共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

叩けば誰でも鳴らせるだけに…

2023年09月15日 18時18分18秒 | 音楽
今日も今日とて、厳しい暑さの一日となりました。そんな中でも体育の授業があったりすると一緒に行かなければならないこともあるのですが、運動していない私も汗だくになります…。

ところで、今日高学年の交流授業で音楽の授業があり、打楽器アンサンブルをすることになりました。その時サポートした子が



カウベルを担当することになったのですが、ここで一悶着ありました。

授業では何人かでグループを作って、その中で担当楽器とリズムパターンを振り分けてアンサンブルすることになっていました。その子は元々リズム音痴なところがあるので、私はギロとかカスタネットといったリズム音痴が目立ちにくい楽器を勧めたのですが、当人がどうしてもカウベルを譲らなかったのです。

それはそれで当人の自由なので、カウベルを持たせてみました。ところが、やっぱりというか何というか、打ち合わせしたリズムパターンなんぞガン無視してのやりたい放題が始まってしまったのです。

同じグループの子たちが何回もリズムパターンを教えようとするのですが、意地になっているのか聞く気がないのか、教えようとすればするほど好き勝手やりだしてしまいました。本来、こういった場面では極力子どもたちの間でのやり取りを静観するように言われているのですが、あまりにも勝手な行動が目についたので、一計を案じてみることにしました。

当初、その子の担当するリズムパターンには休符が含まれていたのですが、私が横から口を出して8分音符をひたすら叩きまくるパターンに変更させました。さすがに一定のリズムを叩き続けるだけの単純作業になりましたから、これなら他の子たちに迷惑にならないと思ったのです。

しかし、その子は最初反発してきたので、

「それでは、最初に皆さんと打ち合わせしたリズムを叩けるんですよね?じゃあ勝手なこと叩かないで、私の前でやってみせてくださいな。」

といってやらせてみました。当然ながら全く出来ないその子に

「では次に、私が提案したように8分音符をひたすら叩き続けて皆さんと合奏してみてくださいな。」

といってやらせてみたら、先程と比べるとかなりマシなアンサンブルになりました。

「はい、この2つのパターンを聴いて、どちらがきちんと合奏できていると思いますか?」

と問いかけてみたのですが、その子は現実を目の当たりにしたものの自身のやりたいこととはかなりズレたことをさせれれることになったので、返事もせずにただ恨みがましい目で私を睨みつけてくるばかりでした。それでも、一応私が音楽の専門家であることは認識しているその子は、最終的に8分音符をひたすら叩きまくるパターンに落ち着いたのでした。

打楽器というのは、叩けば誰でも音を鳴らせる手軽さが魅力のひとつです。それだけに、リズムやタイミングが揃わないと壊滅的な破壊力を発揮したりもするので、なかなか厄介な楽器でもあるのです。

それでも、支援級の教室の中でただ楽しくやっているだけなら、どんなリズムを叩こうがお好きにどうぞとなります。しかし、他の人たちと協力しての合奏となれば、話は変わってくるわけです。

今回は相手があることですから、彼らに迷惑をかけないようにするためにも、支援級の子であろうがある程度きちんとアンサンブルしてもらわなければ困ります。そういう時に先生が矢面に立つと後々いろいろと面倒ですが、私のような外野的な個別支援員なら子どもに恨まれようが何しようがどうにかなるわけです。

音楽というのは、芸術の中でもかなり不自由なものです。音楽の3大要素は『リズム・メロディ・ハーモニー』ですが、その筆頭のリズムが揃わないようでは、そもそも『音楽』にもならないのです。

支援級の子たちというのは、ある意味においてとても不便を強いられているということができます。しかし、だからといって支援級の子は不幸なわけではなく、ましてや支援級だからといってあれこれできなくていいわけではありません。

そう遠くない将来、彼らが放り出される世間は、今のように手厚いものではありません。なんでも自分たちのいいように気を使ってくれる人ばかりではないわけです。

そうした世界に彼らが放り出された時に絶望してしまわないようにするためにも、憎まれ役がひとりくらいは必要だと私は思っています。自己満足というならご自由にしていただいて結構ですが、私はこれからもこのスタンスは崩さずにやっていこうと考えています。

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黒澤明が認めた小田原御殿風鈴

2023年09月14日 18時18分25秒 | 日記
今日は、勤務先とは別の小学校の放課後子ども教室の日でした。いつもより少ないながらも、子どもたちは元気に来てくれました。

