歴史は回転する
2015年5月28日
母校に近い駅ビルのすし屋で、小学校の同窓会がありました。親しい仲間が声を掛け合って、「お互いが元気なうちに」と、4、5年前から始まり、私は今回が初参加でした。戦前の昭和17、18年生まれですから72、3歳、参加者はだんだん増え、男女半々、10数人が集まりました。50人学級の頃です。60年ぶりに会い、思い出話にふけっていますと、歴史が一回転したような感慨がわいてきました。
その当時は、校庭の一隅に屋根つきの土俵があり、男の子はよく相撲を取りました。木陰には二宮尊徳像があり、薪を背負い、本を読みながら歩く姿をさして、先生から「二宮尊徳を学べ」と、何度、さとされたことでしょうか。当時の学校の定番の風景です。
「日本一」にわいたころ
私たちの学年の誇りは、同級生の1人が「健康優良児日本一」(朝日新聞、文部省主催)に選ばれたことです。身長、体重が平均以上、、運動能力、学力に優れた児童が全国コンクールに臨み、選抜されるのです。戦前、戦中は強い兵隊の育成、戦後は心身とも優れた児童の育成と、目的が変わりました。その後、「不必要な優越感、あるいは劣等感を生みかねない」として、廃止になったそうですから、ある意味で歴史の回転ともいえましょう。
ひとり3分の持ち時間で、自己紹介に移りました。親の介護から解放され、夫にも先立たれ「やっと自分の人生を楽しめるようになった」という女性が複数、いました。親の介護ため、50代半ばで早期退職を余儀なくされたという男性もおりました。介護から解放されたものの、お子さんがいまだに独身のままで、同居しているという方もおりましたね。親の介護問題からお子さんの未婚問題へと、長寿と少子化の時代へと、悩みはつきませんね。
車イス姿の出席者も
自分の体調に触れる人もおりました。「大腸がんの手術を1年前に受けた。検査による早期発見が何よりも大切」、「余裕のある老後をテニスで楽しんでいたところ、ヒザを痛めてしまった。何よりも無理は禁物」。二階のデッキから転げ落ち、脊髄損傷のため、車イス姿で出席された男性は「家内もなくし、毎日、弁当の配膳サービスでしのいでいる」と、いいます。血色もよく、腰の痛みはまったく感じないですんでいるというので、安心しましたね。
まだ仕事を抱えている人もおりました。几帳面で努力家だった男性は、税理士を開業し「80歳までは頑張る」といいます。一級建築士の資格をもっている人は「嫌われながらも、週4、5日、仕事場に通っている」そうです。登山が趣味で、1年に1回、4000メートル級の山に登っているとか。こういう時代になると、資格を手にしていると、定年も気にしないですむのでしょうか。
区長に当選した頑張り屋
エネルギッシュな頑張りやさんは、最近、この年齢で都会議員を経て、区長選挙に当選し、地域の世話人としてしばらくは社会奉仕をするようです。原発問題も話題にのぼり、電力会社に関係する会社に勤めていた男性は「電力会社はなにかとメーカーに仕事をやらそうとするので、このよう事故が起きる」と、解説してくれました。なるほど、電力会社の殿様体質が裏にあるのですね。
父親が画家だったひとは、血筋をついでいるのでしょうか、絵が趣味で、有名な先生の「師範代を務めている」といいますから、やはりですね。父親が歯科医だったひとは、獣医の道を歩み、後に農水省の技官に転身し、叙勲も受けました。同窓会への出席を楽しみにしていたこの人は、力尽きて1月前にガンでなくなりました。全員で黙祷を捧げ、故人を偲びました。
ガリ版印刷の卒業記念新聞
整理好きの1人の女性が、一枚のガリ版刷りの学校新聞を記念に持ってきました。あの頃は、ガリ版印刷の全盛時代でした。活字のような字が整然と並んでいますから、先生のどなたかが書いてくれたのでしょう。60年間も大切に保管していてくれたわけで、しわひとつなく、きれいに折り畳んでありました。昭和30年の発行の卒業記念号です。今ならネット新聞ですね。
「小鳩新聞」とあります。担任の先生の「今日より明日へ」という挨拶文が載っています。明日への期待、希望が満ち溢れている時代だったのですね。ほかにも学級委員長、保健部長、放送部長、歩行部長たちの原稿もありました。歩行部長って、構内、廊下での歩き方を指導していたのでしょうか。小学生の頃から、こういう活動をさせ、民主主義教育の場にしてきたといえるのでしょう。