ふろしき王子のブログ◎
出前講座開催☆
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西荻窪へむかっている。
個性的な個人店も多く、わりと好きなまちだ。
ちゃんと散策をつづけたら、もっとずっと氣に入るにちがいない。

記者になって取材しようかな。
まずは客として行き、親しくなってきたら取材を申し込む。
移ろいつづける、街と時代のいまを形にとどめてみたい。

駅まえの手芸店で、妻が縫いものにつかう刺し子糸を
買ってから、喫茶店「それいゆ」で友達と会う。
お互い子どもを持つようになり、
家族の健康や暮らす環境のことなどを語らいたい。

その後14時に、長年ご無沙汰していた初老の友人と
池袋で再会し、画家・熊谷守一の映画を鑑る予定。
絵はたまに見かけるが、熊谷氏についてはほとんど
知らないので、たのしみにしている。

昨夜甘いドリンクを飲んだので、胃腸を休ませつつ
からだを動かすことにし、お昼は抜きと思っていたが、
結果はそれいゆでお互いカレーを注文。

12時に別れ、14時の池袋まで時間があるので、
新宿までは中央線でなく、各駅の総武線に
おだやかに揺られる。

手段は目的を変えることがあるし、
その場に存在する材料や手段こそが結果を発生させるという
意味では、先に目的や目標を決めるよりも、
今ここにあるものと向き合い戯れているうちに「できちゃった」
ものが、必然の産物ともいえる。

川があるから魚がとれるのが普通で、
魚をとるために川から造ることはあまりしない。

なぜなら、そこが川になっていることもまた
氣候や地形的な必然であるためである。

自然のなかに、人がいる。

だけども、

人のやらかすこともまた、人の自然。

ここの折り合いには愛が要る。
鳥の視点、虫の視点、木や花や土の視点。

視点の多様性は愛へとつながり、それを具現化すると
様々な存在の居場所たる隙間がふえて、表面積が増す。

愛は視点(登場人物)の数と、表面積のひろさに比例しよう。

しかし万人に都合よい形は、固定困難であるから、
都度臨機応変に可動変化自在であるのがこのましい。

風呂敷はまさにそのことである。

さて、映画後にお茶してから帰れば、もう夜になっているだろう。

時間はいのちだけど、移動が速ければよいわけでもない。
ぎゅうぎゅうの満員列車で30分で着くのと、
倍の時間かけてもゆったり座れたほうが、生命力は消耗しないかも。

いのちを、生命力という視点で見つめてみれば、
最もはかがいく(はかどる)のは、住んでいる所が
すてきであること。

よそのパワースポットを訪ねありくのでなく、
今いる場を佳きにしつらえていけば、環境とむすばれた
植物的な生き方ができる。

植物あっての動物であり、動物ばかりでは生きられないから、
与えられた場所に居着きながら、ものを生み出し
はぐくんでいく、植物の姿勢を見習ってみたい。

家には生地が待っている。帰宅したら縫いものをしよう。

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3匹のサナギのうちのいっぴきが蝶へ変わり、
空色のそらへと舞い上がった。







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先日訪れた、市民の憩える森。
高い樹がにょきにょきと伸びており、一見、自然に包まれている。

ところが、木に携わるプロからみれば、不自然な窒息状態であるという。

それは何でか?

原因は、落ち葉掃きにあった。
もっとも、その落ち葉は近隣の農家さんが
腐葉土にせむがため、掃きあつめて持ち出してくれているのだが、
それがどう森を窒息せしめるのだろうか。

