昨年の4月から地元の自治会〔約150世帯)で会計業務に従事している。
なかなか手間の掛かる面倒な仕事なのに年間報酬は5,000円なり。自由時間の喪失と収入との損得勘定からすると誰もが敬遠したくなる役柄だが日頃付き合いのある方から口説かれてしまいボランティア精神を発揮して仕方なく引き受けた。
地区内はほとんどが高齢者世帯ばかりで70歳以上が92名、比較的若い方は日中は当然のごとく仕事で忙しく該当者は限られている、この辺で4年間ほど義理を果たしておけば後々、役員になってくれとかいう面倒な話のときに「断りやすい」というひそかな皮算用ももちろん働いている。
さて、嫌々ながらもいざやってみると、これまでまったく口を利くことの無かった方々といろんな行事を通じて知り合いになれてなかなか楽しい。そのうち今年の4月から体育部長に就任された「M上さん」とも自然と懇意になった。
M上さんは海外に支店が沢山ある、とある商社に長くお勤めだったが定年を機に1年半ほど前に東京の自宅を売り払って、縁もゆかりもない別府に温泉があるという理由だけで引越しされてきた方で我が家から徒歩4分程度のところに住んでおられる。
丁度売り払ったお金で今住んでいる自宅を購入されたところ建坪と敷地の広さが一挙に3倍近くになったというから今更ながら東京の地価には驚く。
しかし、長いこと都会生活に慣れた方にとっては自然に恵まれているとはいえ田舎特有の閉塞感に淋しくてたまらないようで奥様ともども、とにかく友人を増やしたいと前向き。
そのうち去る9月29日の火曜日に「遊びに来ませんか」と招待されたのでビールを引っさげて夕食前のひとときを懇談したところ話題が自然と音楽の話に。
「サントリーホール」でのクラシック鑑賞は言うに及ばず、新宿伊勢丹の裏の小さな「ピットイン」というジャズバーにも度々行かれていたという。特に「サントリーホール」で聴いた弦合奏は身体中がゾクゾクしてこの上ない快感だったご様子。
自分にとっては「待ってました」という感じでようやく地区で同好の士が見つかったと内心大喜び。今度は我が家のオーディオ装置で一緒に音楽を聴きましょうと提案したのは言うまでもない。
そして、約束どおり10月1日の午後4時きっかりに玄関のチャイムがピンポ~ン。
自分のオーディオ装置を初めての方にお見せし聴いてもらうのは何となく緊張するものである。
長年、手塩にかけて育て上げてきた感がある音質は自分の内面そのものだと言っていいくらいだが、直接、覗かれるみたいで何だか気恥ずかしいし、自分がいくら「いい音」だと思っていても「人の好み」はまさに千差万別で気に入ってもらえるかどうかは本当に分からない。
それに「サントリーホール」での弦合奏の響きなんかを期待されたら、世界中のどんなオーディオ装置だって五十歩百歩でまず絶対アウト、それこそたまったものではない!
所詮、箱庭と盆栽の世界というわけで他人に対して「どうです、スゴイでしょう、いい音でしょう」なんて無理強いの印象を極力与えないというのが「マナーとして当たり前のこと」だが自分のモットーである。
最初に聴いたのは「ちあきなおみ」のベストシリーズから「かもめ」。カラオケの十八番(おはこ)だそうで、東京の友人たちと「ちあきなおみ」は美空ひばりを越えていると話題にされていた由。
「ビブラート(声の振るわせ方)が実によく分かるなあ~」。”かもめ”の次は今度は自分が好きな「男の友情」。船村徹と高野公男との友情を歌にしたものだが「エッ、この曲をちあきなおみが」と意外なご様子。
次に、クラシックを所望されたがその前に、帰りは徒歩なので飲酒運転の心配も無いことだし「お酒」を飲みながら聴きましょうかとビール、熱燗、そしてウィスキーの順番におもてなし。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲5番を手始めに、次はK(ケッフェル)・136の「ディベルトメント」へ。「136ですから若い頃の作品ですね」とちゃんと分かっておられる。Kの由来であるケッフェル博士が分類した番号ということもご存知だった。この辺は”通”であるかないかのリトマス試験紙のようなもの。
余談だが、モーツァルトは演奏会用に作曲した自分の作品が後世に遺るなんて考えもしなかったので生存中は自分の作品の整理番号には無頓着だった。その点ベートーヴェンとは違う。
