原発回帰に立ちふさがる難問
2023年8月8日(上)
(1) 官僚の力、新聞の力があった頃の石油危機
(2) 防潮堤を甘くみた報いから原発事故起こす
(3) 脱炭素政策で原発回帰を目指すも課題山積
今年の10月は、第4次中東戦争を契機とする第1次オイルショック(1973年)から50年になります。私は当時、通産省の記者クラブに在籍し、石油危機に揺れる激動の時代を取材記者として経験しました。
OPECのペルシャ湾岸6か国が10月16日に原油を1バレル3・01㌦から5・12㌦に引き上げ、翌17日には原油生産の段階的削減を決定、12月23日には価格をさらに11・65㌦に引き上げると通告してきました。1974年の物価上昇率は23%になり、狂乱物価と言われる年になりました。
未体験の経済危機に官僚も記者も翻弄され、経済界、民間企業も右往左往でした。危機が収束すると、エネルギー担当の通産官僚と記者クラブの記者が10月16日にちなみ「十六夜(いざよい)会」という合同懇親会を開くことになり、自由に意見や回想を述べあい、しばらく毎年、この日に懇親会が開かれていました。
現在、多くの記者クラブでは政府、官庁側との間に不協和音が漂い、記者クラブ側も分裂しているのでしょう。世耕経産相の時でしたか、北方領土に絡む対露経済協力が新聞に抜かれたことの怒ったのか、記者の取材に官僚が応じる場合は、部屋も特定し、双方の名前も記録しておくとかになりました。今はどうなっているか分かりません。オイルショックの頃は、そんな空気は全くなく、記者は自由に各部屋に出入りし、官僚と親しく政策談義できました。そうしたプロセスは掘り下げた記事、情報を書く上で不可欠です。今、それが希薄になり、双方がにらみ合いを続けることも多くなっているようです。
50年ぶりに当時の官僚と記者の懇親会の案内
「十六夜会」はその後、メンバーのほとんどが異動や退職で、自然閉会となってしまいました。と、突然、通産省(経産省)、資源エネルギー庁の当時の担当者から、「第1次オイルショックから50年になる。この節目の年に当時のメンバーと再会しませんか。歴史的な節目の年なので、回想録を皆で書き、冊子を出版しましょう」との連絡がありました。「もちろんやりましょう」と私は返事をしました。
回想録については「当時の状況に加え、最近の国際政治、エネルギー情勢、その変貌ぶりに対する感想など自由に書いて下さい。字数に制限なし」と。締め切り日に合わせて書き、私の部分を幹事さんに添付ファイルでお送りしたばかりのところです。エネルギー危機対策、脱炭素政策、原発回帰論が盛り上がっていることでもあり、ブログとしても私の分を投稿します。当時、新聞と官僚の関係はどうだったか、その後の半世紀、エネルギー・原子力政策はどうなっていったか。ブログに記録しておくのもいいと、思ったからです。
要旨は、①第一次オイルショックの頃は、官僚の力も新聞・テレビの力も強く、官僚とメディアの間に相互依存関係、信頼関係があった。取材、報道に際しても過度の制約、規制もなかった②2回のオイルショック(第2次は1978,79年)を経て、日本は省エネルギーへの転換に成功し、エネルギー供給の安定のために原子力発電を推進し、基幹的なエネルギーに成長させた③それが1973年からほぼ40年後、福島原発の爆発事故(2011年)で壊滅状態に陥り、反エネルギー感情が国の隅々にまで広がった。事故発生は、原子力発電のシステムの欠陥そのものではなく、主たる責任は電力業界、通産省、資源エネルギー庁の防潮堤増強の手抜かり、予備電源対策の不備などにあった④それからほぼ10年後の2022年は原発回帰へ基本方針の大転換があり、世界的にもその流れがある。福島後、他国で原発事故は起きていない(ウクライナは別)。⑤日本の原発回帰に対しては、福島事故の後遺症が今も尾を引き、難題が多く容易ではないーーなどです。
(1) 官僚にも新聞にも力があった時代の物語