樹樹にとりては、それら落ち葉のクッションが不可欠なのだ。

1.落ち葉の層が雨水の保水性をたかめる。
 根が地下水ばかりを目指さず、横にも伸びれることで
 枝も横方向に広がり、安定を生む。

2.落ち葉の揺りかごに包まれたどんぐりは発芽し、
 次世代が育つことができる。

3.落ち葉が緩衝材となり、土が踏み固められない

落葉広葉樹が中心となる雑木林は、人が木をつかうことで
次世代に太陽光が射し、永続的な循環がうまれる。

落ち葉をその場にのこしておくことは、想像以上に大切な要素だったのだ。

その場に生じるものは、極力他所へ持ち出さず、
また、外部から持ち込むこともしない。

その場所に必要なものは、全てその場に揃っている。

そうでなければ、その環境でいきものは生きていかれない。

使ったものはその場に置いておく。
またそこで使えるように。

環境に溶けてとろけて、いきていきましょう。

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こんど、ふろしき講座をする西八王子のカフェに
挨拶に行き、いちまいポストカードを描きました。
ねことノウゼンカヅラ。


夕食はラーメン。10分で完成。
具はネギとモロヘイヤ。
スープにはおろし生姜も入っています。
麺はほとばしたパスタを重曹で茹でたもの。

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今日は家と周辺におりました。

駅前でお米や卵、ティッシュを買い、2階で麻のふろしきとふんどしを縫い、
合間に食事をし、池波正太郎さんの小説(初期の現代小説)を読んだりしていた。
また、帰宅した子どもたちと、先日つくるのを手つだった溜め池を見に行った。

このブログの初期のころにしばしば出てくるが、僕は人や物の「重心」を見極めて
ひとつの判断材料としている。
重心は土台であり、土台は低いほど安定している。
重心が低い位置で安定していてこそ、その上はことごとく自由となる。
つばさをはばたくことができ、飛翔できる。

スーパーでお米を買うときも、どれがよりよいか、表面的には分かりづらいので、
種類ごとに重心を見て、低いものをえらぶようにしている。
重心判断は、頭や心の思考とは別の感覚でありながら、何度みてもそうなるという
揺るがなさがあるので、もう10年近く、確信をもって役だてている。

物事には、さまざまな判断材料があるが、その視点は多いほどよいだろう。
にこにこしている人の心中が、真に穏やかであるかどうかは分からない。
顔でわらって心で泣いて、ということもある。
内実は精神的に不安定であれば、重心は上がる傾向にあるから、それを見抜ければ、
ただ微笑んでいるから優しい、という安易な判断に流れなくなる。

もともと、重心に興味をもったのは、幕末や近代の古写真をみたときに、
細見で筋肉も盛り上がってないような、なで肩の人物が
剣や武術の達人であるという事実だった。

共通するのは、上半分を手で隠してみたときに、下半身が安定し充実している。
まさに、重心が低い。
よく「臍下丹田」といって、へその下に重心があるのが理想とされる向きもあるが、
それは昭和30年代くらいまでの、暮らしと足腰がむすびついていたころの
ほとんどの日本人の重心の位置でもあり、

剣士や達人となると、より低い、ももやひざ、さらにはすねや足首の低さの
人物さえあった。


(このアカガエルの重心は、かかと)

一方、現代の日本人は、情けないことに、90%の人間が、
肩よりも上に重心がある。

生まれたときは、自然そのもので、イキモノとして輝いているのだが、
その後の暮らしや社会、教育によって徐々に高くなっていく。

自分の高校時代の写真を見ると、重心は肩にあった。
何しろ高校時代は毎日皆勤賞のようにゲームセンターに通っていて、
仮想の世界で指先だけうごかしていたし、
自宅でも机に向かって絵を描いてばかり。
足腰とかけ離れた生活を送っていた。

かんたんにいえば、
重心の高さが
・頭…頭でかんがえる(頭でっかち)
・胸…こころで思う(感情的)
・腰…魂でかんじる(直観)
・脚…細胞にまかせる(遺伝子のプログラム)

