ふろしき王子のブログ◎
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カフェと喫茶店の違いをきかれ、
店内の明るいのがカフェで
薄暗いのが喫茶店と答えた。
法律上は営業許可の違いもあるが、
喫茶店は密室感があり、江戸時代の
待合がルーツと勝手に思っている。

低い卓、弾性あるソファー、
仕切りや観葉植物、薄手のカーテン
やステンドグラスのほの暗い空間、
ランプの部分照明は、お膳(後に
ちゃぶ台)、座布団、ついたて、
屏風、深い軒やひさしの日蔭、
障子、行灯といったパーツを欧風に
しただけで、骨格は和室のままだから
日本人は落ち着く。

部屋を純喫茶風にするなら
テーブルと椅子を低くする。
長居しやすく椅子には布団屋の
ふかふか座布団。窓が広くて明るい
なら薄手のカーテンやカッティング
シート、ポスターで遮光。蛍光灯は
ランプに替え、テーブル周りは
ついたてや観葉植物で目隠し。
カップとケーキ皿は特別なものを。

和風建築は土壁への雨の打ちつけを
防ぐ深い軒(のき)により陰翳が
ただようため、衝立で囲い
行燈をともせばただちに密室が
完成する。

純喫茶の席の囲いは城塞の密閉では
ない。つい立てや植物、光と闇の
コントラストで演出される
〔存在のもたらす密室感〕で
呼吸があり日本の氣候に合う。
ふろしきも中身を包むが、タッパーや
ポリ袋のように口を塞ぐのでなく
隙間ある繊維ゆえに余分な空氣を
抜きながら抱きしめる。


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「持っていないように持ち、背負っていないように背負う」

肩が力んでいて、緊張し、しんどそうに頑張っているような
荷物の持ち方や背負い方では、長つづきしないし、無理をかけて
不調やからだの歪みを起こしたり、風呂敷は不便という認識に
つながったりしてしまいます。

肩の力を抜いて、土台(重心)が低く安定すれば
何事も全身運動的に負荷が分散され、単に
自分の体重がふえただけの状態になります。
そのように持ち、背負うことができれば、
実際の荷物を見ない限り、他のからだの部分や
顔の表情を見ても何も持っていないように見えます。

こういう状態で風呂敷をつかえれば、
風呂敷を通して自分の身体のつかい方も
向上し、それは、風呂敷をつかうときに限らず、
暮らしのあらゆる場面における心地よさに
つながっていきます。
きっと、これはどんなことでも、身体の声を
聴きながら向き合っていけば、
自分のやっていることを通して身体を知り、
それは一生かけて探究できる際限のない深さを
もっているものでしょう。

疲れない身体のつかい方をめざしてゆくことは、
宝物としてのからだを大切にすることにもなります。
逆に、疲れるということは、間違っているともいえます。
つかれない身体のつかい方に、こころを尽くす。

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「包みや袋は、無闇にゆらさずに持ちあるく」

ようやく、真に作法ぽくなってきたような。

ウォーキングのように腕を振っては、包みや袋も揺さぶられて、
中身がずれたり動いたりぶつかってしまい、お菓子はひっくり返ってつぶれ、
寝ていたハムスターは目覚めて激怒しますので、
柳腰でするすると、摺り足のごとく歩くのが向いています。

日本人の古来からのナンバ歩きや忍者走りが、まさに
腕を振らず腰をひねらない、身体にも荷物にもやさしい
身のこなしとなります。

ナンバ歩きは、右手と右足を一緒に出すというのは
誤った認識です。盆踊りのように右手を突き出すなら、
腰をひねらないために右足も出すようにはなりますが、
単に歩くならば、そもそも腕を振る必要はなく、
下半身だけで歩くようなものなので、
上半身は停まっていてもよいし、剣を振ったり
手裏剣を打つなど、好きに動かすことができます。

そういうわけで、自然体ながら手を停めておけるので、
持った荷物も縦揺れせず、慣れればケーキの入った紙袋を持って
突っ走っても中身は安泰ということもできます。

風呂敷は、羽織や帽子、ウエストポーチに巻きスカートなど
身につける技もたくさんありますが、元々は
物をつつみ、運ぶ用途が多かったでしょうから、
その役目をきちんと果たすためにも、つきづきしき
持ち方、歩き方、走り方をして、確実に丁寧に
物をつつみはこびましょう。

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「限られた枚数を使い回す」

コレクションのようにずっと保存しておくのも
もちろんありでしょうが、
やはり使いながらの風合いの変化や修繕による
時間の厚みのようなものも、たのしめたらと思います。
風呂敷は、使い方を限定するものではないので、
さっきまで買いもの袋だったものを肌寒いので
羽織に結び変えたり、その後は大荷物を背負い、
帰宅したら布団の足しの肌掛けにするような
多目的な七変化も醍醐味です。

