父のことをもう少し書いておきたい。
父は子供をベタベタ可愛がるタイプではなかった。でも殆ど残っていない僕の小学校前の記憶の中でも、父は結構遊んでくれたと思う。
幼児番組でやっていた「空とぶジュータン」の真似をして座布団に僕を乗せて部屋のなかを走り回ってくれたり、デパートの屋上の遊園地で、僕の大好きな電動自動車に乗せてくれたり。
小学1年生の時に、保土ヶ谷から横須賀までバイクの前に乗せて連れていってくれたり(思えば乗り物ばかりで、それで僕は乗り物好きになったのか?)。
若い頃は相当短気だったらしいが、その片鱗はごくたまにしか見せなかった。どちらかというと大人しくて、無理やうるさいことを一切言わないタイプだった。
僕が高校生のとき髪を伸ばし、バンドに夢中になってもなにも言わない。大学は東京の私立にすることに決めたときもなにも言わない。
あとから母に聞けば、父も息子にはいろいろ言いたいこともあったようだ。でも息子の意思を尊重して、良い意味での放任主義を貫いてくれた。今考えてもありがたいことだと思う。
30代から腎臓を患い、だましだまし凌いできた人生だった。でもその割にはいろいろな事に興味を持ち、特に定年後はありとあらゆることをやってきた。
剣道はまさに父のライフワーク。学生時代に剣道部で3段を取ったらしいが、40代でまた始めて、70代前半までは毎週どころか週に2回は道場や警察、消防署に通っていた。最後は小学生の指導に夢中になっていたが、結局「教士8段(年配者で指導者に与えられる資格?)」を取得したと思う。
剣道では飽き足らず、居合道にも夢中になっていた。生来の凝り性の性格もあって、本物の日本刀まで打ってもらったっけ。これが法華三郎氏の「大和伝」一ノ蔵の酒の名前にもなっている。
その他、挙げたらキリがないぐらいいろんなものに凝って手を出した。
お城、模型、バードウォッチング(立派な双眼鏡と三脚がある)、天体観測(立派な天体望遠鏡と三脚がある)、ハングル語講座(祖父の仕事の関係で、父はソウル生まれ。韓流ブームのずいぶん前から)、山(DVDや写真集がいっぱい)…。
母によれば、昔医者からは「定年まで命が持つかどうか」と言われていたそうだ。それでもここ10年間人工透析を繰り返しながら、散々やりたいことをやってきた。それで86歳まで生きたんだから、幸せな人生だったのだろう。
僕もここ数年のうちに山好きの父を上高地・西穂高、草津白根山に連れて行けたので、ちょっとは親孝行ができたと思う。
ただ、父は僕が仙台に戻ることを心待ちにしていたようだ。仙台転勤の内示が出たその夕に逝ってしまい、朗報を聞かせられなかったのは、なんとも残念だ。それだけが心残りではある。