重心は、頭や意識で「下がれさがれ…」と念じたところで、ますます
頭でっかちになって上がってしまう。

思考せずとも、使っている部位には筋肉やスジが動き、血が流れ、
しぜんと意識も届き、血肉が充実して密度をまして、重心が下がってくる。

そうなるように、徹底して足腰をつかうことにした。

といっても、ジムへ通うとか、筋トレや登山をするわけでもない。

大切なのは、くらしに足腰をとり入れることだ。
大きな一発よりも、毎日のこまかな継続のほうが、揺るぎなく身についてくる。

よく歩く。それも、下駄や裸足や歯が一本の下駄。
腰に帯を締める。斜めに折りたたんだ風呂敷で。
ズボンのゴムを抜き、ひもに入れ替える。
同じくゴムの入ったパンツをやめて、ふんどしにする。

掃除機はつかわず、ハイハイしながら手や小ぼうきをつかって清掃にはげむ。
エレベーターやエスカレーターではなく階段を選ぶ。
いつも風呂敷をせおい、荷物を腕力ではなく背中で受け止めて
からだと一つにする。

そのうち、歩き方まで変化して、腕をふらず、ウエストを捻らない
にんじゃ(ナンバ)歩きしかできなくなった。
それで走ると、手を停めたまま、あるいは脚の動きと無関係に
自由に動かしながら、上下のぶれは無く走ることができる。

試しにカメラで動画を撮りながら走ると、まるで魚が水中をすすむように
滑らかに撮れている。

重心を下げられたことが、20代の最大の収穫といえるかもしれない。

重心は、浅い物理学で説明できるものではない。
なぜなら、体内には血流やリンパの流れがあるし、
その体液のミネラルを通して、微弱な電気信号もながれている。
そして、どこまでが体かという問題もある。

元素、さらには素粒子レベルで見れば、物質は隙間だらけであり、
粒つぶでとらえれば、体もまわりの空気も地面も境界線はあいまいとなる。

水も、たくさんの隙間があるからこそ、塩を入れても溶けるうちは
あふれ返らない。

そういう視点でみれば、重心は足裏から頭頂までのどこかに収まる範疇ではなく、
足より下とか、頭より上ということもあり得る。

自我がなく、まわりの環境と一体化していれば、重心は足よりも下がる(かもしれない)。
たとえば飛んでいる鳥は、その下の風とひとつになっているからこそ飛べるのであって、
「ジブンノカラダ」と意識した瞬間に落下する可能性がある。


(このカタツムリの重心は、なんと体より2cmほど下にある。まさに環境と一体化)


(このヒキガエルの重心は、体より3cm下。生き物はさすがだなあ。居場所と生命が一致している)

また、自分ではないものを演じていて、振りをして偽っている人間は
イメージの世界に生きていて、重心が頭より上に行くという仮説も成り立つ。

重心は、弱点ともいえる。
弱点は、弱いところではなく、最も大切なところだ。
生まれつき右手に力が入らない人がいるとして、その右手を攻撃されても、
それほど問題とならないだろう。
頼りにしている左手をやられるほうが困る。

重心は、その人の要となる重要な起点であるから、そこを討たれると全体にひびく。
頭より上に重心がある人は、自分ではない誰かを演じているわけだから、
その誰かがバッシングに遭っても、本当の自分は傷つきにくい。

足より下に重心がある人は自我がなくて、
環境や自然界とひとつであり、固定された自分があるわけではないから、
誰に何をいわれても、客観的に、相手も含めた世界全体をながめることができる。

長文になってきたので、つづきはまたいつか。

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明日は近所のなかまの、蓮池とため池づくりを手つだう。

どんな風につくるのか聞いていないが、

用水路から水を引くのなら、穴を掘るだけでも成り立つ。
でも、ため池なら水を溜めることになるので、
すぐに水を吸わないように水はけをわるくする必要がある。

昨今の小学校などのビオトープは、たいてい底に厚手のビニールなどで
防水しているが、水が地下へしみないというのは、循環を学ぶ場として
ふさわしくない。

睡蓮鉢のなかで、メダカの糞を養分にスイレンが生長する、程度の
小さな循環に過ぎない。
本当に水や生命の連鎖をまなぶならば、

水道で手や皿を洗った水が、池に流れこんで、それをバクテリアが分解するのを
ヨシが吸収して、そのヨシですだれを作ってつかう…ような、暮らしと結びついた
より大きな輪にしたい。