大(約100cm幅)1枚、
小(約50cm幅)1枚の合計2枚あるだけで、
お出かけでも旅でも無敵度が35%。
大2枚、中(約70cm幅)1枚、小3枚もあったら
無敵度合い85%になるでしょう。

大と小による合わせ技や、足りないときに小を斜め折りして
つなぐということもあるので、
両サイズを携えてあると鬼に金棒、人に風呂敷です。

洗っている間に使う予備も要るかとは思いますが、
ふろしきは、水で手洗いすればだいたい綺麗になりますので、
それを絞って干しておけば、寝ているうちに乾きますし、
大きく汚れなければ、あまり頻繁に洗いすぎると生地が傷みます。
強い洗剤は厳禁。素手で触れないようなものは
はじめから使うべきではありません。

ともあれ、サイズ違いで数枚あれば、その使い回しや
合わせ技コンボにより、あらゆる機能をすずやかに
果たすことができます。
タンスの肥やしにするよりは、いつもよく使って、
使いながらコレクションでよいと思います。

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「触りここち(皮膚感覚)を大切にする」

たしかに風呂敷は、結び方以上に見た目の色や柄によって
印象が左右されるので、
可愛い布であればシンプルなお弁当包みでもかわいいと思われるし、
どんなに凝った結び方でも、唐草模様だと泥棒といわれたりします、笑。
でも、本当に長く愛用されていく風呂敷は、見た目の好きも大きいですが、
もっと影響するのは皮膚感覚、さわり心地、テクスチャーの部分です。

生きものとしての皮膚にとって、蒸れないというのは重要なので、
麻>絹>綿>化繊 のように、からだにとっての喜び度が変わります。
また、天然素材であっても、加工が少ないほど隙間が多く多孔質で、
片付いた部屋や洗い立てのタオルのような心地よさにつながるので、
見た目ばかり重視して華やかなプリント柄に一喜一憂しすぎることなく、
自分の肌にとってどうなのかを、感じてえらんでゆくと、
たとえ汚れたり穴があいたりしても直してずっと使いつづけたくなるような
すてきな風呂敷になります。

めをとじて、指先でなぞることで生地を選んでみるという視点も取り入れ、
手が放したくない、ずっと持っていたいと感じるものが運命のいちまいになるでしょう。

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「都度、こまめに、使いここちよい形に調整をする」

レシピ通りに結んだからそのまま役立つ、とは限りません。
たとえば、袋状にしたときの持ち手の長さが、ちょっと長い/短いというときに
結び目の大きさを変えることで取っ手を伸ばしたり縮めたりできるので、
そうやって自分自身のからだにとって使いやすい状態に整えることができます。

また、使いはじめはちょうどよくても、だんだん中身の重さなどで
持ち手の布が伸びて、長すぎに変化することもあります。
結び目が緩むこともあります。
行きはげんきだから片手で持って行けたが、帰りは疲れたから
背負ったり斜めがけにしよう、ということもできます。

風呂敷は、使い方の決まった道具ではなく、いちからいかようにも
生み出せる材料なので、ちっとも我慢が要りません。
少しでも不便を感じたら、改良すべく結び直すことで、
ずっといい感じでいくことができます。

ちょっとしたさじ加減が天地の差を生みますし、
見映えのよい結び方でも、自分にとって使いやすいかどうかは
別の話です。
同じ重さでも、持つ人の体力や持ち方、身体のつかい方によって
しんどかったり軽快だったりと、千差万別です。
それでも、いつも風呂敷をつかっていると、それに合った
からだの使い方なり筋肉ができてくるので、
だんだん身体化してきます。そうなれば、
別段凝った結び方をせずにシンプルなお弁当の結び方だけでも、
自分のからだとの組み合わせによって、まことに結構な
存在となります。

この時代、テンポよく分かりやすいハウツー動画を簡単に
検索できますが、誰かがたまたま紹介したかった結びを
再現しようととらわれることなく、
愚直な独習で、布とコミュニケーションをとりながら
自己流にひも解いていく、そういう人がふえたほうが
世の中たのしくなるし、文化や技術としての深さが生まれるでしょう。

風呂敷をつかうのが目的ではなく、
自分のからだをより便利につかいこなすための
拡張&形状記憶オプションですので、
必要がなければ、ただ手でつかんで運べばよいし、
荷物が多ければ、誰かと手分けすればよい。
とにかく、無駄な無理や我慢をせず、ここちよく物事を
はこんでゆくために、自分の手足の分身として
風呂敷を役立てたらよいと思っています。

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「たて結びにならないように」

2つの角を2回結んだときに、元と角が平行になる「真結び」と、
十字に交差したような「縦結び」の2種が生じ、それは
2回目に角の左右どちらを前と後ろに重ねるかによる結果の違い。

