芥川賞、直木賞の受賞決定の紹介記事が、いつも大きな扱いになっていることを不思議だなあ、と思っています。同じような思いを持っている人は多いのではないでしょうか。
この夏もそうでした。わたしは文学の愛好家ではありませんから、いつごろからそうなったのか知りません。石原慎太郎さんの「太陽の季節」以来だという説を聞いたことはあります。また、今回の受賞作品にどのくらいの文学的価値があるかも発言する能力はありません。そのことは専門家に任せます。
申し上げたいのは、なぜこの二賞がメディアで特別に大きな扱いを受けるかなのです。出版社の多くが自社の文学賞を持ち、新聞社系にも大仏次郎賞、谷崎潤一郎賞、毎日出版文化賞などがあります。日本の文学史に名を残す名作も多いことでしょう。自社の雑誌、特集記事ではそれなりに扱っているにせよ、受賞決定の日のメディアの扱いは本当に小さいですね。
芥川賞、直木賞は年二回、決まります。年二回も受賞者を出すこと自体、かなり無理をしているのではないですか。月刊文芸春秋で受賞作品を読んで、がっかりすることは少なくありません。そういっている私の友人、知人は多いのです。いつの間にか、世間から忘れられていく作家は相当な数でしょう。
受賞を紹介する記事は作品の内容、筆者の人物紹介、受賞に至る苦節の年月、選考経緯など、だいたい面白く書けています。文芸記者の筆力はなかなかです。そのことに文句はありません。
文芸春秋社は宣伝、話題作りが上手です。話題になりやすいよう受賞作品を決めていますね。そのことにも文句はありません。文芸振興のためにそのくらいの努力は必要です。
作家を目指す人たちは世に出るまで、不安で不安でしょうがないでしょう。文学賞をもらうことで、自信を持つでしょうし、励みにもなるでしょう。あまり文学的評価が高くなくても、受賞者を出すことは文芸振興になるでしょう。文学賞がたくさんありすぎることにも文句はありません。
この二賞を扱う大きさはだいたい決まっており、前例踏襲でそれを守っているのでしょうか。文学的価値を追うより、話題性を追うことに走っているのでしょうか。文学史に残る足跡を残した作家が、価値ある文学賞を受賞しても、その時の記事はうっかりすると、見落とすほどです。
プロ野球でも、ドラフト一位が決まった入団する新人選手はそれなりに大きな紹介記事を書いてもらっています。かれらが本当に大成するのかどうかは、プロの世界で実際にプレーしてみてからでないと分りません。スポーツ記者はそのことをよく知っていますから、記事には節度を感じます。芥川賞、直木賞は野球にたとえれば、ドラフト一位ということでしょうか。
イチロー選手のように、日米通算で安打数の大記録を達成したときは、一面、運動面、社会面の記事で破格といっていいほどの扱いを受けました。実績、記録をみて、ニュース価値の判断をしていますよね。
文学界ではどうでしょう。なんだ、あんなに大騒ぎをしたのに、その作家はいつの間にか姿を消してしまったではないか。そんなことがたびたび起きると、文学に対する関心を失ってしまう読者を増やす結果を招いているような気がしてなりません。
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