カウベルを担当することになったのですが、ここで一悶着ありました。
カウベルを担当することになったのですが、ここで一悶着ありました。
小田原市中町にある《柏木美術鋳物研究所》という鋳物工房です。
季節柄たくさんの風鈴が並んでいましたが、今回の私のお目当ては
『小田原御殿風鈴』というものです。
(佐波理盒子・さはりのごうす)
正倉院宝物にも佐波理製の碗や匙等の仏具が遺されている、古くからある合金です。その後、茶の湯の大成とともに茶器の素材として珍重されるようになり、その頃から『砂張』と表記するようになったようです。
『ピーチゼリー』をオーダーしてみました。自家製ピーチシロップで作られたフルフルのゼリーとヨーグルトが合わされ、ピーチソルベで仕上げられています。
《ブランジェ昇平堂》という地元密着型のパン屋さんに立ち寄りました。ここでは
昔懐かしい『シベリア』を製造・販売しているので、時々買いに来るのです。
これが売られているのを見つけました。
こんな感じで、そこそこ大きさがあります。
《喝采》は吉田旺作詞、中村泰士作曲、ちあきなおみ歌唱による楽曲で、ちあきなおみ13枚目のシングルとして1972年9月10日に日本コロムビアから発売されました。
西洋音階の並びから4番目のファにあたる音と7番目のシにあたる音を取り除いた『ドレミソラ』という5音音階のことで、この音階を使うと非常に日本的な響きがします(北島三郎《函館の女》や渥美清《男はつらいよのテーマ》などが典型的)。当時『ヨナ抜き音階』は演歌では多く使われていたものの歌謡曲系では使われておらず、中村泰士は後に
イタリアを代表する作曲家のひとりジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)作曲の弦楽四重奏曲『菊』です。弦楽四重奏曲『菊』嬰ハ短調は、オペラ作曲家プッチーニの数少ない室内楽曲のひとつです。
弦楽四重奏のために書かれていますが、コントラバスを加えた弦楽合奏による演奏もしばしば行われています。コントラバスが加わることで、弦楽四重奏では薄くなりがちな中間部に低音を充実させることができるので、成立の経緯もあってバーバーの《弦楽のためのアダージョ》とともに故人の追悼に使われることがあります。
そんなわけで、重陽の節句の今日はプッチーニの《菊》を弦楽合奏版でお聴きいただきたいと思います。モルドバ室内管弦楽団の演奏で、《マノン・レスコー》の世界観にも通ずる重厚な音楽をお楽しみください。
テレビ中継のクルーがスタンバイしていました。最近は危険な中継をしない傾向にあるように思っていましたが、やはりこうしたリアルタイム中継は今でも行われているようです。
15時になってもまだこんなところにいました。雨が弱まってきたことでてっきり過ぎ去ってしまったのだろう…と思っていた私は、すっかり面食らいました。
厚木と海老名を特集した雑誌『散歩の達人』が売られていたので買ってみました。
第1ページ目がこれでした。これは海老名総鎮守社である有鹿神社(あるかじんじゃ)を紹介するものなのですが、そこに掲載された写真には
3m近いネギの被り物をした奇妙な人物が写っていました。
何故かパンダの被り物をする妙ちきりんな『パンダ宮司』として有名になってしまっているのですが、その下にいる禰宜さんは、その上をいく珍妙さでした。
今月限定商品の『ぶどうワッフル』をオーダーすることにしました。
今週から一年生の知的級の子が、通常級の子たちと全ての授業を一緒に受ける『全交流』というシステムに移行しました。夏休み前までは国語や算数といった基本的な教科は支援級のクラスでマンツーマン状態で学んでいたのですが、今週からはそれがなくなって、全ての教科の授業を通常級の子たちと同じように受けることになったのです。
しかも、それぞれに演奏者も固定していて、《四季》は王道のイ・ムジチ合奏団ではなくカルル・ミュンヒンガー(とレコードジャケットには書いてありましたが、現在ではカール・ミュンヒンガーと書かれています)指揮によるシュトゥットガルト室内管弦楽団の演奏によるレコードでした。そして《田園》は、エルネスト・アンセルメ指揮によるスイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるレコードでした。
エルネスト・アレクサンドル・アンセルメ(1883〜1969)は、スイスの指揮者であり、数学者でもあった人物です。1910年にモントルーで指揮者としてデビューしたアンセルメでしたが、この時のプログラムはベートーヴェンの《運命》を中心としたものであったことから、後に常任指揮者となったスイス・ロマンド管弦楽団でベートーヴェンの交響曲全集も録音しています。
アイリッシュパブ《ケルティック・ムーン》に到着しました。かつてこのお店は国立市内にあったのですが、数年前にこちらへ移転してきていて、今日は移転後初めて伺うこととなりました。
久しぶりにアイルランドのシードル『マグナーズ』をいただきました。久しぶりに味わうアイルランドシードルの味は、また格別です。
今回のイベントの主宰であるアイリッシュバンド『キャプテン・ポチーン』のライブがスタートしました。ライブと言うよりセッションですから、オーディエンスも持参した楽器やお店が貸してくれた楽器を手にして演奏に参加しました。
セッションではアイリッシュチューンやポルカを次々と演奏していき、なかなかの盛り上がりを見せました。途中休憩では
グリーンビアやフィッシュ・アンド・チップスもオーダーして、更にテンションを上げていきました(なんで?)。
リリ・ウオカラニ女王(1838〜1917)は、ハワイ王国最後の女王です。
実はこの曲は、リリ・ウオカラニ女王の作詞作曲によるものです(写真は女王による《アロハ・オエ》の自筆譜)。
4弦の楽器ブラギーニャとその奏者たちが揃ってハワイ島に渡ってきました。この楽器を起源として誕生したのが
写真は当時の小田原駅付近のものですが、建物の一階部分がほぼ倒壊してしまっていることが分かります。『神奈川県震災誌』によると、小田原町では総人口約2万4千人のうち、実に1万1千余人が死傷したとあります。
相模湾では、海底に顕著な陥没と隆起を生じました。小田原海岸は地震によって約6尺(1.8m)もの高さが海底から隆起し、堤防の外に約30間(54.5m)もの砂浜が生じたといいます。
根府川では山津波(土砂崩れ)が起きて部落が埋没し、付近の海岸で遊泳していた児童数十人が海へ押し出されて行方不明となりました。熱海線の小田原発真鶴行きの列車が根府川駅構内にさしかかった時に地滑りがおきて、列車が停車場の地盤ごと海へ落ちたりもしました。
また当時、小田原町小峰(城山)の小田原城址内にあった閑院宮(かんいんのみや)邸には、閑院宮戴仁親王、同智恵子妃殿下、同寛子女王、同華子女王が滞在しておられましたが、寛子女王が倒れた建物の下敷きになって死亡しました(享年21)。今でも
小田原城址公園南側の石垣は崩れたままになっていて、当時の震災被害の凄まじさを物語っています。
未曾有の震災からちょうど100年後に生きているというのも、なかなかレアなことではあります。いつか起こるとされている南海トラフ巨大地震への警戒が呼びかけられている昨今、現在に生きる我々が100年前の災害から学ぶべきことは少なくありません。