この辺の意識の違いが両者の作品から受ける印象に明らかな差異を示していて、モーツァルトの作品は全て人の目を意識しない自然体だがベートーヴェンの作品には、ときおり”これで、どうだ”と押し付けがましいところがあるような気がしてならない。
話は戻って、とにかく音楽を聴きながらお酒を飲むと、どんどんピッチが上がっていくが飲めば飲むほどに音楽が素晴らしく聴こえてくるので不思議。
通常、我が家に来ていただくオーディオ仲間は全てクルマなのでアルコールは厳禁でお互いに素面での試聴だが、こうして自分もお酒を飲みながら一緒になっての鑑賞になると随分と気分が高揚する。
一人で「音楽」を聴くときに「お酒」はつきものだが、これに「会話」が加わると一段と盛り上がるというのは新発見。
そしてクラシックの最後はマーラーの傑作「大地の歌」第六楽章〔告別:29分25秒)。クレンペラー指揮でクリスタ・ルートヴィッヒ(メゾ・ソプラノ)の一世一代の快唱。
孟浩然と王維の詩を引用しつつ東洋的な諦観のもとに「大地の永遠の美しさ」を対比させることで人間の生命の”はかなさ”を歌ったものだが、「Ewig(永遠に)・・・、ewig・・・」とつぶやきながら次第に声が小さくなっていくエンディングに思わず胸が震え感極まって涙がボロボロと溢れてしまった。
ロシア〔当時、ソ連邦)の大作曲家ショスタコーヴィッチが晩年この曲を病床で繰り返し聴いていたというのも真偽のほどは別にして強い説得力を覚える。
「一流の芸術はその底流に死を内在している」(河合隼雄氏)
クラシックの後は再び歌謡曲へ。このあたりは「iPod」に集中的に収録しているのでDAコンバーターの入力をCDから「Wadia170iトランスポート」に変換。CDのように入れ替え作業がないので随分と楽。
「襟裳岬」「北国の春」「夢の途中」といったオジサン向きのナツメロを歌詞を見ながらカラオケさながらに一緒に声を張り上げて歌ったがお互いに相当酩酊しているので少々音程が外れてもあまり気にならない。
そして、ベッツィ&クリスの「白い色は恋人の色」で、やはり同じ世代なんだね~と確認し合ったが、東京時代は「ペッティング&クリトリス」と言ってたなんて茶化すもんだから腹を抱えて笑ってしまった。アルコールが入っているとはいえ実に面白い方である。
そして、船村~高野コンビの名作「別れの一本杉」では「石の地蔵さんのよう~、村はずれ」のところが大好きなのに春日八郎では十分表現しきれておらず、作曲家の船村徹自身の弾き語りが最高とのことだった。
この辺はなかなかユニークな見方をされているので細かく突っ込んでみよう。
この曲の原点は当時の「故郷を後にして都会へ」という世相を反映して(心理的な意味での)”ふるさと回帰”にあるのだが、日本のふるさとのイメージとは「人の住んでいる気配」を基準にして次の順番だとM上さんは独特の持論を展開される。
奥山 → 山奥 → 里山 → 山里 → 里 → 村 →町→市→県→国。
かなり酔った状態なのにこれらがスラスラと出てくるのに驚いたが、要するに末端の「奥山」とは熊などの動物だけが住んでいる意味合いで、「別れの一本杉」の”村はずれ”とは、もともと「里山」~「山里」あたりのイメージを醸し出さねばならないのに春日八郎の歌唱ではそこまで至ってないとのこと。そういえばたしかにサラリと流し過ぎている感がある。
その辺のところを情感豊かに歌い上げているという船村節(ぶし)の「別れの一本杉」、是非、是非聴いてみたいものである。後日「HMV」で調べてみるとしよう。
いずれにしても日本人としてどんなにクラシックに通暁したとしても「日本の歌でしか触れることのできない琴線がちゃんとあるんだな~」と痛感した。こうなると歌謡曲といえども”ゆめゆめ”おろそかにはできない。
因みに「奥山」「山奥」「里山」などの言葉は全て「広辞苑」にちゃんとした意味が記載されているので興味のある方は是非ご覧を。
さて、時刻もようやく6時半頃となり初秋の”つるべ落とし”に、すっかり足元が暗くなったので「今日はこの辺で」ということに。
「これからも頻繁にお伺いしますのでどうかよろしく~」。
「午後の2時から4時ごろまではトレーニングに行ってますが、その間を除いて何時(いつ)でもどうぞ~」。
それにしても今回は封切りの「マッカラン12年」のボトルが2時間ほどで1/3ほどに。実に快調なペースで非常に楽しかった~。
音楽は相手と一緒に酒を飲みながら聴くべし!