「半藤一利」氏といえば、かって「文芸春秋」の名編集者として活躍され、現在では昭和史研究の第一人者とされている方。
このところオーディオに偏向したアタマを冷やすために(笑)、著作「昭和史を歩きながら考える」(2015年3月刊、PHP文庫)を読んでいたら、まさに「博覧強記」の言葉がピッタリで面白い話がどっさりあったのでその中から四題ほど紹介しよう。
☆ 上品なワイ談(182頁)
英国のジョージ五世とメリー皇后が家畜の品評会に出かけた。会場中央にいっぱい飾りをつけた巨大な牛がつながれている。皇后が係のものからの説明を聞くと、この牛に特別優秀賞をを授けたとのことなり。皇后はさっそくその理由を尋ねた。
係の者は恐縮して、この雄牛は一日に42回も種付けが出来る旨を説明した。と、ジョージ五世が声を低くして聞いた。「一頭の雌牛に42回も種付けをいたすというのか」「いいえ、42頭の雌牛にでございます。」
ジョージ五世はニッコリ笑った。「その旨をハッキリといま一度、皇后によく説明するようにせよ。」
最後の一行、まこと、よく利いている。上品でたまらなくおかし。
☆ 集団催眠(161頁)
わたくしは、好きだから歴史のことを書いているだけ。完璧に知ることは難しいとしても、事実をきちんと知ることが好きなんです。歴史の面白さっていうのは、万事が人間がつくったものだってところなんです。私たちが生きている今もやがて歴史になります。つまり、人間が何を考え、どう判断し、どのように動くか、どんな間違いを起こすか、っていうことそのものなんです。
だから、歴史はわたくしに言わせれば、人間学なんですよ。
ドイツの哲学者ヘーゲルの言葉に、「歴史から学ぶことができるただ一つのことは、人間は歴史から何も学ばないということだ」という言葉がある。その通りなんです。
人間はあまり歴史に学ばない。日本人は戦時中からあまり進化していないですよね。政治でも何でも先人のやっていることと今私たちがやっていることは、似たり寄ったりなんですよ。~中略~
「昭和史」の中で書いているんですが、戦時中、日本人はとにかくマスコミに踊らされていたんです。「勝った、勝った」ってちょうちん行列をやったりしてね。優勢だったのは初めの頃だけで、すぐに明らかに不利な状況に置かれていったのにもかかわらず、軍部だけじゃなくて、日本国民全体に責任があると思います。
わたくしがいちばん言いたいのは「集団催眠にかかることなかれ」ということ。誰かが、ある一つの方向に行くようにうまいこと言うと、「そうだ、そうだ」ってそっちにバーッと行きがちになる。
集団催眠にかかると、選挙でも何でも、とかく熱狂が始まるので気を付けなければいけないんです。難しいことかもしれませんが、報じられることの理屈を自分なりに検証し、一人ひとりが冷静にならなければいけないんだと思います。
※ ヘーゲルの言葉「人間は歴史から何も学ばない」を、どこかの国(東南アジア)にぜひ聞かせてあげたい(笑)。
☆ お里言葉(200頁)
昔、某文学者から聞いた話で、腹を抱えたことがある。
東北のある温泉に夫婦ともども泊まったときのこと。湯の程もよし、山家のひなびた料理もよし、たいそう気に入った。それで機嫌よく散歩に出掛けようとしたら、宿の番頭が「じいさん、ばあさん、お出かけェッ」。戻ってきたら、またその番頭が大声で「じいさん、ばあさん、お帰りィッ」
さすがに頭にきて、「たとえ事実がそうであろうと、じいさんばあさんはひどいじゃないか」と文句を言った。
ところが「そんな失礼なことを言った覚えはない」と番頭は目を白黒するばかり。
「それがね、真相が分かり思わずこっちが謝ったね。僕らの泊まった部屋の番号が十三番。番頭さんは“十三番さんお出かけ”と言ったんだ。この地方では“じ”も“ず”も“じゅ”も一緒になるので、“ずうさんばんさん”お出かけ、と言ったのが、“じいさん、ばあさん”と聞えたんだなあ」
☆ 女流作家(202頁)
「女流作家」に使われている「流」は稀少ゆえの褒め言葉かと思っていたが全部が全部そうともいえないようだ。一流とか二流とか、社会的評価を示しているとは思えない。お花やお茶のナントカ流とかの独自性を誇る流派的な意味が女流にあるとも思えない。
これはまた、不思議な使い方の「流」もあるもんであるな、と長いこと思っていた。と、先日、夏目漱石の初期の漢文紀行「木屑録」(ぼくせつろく)を読んでいて、フッと納得するところがあった。
この中で若き日の漱石は「漢学者流」という使い方をしていて、前後の脈絡から明らかに「漢文センセイ」として“冷やかし”ととられる意味のようである。どうやら「流」には冷笑的、軽蔑的な意味が込められているらしいのだ。~中略~
つまり、女流作家とは、その昔は男の世界に土足で踏み入れてきた余計なことをする女の意があったとみるべきなのか。
世は一変して、女ならでは・・・の今の小説の世界。「男流作家」という言い方が登場するやもしれぬ。
※ そういえば音楽の世界でも「女流ヴァイオリニスト」「女流ピアニスト」という言い方をする。女性の指揮者もいることはいるが「女流指揮者」とは言わない。なぜ?