「メルヘン爺ちゃんと星とモーツァルト」
時々、うちの近辺ののどかな田舎道(いなかみち)を、犬のクリを連れて散歩する。
途中、小高(こだか)い丘に緩(ゆる)やかに登っていく脇道がある。その丘の上からの風景が絶景でね、はるか下に見下ろす我がアラントンハウスが立派なお城に見えないことはない。その丘に、僕がメルヘンハウスと呼んでいる家がある…
放(はな)し飼(が)いのニワトリが十数匹ウロウロしているその家の前を通るたびに、しげしげとその家を眺(なが)めてしまう…
だってな、ディズニーの白雪姫(しらゆきひめ)に出てくる七人の小人のお人形さんたちが、西部劇に出てくるワゴンホィールなどと共に、そこらに飾(かざ)ってあるのよ。誰が見ても、ちょっと普通じゃないこの家、まさにメルヘンハウスなんや。
陶器で出来た、その大きな?七人の小人さんたち、皆さんニコニコと、そこにいるのがとても幸せそうなのよ。白雪姫はどこや?
クリスマスの季節になると、我が家からも、そのメルヘンハウスのロマンチックなイルミネーションのカラフルな光が見えるんや。丘の上に、夢見るようにキラキラと輝いて…
いつだったか、雪が降ったあとの月明(つきあ)かりで、あたり一面の雪がキラキラと光るクリスマスイブの宵(よい)、丘の上のメルヘンハウスを、うちのリビングルームから見上げていた僕は、雪面に輝くそのイルミネーションのあまりの幻想的な美しさに、これはファンタジーの世界やと見惚(みほ)れてしまった。
で、ふと、あの七人の小人たちに思いを馳(は)せ、思わず「白雪姫(しらゆきひめ)(スノーホワイト)はどこや?」と呟(つぶや)いてしまった。そしたらアンタ、僕の脇でワインを呑んでいた女房のキャロラインがな「…ここにいる…」やと。
彼女って、めったに冗談を云わない真面目(まじめ)な方なんで、思わず吹き出してしもたがな。ワインで、エエ気分になってはったんやろね。ま、クリスマスイブやし…結構(けっこう)けっこう…
それはさておき、このメルヘンハウス…どんな人が住んでるんやろ? そう思うのは当然だよね。
ある日、クリを連れての散歩の途中、そのメルヘンハウスの前にさしかかったら、ヨボヨボの小さな犬が出てきて我々を歓迎してくれた。
その犬、歩くのもよたよた、右に左にフラフラ、かなりのお歳やないか。その直後、家の中から「メグ!メグ!」と叫ぶ声があり、その犬メグの飼(か)い主(ぬし)が家から出てきはった。
年のころ80歳ぐらいやろか。メグもとてもきれいな犬とは云えないけど、その爺ちゃんの格好(かっこう)も、もうヨレヨレ。ところどころ破(やぶ)れたキルティングのジャンパーを着たその姿、まるでホームレスや。首に、なにやらペンダントみたいなものをぶら下げてはるけど、もちろん、ぜんぜん似合(にあ)ってない。
そう、メルヘンハウスの主(ぬし)に、やっと会えたのよ。
その爺ちゃん、僕を一瞥(いちべつ)するや、ややぶっきらぼうに
「今、お茶淹(い)れたとこやから家に入っといで」と、人の返事も聞かずにメグを連れて家に入ってしまいはった。仕方がないから、彼のあとから家に入った。
ウ~ム…この人がメルヘン爺ちゃんか? でも、イメージがちょっとなあ?
