浅草寺に雷門、水上バス、はとバスツアー、
そしてこの頃は新東京タワーてふことで
毎度のごとく観光客集える地・浅草。
震災以降、海外からの客が全国的に減ったと聞くが
国内客、修学旅行、校外学習、そして
一見似てそうでも服装と雰囲氣の違う中国人で
新宿や渋谷とは種を異にした賑わいを見せている。
そんな中に、私服修学旅行生でもなさそうな、
首からカメラを提げた女子が歩いている。
何か写すによい素材を探しているのかな。
彼女にとって、観光名所や仏像、石灯籠、昼寝野良猫などは
ありふれていてピント来ない。昼寝七面鳥なら撮ったかも。
人波には一定の流れがあって、流れる氣も無い彼女は
多勢の中 孤高に浮き出されている。
鳩豆屋はとっくに閉店しているが、ハトは変わらず砂利道を歩く
・・・と思いきや、境内はフラットに舗装されていた。
その地面を紅い鼻緒の草履サンダルで踏みしめるカメラ女子は
富士野さんという。同じ東京都でも武蔵野育ちで、
高校の頃から使い捨てカメラを携帯していた。
当時はもっぱら友達を撮り、プリント倶楽部全盛の中で
彼女のL判写真は一目置かれていた。
ただし女子高生にとってカメラ代現像代は馬鹿にならず、
自らの微笑と指に任せるという方法論で一発撮りをしていた。
作品ととらえて焼き増しもせず、
しっかり目のアルバムに貼って丁寧に披露した。
今もきちんと20冊以上保管されているという。
彼女は尊敬していた塾講師から
「絵を描くのが好きな子が美大に行き、
そして絵を描かなくなる」
と聴いたのが残っていて、
写真が好きだからこそ写真の学科や学校へは
行かないでおこう、と決めた。
結論としては文学部に進む。
「写真とは、撮る人の大自然的な直観と、
出逢いの集合である思想の結び合いであり、
観る人もそれは同じ。
私は比較的自然の光や風とともに歩いてきたが、
勝手醸さるる思想が偏らないために
書を存分と読まねばならない」と選択したという。
進学後、19才からはポラロイドカメラに挑戦とわくわくしていたが、
ちょうどデジタルカメラの目立ってきたころで
色々考え後者を選ぶ。
さて、被写体に逢えぬまま 富士野吉春(よしはる:彼女の名)は
ごった返す仲見世の裏道を行き雷門へ戻った。
隅田川に桜びらのたゆたっている季節といえでも
ふいに寒風もよぎる。
吉春嬢は愛用の風呂敷バッグから
季節に合った桜色の羽織を抜き出し腕を通した。
下はブラウスにゆったりタイパンツだが、どれも彼女の肌に合っている。
ついでに、下ろしていた黒髪をてっぺんに束ねた。
運動部の女子中学生がごとスタイルになりそうでいて、
彼女の髪は頭頂ほど長くなるように切っているから
上で結ぶと爽やかな女剣士のようでもある。
するといつからか徐々に、吉春は人々に囲まれ
かえって自分が格好の被写体と化していた。
確かに、羽織に草履、風呂敷バッグでは髪もちょんまげに見えて
外国人客でもそうでなくとも
雷門写すついでに収めておきたくなって然るべき。
吉春自身もようやく、逆にこの光景を撮ってみたいと思ったが
むしろカメラをしまい、期待される和風に徹した。
その件以来、来し方ずうとすっぴんだった彼女も
目尻、唇、頬にかすかながらも色鮮やかな
本紅を乗せて外出するようになる。
それでも一般的な化粧はおろか、泡泡な洗顔もしないのが
プラスと出ているのか、彼女の肌は白く細やかでつやがあり
実年齢より五才は若く見られるのが常だった。
その習慣は面倒がりではなく
舞妓さんが小桶の水だけで100回顔を洗うという情報に胸を打ち
自分なりに杉香る桶で日なた水をつくって丁寧に洗い、
残りを庭木にやるという別の手間をかけている。
本紅以降、街行く彼女は誰かから撮られる機会が増えてきた一方
撮りたい対象には今もなかなかに逢えず。
自分を写したカメラ小僧さんやおじさまからは
丁寧に、プリントした写真やデータを入れたCDが郵送されてくる。
確かによく撮れている感のある写真たちだが
自分の風呂上がりのホットな表情や
おトイレ後のすっきりした顔を鏡で見るにつけ
「ここを撮ってもらえたらずっとよきよきに違いないのに」っていたく思った。
セルフポートレートもよいが嘘くさくなりそうで、
吉春はついに決断を下す。
「へへ、いつか愛する人に私を撮ってもらおう。撮りっ子しよう!
それまでカメラは冬眠だあ」
こうして、富士野吉春嬢21才は 今後の学生生活を
読書と料理と裁縫と卒論準備にあて、
カメラあっての世界を手放した。
すると、風呂敷バッグも、桜色の羽織も、
ちょんまげに巻いたタケナガ(和紙リボン)も、草履も、
するすると脱げて天に昇っていく。
今ここに、裸の自分がある。
ああ、私はいまこのときに第二次性徴を終えて、
いちからはじまるみたい。
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