子どもたちを送り出して片付けを済ませてから、小田原駅に向かう前にちょっと寄り道していくことにしました。やってきたのは



小田原市中町にある《柏木美術鋳物研究所》という鋳物工房です。

こちらでは、かつて盛んに作られていたものの、現在ではここだけになってしまった『小田原鋳物』を製造・販売している工房です。中に入ると



季節柄たくさんの風鈴が並んでいましたが、今回の私のお目当ては



『小田原御殿風鈴』というものです。

通常の風鈴は鉄や青銅や真鍮で作られることが多いのですが、この御殿風鈴は『砂張(さはり)』という、銅に錫を20%ほど混ぜた合金で作られています。

『砂張』は古くは『佐波理』と書かれ、


(佐波理盒子・さはりのごうす)

正倉院宝物にも佐波理製の碗や匙等の仏具が遺されている、古くからある合金です。その後、茶の湯の大成とともに茶器の素材として珍重されるようになり、その頃から『砂張』と表記するようになったようです。

本来、佐波理は上の写真の盒子のように黄色味がかった色をしています。それを、こちらの工房では独自の技術を用いて燻し銀のような渋い発色を実現しています。

かつて



日本を代表する映画監督である黒澤明(1910〜1998)が



1965年に公開した映画『赤ひげ』を撮影中に、当時の助監督に

「日本一の風鈴を探してこい」

という厳命を発しました。その命を受けた助監督たちは日本全国の風鈴を試聴した結果、最終的に黒澤明監督のゴーサインが出たのがこの『小田原御殿風鈴』でした。工房には



その時の様子を写した写真が展示されています。

特に真鍮製の風鈴は、使う毎に音が鈍くなっていく傾向にあります。ところが、この砂張の風鈴は『鳴り上がる』といわれていて、大切に使えばその分音色が育っていくという、まるでオールドヴァイオリンのような特質を持っているのです。

その代わり、合金の配合率のせいなのか衝撃に弱く、硬い床面に落としてしまうとヒビが入ったり割れてしまったりします。なので、取り扱いにはなかなかの注意が必要となります。

工房には



いくつかの御殿風鈴が展示されていました。これは展示品ですが、工房の方が奥から販売品を出してきて、いくつか音色を聴かせてくださいました。

大変厚かましいのですが、そこからしばらく並べられた御殿風鈴を端から鳴らしていって、10分以上音色を比べて周りました。他に客がいなかったとはいえ、工房の方からしたらさぞかし迷惑な客だったことでしょう(汗)。

工房の方は新品を勧めてこられるのですが、私はどうしても展示品のひとつの音が心に響いていました。恐らく展示されて鳴らされていたこともあって、新品よりも『育っていた』のだろうと思います。

そして散々悩んだ挙げ句、最終的に無理を言って、最初に心に来た展示品を販売してもらいました。若干日に焼けてしまっていた箱根寄木細工製の短冊と吊り紐を新しいものに交換していただき、



無事にお気に入りのひとつをGETすることができたのでした。

因みに普通に雑貨屋などで売られている鉄製の風鈴は、安いものだとひとつ¥1,500から¥2,000くらい、高いもので¥4,000から¥5,000くらいが相場です。しかし、この御殿風鈴はひとつ¥10,000くらいする高級品です。

何故このお高い風鈴を購入したのか…それは来週以降の放課後子ども教室で判明します。ですが、先ずは自宅に飾って、風雅な音色を堪能しようと思います。

小田原御殿風鈴の音色については、下記動画をご参照ください。

https://youtube.com/shorts/xDaBEGD08x0?si=13giixzvAgX6y7_S

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滑り込みセーフの『ピーチゼリー』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2023年09月13日 17時40分30秒 | カフェ
今日も暑い一日になりました。小田原でも最高気温が32℃まで上昇し、屋外での体育の授業が見送られるほどでした。

そうなると、体育館や多目的室といった室内で運動のできそうな場所が取り合いになります。今日も、そうした部屋のスケジュール調整が難航した一日となってしまいました。

それでも、どうにかこうにか全ての授業を終えて子どもたちを送り出してから、横浜あざみ野の音楽教室へ移動しました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

今日は、先週から気になっていた



『ピーチゼリー』をオーダーしてみました。自家製ピーチシロップで作られたフルフルのゼリーとヨーグルトが合わされ、ピーチソルベで仕上げられています。

8月で終わってしまった『桃のワッフル』の余韻のようなスイーツを、ゆっくりと堪能しました。しかもこれが最後の一個だったようで、正に滑り込みセーフでした(汗)。

今日はインドネシア・トラジャの美味しい水出しコーヒーと一緒に堪能して、ひと時ホッとすることができました。

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昔懐かしい『シベリア』@小田原《ブランジェ昇平堂》

2023年09月12日 18時28分40秒 | スイーツ
今日も、小田原の小学校ではいろいろな事件がありました。今日は低学年で体調不良を訴えてくる子が一定数いて、中にはトイレや手洗場で戻してしまって学校を早退する子もいたりしました。