もっといえば、手を洗う水も水道ではなく、池の水を手づくりの緩速ろ過(生物浄化法)の
装置に通して清浄にしたものをつかうとよいだろう(飲み水にも展開できる)。

それは、非常時にも大いに役立つ。いつも水が流れていて、小石や砂にバクテリアが
棲みついていることが大切。

話をもどし、
なるべく自然なかたちで水はけのよくないため池をつくるなら、
荒木田土など粘土質の土を塗って、足で踏み固めればよい。
そのため池の水も、緩速ろ過器に循環させて綺麗を保てるとよいが、
たとえば、小石を詰めたネットを水中に吊るしておくだけでも、
そこを水が通れば、浄化が期待できる。
流れ込む水の流れと、風による水流、温度差による対流が存在する。

そういえば、ため池にはマコモを植えると聞いた。

とにかく、楽しみに行って参ります。

ここ地元には浅川がある。水再生センター(下水処理場)の再生水が大部分を占める
多摩川と比べて、浅川は有機物が多すぎないため、比較的きれいな水質といえる。
この浅川の水を、上記の緩速ろ過装置を通せば飲み水にも通用するだろう。
ただし、放射性物質を含めた水質検査を定期的に行なう必要がある。

浅川や流域の用水路の各所にこのろ過装置を設置し、市民や旅人がいつでも
飲める「水飲み+休けい処」とし、地元の竹やヨシや間伐材を生かした
和風の設えにすれば、よい撮影スポットにもなる。
日野市は新撰組でまちおこしをしているので、そこに「新撰組之休憩処」のような
のぼり旗を立てて、スタンプラリーができるようにしてもよい。

ベンチも地元の材で、竹を縄で結ったような簡素なものでよい。
傍らに常緑樹を植えて、日よけと、多少の雨よけにするとよい。

全て同じ樹種というのもつまらないので、
1.白樫(日野市の樹)
2.夏みかん(実は食用)
3.ヤマモモ(実は食用)
4.柚子(実は食用)
5.くすのき
6.ホンサカキ
7.スダジイ(実は食用)
8.マテバシイ(実は食用)
9.ギンモクセイ(金木犀ほど香りがつよすぎない)
10.モミ(クリスマスに人氣?)

10種類なのは、新撰組が十番組まであるからだが、
水場は多いほどよいので、こだわりすぎなくてもよい。

生命の中心は水であり、水のあるところに人も物も、思いもあつまる。

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3枚それぞれの部分。


きもの娘、ふろしききんちゃく、ヨシ、亀、たんぽぽ


小斑十姉妹のカゴ、ネコ、小さな木、ちょうちょ、トンビ


潮干の女の子、海、松、ひとで


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明日6/17(日)は、自宅でふろしき講座があり、
まだ数席空いていますので、ご関心ある方は
ご一緒しましょう。
「夏休み海の旅で役立つ風呂敷のむすび方」
というテーマですが、もちろんふろしきなので
いつでもどこでも、汎用性があります。
13時に京王線「高幡不動駅」改札口の外に待ち合わせ。
~16時くらいまで。
参加費2,500円
特典として、好きなものをふろしきに描いて
プレゼントしています(風呂敷付き)。
お茶と手づくりお菓子つき。

参加希望の方は、コメントまたは
メール isamix@gmail.com までお願いします。 横山功

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・息子の飼いたるアゲハ幼虫は、次々とサナギへ変わっている。
 適度な湿氣をたもつため、レモンの枝葉を生けたビンは
 水だけ替え、そのまま入れておく。



