那はイマイチだね。もちろん私も一度経験があると言ってもやっぱり難しくてうまくはできなかった。でもなんとか蕎麦打ち終了。先生方が竈の大釜で蕎麦を茹でてくれた。そしてみんなで試食。美味~~い!!蕎麦は「挽きたて、打ちたて、茹でたて」というが、まさにその三拍子揃った蕎麦で、多少の麺の太さの不揃いや硬い柔らかいは度外視して美味かった。Hは「今まで49年間生きてきて、こんなに美味い蕎麦ははじめて食った~!老舗の蕎麦屋も問題外だ~!!」と大感激していた。確かに自分たちで打ったという贔屓はあるにしても本当に美味かった。一人当たり3人前ぐらい食べてその他にお土産分もあり、これで1,000円はただみたいに安い。Hさん、蕎麦打ちの入門用道具セットは1万円ぐらいで買えますぞ。みんなで買って蕎麦打つか?あぁ~この蕎麦でお酒が呑みたかったですな、Hさん!

 その日の夜に世田谷区民会館で東京農大教授の小泉武夫氏の講演会があった。蕎麦打ちのあと一度解散し、また3人でこの講演会に出掛けた。小泉氏はご存知の方も多いと思うが、自らを「味覚人飛行物体」と称し日本のみならず世界中の美味しいものを食べ歩いている。それもただのグルメではなく醸造学や発酵学の権威であり、その研究のためにもどんなゲテモノでも食べ歩く人だ。講演も出版したばかりの「美食巡礼の旅」という本の宣伝も兼ね(?)、日本全国および世界中の美味しいものについての話だった。一番凄かったのはアジアの奥地(国は忘れた)で歓迎会で出された「豚の慣れ寿司」?? 要するに生の豚肉をご飯の上に乗っけてドロドロに発酵させたもの。同行した学生たちはたちまち下痢と嘔吐でダウン。でも小泉先生は全く平気だったらしい。先生に言わせれば「発酵」と「腐敗」は全く別物で「発酵」は食べ物を長期間貯蔵する人間の知恵とのこと。でも我々の胃袋はその区別が多分できない・・・。
 小泉先生の「ヨダレチュルチュル」もんの講演を聞き、早くお酒を「コピリンコ」と呑みたくなった我々は三軒茶屋の「浦沢」という店に入った。三軒茶屋の246と世田谷通りに挟まれた三角州のような一帯には、昔ながらの一杯飲み屋が未だにひしめいている。新宿西口の思いで横丁や渋谷ののんべい横丁のような雰囲気だ。この「浦沢」も二度目だが、新潟出身の店主ご夫妻がなかなか美味い「おふくろの味」的なつまみを出してくれる。「肉豆腐鍋」がシンプルであっさりしていて良かった。こういうまさに味のある呑み屋街が東京の街からだんだん消えてゆくのは本当に残念。そのうち向かい側のキャロットタワーのようなビルが建ち、呑み屋もその中に呑みこまれてB1に無機質に並ぶことのないよう心から祈っている。
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