どうやら夏休み明けからコロナやヘルパンギーナにインフルエンザまでが徐々に蔓延り始めているようで、放課後子ども教室でも欠席者が相次ぎました。これも、脱マスク生活の代償なのでしょうか。

それでもどうにかこうにか全ての業務を終えてから、小田原駅に向かう途中で



《ブランジェ昇平堂》という地元密着型のパン屋さんに立ち寄りました。ここでは



昔懐かしい『シベリア』を製造・販売しているので、時々買いに来るのです。

それにしても、誰がこの『シベリア』というお菓子を開発したのでしょう。羊羹をカステラでサンドしただけ…と言ってしまえばそれまでですが、この組み合わせを考えついて実行に移した人物は天才だと思います。

いろいろとあった小学校勤務でしたが、美味しい『シベリア』をいただいてホッと心が和みました。また明日も頑張ってみようと思います。
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何でもあるもんですね…

2023年09月11日 16時25分30秒 | 日記
今日も日中は暑くなりました。折角ここ数日の涼風に慣れてきていたのですが、そうは問屋が卸さないようです…。

ところで、ほぼ毎日学校へ背負っていっているリュックがあるのですが、長いこと使いたおしたせいかファスナーの調子が悪くなったり、連日汗をかくのでどことなく剣道部のようなニオイがしたりしていました。なので、以前から

「もう、いくらなんでも買い換えなきゃいけないかな…。」

と思っていたのですが、たまたま寄ったセブンイレブンの雑誌売り場に



これが売られているのを見つけました。

これは、スウェーデンのブランド『moz』のリュックです。袋から出してみると



こんな感じで、そこそこ大きさがあります。

A4サイズのファイルが折らずに入れられることが私がカバンに求める最低条件なのですが、このリュックはその点でも問題ありません。まさにグッドタイミングでGetすることができました。

それにしても、令和のコンビニというところはいろいろなものを入手できるところになっています。飲食物や雑貨だけでなく、まさかリュックサックまで買えるとは…。

明日から、また小学校勤務が始まります。明日は放課後子ども教室もある日なので、長い一日になりそうです。

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今日はちあきなおみ《喝采》の発売された日〜大番狂わせの1972年レコード大賞受賞

2023年09月10日 17時30分35秒 | 音楽
日中はまだ暑いものの、それでも朝夕の風には秋の涼しさを感じるようになってきました。このまま秋雨前線が南下してきてくれれば、いい感じに秋めいてくるかも知れません。

さて、今日9月10日は、ちあきなおみ歌唱の楽曲《喝采》が発売された日です。



《喝采》は吉田旺作詞、中村泰士作曲、ちあきなおみ歌唱による楽曲で、ちあきなおみ13枚目のシングルとして1972年9月10日に日本コロムビアから発売されました。

この曲を作るにあたって、作詞者の吉田旺は

「歌い手をテーマにした詞を書いてみよう」

と思い立ち、この楽曲の詞を完成させたといいます。吉田が最初に決めたタイトルは《幕が開く》でしたが、当時のコロムビアのプロデューサーだった東元晃がそのタイトルに難色を示して、楽曲のタイトルを《喝采》と命名しました。

作曲者の中村泰士は、服部良一作曲の《蘇州夜曲》や賛美歌の《アメイジング・グレイス》といった名曲をベースとして『ヨナ抜き音階』で作曲しました。

『ヨナ抜き音階』とは



西洋音階の並びから4番目のファにあたる音と7番目のシにあたる音を取り除いた『ドレミソラ』という5音音階のことで、この音階を使うと非常に日本的な響きがします(北島三郎《函館の女》や渥美清《男はつらいよのテーマ》などが典型的)。当時『ヨナ抜き音階』は演歌では多く使われていたものの歌謡曲系では使われておらず、中村泰士は後に