家の中は、メルヘンチックな外観と違い、かなり重厚(じゅうこう)な造(つく)りで、そのリビングルームのロッキングチェアに腰を下ろし、暖炉(だんろ)の前でお茶をごちそうになった。
棚(たな)にかなりの数のウィスキーボトルがあったんで、しげしげとそれらに見とれていると「君、ウィスキー呑(の)むか?」返事も待たずにグラスに注(つ)いでくれてはる。
挨拶も自己紹介もなし。けったいな人や。
で、このメルヘン爺ちゃん、自分もウィスキーをひとくち飲み、やっと僕に質問しはった。近隣では唯一(ゆいいつ)の東洋人と言っていい僕に「どこから来た?」とは聞かず「どこに住んでる?」…アラントンと答えると「ああアラントンか!」と、膝(ひざ)を叩(たた)いてニコニコ…。やっとニコッとしはったんで、やや安心した。
これが、ヒュー爺ちゃんと僕との出逢(であ)いだった。
この爺ちゃんな、ニコッとすると顔が変わるんや。やや無骨(ぶこつ)な顔が、途端(とたん)にめちゃ可愛(かわい)い顔になる。もう満面(まんめん)の笑(え)みで顔はしわくちゃ。裏(うら)おもてゼロ! まさにメルヘン爺ちゃんや。格好はホームレスやけどさ。しかし、あのペンダントは似合わんなあ。
以後、毎週のように自分とこでとれた新鮮な卵を届けてくれるようになった。挨拶なしでアラントンの玄関に卵のパックを置いていきはるのよ。放(はな)し飼(が)いのニワトリのその卵、もう、スーパーの卵とは黄身(きみ)の色からして違うし味もぜんぜん違う。
ある日、たまたま、アラントンの玄関で、初めて爺ちゃんに会ったキャロラインが、日頃の卵のお礼を言った時、ちょっと慌(あわ)てた様子(ようす)の爺ちゃんの返事にはずっこけてしもた。
「いやな、うちのニワトリどもがな、卵をアラントンに持っていけ!云うとるもんでな」人に恩を売らない洒落(しゃれ)た言い方だよね。好きやなあこんな人。
彼、ヒュー爺ちゃんがうちに卵を届けるのに乗ってくる車、これが超ブリティッシュなんです。今から半世紀ほど前のMG–B、かつての英国を代表するスポーツカー、今や骨董品(こっとうひん)と云ってもいい車や。自動車少年だった僕にとっても、かつての憧(あこが)れの車やった。
ある日、近所の街道(かいどう)で、爺ちゃんが乗るブリティッシュグリーンのMG–Bを見かけ、そのうしろを走ったことがあったけど、爺ちゃんの運転、もうフラフラ…
アカン、爺ちゃん、もう、運転やめなはれと云いたくなった。
さて、ちょっと話がそれるけど、大阪市阿倍野区の、チンチン電車が走る通(とお)り沿(ぞ)いにある居酒屋・明治屋は、僕が大学浪人時代に通(かよ)い出した居酒屋であり、大阪で一番古い居酒屋でもあった。この店、今でも僕の最愛の居酒屋なんだよね。
居酒屋ってさあ、インテリアを民芸調にしたりして、わざと古い雰囲気を作る店がけっこうあるけど、この明治屋はね、そんなことをしなくても、そもそもとても古い。サムライが現れそうな雰囲気なんや。
かなり以前のことやけど、僕がスコットランドに移住すると知ったこの店の御主人、松本さんが「うちを忘れんといてください」と、明治屋のおちょこ、つまり、さかずきを僕にくださった。
お酒を呑(の)むのにこんなに相応(ふさわ)しいさかずきはちょっとない。唇(くちびる)に当たる部分の、そのカーブが絶妙なんや。
今でも、お酒を呑むのに僕が一番好きなのが、この明治屋のおちょこなのよ。松本さんにいただいた、この明治屋のさかずきは、僕にとって、お酒を美味(おい)しく呑(の)めるこの上ない器(うつわ)であり、さらに、地球の裏側スコットランドで、大阪はアベノの、あの懐かしい明治屋を思い出させてくれる、とても大切な道具となった。
さてさて、ある日、ヒュー爺ちゃんが、週末の午後かなり遅くに卵を届けにうちにやって来た。
「爺ちゃん、きょうはうちに泊(と)まっていかない? 日本から上等のお酒が届いたんや。いっしょに呑もうよ」
ヒュー爺ちゃん、めちゃ喜びはった。かねてより日本のお酒には興味を持っていたとおっしゃる。が、ちょっとした異変(いへん)があった…
ヒュー爺ちゃん、例の明治屋のおちょこに痛く興味を示し「こんなの初めて見た。素晴らしい! これ、わしにちょうだい」やと。
「アカン! 爺ちゃん、これ、僕にとって、想い出深い大阪の明治屋のさかずきやねん」…そしたら爺ちゃん「わしの車と交換しよう」やと。
冗談やと思ったら、彼、久しぶりにロンドンから彼の家に来てるという娘さんに電話して