いつでも、同じ側の手を前にして結んでいると縦結びになる。
バランスよく、ニュートラルな結びにするためには、
前後の位置を、右手や左手のどちらかに偏らないほうがよいので、
やはり真結びの方が安定している。
さらにいうなら、真結びへ至る道程は8通りあって、
もっともバランスがとれているのは、
2つの角のどちらも、一回巻いているという状態。
これは図解しないと分かりにくいので今は割愛しますが、
同時に、例外もあって、たとえば風呂敷とビニルひもを
つなげるときや木綿と化繊の2種の風呂敷をつなげるときは、
つるつると滑りやすいほうの角は、複雑にして抜けにくくするために
2回とも巻くとようにするという技がある。

真結びをとっても、角の大きさや元の締め方によっても
安定度が変化するので、元々不安定な縦結びはよほどの例外を
のぞいてはおすすめできない。
固くなってほどくのが困難になるか、または元を引っ張ると
するするほどけてしまうこともある。

だけど逆に、風呂敷で本当にきをつけることは
縦結びにしないことと、真結びは元をしっかりと締めて
動かないようにすることくらいなので、あとは
いくらでも自由にやっていけます。

現在、半数以上の人が、普通に結んで縦結びになってしまうので、
ここは、幼稚園なり小学校からきちんと身につけたい部分です。
ひもにも通じるので、救助や避難に使おうというときの
安全性にも関わってきます。

そんなわけで、僕はウザがられたとしても、
縦結びを見かけたときはこれからも
指摘してゆくでしょう。

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「用が済んだら、ほどく」

これは自分でも徹底できていないのだけど、
ほどくために風呂敷を使っているのであって、
ほどかないなら縫いつけちゃってよいともいえる。

元々、ほどく理由の第一は湿度対策で、じめじめした氣候の地域では
風通しと乾きやすさがいのちで、湿ったままではカビたり傷んで
物が長持ちしないということ。

次に、ほどくことで他の用に使いまわすこともできる。
きぶんもリセットできる。

元にもどすということ。

自分のしたことの後始末、落とし前ともいえる。

用が済んだのにまだほどかずにそのままにしているということは、
どこか、まだ未練があるということかもしれない。
でも、そこでうだうだといつまでもしがみついてないで、
たとえ不完全燃焼だったとしても、きっぱりとほどくのだ。
なぜなら、ほどいてみないと自分が本当はどうしたかったかに
きづくことはできない。
迷わずほどこう!

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(作法の内容は、順不同です)

「包みの中身は、バランスよく配置する」

ふろしき包みは、カバンと違って中身のかたちがそのまま
あらわれるし、カバンよりも軽い分、中身の配置がそのまま
重心となって持ちやすさ/にくさへとつながるので、
ジグソーパズルとまではいかないけれど、
バランスを意識して風呂敷の上に置いてから包む。

それは見た目や大きさだけでなく、重さのバランスもあるが、
最終的に持ちやすいことと、
結び目の角の出方が左右均等であることが大事。
角の大きさが違うとほどけやすく不安定。

最も大切なことは、自分のからだにとって
持ちやすい、使いやすいかどうかということで、
そこは妥協せずに、自分の身体と対話しながら
とことん調整や工夫をたのしむ。
だって、心地よくなることを放棄したら、
無駄に我慢するということで、身体や心、いのちへの
冒瀆になります。

そういう決まりだから、という考えなしの作法ではなく、
それが身体にとって自然で心地よく、理に適っているということが
大事ですね。

しかし結局は、バランスよく配置するのは
使いやすいから、という後づけの理由ではなくて、
自分のしぜんな感覚としてそうしたいから、に尽きます。
そんなわけで、改めて言い換えるならば、

「包みの中身は、自分がしっくりとくる配置にととのえる」

このように書いたほうがふさわしいでしょう。

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未来は過去の生かし方。
今はそのコントローラー。

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物と手と風呂敷の必然から
織りなされる、名もなき結び方たち。
役目を終えればあっさりと
ほどかれ、記憶にも記録にも
のこらない。
リアルはそういうもので、
絵にならない日常と
無名の勇者が、世界を支えている。





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帰りの風呂敷が重い。
浅草の実家の屋上で、
さつま芋を掘ったから。

あと、同じ風呂敷のなかに、
生きたニホンイシガメの
赤ちゃんも入っている。

ふろしきは、
たからものを
つつむ布。


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日暮里ザクロレストランのフライパン。
道具も、ご飯も、人と人を親密につなげる橋渡し。
主役はいつも、1人1人の存在の尊さ。
たくさんの笑顔を、これからも◎◎◎◎◎!♪