「この曲をシンプルな『ヨナ抜き音階』で作曲したことは会心の出来だった。」

と言っています。

また、この曲の歌詞に出てくる『黒いふちどり』という部分は、

「縁起が悪い」
「死を歌詞に持ち込むことはない」
「いくら別れの歌でも殺す必要はない」

と、当初レコード会社や作曲者の中村泰士ですら歌詞を変えるよう提案したようです。しかし、作詞者の吉田旺は

「いや、ここが核だから」

と頑なに変えず、コロムビアに対して

「喪に関する言葉は水商売の世界じゃ縁起がいいんです」

とまで言って、この部分の歌詞を死守したといいます。

ちあきなおみ自身は、はじめは

「歌いたくない」

とこの曲を拒んでいたようです。それでもレコーディングをする際には周りを黒いカーテンで囲んで誰にも姿を見せず、裸足で臨んだといいます。

当初1972年の日本レコード大賞は、上半期のヒット曲で『日本歌謡大賞』を受賞していた小柳ルミ子の《瀬戸の花嫁》が大賞の最有力候補でした。ところが結果的には《喝采》が大番狂わせで大賞を受賞したわけですが、楽曲を制作した当事者にとっては「まさか」の受賞だったそうです。

で、何故今日この記事を書いたかというと、実は今朝から何故だかずっと私の頭の中で《喝采》がループしていたのです。それで、あまりにもループが続くので試しに調べてみたら何と今日が発売日だったということで、慌てて調べ直して記事にした…というわけです(汗)。

偶然といえば偶然ですし、どうにも取ってつけたような話になってしまうのですが、あまりのことに自分でもビックリしました。当時まだ1歳だった私は発売当初を知る由もないのですが、それでも何度もちあきなおみの歌唱を聴いたり、いろいろな歌手がカバーしているのを聴いたりしているうちに、しっかりと記憶に刻まれてきたことは確かです。

そんなわけで、今日はちあきなおみの《喝采》をお聴きいただきたいと思います。1972年の『日本レコード大賞』での衝撃的な発表の瞬間と、受賞式での涙の歌唱でお楽しみください。


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今年の重陽の節句もプッチーニ〜弦楽合奏版《菊》

2023年09月09日 17時17分17秒 | 音楽
今日は五節句のひとつ『重陽の節句』です。陽の数字である『九』が重なるこの日は、五節句の中でも特に縁起が良いとされています。

『重陽の節句』は別名『菊の節句』や『栗の節句」とも呼ばれています。この日は菊の花を浮かべた菊酒を飲んだり、栗を使ったごちそうを食べたりして、家族で無病息災・長寿延命を祈ります。

ただ、旧暦の九月とは違って現在の九月では菊も栗もちょっと時期的に早いので、揃えることは難しくなっています。なので、昨年もやりましたが今年も音楽の『菊』をとりあげてみようと思います。

音楽で『菊』といえば、



イタリアを代表する作曲家のひとりジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)作曲の弦楽四重奏曲『菊』です。弦楽四重奏曲『菊』嬰ハ短調は、オペラ作曲家プッチーニの数少ない室内楽曲のひとつです。

プッチーニが自身の出世作となった歌劇《マノン・レスコー》に取り組み始めた頃である1890年1月に、プッチーニのパトロンでもあったサヴォイア家のアオスタ公アメデオ1世が急逝しました。プッチーニはアオスタ公追悼のために、一晩でこの曲を書きあげたと伝えられています。

弦楽四重奏のために書かれていますが、コントラバスを加えた弦楽合奏による演奏もしばしば行われています。コントラバスが加わることで、弦楽四重奏では薄くなりがちな中間部に低音を充実させることができるので、成立の経緯もあってバーバーの《弦楽のためのアダージョ》とともに故人の追悼に使われることがあります。

そんなわけで、重陽の節句の今日はプッチーニの《菊》を弦楽合奏版でお聴きいただきたいと思います。モルドバ室内管弦楽団の演奏で、《マノン・レスコー》の世界観にも通ずる重厚な音楽をお楽しみください。


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今でもやるのね…

2023年09月08日 18時18分18秒 | 日記
台風13号は、予想されたよりも遅いペースで北上してきました。木曜日の段階で学校から

「休校にするかどうかは、朝6:30頃を目処に一斉メールでお知らせします。」

という連絡がきていたので、とりあえずその決定を待つことになっていました。

未明からかなり強い雨が降ってきていたのと、東海道本線の小田原〜熱海間が運転見合わせになったという報とで

『これは無理かな?』

と思っていたら、6:00少し前に学校から連絡が入りました。そこには

「本日は予定通り授業を行います。」

の文字が…。

『マヂデスカ…』

そう思いつつも、やるとなったら出勤しなければなりません。とりあえず用意していたバッグを背負うと、小田原へと向かいました。

小田原駅に到着すると、駅西口のロータリー脇に



テレビ中継のクルーがスタンバイしていました。最近は危険な中継をしない傾向にあるように思っていましたが、やはりこうしたリアルタイム中継は今でも行われているようです。

学校に着くと子どもたちを迎え入れる準備をしたのですが、やはり5分の1くらいの子どもたちが欠席していました。朝はかなり強い雨が打ちつけていましたから、無理もありません。

学校を終えて、自身も帰宅してから天気予報を確認してみたら、



15時になってもまだこんなところにいました。雨が弱まってきたことでてっきり過ぎ去ってしまったのだろう…と思っていた私は、すっかり面食らいました。

どうやら上陸する頃には温帯低気圧に変わるようですが、それでも今夜は強い風雨に警戒が必要なようです。千葉県や茨城県では線上降水帯も発生しているようですが、甚大な被害が出ないように願うばかりです。

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これでいいのか、大丈夫なのか…?

