★「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン」(リリー・フランキー/扶桑社)
この本を読んでの感想がなかなか書きにくい。自分を含め、世の中の息子と母親の濃密でメンタルな親子関係が如実に語られ、あまりに生々しいからだと思う。『息子と母親』というのは他の親子関係(例えば、母と娘、父と息子など)とは明らかに違うものがある。読みながら母親と自分の関係について、いろいろ思い巡らし昔の記憶が蘇ってきた。
私は昭和55年(1976年)3月31日に仙台を発って東京に出てきた。奇しくも仙台の路面電車がその日で廃止になった。仙台駅には地元の友人7~8人が見送りに来てくれた。今でもそのときにホームで撮った写真が残っている。母は一緒に上京してくれた。見送りの友達の手前照れくささもあったが、反面一人暮らしに旅立つときに心強さを感じたものだ。
最初に住んだのは大田区の西馬込のアパート。四畳半一間に小さな流しが付いただけのいわゆる下宿屋的な部屋だった。当面の生活に必要なものを大森の方まで二人で買い物に行った。母はスーパーで台所の洗剤やら銭湯に通う道具やら細々した今日から使うものをテキパキと買ってゆく。二人で両手に買い物した袋を下げながらアパートに戻ったことを覚えている。
私自身も、好んで東京での一人暮らしを始めた訳だが、やはり心細さはあったと思う。母はどんな気持ちで息子のアパートでの生活用品を買い物したのだろう。あの四畳半の狭いアパートに布団をふたつ敷き、明日から別々に暮らす母親と枕を並べた時の心持ちは、もう忘れてしまった。
その後私は代々木に引っ越したが、ここもまた四畳半一間。西日しか当たらず目の前に首都高速が通る部屋だった。そのアパートの共同トイレに小さな窓が付いていて、そこから新宿西口の高層ビルが見渡せた。時々所用で上京する母はたまに私のアパートにも立ち寄った。「トイレの窓から高層ビルが見えて、まるで額の中の写真みたいだね」と感心していた。仙台も田舎ではないが、息子のアパートのトイレから見える高層ビル街は、まさに大都会の象徴のように感じたのだろう。こんな大都会の真ん中の、小汚い四畳半に住んでいる息子のことを、母は一体どのように見ていたのだろう。
決してまじめ一方の学生ではなかった。酒を飲んだり麻雀で負けたりして金がなくなると、実家に電話しては仕送りの前借りを頼んだ。何万円もする通信教育をやるからと仕送りをもらい、申し込んでは見たものの難しすぎてほとんど手付かずだった。就職する際の引越しのときに結局10冊近いテキストを目も通さぬまま捨ててしまった。なんか申し訳なくて涙が出そうだった。
そんな中でも月に一度ぐらいの割で、米や缶詰、インスタントラーメンなどをダンボールに詰めて送ってくれた。本当にありがたかった。あれから30年も経つがいまだに実家からの宅配便は続いている。今では妻が楽しみにしている。有難きことこの上なし。
母だけでなくもちろん父も自分の小遣いを削ってでも仕送りをしてくれたのだろう。そんな両親に自分はどれだけ恩返しをして、親孝行をしているのだろう。幸い両親は未だ健在だ。でも父は80歳、母は75歳だ。孝行する時間はそんなには残っていない。何もやらない、できない自分が情けない。息子夫婦と孫が元気で暮らし、たまには顔を見せることが何よりの親孝行だ、などとうそぶいているうちに時間は刻々と過ぎてゆく。
「東京タワー」のオカンは幸せに逝ったのだろうか。もちろん最後に息子と暮らし、オトンと息子に看取られたのだから幸せだったのだろう。うちの両親は幸せな気持ちで逝くだろうか。私が死ぬとき幸せに逝けるだろうか。それはそのときにならないと判らないし、今からどうすればいいのかもよく分からない。でも両親にはできるだけのことはしてあげたい。