つらいときも、
たのしきときもいつだって
風呂敷はすぐ傍らにいて、感情に関わらず
具体的に自分を手つだいつづけてくれて、
いつしか一心同体となっていた。
自分の右手が好きとはあまり言わないように、
風呂敷も「好き」と相対化できる
距離感ではもはやない。
距離のあればこそ、好きという感情が湧いて
恋の病におちいる。僕の風呂敷つかいはじめのシーズン1は
そうだったかもしれない。
「
きみがすきだ。
めっちゃすき。
きみをとても大事に思っている。
また会いたい。
きみをずっと見ていたい。
手に触れたい。
きみは今ころ何をしてる?
ゆっくり休んで、明日もすてきに
」
そんなときもあったかな。
今となれば、
たとい風呂敷が手元になくとも
自分自身が風呂敷と同位体であって、
さみしいとか会いたいもない、安心につつまれている。
ただし実際的に風呂敷がないと、できることが制限されて
困るかもしれない。
好きな対象を攻撃されると不快になるかもしれないが、
風呂敷は好きの時元を超えて、ひだりひざと同じ
自分の一部分であるから、
「貴方の左ヒザが嫌い」と言われた所で
「アラソ◎でも僕はこのひざのお蔭で、かく立ちて歩けて
いて、好みの問題でもなくここにある
空と海からの宝物であるから、だから何なんなん?☆」
という感じで、ちっとも嫌なことでもない。
ふろしきも左様であるから、
「風呂敷なんてダサい」といわれても
「あなたにとって、あなたの中では、
あなたの井戸の壁に貼っついた
風呂敷は、ださいデザインに織り成されているらん」
とかんじるだけで、
やっぱり特に傷つきもしない。
嫌うというのはむしろ距離感があるから、ひっくり返ると
好きへ転ずる可能性さえ秘めている。
僕は風呂敷に対して全てを言い放ち、
傷つけて反省して仲直りし、を
繰り返してきた今となっては、
好きでも嫌いでもない、からだの一部と化している。
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