「ウマにわしの車をあげることにしたから、明日(あした)の朝、迎えに来て」だって。
冗談やなく本気なのよ。ビックリした。
で、翌朝、迎えに来た娘さんのアンドレアが云った。
「もう運転はやめてって何度も云ってきたので、ちょうどいい機会だわ」
…やっぱりな…
そんなわけで、かつての英国を代表するスポーツカーMG–Bをいただいたのでございます、明治屋のさかずきと交換でな。
明治屋のさかずきを手にした爺ちゃん、もう、満面の笑みで
「ウマ、これ、わしの宝もんや」
ま、そもそも、さかずきなんてもんがないスコットランドの田舎(いなか)やけどさあ。
でも、おちょことスポーツカーを交換した人間なんて、世界中探してもおらんやろ。で、この話、明治屋の御主人、松本さんに言ったらきっと驚くやろなあ。
日本に行く機会があれば、明治屋に寄って、松本さんに事の顛末(てんまつ)を報告し、厚(あつ)かましくも再度さかずきをいただこうかな。
爺ちゃん宅では、いつも、リビングやキッチンで呑(の)んでたけど、ある日、二階の彼の書斎(しょさい)で呑んだことがあった。いやあ、もう、びっくりしてしまった。
重厚(じゅうこう)な書斎の壁二面すべてが本棚(ほんだな)で膨大(ぼうだい)な数の本がぎっしり。さらに、たくさんのLPレコードと立派なオーディオシステムがある。
しかし、特に僕の目を引いたのは、ガラスケースの中に立ててあるヴァイオリンだった…
「このヴァイオリン、爺ちゃんの?」
「いや、亡くなった女房のもんで、デルゲスっちゅうヴァイオリンや」
「えーっ? デルゲスって、まさか、グワァルネリのデルゲス?」
「なに? ウマはグワァルネリを知ってるんか?!」
「ストラディバリウスと並ぶヴァイオリンの名器でしょ」
爺ちゃんは遠くを見つめるように呟いた…
「ロンドンに住んでた時、女房はロンドンフィルのメンバーやった…」
「爺ちゃんはどんなレコードを聴くの?」
「ほとんどモーツァルトや…」
英国を代表するタンノイの12インチのスピーカー、それに、かつて僕も使っていた、やはり英国のクォードのアンプ。嬉しい組み合わせやないか。ところが、レコードプレーヤーがドイツのデュアルのオートチェンジャーなんや。どうして?
その理由はすぐに分かった…
その書斎の南側は全面ガラス…、その外側には広いデッキがある。そこに、電動で屋根が大きく開閉(かいへい)するサンルームがあるんやけど、なんと、そこに、めちゃデッカイ反射望遠鏡があるのには、まあ驚いた。その直径50センチはある巨大な反射望遠鏡の周(まわ)りには、なにやらおびただしい数の観測機器らしいものまである。まるで天文台(てんもんだい)やないかここは。
本やオーディオ、それにグワァルネリのデルゲスに目を見張り、さらに、まるで天文台みたいな設備に目を丸くしている僕に…
「星を観(み)るためにここに引っ越してきたんや…ここで、モーツァルトを聴きながら星を見ている時間が最高なんや。しかし、星に魅入ってる時はレコードプレーヤーのことは忘れてしまう」…そうか、だからオートチェンジャーなんやね。
「ブラームスやシューベルトもいいが、やっぱりモーツァルトがいい。特にヴァイオリンソナタやピアノソナタが星の観測には一番ふさわしい…」
天気の良い日、うちアラントンの夜空は素晴らしい。女房のキャロラインは、冬の我が家の庭で二回オーロラを観ている。銀河(ぎんが)も天(あま)の川(がわ)も、手が届きそうな位置にくっきりはっきりと見えるし、アンドロメダ星雲も、うっすらだけど肉眼で見える。だから丘の上やったら、なおさら星空がきれいやろなあ。
きれいな空気、澄(す)んだ空、しかも丘の上…、なるほど、ここやったら星を観測するのに最高や。モーツァルトを聴きながら星を観察するヒュー爺ちゃんって、なんかロマンチックで素敵だよね。そう、やっぱりメルヘン爺ちゃんやなあ…格好はホームレスやけど…
しかし、何年かあと、彼の一人娘(ひとりむすめ)のアンドレアから、爺ちゃんの経歴を聞いたときはビックリした…
さて、時が流れ…
彼、ヒュー爺ちゃんが亡くなった時は、ちょっと、いや、かなり寂しかったね。明治屋のおちょこは、棺(ひつぎ)の中に入れ、彼と一緒に埋葬してもらった。
葬儀ではめちゃ驚いた。その参列者の多さにびっくりしてしもた。もう、おびただしい数の人々が、ロンドンその他の英国、そしてヨーロッパはもちろん、なんとアメリカからもおおぜい来ておられたんで目を丸くしてしまった。ヒュー爺ちゃんって、いったい何をしてた人なんや?