・明日金曜日は、自宅で縫いものと、
 依頼を受けたむすび方イラスト作成。
 夏に向けて絵をたくさん描いていこう。


電車内でポストカードに描いたもの(6枚分)

・土曜日は夕方から、市役所による地域懇談会に出席する。
 僕が何に役立てるか分からないが、未来のために心を尽くす。

・日曜日はふろしき講座「夏の海で役だつ技」(簡単水着や水難対策、キャンプ技もあり)。
 ふろしきに好きな絵を描いてプレゼントあり。

・月曜日は、地元にマコモの池をつくるのを手つだう

・火曜日は一週間ぶりに山の畑へ。

メダカの稚魚がどんどん孵ってきている。
サカマキ貝は不思議と減り、タニシがふえてきた。
ヌマエビは、佃煮にできるほど大繁殖。

徐々におたまじゃくしが赤ちゃんカエルになって、
庭のそこいらで跳ねている。

ミョウガが楽しみ。
麦茶がおいしい。知り合いからもらえたら、
秋に大麦も蒔こう。

冬の畑に生えるもの(予定)。
・のらぼう菜
・小麦
・大麦
・いちご
・小松菜
・大根
・(ニンジンやゴボウ)
・落ち葉と枯れ草と野菜くずを囲いの中に積んだ
 ところに、かぶと虫の幼虫はふえているかな?

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、来たる夏を楽しく快適にすごすために、
海への旅を想定した具体的な実地活用法を身につけます。
ご興味ある方は、ぜひご一緒しませんか。

●6/17(日)13時
「夏休み海の旅で役立つ風呂敷のむすび方」
・参加費2500円
・13時に京王線「高幡不動駅」改札口の外に待ち合わせ
・終了は16時くらい
・手づくりのお菓子つき
・海をテーマにした手描きの風呂敷をプレゼント
・定員5名
・申し込みは、メール isamix@gmail.com
または、コメントまでお願いします。

横山功
簡単プロフィール
・武蔵野美術大学卒
・教室で絵を教えている
・家庭菜園歴20年。実家浅草では屋上に田畑をつくり鶏を飼っていた。
・ふろしき王子の愛称で全国でワークショップ開催。
 著者『毎日カワイイふろしき』等
・ホームページ http://furoshikiouji.asia/
・特技 全力で走ってもぶれずに動画撮影できる忍者走り。

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今日は雨もなく、

いつだって、山の畑が偲ばれる。

次に行ったときは、野菜くず半生堆肥をかるくすき込んで、
できたら、種菌となる乳酸菌と酵母を撒いてみよう。

可能な限り外から持ち込みたくないが、逆に草や石を
徹底して取り除いたカラカラ砂漠からのはじまりなので、
人の手を入れて時間を短縮する必要も出てくる。

枯れ草や落ち葉が積み重なるのを待っていては何年もかかる。

いつか、海水も撒いてみたい。
海の塩分濃度は3.5%くらい。
植物は0.1%。

真水で35倍に薄めれば、畑に撒くこともできる。

海のミネラルで、有害な側面もあるのが塩化マグネシウム(にがり)。
たんぱく質を硬くしてしまう。

でも、微生物のいる土に撒けば、塩素とマグネシウムに
分解された上、それぞれ酵素とつながって、ニガリへ再結合はしなくなる。

海には90以上のミネラルが溶けているから、酸化を抑えたり
酵素を活性するには大いに期待できる。

それと、借りている畑には日蔭も台も無い。

竹を簡単に組み、よしずをかければ日蔭場は完成。
下にはゴザを敷く。

でも雨よけも欲しいから、軽い波板を乗せてみようか。
竹の柱と梁はひもで結ぶ。

たとえ倒れても、誰も怪我をしないような素材とつくりがよい。
ぺしゃっと潰れないように筋交いの竹を付けるが、
頑丈すぎる脆さもあるから、下部分は固定せず、
斜めのつっかい棒程度にする。
柱自体は土に埋めず、別の短めの竹を打ち込んで、それと柱をひもでつなげる。

