ソリッド(固体)でもリキッド(液体)でもある脳みそに、
この頃はいつでもナマズが悠々と泳いでいたが、
今日からは、ニワトリがつんつんつついてくる。
昨日、鶏の絵を何ジッ羽も描いたからかも。
頭に浮かぶ順に、ニワトリ、なまず、カメ、うさぎ、カニ、
えび、猫、犬、馬、牛、龍、魚、人とつづく。
もちろん、やっぱり人が一番好きではあるけど、
カエルやヘビたちの居場所を人が駆逐してきた過去があるから、
何とか生きものを助けたい思いがつよく、生きものが豊かな環境は
人にとっても、生きよいと考える。
前進もままならぬ原生林というより、田んぼで共存しているような、
大自然と人の自然がコラボ共栄している具合がよい。
人もやはり、自然の中や自然の素材と共にあってこそ、うつくしい。
100円ショップのタッパーに、キャンディーを入れて
持っている娘っちも愛らしくはあるが、
今頃採ってきた葛のつるを手で編んでみたカゴに、
栗など拾ってきた女性は、遺伝子レベル、皮膚感覚から
愛おしく感じる。
服もまた、ナイロン100%のテラテラした服も意外な魅力があるが、
一本ごとに紡がれた綿や麻の糸が、いちまいのきれに織られたのを
シンプルに仕立てた衣と、人。
植物に包まれた動物の、生(せい)のなまなましさ。
まるで血の色さえ伝わってくるような。
スマホにうつむき、人生の半分をバーチャルな世界で過ごす
現代。リアルをより豊かにさせる道具であればよいが、
実際に会わなくても、ふれあわなくても
目的を浅く達成させ、やり過ごしちゃうもったいなさがある。
生身の人の瞳に、宇宙を観る。
そこには、彼女が今まで食べてきた
幾千もの秋刀魚が泳いでる。
悲しかったこと、美味しかったこと、すべてが、
あらゆるはしばしから、何か出てくる。
見えない世界も、見える世界に顕れてくる。
目をつむっては、闇の中、自己完結の空想が広がるだけだ。
情報でも又聞きでも想像でもなく、
直接実物を見ることで、見えないものが見えてくる。
髪の毛や皮膚から感じとれることがいっぱい。
会わない人を好きになるのも、
会わない人を嫌うのも簡単だが、
空想の世界にとどまる。
インターネットも、希薄な事典に過ぎない。
例えば僕のおじいちゃんについて調べようと、
何も見つからない。
親戚の誰かに聞いたほうが百を知れる。
それでも又聞きだから、生きてるうちは本人に当たるほうがよい。
だけど、人は何かを質問された時、
相手からの期待を察して
答えたりするもの。
真実やいづこ?
いつだって、意味は変わるのだ。
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