何か目的があって、その達成の手段として選択や行動があると考えるのが一般的だが、逆に、 自分が何か行動したことに対し、それを 正当化する理由を後から(無意識に捏造して ) くっつけることで、心のバランスをとろうと する作用が存在する。
たとえば誰かに暴言を吐いてしまったとする。 そ奴のことが氣にくわないのが理由であると 考えやすいが、単に、はじめから イライラしていたところに、 ささいな種火をもらっただけかもしれない。 たいていの怒りは二次感情なのだ。
しかし、暴言を吐いてまった以上、 心理的には 「オラにここまでの暴言を吐かせたなんざ、 おめーには相当の非があるっちゅこった」 という正当化が無自覚に起こるため、 罪悪感もなく、自分の言い分が 正論と確信してしまう。
じぶん側が正義と思いこんだら、 人はいくらでも残酷になれる。
知人の話では、ある男女カップルがいて、 女性側が浮氣をした。 男性は特に問題行動をしていない。 しかし、日に日に女性は、パートナーの 男性のことが嫌でたまらなくなってきたという。 私はこれを聞いて、 「なぜうわきをした側が相手を責める? 何様かえ」と驚いたのだが、 今となって理解するのは、 その女性の中では、 「浮氣をしたのは、相手側に落ち度が あるためにやむを得なかった」という 物語を現実化するための自己催眠が 起きていたのだ。 嫌いだから浮氣したという以上に、 浮氣をしてしまったから相手を嫌いに なるという恐ろしい情況が育まれて しまうのだ。
そういうわけで、人間弱いものだから、 できれば、わるいことは最初から せぬほうがよい。 何らかの悪事をいったんはたらくと、 正当化する理由を知らず妄想して、 罪悪感を減らしながら繰り返すおそれがある。
その洗脳を何とか解いてほしいと、 人生は大波小波をかぶせて、 大切な何かをきづかせようとする。 もちろん、実際には個別のケースバイケース ではあるけれど、 ニュートラルに見て理不尽な所業であった ときには、天がゆるさない (それは罰というよりも、大切なものを 思い出してもらうための愛にもとづく)。
だけど、行動というのは当然ながら プラスの側面もある。 汚い川があったとしよう。 地域の住人も、見ないで通りすぎる。 しかし、もしも一度そこで泳いでみたならば、
「私が泳げた川がそこまで汚すぎるわけがない」 ↓ この川は、じつは皆のいうほど汚くはない。 ↓ もっとますます綺麗になってくる。
自己肯定感がつよいほど、自分に関わる ステージもまた、共鳴や同期を起こし、 それを現実化するための行動も自動的に 作動する。
自分が泳いだ川にゴミがあったら、 じぶんごととして、掃除したくなる。 自我が身体を超え、環境や他人も まるっと大切にしようと思える。 行動とは、そのように生かしたい。
何かへの反動、あてつけ、ルサンチマン ではなく、理由がはっきりとしなくても、 つい没頭&リラックスしながら 時間を忘れて行動してしまうもの。 そこには後追いですてきな理由が育まれ、 やがて本当に、そうなってゆく。
| Trackback ( 0 )
|
|