4、5年、地方支局で駆け出し記者として実地体験(火事、交通事故、事件、市町村の行政もの、町の話題、写真ものなど)を積み東京本社に戻りました。文章作法、取材の方法、情報源の築き方には一定のやり方があるようであり、ないようであり、自己流で体得していかなければなりません。経済記者としての振りだしが兜町(証券記者クラブ)でした。経済の動きを体感させるために新人記者は多くの場合、ここに配属になりました。
今のようなデジタル化時代とは違い、場(マーケット)が開くとしばらくして、記者クラブに隣接した一室の黒板に担当職員が白墨で主だった企業の株価を書きだします。それを大急ぎでノートに写し、証券会社を回って説明を聞き、相場記事(場況)を紙と鉛筆で書き、オートバイ便で本社に送る。それが1日の始まりでした。証券会社は市場を盛り上げようとして、株価が好調なものを故意に選びだして強調し、われわれはそれに乗せられていたのでしょう。
一年足らずでクラブ異動があり、通産省の記者クラブ(虎クラ=虎ノ門記者クラブ)に移りました。お世話になった大手証券会社の役員に挨拶に行きますと、「通産省記者クラブは面白いところだ。取材テーマがいくらでもあるし、官僚も記者に親近感を持ってくれる」と、激励されました。実際にそうでした。当時、企業局長は山下英明氏(後に事務次官)で、配属の挨拶に行きますと、「これを契機にあなたはずっと通産省派というか、通産行政を勉強し、よき理解者になってほしい」と、温かく声尾をかけてくれたのを覚えています。
今、はやりの政府側と記者クラブの「癒着関係」という批判とは異質のものでは、両者は相互依存関係にあり、信頼関係を維持し、政策に理解を深めてほしいという意味だったのでしょう。さらに言えば、経済記者にとって、当時は大蔵省(財政研究会)と通産省記者クラブ(虎ノ門記者クラブ)が二大拠点でした。通産官僚も大蔵官僚にライバル意識を持っており、記者を引きつけておきたいという気持ちはあったのでしょう。
温かい雰囲気に浸る間もなく、一気に殺人的な取材モードにぶち込まれたのが73年秋に始まったオイルショックです。連日、1面トップの大ニュースが政府、通産省、海外ソースから飛び出すので、やりがいがありました。オイルショックは特ダネに宝庫でもあり、記者生活は殺人的な多忙さであっても、充実感を伴っていました。
LPガスの大幅値上げのスクープ
原油供給削減、原油値上がりに焦点が当たっているおり、官房の方から「原油に加え、プロパンガス(LPガス)も値上がりするようだ」との情報を耳打ちされました。記者クラブのどこの社も気が付いていないようでした。特ダネ、スクープは断片的な情報を発端として、取材を重ね、全容を把握していくというプロセスが多い。いくつかの箇所に当たり、いよいよ担当の通産官僚の最終的な確認をとる段階になりました。
官僚は当時、朝から晩まで緊急会議の連続でしたから、記者が接触するのは容易ではありません。石油計画課長がこの問題の担当者であり、省内のどこの部屋で会議に出席しているかを聞きだし、会議室を訪ずれ、課長宛てにメモを入れてもらいました。他社に抜かれたくないので急を要したのです。親しくなっていた方なので、私のような若造記者の求めに応じ、席を外し、ドアの外まで来てくれました。私のつかんだ情報をぶつけると、立ち話で「その通りだ」といい、詳しい話を聞かせてくれました。
73年10月28日の読売新聞朝刊1面トップ記事で、「LPガス3倍に値上げ、石油メジャーのガルフが決定」という見出しが躍り、「出光、共石、丸善の3社に通告。他のメジャーの追随が必至。家庭燃料、タクシーに衝撃」などという記事内容になりました。他の新聞社が後追いをしたのは言うまでもありません。
「スクープといっても、いづれ発表されるものだろう」という指摘がよく聞かれます。時間差だけのスクープはスクープとはいえない。そういうケースもあるでしょう。この場合は、オイルショックの最中で、原油やLPガスがどの程度に上がるか、いつ上がるかを早期にキャッチすることに大きな情報価値があります。政府は物価対策、資源の供給計画、企業は生産計画、価格対策を早期にとらねばならないからです。つまり「時間はカネなり」なのです。(続く)
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