多少は揺れるほうが自然だし、負荷がへる。

毎回来るたびに組みたててもよい。
枯れ草の上で、2枚の波板で竹材やよしずをサンドイッチし、
上に石を置いて保管する。

なるべく廃材で済ませたい。

雨よけの屋根は、波板でなくレジャーシートでもよい。
解体後の竹はただ寝かせておき、よしずとゴザは持ち帰る。

風呂敷で身についたシンプル思考を生かそう。

そこにあるものを即興で工夫し役立て、また元にもどす。

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一週間ぶりに山の畑へ。数回の雨を経、草も生えて落ち着いてきた。
はじめは砂漠だった。今もそう変わらないが。
カラカラで剥き出しで、風が吹くと土が舞い上がって
目に入る。直接さわると手がガサガサ。
それでも、微生物の酵素とミネラルが結合し、豊かな
生態系をはぐくむ生きた土をめざし、今日も素手で作業。

途中のみちで、キジの雄と間近で会う。
メスはどこかで抱卵中かな。



用水にしようと作った池は、メダカの稚魚が孵っていた。
ボウフラも湧いていたので、家から大人のメダカを
連れてきて入れる。



土が乾かないように枯草や草をかぶせていたが、
中は長年耕うんと化学肥料の畑だったので
石ころ一つ無く、虫もほとんどいない。
有機物の堆積もないため、微生物の餌もない。
そこで、枯草を少しすき込んでおいた。
表面には生の草をかぶせる。虫を呼ぶため。
虫の糞が土の中の枯草と出会えば、微生物が活性するだろう。



前回は地表にたくさんのクモが歩きまわっていたが、
今日は加えて、オンブバッタやもっと大きいバッタも
ふえていてうれしい。



それと、動物の糞があった。
桑の実の種のような小さなつぶつぶがたくさん
入っていて、ハクビシンだろうか。

日本は比較的雨が多いから、耕して土むき出しで
微生物を生かさず、化学肥料を吸収させる現代農法でも
何とかやっていけるが、そうでない地域は、
地下水を汲み上げる灌漑農業によって砂漠化が進行している。
僕のような家庭菜園であれば、せめて環境に負荷のない
やり方を模索してみてもよいと、こうして実験している。

有機肥料ではなく、生の有機物を地表に浅くうずめて、
微生物が活動して土が団粒化すれば、水はけと保水力を
あわせもった構造になる。
臭い有機堆肥は腐敗ガスを出している。
だからと完熟させては、栄養なしの燃えかすになる。
つかうなら、半熟状態でも臭くない有機物を、生で。
同じ環境に存在するものがふさわしい。

土が団粒化すれば、雨に頼りすぎず、また、植えたところだけ
ビニルマルチで保湿しなくてもよく、水はけが本当に
よくなれば、うねさえも必要なくなる??
石灰などが土を硬くして地熱が遮断され、土が冷たいと
なかなか微生物が活性しない。問題はいろいろあるが、
解決策もある。

大氣汚染物質や酸性雨によって、環境じたいに不自然さが
あるが、機械よりも手のひらをつかって、生きた畑に
近づけていきたい。
収穫が第一の目的ではなく、自分が生きものでいられる
環境をおもっている。

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以前、まだ実家浅草に住んでいたときから、
マイ塩を携帯していた。

たまにペロペロとなめる。
身体が欲したとき。汗でミネラルが流失したとき。

色んな塩を試してきて、12年くらい前から今のお塩に落ち着いている。

塩を摂りすぎると血圧が上がるから注意する、というのが
現代的な通説となっているが、

逆に不足のリスクもある。

塩はミネラルの集合体だ。栄養も酵素もホルモンも、
最終的には情報=微細な電気信号となる。
電気を通すには、体液に鉱物が溶けていることが必要で、
それがミネラルといえる。