2023年09月07日 18時18分18秒 | 神社仏閣
今日は、勤務先とは違う小学校の放課後子ども教室の日でした。しかし、こちらが始まるのは来週からということで、今日はフリーになりました。

それならそれでやることはあるので、掃除やら洗濯やら買い物やらをしていました。その買い物の時に寄った有隣堂に



厚木と海老名を特集した雑誌『散歩の達人』が売られていたので買ってみました。

中を見てみると、新旧いろいろな店やビュースポットなどが紹介されていたのですが、海老名の紹介ページを見たら



第1ページ目がこれでした。これは海老名総鎮守社である有鹿神社(あるかじんじゃ)を紹介するものなのですが、そこに掲載された写真には



3m近いネギの被り物をした奇妙な人物が写っていました。

これは、この神社の禰宜(ねぎ)さんがネギの被り物したもので、その名も『ネギ禰宜』というものだそうです。この御社の宮司さんは



何故かパンダの被り物をする妙ちきりんな『パンダ宮司』として有名になってしまっているのですが、その下にいる禰宜さんは、その上をいく珍妙さでした。

有鹿神社は相模國有数の古社として知られていて、現在の社殿も元和8(1623)年に建てられた重要文化財です。そんな由緒正しき御社の宮司と禰宜がこんなんでは、何とも言えない気分にさせられます。

なんでも近隣住民に親しみをもってもらうために始めたことのようで、パンダの他にレッサーパンダまでいるようです。しかし、親しみをもってもらうための手段として選んだのがこれなら、御祭神もさぞかし驚いておられることでしょう…。

さて、台風13号が関東地方に向けて北上していて、明日の未明から通勤時間帯にかけてかなり天候が荒れるようです。最近は小田急線も風や雨で止まりやすくなっているのですが、はたして無事に小田原まで出勤できるでしょうか…。

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9月の恒例『ぶどうワッフル』@横浜あざみ野《雫ノ香珈琲》

2023年09月06日 18時18分20秒 | カフェ
今日は朝から雨が降ったり止んだりを繰り返す、生憎の天候となりました。貴重な中休みを雨に直撃された子どもたちの落胆ぶりといったら、半端なものではありませんでした。

昨日に引き続き、今日も全交流になった支援級の子は大変そうでした。夏休み前までのゆったりさが無くなったのですから無理もないのですが、それでも交流しているからには何とかしなければならないので、付き添う大人も大変です。

そんな勤務で疲労困憊している中、小田原から横浜あざみ野の音楽教室に移動しました。そして、いつものように《雫ノ香珈琲》に立ち寄りました。

9月に入って、月替りメニューも一新していました。なので、今日は



今月限定商品の『ぶどうワッフル』をオーダーすることにしました。

お店の看板メニューであるクロワッサン生地のワッフルに2種類のフレッシュぶどうがあしらわれ、生クリームとぶどうソルベが添えられています。お皿に敷かれているのは巨峰ソースなのですが、これが色味と言い風味と言い、実に絶妙な存在感です。

9月になると毎年このワッフルが登場するようになっているので、楽しみになってきています。今年はよりグレードアップした姿での登場に、こちらも嬉しくなりました。

週に一度、こちらでいただく美味しいコーヒーとデザートは、私の活力と癒やしになっています。この他にも様々な新メニューが登場していたので、次々と攻めてみようと思います。

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大丈夫だろうか…

2023年09月05日 19時50分10秒 | 日記
今日の小学校支援級勤務は、かなり疲れました。

今週から一年生の知的級の子が、通常級の子たちと全ての授業を一緒に受ける『全交流』というシステムに移行しました。夏休み前までは国語や算数といった基本的な教科は支援級のクラスでマンツーマン状態で学んでいたのですが、今週からはそれがなくなって、全ての教科の授業を通常級の子たちと同じように受けることになったのです。

恐らく親御さんからの意向なのでしょうが、私としては正直不安がありました。それまで割りと自分の好きなペースで勉強していた子が、入学して半年足らずで環境が変わることにどれだけ順応するのかしないのか分からなかったのです。