ベリーダンスのすてきな先生と出会い、
すぐに役だつふろしきの技2つをお伝え。
似顔絵も描かせていただきました。
「ちゃんと似てる似顔絵を描いて
もらったのははじめて」と
よろこんでいただき、恐縮。

ディフォルメして特徴を大げさに表す
のではなく、そのまま簡潔にかたちを
とらえるようにしています。

そこには意図や意味をもたせていないため、
見るごとに表情がかわる(=自分の状況が
反映される)、
いつまでも飽きのこないものになります。
描いている本人も、結果を予期せずに
目と手の声とうごきに任せ、
出来上がりをイメージせずにいる。

すでにイメージできたものを忠実に
再現するのは、過去の焼き直し。
創造は、いまこの場の息吹との交流だ。


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新聞・雑誌の掲載用や
講習会のレジュメに用いる
ふろしきの結び方のイラストは、
たいてい、その都度1から手描きで
作成しています。

使いまわしをすれば
どれだけ時間の節約になるか
知れませんが、
今日こそが自分史上もっとも
進化していてほしいという
願いもあるのか、苦労性かも
しれないけれど、
直線や説明文までほぼ直筆です。

パソコンのラインやフォントを使えば
確かにもっと綺麗に見やすくは
なるでしょう。でも、
つかい方を分かりやすく説明する
=つかいたくなる、ってわけでも
ありません。

伝えたものを受けとる相手が、
受けとりたい!とつよく思うかどうか。
それには、どこか胸うつところが必要です。
表面的な完成度とは違う、ちょっとした
さじ加減に宿る、真の思い。

微妙な加減は、テーマやコンセプトによる
大ざっぱな間に合わせ編集では
削ぎ落とされる部分。
いきものとして、手脚の勝手に
うごいた結果に表出される、
言葉にしづらいまなざしとか
偶然に発生したたたずまい。

さように四の五の言いながらも、
今つくり中の、あたらしい本のために
よりいっそう心して描くイラストが完成したら、
その原画を使いまわしながら、目的に
あわせてアレンジするような
効率化くらいはするかもしれない。

さて、きょうは日系人向けの動画教材の
撮影へ出かけます。
8時に家を出るのに、ただ今(7:40現在)は
海ぱん一丁(部屋着)で、着物も風呂敷もこれから準備。
ふろしきは、事前の準備がなくてもその場でむすんで解決
できるので、生き方もそうなりました。
否、もともとそういう生き方だから、風呂敷と共鳴したのでしょう。

最近出会ったことば。
「私は、スランプと言う現象は有り得ないと
思う。スランプと言うのは、過去の自分を肯定
するから起きるのだ。今の自分に満足して
いなければ、スランプは起きない」
甲野善紀

過去の成功体験を再現しようとし
方法論や表層を真似ると微細なるさじ加減が
喪失することで再現だに不能となるのが、
一般的なスランプなのだろう。

自分の場合、上手くやれなかったあの時も、
絵にならない日常も、未来への自然な変化も、
その時時の必然として起こると捉え、
自分とともに、答えも日々変わってゆくと
考えている。
前もって目指すべき答えを知らないから、
スランプは存在できない。

悩む人がいるなら、
「スランプは、過去の成功など偶然のゴミで、
きみならもっと上をめざせるというエール」
と捉えてほしい。


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スマホから打ちこんでおります。
何か写真を入れてみんとしても、
リストに画像が表示されず、
わからない。まだまだぴよ子です。

こういうことは、若い人ほど
感覚的に操作できちゃうのだろう。
携帯ネイティブですね。

写真撮影はあたり前として、
動画を撮るのもきっとハードルは
存在しないはずだ。

子どものうちから空氣がごとく親しむと、
無意識のさじ加減が能う。
姿勢と呼吸と、生み出さるるものが
一致する。

そのうち日本にも、だんだんとまた
「風呂敷ネイティブ」が育ってくれば、
道具としての距離感が薄れて
個別の感性や身体感覚に根ざした
「手足としての風呂敷」という
ステージへと進化されるだろう。

そうなってくると、より
皮膚感覚との共振が希求される。
主に視覚的な風呂敷単体の魅力から、
素材自体の機能性、表面的でない
色の味と深み、
からだとセットの使い勝手そのもの
が問われると同時に、
個人の技加減が、使い勝手を左右する。

様々な結び方レシピを知っているか否か
ではない。
もっともシンプルなお弁当つつみでも、
加減ひとつでレベルとラベルの
違いが生じる。
さながら、塩むすびが結び手によって
天地の差があるように。

真の個性は、結び方の新たしさではない。
同じことをやっても、否応なしに現出する、
ちょっとした全てのことだ。

雰囲氣をうみだすのは、細部の奥の、
ひとかけらのきらめきによる。



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