認知症などは、血に中性脂肪がたまって
電導率が落ちることも原因といえる。

ここからは個人的な仮説も入るが、塩と血圧の関係は
まず、高血圧の多い地域が漬け物を多食しているというが、
日本で漬け物の発達している地域は冬に野菜の摂りづらい
豪雪地帯など寒いところ。

そこでは、特に風呂上がりなどの温度差が大きく、
急に血管が縮んだときに血圧が上がって内壁を傷つけて
内出血のかさぶたで血栓を起こすケースがある。

塩は無関係となる。

ただし、塩が血圧を高めることはあるかもしれない。
なぜなら、ナトリウムは押す働きがある。
ホースを押せば水圧は上がるだろう。
特に、塩化ナトリウム99%の精製塩はその割合が高まる。

ならば、海水を焚いたような自然塩ならよいかといえば、
ニガリの影響が懸念される。

豆乳にニガリを混ぜれば豆腐になるように、塩化マグネシウムは
たんぱく質を固める性質がある。

ニガリの多い海塩を多く摂取すれば、体が収縮するから、
そのために血圧が高まることも考えられる。

塩は、醤油や味噌にして発酵することでニガリが分解される。
塩素とマグネシウムに分かれた上で、それぞれが酵素と結合する。
もちろん、きちんと発酵させたものに限る。

僕の携帯したる塩は、海の塩自体を水に溶いて有機物と酵素により
発酵させてから、低温で再び乾燥させたもので、
多種のミネラルと酵素を含みながらも、ニガリ成分は分解されている。

20代のころ、近所の小学生たちとよくつるんでいたのだが、
僕がたまにマイ塩をなめるのを見て、皆も興味をもち
寄ってきたので味見させたら、
手のひらの塩をなめては即「もっともっと」と催促されつづけた。

それを見て、現代っ子は切実たるミネラル不足ではないかと
心配にもなった。
その中で最年少だった小1の男の子が
衝撃的な感想をもらした。

「僕はこの塩だけで、いきていける」

私が浅草から引っ越すとき、10人の小学生のともだちたちに
マイ塩を小びんに分けて、イルカや貝などの可愛いシールを貼って
プレゼントした。

大切なミネラルであるし、塩は霊を払うというから御守りにもなる。

あれから、あの子たちや小びんの塩はどうなっただろう。

10年以上前だから、成人している子もいよう。

人の体液は0.9%の濃度の塩水であり、そこには35種の元素が溶けている。

それが生命を制御する電氣信号を伝え、
酵素を届ける船となる。

全身かびだらけで、両目が失明していた亀を、
昨年近所の水路で末娘が見つけ、持ち帰った。

ほとんど動かず、初めは死んでいるかと思った。
外来種のザラアシドロガメで、病氣になって捨てられたのだろう。

飼ってげんきにしたいと、長男が毎日水替えをし、
毎回僕のマイ塩をひとつまみ入れた。

ひと月後、目を覆っていたかさぶたがはがれ、目がひらいた!
でもまだ何も食べない。

ふた月め、やっと餌に食いついた!
そこからはめきめきと元氣をとりもどし、
今にいたるまで非常に活発に生きている。

遺伝子は、回復のための設計図や解決策を持っている。
ただ、それを発揮するための場、器、環境が大切だ。

環境が破壊されては、生命の制御をそこなう。

先ず環境ありき。
カエルが願えば池が現れるかもしれないけれど、
普通は、池があるからカエルが生きていける。

受け皿が大切。

人にとってその器は、体のなかの水=「水そして塩」に他ならない。

これからは暑くなって汗をかけば
ミネラルは流出する。
上手に塩分をとりましょう☆

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薬は、草かんむりに楽と書く。
つらいときにこの草を煎じて飲んだり、塗ったりしたら
楽になった、という智恵と経験と探究の成果たらん。
もともとは薬草、野草の利用であるから、ナチュラルメディスンといえるが、
その成分のみを化学的に抽出または合成した「ドラッグ」が、
現在主に使用、流通されている。