そして、そんな私の予想は的中しました。例えば、今日は国語の授業でカタカナを書いたのですが、明らかに理解度が遅いのです。

周りの子たちは書き順に沿ってカタカナを書いていたのですが、支援級の子は見た目に似ていれば書き順などはどうでもよく、『コ』の字を一筆書きしてしまったり『ツ』がどう見ても『シ』みたいになってしまったりするのです。その都度説明はするのですが、それでもなかなか直るものではありません。

誤解を恐れずに言うならば、支援級に来ている子というのは、我々からしたら

『こんなことも分からない(出来ない)の?』

と思ってしまうような間違いを平気で何度もしてきます。こちらはそれを指摘して直させたりするのですが、本人は口にこそ出せないものの納得していない顔をしてくることがほとんどです。

だからこそ、支援級でのきめ細やかな指導というものが生きてくると思うのです。しかし、恐らく休み前に調子よく学習でき始めた我が子の様子を見て、親御さんが見切り発車したのではないか…とも思えてくるのです。

もしかしたら、我が子が支援級に通っていることは恥ずかしい、他の子たちと同じように学習できていることは素晴らしい…と思っている親御さんなのかも知れません。しかし、できるならば当人にとっての一番幸せなかたちでの学校生活を送らせてあげられないものなのだろうか…と、部外者ながら思わずにはいられません。

これからしばらくは交流授業がつづくことになりますが、あの子がいつ限界を迎えてしまうかを案じるばかりです。

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今日は『クラシック音楽の日』〜恐らく自分が最初にハマったベートーヴェン交響曲第6番《田園》

2023年09月04日 16時16分30秒 | 音楽
今日は久しぶりに朝から雨が降りました。朝から曇っていたせいか気温もそこまで上がらず、湿度は高いものの少しは過ごしやすい感じになりました。

ところで、今日9月4日は『クラシック音楽の日』です。これは1990年に日本音楽マネージャー協会が制定したもので、9と4を『ク(9)ラシ(4)ック』と語呂合わせしたものだそうです(だいぶ無理矢理ですが…)。

『クラシック音楽』というと、一般には西洋の芸術音楽を指します。1550年頃から1900年頃にかけてのバロック音楽、古典派音楽、ロマン派音楽に当たりますが、それ以前のゴシック・ルネサンス期の音楽も、それ以後の近現代音楽も、同じ流れに属する音楽は『クラシック音楽』と呼ばれることが多いです。

私は幼少期によく遊びに行っていた祖父の家でLPレコードで様々なクラシック音楽を聴いていて、自然とクラシック音楽が好きになっていました。その中で、何がきっかけになったのかと考えてみたのですが、恐らくヴィヴァルディの《四季》とベートーヴェンの《田園》だったと思います。

しかも、それぞれに演奏者も固定していて、《四季》は王道のイ・ムジチ合奏団ではなくカルル・ミュンヒンガー(とレコードジャケットには書いてありましたが、現在ではカール・ミュンヒンガーと書かれています)指揮によるシュトゥットガルト室内管弦楽団の演奏によるレコードでした。そして《田園》は、エルネスト・アンセルメ指揮によるスイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるレコードでした。

一つの記事で《四季》と《田園》を両方載せると絶対に長くなってしまう(汗)ので、今回は《田園》のことについて簡単に書こうと思います。



エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(1883〜1969)は、スイスの指揮者であり、数学者でもあった人物です。1910年にモントルーで指揮者としてデビューしたアンセルメでしたが、この時のプログラムはベートーヴェンの《運命》を中心としたものであったことから、後に常任指揮者となったスイス・ロマンド管弦楽団でベートーヴェンの交響曲全集も録音しています。

祖父の家にあったレコードは1959年に録音されたものですが、レコードの針音とともにスピーカーから流れてくるアルセルメの《田園》の流麗で活き活きとした音楽に、子どもながらに魅了されていました。

それから数十年、いろいろな《田園》を聴いてきましたし、自身でも何度も演奏に参加していますが、私の中のベストワンはアルセルメのレコードです。それくらい、私にとってインパクトの強い存在となっています。

そんなわけで、今日はベートーヴェンの交響曲第6番《田園》を、エルネスト・アンセルメ指揮によるスイス・ロマンド管弦楽団の演奏でお聴きいただきたいと思います。1959年10月に、スイス・ジュネーヴのヴィクトリアホールで収録された演奏でお楽しみください。


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久しぶりのアイリッシュセッション@高尾山口《Certic Moon》