教会では幾人もの方が故人を偲ぶスピーチをしたけど、その間、ずっとピアニストがモーツァルトのソナタを演奏していた。
ロンドンから来ていた娘のアンドレアが、遺品(いひん)整理の最中、アラントンに寄ってくれた。そして、彼女の話には、まあ、びっくりしてしまった。
あの飄々(ひょうひょう)としたヒュー爺ちゃん…、家の周(まわ)りをディズニーのキャラクターで飾り、クリスマスには、遠くからも見えるファンタジックなイルミネーションで村の人々を楽しませた、あのメルヘン爺ちゃん、モーツァルトのソナタを聴きながら星を見ていたメルヘン爺ちゃん…
なんと、かつて、オックスフォードやケンブリッジ大学、さらにハーバード大学や、あの名門MITで、天文学や気象学を教えた博士やったという。しかも、NASA、つまり、アメリカ航空宇宙局の顧問(こもん)もしていたというから驚きや。
1969年、人類が初めて月に降り立った時の地球の気象分析も彼がしたと言う。
いやあ、もう、びっくり。失礼ながら、元大学教授で博士だったとはとても思えないぐらい飄々(ひょうひょう)かつ剽軽(ひょうきん)な人柄だったんで、ほんまかいな?と思ってしもたがな。しかも、いつも、これ以上ないヨレヨレのホームレスみたいな格好(かっこう)やし…
だけど、不思議なのはあのペンダントや。なんなのアレ?
ま、それはともかく、僕はちょっと考え込んでしまった…
過去を人に語らず、さらに過去を振り返らない人間って、なんて素敵(すてき)なんやろ。メルヘン爺ちゃん、格好はホームレスみたいな爺ちゃん。モーツァルトを聴きながら星を観察したメルヘン爺ちゃん…実は、めちゃカッコええ人やないか。
あの大きな反射望遠鏡を、ダンフリーズの天文観測クラブに寄贈するなど、一か月近くかかって遺品整理を終えたアンドレアが、アラントンに挨拶に来た。
彼女は、爺ちゃんの遺品として、十数本の貴重なモルトウィスキー、それにモーツァルトのレコード十数枚と共に、彼の著書を一冊置いていった。
その本のタイトルが「宇宙のファンタジー」…爺ちゃん自身の撮影によるロマンチックな星の数々…さらに、爺ちゃんの手によるパステル画に添えられた詩はメルヘンそのもの。まさにファンタジーの世界や。ヒュー爺ちゃんって、そう、やっぱり、七人の小人のお友達に相応(ふさわ)しい方やったんやね。
アンドレアが云った…
「母のルイーズは、私を出産した直後に亡くなったんです。だから私は母の顔を写真でしか知りません。以来、父は、その母の写真をペンダントに入れて肌身離(はだみはな)さずもっていました…そして、父はずっと独身を通しました…」
そうか…メルヘン爺ちゃんの白雪姫って…奥さんのルイーズさんだったんや…
(合掌)
(註 ブログ主より)
言わずもがなですが・・。
星の観測のBGMとして「ヴァイオリンソナタ」と「ピアノソナタ」が適しているのは何だか「腑に落ちます」。
この二つのジャンルはモーツァルトの膨大な作品群の中でやや異質です。聴衆を意識しておらず、自己の内部に深く沈潜した「独り言」のような趣があります。
「独り言」にいちいち返事する必要はなく聞き流しておけばよいので、ほかの作業に没頭するのにこのくらい適した音楽は無いでしょう。