草木を使用していても、トリカブトのように毒草は存在する。
漢方だから安全、ともいえない。

本来ヒトは、どんぐりやハマグリを食べて何万年も生きてきたので、
野草も野菜も必要ではないが、

加熱して酵素を失ったことや過食、食べあわせによって
消化に負担がかかるようになると、野草などの酵素
(消化酵素の材料)やビタミン(抗酸化物質)、ミネラル(酵素をはこぶ船)を
他から摂る必要が生じた。

そのための植物をさらに抽出、乾燥、濃縮、精製して
効果を強くしたのが薬の元と考えられる。

何かのバランスの欠如を、反対の性質のもので中和して
安定化させるので、基本的に薬は強い性質を備えている。

だから、量やタイミングや体の状態によっては、
中和を超え、効きすぎて「過ぎたるは…」の状態になる。

それが副作用(副反応)に入るのだろう。
体の症状であれば、薬は肝臓が解毒しようとする負担を
考慮し、一時的な重症化を抑えるに徹し、
回復じたいは免疫という遺伝子のプログラムに任せたらよい。

問題は、からだではなく心の病。

悩んだり落ち込んだり、絶望したり塞ぎこんだり
ストレスにさいなまれたり、というのは誰にでも少なからずある。

その解決もさまざまで、時間によって和んだり、きちんと原因が
除かれたり、誰かと和解したり、距離を置いたり、
誤解や取り越し苦労に氣づいたり…。

悩みに悩んだあとに、希望が射しこむこともある。

原因が他に存在するとき、落ち込んだきもちを晴らすために
薬(抗うつ剤など)を摂ることは慎重になりたい。

その場しのぎにすぎず、悩みの源泉はなくならない。
効き目が消えたときの揺りもどしも大きいため、
こんどは切実に薬が必要と感じて、依存してしまう。

抗うつ剤のようにきぶんを高める薬の副作用で
躁状態になりすぎると、逆の精神安定剤の処方、となるが、
そのような脳内物質を薬でコントロールしようとすると、
本来の脳からの分泌の調整が不安定になる。

冷静なひと呼吸が置けなくなり、鬱症状がつっ走れば自殺し、
躁状態が制御不能になれば、人を刺してしまうかもしれない。

効く薬ほど、裏には反作用があり、リスクも理解した上で、
緊急的な対症処置として、必要悪の最終手段ととらえたほうがよいだろう。

これは、自然のものにもいえる。
大都会の中、遠くの島の植物を蒸留したアロマオイルで
癒されるのもよいが、身近に四季おりおりの草花が繁って、
芳香がただよってくるような環境に暮らすほうが
健康に思えるし、他の人やいきものへの貢献も大きい。

ゆたかな環境というのは、材料がそろっている。
都度道具を注文して届けてもらえる便利な世の中とは異なる。
材料があれば、必要なものは自分でつくれるし、
通りがかりの誰かがつくってくれたり、自分がだれかに作って
あげたりができる。

豊かな環境は、自分だけでなく、動植物や微生物が、
自然の循環のなかで、各得意分野を、頼まれもせず
おこなって、みんなのためになっている。

クスリはピンポイント爆撃にすぎない。しかも周りに散弾するリスクがある。

穏やかかつ雄大な循環の中に身をおければ、極端なことは減る。

重い荷物をひも一本で背負えば肩を傷めるが、
表面積のひろい風呂敷の、無数もの経(たて)糸緯(よこ)糸で
分散し、受け止める筋肉も広範囲なればこそ、楽にせおい運べる。

極端なもの、自分だけ助かる、儲かる、生き残る、
勝ち組負け組などの意識は、支えあって生きる
イキモノの定石から外れてしまう。

はじめからクスリで治そうとするのは孤独です。
みんなで、げんきになろう!!

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