2023年09月03日 21時55分12秒 | 音楽
今日は午後から高尾まで出かけました。とは言っても、別に高尾山に山登りしに行ったわけではなく、アイリッシュのセッションに参加するためです。

1時間半ほど電車を乗り継いで京王線高尾山口駅まで向かい、そこから歩いてほどなくするところにある



アイリッシュパブ《ケルティック・ムーン》に到着しました。かつてこのお店は国立市内にあったのですが、数年前にこちらへ移転してきていて、今日は移転後初めて伺うこととなりました。

オーナーさん御夫妻にご挨拶をしてから席に着いて、先ずは



久しぶりにアイルランドのシードル『マグナーズ』をいただきました。久しぶりに味わうアイルランドシードルの味は、また格別です。

やがて17時になり



今回のイベントの主宰であるアイリッシュバンド『キャプテン・ポチーン』のライブがスタートしました。ライブと言うよりセッションですから、オーディエンスも持参した楽器やお店が貸してくれた楽器を手にして演奏に参加しました。

セッションではアイリッシュチューンやポルカを次々と演奏していき、なかなかの盛り上がりを見せました。途中休憩では



グリーンビアやフィッシュ・アンド・チップスもオーダーして、更にテンションを上げていきました(なんで?)。

最後にはみんなで『John Ryan's Polka』という曲を演奏して、大いに盛り上がったセッションが御披楽喜となりました。今回も楽しくセッションできて、私も久々に嬉しく思いました。

それでも、やはり厚木から高尾は遠い!ほぼ旅行に行くような距離を移動することになるので、往復3時間電車移動するだけでかなり疲れました。帰ったらサッサと寝ます…。

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今日はリリ・ウオカラニの誕生日〜誰もが知るハワイアンの名曲誕生

2023年09月02日 15時11分51秒 | 音楽
昨日小学校がスタートした…と思ったら、あっという間に週末を迎えてしまいました。何となく予想はしていましたが、やはり何人か個別に夏休みを延長して登校してこなかった子たちもいたので、実質学校が始まるのは週明けからと思っていた方がよさそうです。

ところで、今日9月2日はリリ・ウオカラニの誕生日です。



リリ・ウオカラニ女王(1838〜1917)は、ハワイ王国最後の女王です。

リリ・ウオカラニはカラカウア家のカパアケアとケオホカロレの子として1838年にホノルルに生まれました。この時代のハワイ国王家は短命の者が多く、1873年にカメハメハ5世が死去してカメハメハの直系が断絶し、後を継いだルナリロ王も翌年死去すると、血縁者の中からリリ・ウオカラニの兄カラカウアが選ばれて即位し、リリ・ウオカラニは1877年に女性で初の王位継承者となりました。

1887年、リリ・ウオカラニは英国女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受け、ハワイ王妃と共に国王の名代としてヴィクトリア女王に謁見しました。ところが、この機に砂糖きびプランテーションを経営する白人農家を筆頭とした新興勢力の共和制派がクーデターを起こし、ハワイに残っていた兄のカラカウア王は後に『銃剣憲法』とも揶揄される新憲法への署名を余儀なくされてしまいました。

新憲法はハワイ国王の権限を大幅に制限し、その権限を議会へ委譲するというものでした。しかも議会の議員を選挙で選ぼうにも参政権が一部の富裕層にしか与えられていなかったため、事実上ハワイ人やアジア人の参政権排除と受けとめらるものでした。

1891年、兄カラカウアが渡米先のサンフランシスコで客死するとリリ・ウオカラニは女王として即位し、共和制派との対決姿勢を強めていきました。1892年にハワイ人らの新憲法制定の請願を受けて1893年1月14日、国王権限を強化する憲法草案を閣議に提出しましたが、新憲法下の議会によって否決されました。

1月16日、王政派と共和制派が共に大集会を開くなど騒然とする中で危機感を募らせた共和制派は、アメリカのスティーブンス公使の要請によりアメリカ海兵隊が女王の居城であるイオラニ宮殿を包囲しました。翌17日には共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言する『ハワイ革命』を断行してしまいました(アメリカ政府は最終的に、この『革命』が不法なものであると認め、スティーブンス公使を更迭しています)。

ハワイ人による反対集会が繰り返される中、1894年7月4日、臨時政府はサンフォード・ドールを大統領としてハワイ共和国の独立宣言を行ないました。翌1895年1月6日に王政派が反乱を起こしましたが、数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧されました。

1月16日、リリ・ウオカラニ女王の私邸、あるいはイオラニ宮殿の庭から多数の銃器が見つかったとして女王は反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉されることとなってしまいました。そして1月22日、反乱で捕らえられた約200人の捕虜の命と引き換えにリリ・ウオカラニは女王廃位の署名を強制され、ここにハワイ王国は滅亡しました。

昨今、ロシアがウクライナに侵攻して激しい戦闘が続けられていて、それに対してアメリカは批判を強めていますが、自分たちだってハワイやアラスカに対して同じようなことをしていたことを忘れたとは言わせません。しかも、最終的に自分たちに好都合な憲法をでっち上げて押し付け『法の力』でハワイ王国を消滅させるという陰湿なやり方をしたのですから、より始末に終えません。

さて、そんなリリ・ウオカラニ女王の誕生日にご紹介するのは、ハワイアンの名曲《アロハ・オエ》です。



実はこの曲は、リリ・ウオカラニ女王の作詞作曲によるものです(写真は女王による《アロハ・オエ》の自筆譜)。

カラカウアやリリ・ウオカラニの時代、ポルトガル領のマデイラ島から



4弦の楽器ブラギーニャとその奏者たちが揃ってハワイ島に渡ってきました。この楽器を起源として誕生したのが



ウクレレで、やがてウクレレはハワイアンミュージックと切っても切り離せない存在となっていきます。

そしてリリ・ウオカラニ女王は、1878年に名曲《アロハ・オエ》を作詞作曲しました。女王はこの他にも160曲以上を発表しただけでなく、フラダンスなどハワイ独自の文化の発展を支援していき、兄カラカウア王・ミリアム・イケイケ王女・ウィリアム・ピット・レレイオホク二世といった兄弟姉妹たちとともに『Na Lani 'Eha(ハワイ語で「天国の4人」)と呼ばれて、ハワイアンミュージック殿堂のトップに讃えられています。

女王は自身の著書で、

「音楽を作るということは生来備わっている才能のようで、呼吸をするように自然と曲ができ、生みの苦しみに遭うことも無く、その時の感情の表現がそのまま音楽として生まれてくる」

と述べています。兄カラカウア王とリリ・ウオカラニ女王の下で政治的には消滅せざるを得なかったハワイ王国ですが、それと引き換えに音楽と詩とダンスの王国である今日のハワイを誕生させることとなったのかも知れません。

そんなわけで、今日はリリ・ウオカラニ女王の作詞作曲によるハワイアンの名曲《アロハ・オエ》をお聴きいただきたいと思います。まだまだ残暑厳しき折、この名曲を聴きながら、ちょっと強引ですが南国気分をお楽しみください(笑)。


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小田原で迎えた関東大震災から100年目の9月1日

2023年09月01日 14時45分35秒 | 日記
長かった夏休みを終えて、今日から小田原市内の小中学校がスタートしました。今日の全校朝会で、今日は関東大震災があった日であることが話され、子どもたちに自然災害の恐ろしさと心構えの大切さが伝えられました。

今からちょうど100年前の1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生しました。震源は

●相模湾中部
●伊豆大島付近
●山梨県河口湖付近
●神奈川県北西部内陸

と見解が分かれているものの、地震の規模を表すマグニチュードは7.9、小田原でも震度6を観測しました。



写真は当時の小田原駅付近のものですが、建物の一階部分がほぼ倒壊してしまっていることが分かります。『神奈川県震災誌』によると、小田原町では総人口約2万4千人のうち、実に1万1千余人が死傷したとあります。

相模湾では、海底に顕著な陥没と隆起を生じました。小田原海岸は地震によって約6尺(1.8m)もの高さが海底から隆起し、堤防の外に約30間(54.5m)もの砂浜が生じたといいます。

根府川では山津波(土砂崩れ)が起きて部落が埋没し、付近の海岸で遊泳していた児童数十人が海へ押し出されて行方不明となりました。熱海線の小田原発真鶴行きの列車が根府川駅構内にさしかかった時に地滑りがおきて、列車が停車場の地盤ごと海へ落ちたりもしました。

また当時、小田原町小峰(城山)の小田原城址内にあった閑院宮(かんいんのみや)邸には、閑院宮戴仁親王、同智恵子妃殿下、同寛子女王、同華子女王が滞在しておられましたが、寛子女王が倒れた建物の下敷きになって死亡しました(享年21)。今でも



小田原城址公園南側の石垣は崩れたままになっていて、当時の震災被害の凄まじさを物語っています。

未曾有の震災からちょうど100年後に生きているというのも、なかなかレアなことではあります。いつか起こるとされている南海トラフ巨大地震への警戒が呼びかけられている昨今、現在に生きる我々が100年前の災害から学ぶべきことは少なくありません。

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